天照大御神の葬儀の記録
天照大御神の葬儀の記録
前回は、天岩戸別八倉比売神社について。
祀神は大日孁貴(おおひるめのむち)。
皇祖神である天照大御神が、
天照大御神と呼ばれる前のお名前。
つまり、大日孁貴は天照大御神。
そして、卑弥呼と同一人物。
阿波説の一般的解釈について書きました。
そして今日も天岩戸別八倉比売神社について。
こちらの神社に残されている古い記録には、
なんと、大日孁貴。
つまり天照大御神の葬儀の様子が詳細に
残されているのです。
と、言っても私は見たことはありませんので、
本当なら拝見したいと思ってます。
どんな神様が列席されて、どのような神事が
行われたのか?
先導役や葬儀委員長他のお名前など。
詳細に記録されているということなので、
内容が知りたくて。知りたくて。
どなたかご存知の方いらっしゃれば、
教えてください。(笑)
これが事実であったとしても、
それは偽書だとか、後年作られたとか、
まあ、賛否は分かれるのは目に見えてますが、
天照大御神様の葬儀ですよ。
興味津々です。
太政官符の記録
もう一つ。
天岩戸別八倉比米神社が特別な神社であった記録。
延喜式においては明神大社。大社です。
他、承久二年(1070年)の太政官符に残る記述。
八倉比売神の祈年月次祭の奉幣を怠った国司官へ。
八倉比売神の月次祭は邦国の大典なり。
と、厳しく叱責している記録が残されています。
太政官符とは、
今でいう政府決定の通達みたいなもの。
そんな重要な決定文書に、
一地方の神社への奉幣。
怠った国司に対する叱責。
いかに重要な神社であるかが分かりますよね。
邦国の大典とまで書かれているのです。
親魏倭王に贈られた金印か
その他にも、
社伝である八倉比売大神の御本記には、
興味深い記述が書かれています。
いくつかの中から一つ。
大変気になる内容をご紹介しますと。
神陵(奥の院)に偖(い)の印璽(いんじ)を
水銀朱で覆って埋めた。
この記述、気になりませんか。
学生時代、歴史の授業でも習ったこと。
魏志倭人伝に書かれている記録
汝を以って親魏倭王と為し、
金印柴綬を与えん。
魏国の王から金印を授かったとされる内容。
皆さんも覚えていらっしゃるでしょう。
ひょっとして、その金印か?
そんな期待が広がりますね。
実証するために、奥の院下の古墳。
掘ればいいじゃん!
そう思うのですが、
実は、
ここ八倉比売神社の古墳だけでなく、
阿波に残る古墳。
歴史の中で盗掘が繰り返し行われ、
貴重な埋葬品などは
無くなってしまっているそうです。
近世では、江戸時代になっても、
幕府の指示により、
調査が行われていたようです。
畿内の古墳に阿波の青石が使われた訳
前回も書いたように、
ここ八倉比売神社の御陵も
何度か場所が変わったように、
必ずしも、最初の御陵が、
ずっと、
その場にあるわけではないようです。
現在、畿内にある立派な古墳。
元の古墳は阿波にあった。
都を奈良に遷都した都合から、
古墳も畿内に新しく建設された。
現代も子孫が住む場所が変われば、
元の墓は墓じまいされて、
新しい場所に墓が建てられる。
同じかもしれませんね。
私の推理です。(笑)
しかし、畿内にある古墳。
建設に使われている阿波の青石。
どうして阿波の青石が畿内の古墳に
使われたのか。
古墳建設に使われる石の量。
それはそれは大量の石です。
今のような
輸送手段があるわけではない時代。
大変な輸送となったはず。
そこまでして阿波の石を運んだ理由。
阿波から御霊が移される。
祭祀に必要であった阿波の青石。
そこだけは代替えの石ではだめで、
阿波の青石でなくてはならなかった。
そういうことなのかな~?
と、いうことは、
畿内にある、
歴代天皇の古墳といわれる御陵もまた、
阿波から移って行ったのではないか。
そもそも日本の始まりは阿波だった。
そういうことになってしまうのです。
こういうこと書くと、
面白くない人も多くいるでしょうが・・・。
五角形の祭壇 見にきてください
徳島の神社に多く残る青石の石積み遺跡。
八倉比売神社の奥の院の祭壇も
青石の石積みです。
どんな意味があるのか?
五角形で組まれた青石の祭壇。
一種独特の雰囲気に包まれた奥の院。
その気に触れるだけでも、
参拝する価値は高いと思いますよ。
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