灰色の楽園
「今月も電気無しか」
机に置いてあった封筒を見て、男はため息混じりに呟いた。彼はその封筒を開けることなく、一杯になったゴミ箱の中にねじ込んでしまった。
300年前の2040年、大規模な地球の気候変動から逃れるためにアメリカが地下都市を建設し、それを”楽園”と呼ぶことによって地上の人類を移住させた。日本もその例外ではなく、かつての東京の地下に”楽園日本地区”が建設され、当時楽園に憧れた多くの人が移住した。長い年月をかけ楽園は発展していったが次第に地下の資源が枯渇し始め、世界の地下資源のほとんどを
”楽園アメリカ本部”が独占している。そのため電気やガスは庶民が毎日働いてやっと一月分買えるような高級品だった。
六畳の無機質な金属部屋の窓から差していた光がだんだん弱まっていた。時計を見ると、すでに5時半だった。
「もうそんな時間か、政府も毎度ケチだよなあ」
彼はあきれたように言い、窓の外の光を眺めていた。
一面を覆っているコンクリート色の天井には政府が運営する大光源が吊るされており、朝6時から夜6時の間、燦燦とした青白い光によってあたりが照らされる。
彼が住んでいるのは「楽園日本地区・第三居住区」で、これは多くの一般庶民が暮らしているエリアだ。第二、第一となるごとに居住区は光源に近づき、暮らしている人たちの権力、経済力も上がっていく。第三居住区は大光源から少し離れているので、届く光も弱々しい。いつも薄暗く植物も育たないためか、一面の灰色の景色と相まって陰鬱で閉塞的な雰囲気が漂っている。
「今月もこれでガマンだな」
彼は蠟燭に火を灯し、机の上の棚に積まれた栄養パックを1つとって、中身をストローでじゅるじゅると啜った。ほのかな化学調味料の甘さで時には気分も悪くなるが、これは生命活動を維持するための最低限の栄養摂取だ。動物の肉や野菜といった高級な嗜好品はもちろんのこと、貧しい彼は加工食品やお菓子すらも買うことができない。
「この前の”トンカツ”、あれはこの世の食べ物とは思えないくらいぐらい美味しかったなあ」
彼は半年前まで高級レストランで働いていたのだが、たびたび希少な料理を盗み食いしていたことが発覚し、解雇されてしまった。その後彼は工場のアルバイトで日銭を得て暮らしていた。彼が電気も買えないほど貧乏なのにはもう一つ理由があった。それは彼の、誰にも言えない”趣味”である。
「さてさて、これが楽しみだったんだよな」
彼は蝋燭の火を頼りに鍵のついた引き出しを開けた。中にはぎっしりと、ボロボロになった本が入っていた。彼はそのうちの一冊を丁寧に取り出し、ベッドに腰かけた。
「ヴェニスの商人 シェイクスピア」と書かれたこの古い本は、かつて穢れた”地上”で書かれた「禁書」として政府に処分されたはずのものである。彼はこういった禁書を集めて読むのが唯一ともいえる趣味だった。禁書はごく稀に闇市場で流通しており、電気はおろか肉や野菜よりもはるかに高値で取引される。彼は数年前に亡くなった親の遺産をまるっきりそのまま、こうした”金のかかる趣味”に費やしてしまった。もちろん楽園日本では禁書を所持すること、読むことは重大な犯罪行為として処罰される。彼の引き出しの中にある”コレクション”がもし見つかった場合、それらは全て燃やされて、彼は少なくとも10年は監獄区へ送られるだろう。監獄区に送られた罪人は脳に電気ショックを与えられ続け、禁書を読んだ記憶などをすべて失った挙句、最後は廃人のようにされてしまうという。
しかし彼は寝る前の読書が何よりもの喜びだった。彼は実際には見たことはないが、空の青さや美しさを知っていた。何よりも彼の興味を惹いたのは、太陽だった。かつて地上では眼が眩むほどの太陽の光がすべての人に平等に降り注いでいたことは、彼の心を震わせた。彼にとって、かつての地上の世界は天国のように静かで美しいまさに”楽園”だった。
まもなく蝋燭の火が消えて、暗闇が部屋を満たした。彼は手探りで本を引き出しに戻し、鍵をかけた。
「あとはコーヒーがあったら良かったな」
電気ポットの蓋には埃が溜まっていた。彼はよろよろとベッドに戻り毛布にくるまった。
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