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富士子のこと
相方がその昔勤めていた場所に、住みついていたネコがいたという。黒い毛並みの年取ったメスで、名前は富士子。勤務していた場所の名称に「富士」がついていたことに由来するらしい。相方はその頃、自宅でもネコを飼っていて、飼い猫のエサの余りを富士子にあげていたそう。飼い猫の方は好き嫌いが激しくて、好みのエサではないと、見向きもしなかったので、飼い猫が食べないエサを野良猫の富士子にあげていたという。
富士子は、相方が朝早く職場にやって来て自分のそばを素通りすると、エサが欲しくて建物の中まで入って来て、二階までトコトコ階段を上ってきたそう。勤務は週5日だから、「土日のエサはどうしていたの?」と聞いたら、多分、富士子は空腹を我慢していたのだろうと。月曜日に相方が姿を現すと、すごいスピードで転がるようにして走って来たという。
富士子は年を取っていたせいか、抱き上げると内臓が入っているのかというぐらい軽かったのだそう。富士子が亡くなると、相方が目の前の河川敷に埋めてやった。半年ほどして、相方の同僚が富士子の遺体を掘り起こし、富士子の骨で標本を作ったという。今も富士子はかつて相方が勤めた場所に標本として飾られているそうな。
標本になった富士子の魂は、どこに行ったのだろう。科学的な根拠は全くないけれど、私は今でも富士子の魂は生きていて、自分にエサをくれた相方に感謝しているのではないかと思う。
いわんや人間をや、である。私を心から愛してくれた人は、亡くなってもいつも私のそばにいて、しっかりやっているかと心配したり、私が書くことに励んでいれば、よしよしと満足そうにうなずいたりしているように思う。
こんなふうに考えると、大切な人が亡くなり、顔を見て言葉を交わすことができなくなっても、一人ぼっちだとしょんぼりする必要はないし、その人が亡くなった後の人生を前向きな気持ちで生きてゆくことができると思う。みなさんはどんなふうにお考えになりますか?