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天使の武器と先輩の魔法

「痛ーーーーーーい!!失敗すんな!下手くそー!!お前もう看護師やめろ!」

「すみませ〜ん。痛くないですか?手は痺れてないですか?」

「うるさい!痛いにきまっとるわ!ふざけんな!師長だせ!」

採血室で罵声が飛ぶ。50代のぽっちゃり体型の男性は、採血に失敗された右腕をおさえながら怒りに震えている。

威圧感がある患者さんが怖くて、自分に不甲斐ないて。私は謝るしかできない。それでもここで泣くわけにはいかなくて歯をくいしばった。

周りの患者さんやスタッフが一斉にこちらに注目していた。すぐに近くにいた絢音(あやね)先輩がその患者さんの対応を変わってくれた。
すると、私はもうたまらず採血室からそっと逃げるように出る。涙を堪えるのに必死になった。

——またやってしまった。

憧れの看護師になり3ヶ月。看護学校で基礎的なことは一通りならっている。実際、働きだせばテキパキと動けると思っていた。しかし、思っていたのとは全く違った。知識を知っているだけの素人のようだった。
それは、学生で習ったことは本当にわずかで、採血の一つも難しいと思い知らされる。不器用な私はとくに採血は全く上達せず、患者さんを怒らせてばかりだ。

沢山の病気も検査の介助も覚えることはまだまだあって、失敗して先生や先輩にも怒られる。しまいには患者さんにも怒られた。

私は感謝されたくて看護師になりたかったはずなのに。何だか私の中で、もう全てがぎりぎりだった。

「こんなはずじゃなかったのにな〜」

逃げついたのは病院の屋上。
屋上の柵を握りしめ、隙間から見える遠くの海を見つけた。光が反射しキラキラ輝く青い海と青い空、白い雲を見ると、何だか自由で、羨ましい気持ちになった。

私はこの病院や医療という小さな世界の檻の中に閉じ込められているような感覚になっていて、医療以外の世界が羨ましくなった。

初めから何でもうまくいくとは思っていない。それでも、同期は私みたいに怒られている人をみていないし、それがもう耐えがたくなっていて大きなため息をついた。

「やっぱり辞めようかな……。あたしなんで看護師になりたかったんんだろう?本当になりたかったのかな?」

小学生の頃、小児喘息で何度も入退院を繰り返した時期があった。その頃から看護師さんになりたいと思い、将来の夢となったのだが、小さい頃の私は看護師の何が一番の心にささったのだろう?

優しいところ……?
いつも笑顔を絶やさないところ……?
テキパキ働く姿を憧れて?

どれだったのだろう……?

「美波(みなみ)、大丈夫?」

後ろから息が上がっている絢音先輩の声がした。

「絢音先輩……あの患者さん大丈夫ですか?」

「うん。あの患者さんは師長が対応してくれているから大丈夫。それより美波は?美波が大丈夫かって聞いてるんだけど?」

絢音先輩は、私を逃がさないとでもいいたいように、じっとり見つめてくる。

「大丈夫なような大丈夫じゃなような……」

私は、心配してくれる先輩を前に、先程までの気持ちを言えるわけもなく、何だか後ろめたい気持ちになりどう答えたらいいのかわからない。

「たしかに、採血の失敗はこちらが悪いし申し訳ないけど、辞めろって言うのはね。あの患者さんも頭に血がのぼっていたから言ってしまった言葉だと思うよ?言ったあの患者さんも冷静になってから、傷ついていると思う。美波は、さっきの反省をして、これから頑張ればいいんだよ」

絢音先輩は私の頭を荒っぽくよしよしと無でてくれる。その手の温もりが、また心に沁みて涙がすっと頬を流れた。

先輩は私の変化に気がついて、すぐに抱きしめてくれた。人の優しさに触れて涙は勢いを増していく。

「大丈夫、大丈夫。皆んな通ってきた道だよ。みんな同じ思いしてるから。まだ就職して3ヶ月なんだから、うまくできなくて当たり前……美波が、がんばってるのみんなわかってるからね。美波は患者さんにいつも笑顔で接してて、偉いよ?私なんか患者さんの話しきいて可哀想になっちゃって、一緒にないちゃった。一緒に泣くとか、私の方が看護師としてまだまだよ……」

「そんな事ないです。先輩はテキパキ仕事ができて尊敬しています」

絢音先輩はいつの間にか私よりもボロボロ泣いている。先輩は優しすぎるからよく人の為に泣いている人だ。

「美波、泣きすぎだよー。黒い涙で顔も真っ黒になるし制服にもついちゃてるんじゃない?」

先輩は、抱きしめてた手をほどき私の顔を見た。

「あれ!黒くない!美波って、化粧ばっちりしてるけど、マスカラだけしてないとか?」

「いえ。マスカラしてます。ウォータープールです。」

「えーー!とれてないよ?私泣き虫だから、仕事中泣いて顔も制服も黒くなって大惨事になったことあってさ、それからマスカラしてないの。そんなのあるって知らなかった」

「このマスカラめっちゃおススメです!」

私は涙を拭きながら、ポケットからマスカラを出してみせた。

「何ていうやつ?」

「キャンメイクTOKYO のメタルックマスカラ」

「メタリック?」

「違います。メタルック……あーこれあげますよ。私予備に2本持ってるので。」

「えーめっちゃ嬉しい。いいの?わーい!」

「はいもちろんです!いつもお世話になってますし」

先輩は嬉しそうにマスカラの中を開けて見た。

「ありがとうー。てか、これ普通のと違うくない?鉄のコーム?えー私、使える?」

「メタルコームです。塗りやすいですよ?」

「塗りやすいの?」

「私が塗ってあげますよ」

先輩のマツゲをなぞるようにコームを沿わすと、キュルンと上がった。
先輩は手鏡を見て驚いた声を出す。

「めっちゃ睫毛上がった!目が大きい。美波は、化粧品よく知ってるねー。これで美波のいつもの笑顔は作られているんだ!武器みたいな感じかぁ……。武器は必要だからいいと思う!」

「武器?」

私は先輩らしい考え方だと感じニヤリと笑った。いつの間にか、涙は止まっていることに気づいた。

「私が美波のマスカラぬってあげるよ」

「はい。私、何もできないから……笑顔だけは忘れないようにしようと思って、マスカラつけてます。いい看護師になるんだって決意みたいなものでしょうか……」

私は目を閉じた。

——そうだ。入社式の時、仕事頑張るって決意したなー。

先輩は、マスカラを私に塗りながら、塗るのが楽しいらしく、はしゃぎながら、時間をかけて塗ってくれた。
終わると、先輩はおちゃらけた感じで私の両肩をトンと軽く触った。

「沢山マスカラ塗ったから、マスカラの魔法をかけました。目を開けたら世界が変わっています」

「え?ふふふふふ」

私はゆっくり目を開けた。
睫毛が上がり不思議と気持ちが引き締まる。もちろん景色は変わってないけど、さっきよりも、何だか気持ちも視界も明るくなった気がする。

もう一度さっきまで羨ましかった青い海と白い雲のその景色の方を見てみる。
不思議と先程とは違い、もう羨ましいなんて思わなくなっていて。先輩のいう世界が変わっているという言葉もあながち間違いではないと思った。

そして、海を見ているうちにゆっくり看護師になりたかった理由を思いだした。

——安心感だ。安心感を与える人になりたいな……先輩みたいに。まだまだ看護師という夢の途中なのだから。

心配そうに私の顔を伺っていた先輩と顔を見合わせると、私はとびきりの笑顔で笑った。


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