無花果の乳をすすり
無花果が食べたい、と思うとき、自分の心にうっすらと影を落とす満たされなさに気づいて、気まずくなる。目の前にいる人にそれを悟られないよう、そっと無花果の葉で隠す。
無花果が食べたい。それは存在の誇示として。無花果を食べると、身体の輪郭がなぞられる気がして、好きだ。とろみのある果汁がしっとり喉を濡らしていくと、生きている、ここに命があるある、しっかりここにある。
無花果の中にある赤いつぶつぶが花だという。舌で花をなぞると、ミツバチになった気分だ。無花果の柔らかさを、時々奇妙に思う。なぜこんなに脆いのか。違う、この柔らかさを本当に脆さと言っていいのか。まだ違う、なぜ私たちは、柔らかさと脆さを結びつけるのか。無花果が体内をめぐる時、生命感覚が敏感になっていく。この柔らかさは脆さではなく、強靭な精神性である。
親戚からもらった無花果に、マスカルポーネと塩気の強い生ハムを乗せて、はちみつを垂らして、黒胡椒をかけて、食べた。何層もの香りが織り重なって、鼻腔にふわりと優しい仕草を残していく。どれだけ贅を凝らしても、絶対に舌の奥の方に残ってくれる無花果の青臭さが、本当に好きだ。あたしは植物、と言ってくれる。無花果は媚びない。叫ばない。人体という監獄に閉じ込められて、なお優雅。
その青臭さが消えるか消えないかというところで、白ワインを飲んだ。
無花果の乳をすすり、ほのぼのと
歌はまし、いざともに角を吹け、
わがともよ、起き来れ、野にいでて
歌はまし、水牛の角を吹け。
北原白秋の一節を、思い出す。水牛の角が吹きたい。ここにいること、無花果を食べて、広い野原で、ここにいると角を吹きたい。それが食べるということだ。広い野原で角を吹くこと。食べるということは、全部それだ。
いざともに角を吹け。誰かを、食卓に招きたくなる。