母とお茶を。〜「ふしあわせだった」母娘〜
人生は、全て、こころのなかにある。
わたしは、そう、思っている。
なぜなら、人生は、「わたし」の「記憶」の「積み重ね」にすぎない、と思っているから。。
客観的な事実は、実はあまり、重要ではなくて、「記憶」の、「意識のされかた」によって、「人生」は、「わたしのこころ」のなかで、ただ、純粋に、「わたしに把握されたように」作り出されてゆくのではないか、と、思っているのだ。
もしも、そうだとしたら、「しあわせ」というものも、「わたしのこころ」のなかで、ただ、純粋に、「わたしに把握されたように」作り出されてゆくはずだ。。
もしも、「ふしあわせ」と「意識」されている「記憶」を、こころのなかで、無理やりにでも、「しあわせ」な「記憶」にぬりかえることが出来たなら、「ふしあわせ」を、「しあわせ」に変えることは、出来るのだろうか。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしには、母と楽しく会話をした「記憶」がほとんどない。
子どもの頃は、よく、母に、
「お前は、ほんとうに、変な子どもだ。」
と、言われた。
いつもぼんやりと、いろんなことを空想しているわたしは、母には、全くもって、理解出来ない子どもだったのだ。
「気が狂ってるよ、お前は。」
と、よく言われた。
ーーわたしは、気が狂ってるのか。。
しかたがないから、そう、思っていた。
でも、わたしは、母のお友達や、近所の知り合いなどからは、
「祝子ちゃんは、本当に、頭が良いね。しっかり者だね。」
などと言われて、評価が高かったので、どちらの考えを、正しいと思ったら良いのか、ほんとうは、よくわからなかった。
やがて、わたしは、だんだんと、母と対立しない「術」を身に付けていったので、「気が狂ってる」とは、あんまり、言われなくなった。
それでも、ただ、わたしが、母に「合わせている」だけなので、会話は、なんにも楽しくない。会話は、成り立っていないのだった。
わたしと母は、あまりにも、考えかたや、好きなものが、かけ離れていた。
思うに、父は「個人主義」的な人だったから、わたしは、「父似」だったのだと思うのだけれど、母は、「家父長制」が頭の中心にしっかりと根を張っているような人だったから、スタンス的に、真逆だったのだ。
そんなにも、価値観が違っていたのに、父は、母のことが大好きだった。
でも、考えかたが違い過ぎるので、なにか、家庭にとって、大きな問題を話し合う時には、いつも、二人のあいだには、喧嘩が、絶えなかった。
父は、村一番の「美人」だった母と、結婚出来たことが、とても嬉しかったらしく、酔っ払うと、いつも、
「本当に、おかあさんは、綺麗だったんだぞ。おとうさんはな、おかあさんと結婚出来たことが、人生で、一番、しあわせだったことなんだ。」
と、言うのだった。
ーーふうん。そうなんだ。
わたしは、
ーー信じられないなぁ。
と、思いながら、聞いていた。
高校生になって、東京の大学に行きたいと望んだときも、また、夫との結婚を望んだ時も、母は、わたしの選択には、全く、同意してくれなかった。
「家父長制」が、考えかたの中心にある母は、
「長女のあなたは、婿を取って、家を継いで、墓守りをしないといけないのに、何を考えているの?」
としか、言わなかった。
父は、
「おかあさんはそう言っているけど、お前は、お前の好きにして良いよ。」
と、影で、こっそりと、わたしに耳打ちしてくれたけれど、表向きは、母に合わせて、何事にも「反対」の態度を取り続けた。
わたしは、上京して勉強することも、夫と結婚することも、自分の人生にとっては、「譲れないこと」だったから、どちらも、さまざまに知恵を絞って、父の「裏からの協力」も受けつつ、なんとか実現させたのだった。
でも、そのことで、母との関係は、修復不可能なほどに、険悪になった。
母は、夫を忌み嫌った。
夫は、優しくて善い人なのに、わたしを「連れ去った男」という烙印を押して、母は、死ぬまで、夫を嫌い続けたのだ。
あからさまに、目の前で、夫を批判するので、娘たちも、母に懐くことは、なかった。
「母と楽しく会話すること」は、わたしの人生のなかでは、叶うことのない「夢物語」だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
そんなふうに、母とわたしは、「ふしあわせ」な「母娘」だった。
母と話すと、母は、だんだんと、夫や、夫の家族の「悪口」を話題にして、わたしに「同意」を求めるので、「同意」したくないわたしは、
「そんなことはないよ。」
と、つい、言ってしまう。
すると、母は、わたしが「味方」につかなかったことで、どんどん不機嫌になり、ついには、その、不機嫌の矛先を、わたしに向けて、いろいろと、口撃して来るのだった。
わたしは、母と、普通に、仲良しの「母娘」らしい会話をしてみたかった。でも、それは、母が死ぬまで、結局、叶わなかった。
亡くなる、ほんの、二週間前でさえ、母は、電話で、わたしに向かって、夫のことを口撃していたのだから。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
母の「口撃」が、実は、夫の母にまで及んでいたことが、母が亡くなってしばらくしてから、夫の母の「告白」から分かったときには、心底驚いた。本当に、申し訳なく思った。
母は、夫の母に、電話で、
「祝子は、ちゃんとした許嫁がいたのに、お宅の息子と結婚してしまった。」
とか、
「祝子は、ほんとうは、小説家になるはずだったから、お宅の息子と結婚している暇なんかなかったのに、結婚してしまった。」
などと、口撃していたらしい。
夫の母は、辟易して、
「祝子さんに、許嫁が居たっていう話は、本当なのかい?」
と、夫に聞いてきたのだ。
許嫁なんて、わたしさえも、知らない。誰なんだ、その、許嫁って。
でも、
「小説家になるはずだったのに。。」
というお話のほうが、わたしには驚きだった。
母は、わたしが、子どもの頃、「小説」ばかり読んでいることを、とても嫌っていたからだ。
ーー母は、本心では、そんなことを思っていたのか。。
あんなに、嫌がっていたのに。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
母が亡くなってから、もう、まる七年が経つ。
わたしも、年齢を重ね、娘たちも、大人になり、老境に入った親の気持ちが、少しは、分かるようになって来た。
母は、実は、素直じゃなかっただけなんだな。と、最近になって、わたしは、思うようになった。
母は、ただ、ひたすらに、わたしのことが、「大好き」だっただけなんだ、と、いうことに、気がついたのだ。
「わたしは、お前が大好きなの。だから、そばに居てほしいの。」
母が、言いたかったことは、ほんとうは、きっと、ただ、それだけだったんだ、と。
それだけが、言えないために、母は、「家父長制」を持ち出したり、まわりのみんなを敵に回して、口撃したり、を繰り返していたのだろう。
なんて、浅はかなの、おかあさん。
なんて、かわいそうなの、おかあさん。
わたしは、そう、思った。
母が生きているうちに、他愛のない、楽しい会話は、一切出来なかったけれども、わたしは、もう、自分たち「母娘」を、「ふしあわせな母娘」と思うことは、やめよう、と思った。
「記憶」をぬりかえよう。
わたし自身が、残された時間を、しあわせな気持ちで過ごすために。。
わたしたち母娘は、いろいろあったけれど、
わたしは、ほんとうは、母に愛された「しあわせ」な「娘」だった。
と、いうことなんだ。
だから、わたしたち母娘は、ほんとうは、
「しあわせな母娘」だったのだ。
そう、思うことに、決めた。
「記憶」は、今、「わたしのこころのなかで」、ぬりかえられた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
だから、もう、わたしは、大丈夫。
母との「思い出」を、「ぬりかえる」ことが出来て、
わたしの「こころ」は、ずいぶんと、「しあわせ」に、なりました。
ありがとう。
わたしを「愛してくれた」
おかあさん。
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