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悲しすぎる実話 1

私にしか出来ない事を、書く事に決めた。それは余命があまりないかもしれないからだ。私の話は世間には出ない話だ。私は元財閥の家柄だった。マッカーサーによって財閥解体はされたが、数兆円ほどの財とお金はあった。私の生きる世界では外部に情報はもれないようになっている。

親は子供に自分が受けた教育と同じ教育をしていく。私もそうであった。そして親が敷いたレールを、ただ何も考える事なく歩いて行く。幼稚園の頃は金持ちの上にお稽古を幾つもやっていた為、当然、放課後等は存在せず、虐めの対象となった。私はほぼ毎日、集団から虐めを受けていた。

小学生になると塾と習い事を、両立して行く。日曜日も塾で夏休みになると30日は離島のホテルで合宿に行かされた。早朝から晩まで勉強漬けの日々だ。そして私が合宿中に出来る訳のない科学研究を、家庭教師に大金を積んで200ページほどのものを丸写しする作業をする。まだ悩む事等しらない1年生の頃からそうしてきた。行っても無いラジオ体操にはスタンプが押され、日曜日には朝から晩まで塾で、今でも覚えている事がある。

ある日、私は電車で1時間ほどかかる場所の塾まで通っていた。サラリーマンしかいない中、途中で降りるおじさんが、私に「僕、ここに座りなさい」と私に言ってくれた。しかし、私は教育で、鳥のすりこみのようにそう言った事は断ると躾《しつ》けられていた。私は「大丈夫です。ありがとうございます」と言って断った。素直に座るべきだった。その席は私が下りる終点まで誰も座る事なく空いたままだった。

私は運よく自分というものを、見つめる事が出来るようになった。それには悲運な事があったからだった。親が医者同士の塾仲間がいた。私も弟も一緒に行っていた。その子も同じように兄弟で年も同じだった為、僅かな5分程度ではあったが、帰りに話すようになっていった。

ある日、毎日来ていた兄が来なかった。私は弟のほうに聞いたが、何も言わず帰って行った。家に帰り、母親に聞いたが辞めたんじゃないと言うだけであった。その頃、私は近畿大学で時代を先取りしたコンピューターを教えていた叔父がいて、私に対して人間的な教育をしてくれていた。理に適ったもので、私の育ての親と言ってもいいほどの関係で、たまに電話する度に、「覚えててくれたんか」と泣いてくれた。私も「忘れる訳がない」と言って泣いた。

#未来のためにできること

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