何故空気を読む社会になったのか
空気を読む社会で生きづらいなと思う方たくさんいらっしゃると思います、というか誰でもこの空気感やだなと思う瞬間は訪れますよね。
ではなぜ空気を読む社会になったのか、宗教的背景から深堀してみたいと思います。
一神教と多神教の違いから紐解いていくとわかりやすいのですが、一神教(キリスト教やイスラム教)の場合、常に神という唯一の存在がいて、自分という個人と神が対話し、常に自分の存在は神に見られていると感じることで自分個人の存在がより明確になり、人とコミュニケーションをとるときには個人の主張を明確にぶつけ合いながら議論を進めていきます。西洋哲学を例に出すと、デカルトの「我思うゆえに我あり」みたいに個人の主張が強いです。こういった価値観では空気感を気にする必要はありません
一方で日本の場合、儒教・道教・神道・仏教が混ざった宗教価値観を持っており、どれも一神教ではありません。(仏様は悟りを開いたものを指すので天地や人を創造したような神様としての存在ではありません)
多神教の場合、ありとあらゆる生物や物に神が宿っていると考え、みんなが共存している世界観を持っています。そういった世界観なので、我々の言語も「寄り添い」「おもてなし」「おかげさま」のように、直接英訳できない相手を思い協力しあうことが前提の言葉を使い合い、お互いが相手のことを思いあいそれに終わりがなく、気持ちが行き場を失い、結果空間に気持ちが留まり、それが空気感を形成していると考えています。大事なのは自分よりもみんなで形成した世界観なんですよね。
この世界観が武士の切腹みたいな価値観とリンクしてくるので、それもまたどこかで。
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