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【早明浦ダム】早明浦ダム建設時に反対したのは香川ではない【出資拒否】
※この記事では、ほぼ全ての内容に対して誰にでも確認できるソースを用意しています
※「良い」「悪い」という話ではありません
四国で多目的ダムが作られる計画が持ち上がった際、反対したのは香川ではありません。
■分水拒否と建設費負担拒否
・ダムはいいが分水は絶対に拒否
吉野川総合開発計画(徳島県の立場)
◇当初から分水反対の立場を主張
「吉野川はその功罪(洪水禍と利水)合わせて本県のもの」
「ダムの必要性は認めるが、香川分水には絶対反対」
・分水には絶対反対の立場を主張する徳島県をはじめ、四国 4 県の思惑の相違により、調整の機会も無いまま 長らく膠着状態が続いた。
・分水に強い期待を寄せる香川県、分水には絶対反対を主張する徳島県、県内開発が優先であり差し迫った 課題ではない愛媛県と高知県という構図であった。
インフラ整備70年講演会より
愛媛分水の場合もそうであったが,香川 県に流れていなかった吉野川の水を香川県 に分水することに対しては,徳島県は大き な抵抗を示した。徳島には暴れ川・吉野川 と共生してきた歴史が背景にあり,先に述 べたように,頻発する洪水を耐え忍んでい ることと,豊富な水を利水できることはワンセットであった。恩恵の部分だけを切り離して帰属や譲渡の可否を云々することは 難しかったのである
・徳島県が吉野川総合開発計画に対して、「分水拒否」を示す
・協調としては調査をし、現実としては分水を拒否する
・昭和30年ごろから徳島県で水の供給に反対する機運が高まった
・昭和31年の9月の県議会では、徳島県知事が分水拒否を表明
・徳島県が吉野川の分水に反発
・強硬な徳島県
吉野川総合開発計画は、関係機関の地道な努力により、やっと昭和29年8月に調整試案としてまとめられたものの、銅山川分水問題を契機として、昭和30年ごろから徳島県に分水反対の機運が強まり、日本経済の高度成長による全国的な開発志向の高まりの中で、停滞を余儀なくされていた。
P194より引用
・建設費負担は県民感情として拒否
・吉野川から水を取られ、その上に64億5千万円とかの経費を負担せよといっても、それはできぬと断った。
・徳島県は昭和30年頃から反対していた
・水を分ける側の徳島県がダム建設費の高額な負担金を払わなければならないのは、県民感情として承服しかねる。
・工事のために高額の負担金を課せられるのは承服しかねる
昭和36年4月建設省四国地方建設局はダム建設計画のため徳島、高知両県と本格的な話し合いにはいり、ダム地点の骨材採取地や保証地域の調査を開始、10月には昭和37年から「ダム建設を前提にした実施計画調査に前進させ、ダム地点の地質調査を主に精密な総合調査」を行う予算要求をしている。調査費が内定した段階で、徳島県が早明浦ダムの建設費が固まっていない等の理由で地元負担金を拒否する事態がおきる。
P338より
・ダムの必要性は認める
・分水は絶対に拒否
・負担金も県民感情として拒否
反対運動により早明浦ダムの開発計画を立ち往生させたのは当時の徳島県でした。
昭和 29 年には同審 議会で建設省案や電源開発(株)案などをまとめた調整試案が発表されましたが、下流・徳島県の 反対などで計画は立ち往生。
徳島県が作成した資料にも、反対についてはっきりと書かれています。
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・吉野川開発計画における徳島県の感情とその変遷
早明浦ダムの資金分担には「身替り妥当支出法に分離費用の概念を加えたもの」が採用され、各県それぞれの負担が決定されています。
「受益量により負担割合が決定される」というルールにより、徳島には「吉野川の治水に対する費用」という費用が発生していました。
水は絶対に分けたく無い、徳島単独の費用もなんとかしたい。そんな徳島県でしたが
①橋、道路、水が優先されるなら分水してもいい(政治的判断)
↓
②新産業都市の指定を受けるために安定した水の供給が必要不可欠。ダムが必要。場合によっては分水してもいい
↓
③水量確保と負担金の軽減を求める条件闘争へ
このように態度が変化します。
徳島はダムと引き換えに「橋、道、水」「水量の優遇」「負担金の軽減」等の条件闘争を、国と他3県に対して仕掛けて行った訳です。
結局のところ、早明浦ダムの水は70%以上が徳島に流れることとなり、水量確保には成功しています。しかし「絶対に分水しない」という当初の決意からすれば到底納得のできるものではなかったのかもしれません。
橋についても「建設費が高すぎる」「工期が長すぎる」事を理由に、岡山香川ルートが優先されてしまいます。
建設費負担についてはかなりの額が軽減されていますが、「治水分費用を他県にも負担させたい」という徳島の希望通りにはいかず、国と徳島で負担する事になるのでした。
「絶対に他県に渡したくない徳島県の持ち物である吉野川の水を分けているにも関わらず、徳島の希望が通らなかった」
この事は、一部の徳島県民の感情に大きなしこりとなって残ったのではないでしょうか。
上記の資料を読み解いていくと、うっすらとですが見えてくるものがありますね。