絵を描く軍人・横田穣。大分県玖珠郡。グーグルマップをゆく㊳
グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は大分県玖珠郡。
別府市に隣接する玖珠郡は、「豊後国風土記」にも出てくるので歴史は相当に古い。当時を彷彿とさせる景色は今も健在のようである。
明治四三年(一九一〇年)、玖珠郡玖珠町日出生台にあった陸軍の演習場に横田穣という軍人が赴任する。「演習場主管」というのが彼の肩書きであった。赴任すぐに彼が着手したのは植林であった。日出生台は水不足に悩まされており、水の町とも言える徳島県出身の横田にとって何事よりもまず初めにやるべき問題だと思ったに違いない。
横田は慶応元年(一八六五)、徳島県の漢方薬製造を生業とする家に生まれた。中学を卒業後、一年半ほど小学校の教員をしていたが、何を思ったか画家を志し、妹に婿養子を取らせて実家を継がせ、絵を学ぶために東京へ出て日本画家・川端 玉章の弟子となり学んだ。しかし、それも突然やめて、陸軍軍人になってしまった。
山口県下関の砲兵連隊の勤務となり、日清戦争にも出征する。砲兵連隊に勤務して九年後、陸軍砲工学校に入校し、軍事学、高等数学、力学、弾道学、馬術、馬政学、英語、英語を学んだ。それとは別に、当y公大学のドイツ人教授に教えを乞い、コンクリート工学も学んだ。どうも、一度気になったらとことんやってみないと気が済まない性分のようだった。
日露戦争が始まり、乃木希典軍司令官の元、旅順要塞攻略戦として総攻撃が始まる中、横田は第三臨時築城団備砲班長に命ぜられ、砲の備え付けから攻撃まで、見事な功績を上げてロシア旅順艦隊全滅に貢献する。その後、勲四等旭日小綬を授かり、様々な隊を歴任した後、四十二歳という若さで現役を引退して妻の実家であった山口県にて生活を送っていた。
しかし、その人柄と才能を惜しんだ元上司の豊島陽蔵によって、日出生台演習場の初代主管として呼び戻されることになる。彼が初めに着手したのは植林だったことはすでに触れたが、自らの月給や恩給の半分を苗木につぎ込んでの植林であったらしい。
余暇には若い頃に学んだ日本がを描いて小遣いを稼ぎ、それも苗木にあてた。七十歳で退役するまでの間、軍務と両立して婦人と地域のために消防組合や婦人会の立ち上げなど、様々な活動を行ない、退役後も地域に貢献した。八十五歳で惜しまれながら亡くなった。
横田の人生にとって、自らが決定したことは画家になることと軍人になることのたった二つであった。それ以外のことは、与えられた仕事を期待以上に応えるという人生だった。しかし、それらの仕事は、画家と軍人で得た能力によって為せたものであり、絵を描くような見事な生涯だったように思えてならない。
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