『一触即発』 四人囃子
渋谷に昔ヤマハ・エピキュラスというホールがあった。コンサートホールやスタジオを擁しており、ヤマハ系のミュージシャンがよくレコーディングをしていた。中島みゆきやチャゲ&飛鳥がホールのロビーでお茶を飲んでいるところを何度も見かけたことがある。
僕は、大学の時に組んでいたバンドで、よくこのエピキュラスホールでライヴをしていた。その時、いろいろなアレンジャーやプレイヤーからアドバイスを受けたが、忘れられないのは、岡井大二さんから受けた一言だ。“バンドはリズムだよ。音楽はリズムで感じないと、プレイヤーはすぐにモニターが悪いとかPAが悪いとか言い出すんだよ。そんなことは当り前として考えて、まずは各自がどれだけその曲のリズムを理解しているかなんだよ。”
僕はその言葉を聞いたとき、どこの“おっさん”が言っているんだろうと思った。まさか、あの四人囃子の岡井大二だとは思わなかったのだ。バンドメンバーに後から教えられ、びっくりした。
僕の知っている四人囃子は、地味~ぃな格好で何日も髪を洗っていないモップのような髪形の4人が変拍子ばっかりやっているバンドというイメージだったからだ。ライヴでもほとんどMCは無く、森園勝敏が低い声でボソボソ話し、明るく前向きな話なんて微塵も感じられない人たちだからだ。短くなった髪と明るいジャケット姿の岡井さんは、昔見たステージとはあまりにもかけ離れすぎていたのだった。
四人囃子はピンク・フロイドに影響を受けた日本のプログレバンドとして有名なバンドである。1970年代初頭のフォーク全盛時に、日本の音楽界でロックは少数派だった。そしてその中でもプログレはもっともサブカルチャーで、万人に受け入れられる音楽ではなかった。拓郎や陽水が大ヒットを飛ばしている時、変拍子で“空飛ぶ円盤に弟が乗ったよー”とか“あー空が破ける!”と叫んでいた。
四人囃子の魅力は何と言っても演奏力に尽きる。曲の構成力も去ることながら、難解な作品を表現できるしっかりとした技術である。ピンク・フロイドからの影響は大きく(ライヴでもカバーを良くやっていた)、変拍子や1曲の中に3パターンのリズムが混在する作品などは、彼らのお家芸である。四人囃子はもともとピンク・フロイドの「Echoes」を完璧にコピーできるバンドとして名をあげたらしい。ライヴでも当時の洋楽ロックをカバーし、またディープ・パープルを始めとする外タレの来日公演のオープニングを務めていた。日本が世界に対し、胸をはって披露できる技術を持ったバンドだったのだろう。
『一触即発』(1974)は、四人囃子の代表作だ。
特にタイトル曲はピンク・フロイドの「吹けよ風、呼べよ嵐」に明らかにインスパイアされているが、それが単なるモノマネで終わっておらず、緊張感溢れる作品に仕上がっている。また、格好つけて英語の歌詞で歌うバンドが多かった当時の音楽シーンの中で、はっぴいえんど同様に日本語の歌詞にこだわった部分や、日本の情景を大切にした作品作りは若干20歳のメンバーによるものとしては驚きだ。ハードなギターは、デイブ・ギルモアでもあり、ジミヘンのようでもある。「ピンポン玉の嘆き」は変拍子などとは無縁で、メロトロンが幻想的な世界を作り出している。漫然とした中に尖った音が聞く者の神経を高揚させていく。独自性という面でいけば、ピカイチのバンドだ。
但し、演奏技術が素晴らしい反面、歌唱が演奏に追いついていないと言うと言い過ぎか。
森園は技術よりも、アジのあるヴォーカルで、声域も声量もヴォーカリストとしては決して上手い方ではない。だからか本人も、約2年で四人囃子を脱退してしまい、ギタリストとしての道を歩み始めてしまう。しかし、森園がフロントにいた四人囃子が真の四人囃子だというファンは非常に多い。ということは、ヴォーカルは二の次なのかもしれない。
ファーストアルバム発表後、メンバーチェンジを繰り返しながら6枚のオリジナルアルバムを出し、休眠状態になった。1989年に突然再結成ライブを行い、周りを驚かせたが、すぐに沈黙してしまった。しかし、1999年あたりから、活動を再開している。
岡井さんは、ちょっと薄くなった頭を隠さず、昔の怒涛のフレーズを大音量で刻んでいく。最近見た「一触即発」は昔の演奏同様、各自がリズムを理解しているので、ソッポを向いていてもビッタリ合っていた。そういえば、このバンドアイコンタクトって言葉を知らないのかもしれない。
2005年9月12日
花形