見出し画像

歌人と油田と田沼意次。静岡県牧之原市。グーグルマップをゆく㉓

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立ったところの町を空想散策する、グーグルマップをゆく。今回は、静岡県牧之原市。

 牧之原市はかの有名な田沼意次が藩主を務めていた相良藩。お米主体の経済からお金主体の経済に転換させたのがなんともすごい改革。

 相良城跡より少し北西に行くと、「相良油田油井」というところがあり、その近くには、「わが国石油機械掘り発祥の地」というところがある。残念ながら今は石碑だけなので見応えはないのだが。日本にも「油田」と呼べるところがあったというのが面白い。

 さらにそこから北に上がると、「勝間田城跡」というのがある。この地には古くから勝間田氏が住み、勝間田城は15世紀の中頃に築城されたと考えられている。鎌倉期、ここから勝間田長清という武将が出た。藤原南家の工藤氏の支流とも言われ、藤原長清とも言う。

 地方豪族ではあったが歌に通じており、わざわざ上洛して歌人の冷泉為相に歌を習っている。1310年、時宗の他阿上人が勝間田に寄った。長清はこれを訪問している。歌合という歌を読み合う遊びがあるのだが、他阿上人を訪問した長清が歌合をしたという記録が残されている。また、他阿上人を自宅にも招いている。

 これにとどまらず、長清は「夫木和歌抄」という歌集を編纂したり、たの歌集などにも名前が見られる。歌人としての方が有名だったのではるまいか。歌集を編纂するのは地方豪族には見られない。よほど好きだったのであろう。

 長清は他阿上人からも歌の指導を受けており、後に時宗に帰依して証阿弥仏蓮昭を名乗った。時宗に帰依するものは「阿弥号」名乗るのが習わしとなっている。室町期に時宗は勢力を拡大し、高野山真言宗まで時宗化してしまうに至る。高野聖は時宗化した真言宗の僧侶の姿である。

しかし、長清が帰依するのはそれよりもずっと以前の鎌倉期のことなので、相当に他阿上人に入れ込んでいたと考えて良い。他阿上人もまた、良いパトロンを得たと思ったに違いない。

 勝間田氏は、武家というよりも長清によって名前が残っていると言ってもよく、長清についても武将というよりも歌人として評価をするべきだろう。本人もそう望むに違いない。

 勝間田氏から田沼意次、油田まで、牧之原市は何やらバラエティに富んだところである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?