感想より偏見 瀬尾まいこと村上春樹の類似性について
最近、瀬尾まいこの「そしてバトンは渡された」という小説を読んだ。
自分の食指が動くジャンルではないものだが、たまには新しいジャンルとして読んでみようと思ったのである。
(ラインで会話していた女性が瀬尾まいこが好きだと言ったから読んだわけでは決して、決してない)
シンプルに一口で感想を言うならば「女性的な村上春樹」と言った感じだろうか。
もちろん、このようなワードに少なからず批判的な印象を受ける方も存在するかもしれないし、実際、批判的な目線が少なからずあるのは事実かもしれない。また作家同士を比べるのもどうなのかと面と向かって言われる方がいらっしゃれば、私はその方から目を逸らすことしかできないだろう。
ただこれは読み終えた瞬間に他意なくパッと出た反射的な感想からの肉付けである。
なんなら村上春樹は長編はほぼ読んでいるほどの個人的に好きな作家であるし、であるからこそ彼の魅力と弱点を鑑みて「女性的な村上春樹」と称させていただいているのだ。
それにこれほどまで構造が似通っているのに、片方がニッチで片方が広く受け入れられているよ、という全体のスタンスに対する疑問の投げかけでもある。(全体のスタンスに対しては双方の世論を独自で調べたものであるため歪んている可能性は大いにある)
さて、なぜ瀬尾まいこが「女性的な村上春樹」という結論に達しているかということによると多くは三つある。
まず一つは物質的な観念、急な物質的表現の点。
村上春樹小説批判の中には執拗なほどのマニアックな音楽やウイスキーの話をするという点があげられる。よく何を言っているのかわからない、なぜここに出てくるのかの必要性が分からないなどのスノビズム批判の意見が寄せられることもあるだろう。
一方瀬尾まいこはそのような小難しい音楽は使わない。ロッシーニについても気のよさそうなおじさんくらいにしか見えないという「等身大」な意見を述べている。森宮さんについても東大の小難しい語りをしている人という型が強調されている。
一見すると対照的なスタンスのように見えるかもしれないが、瀬尾まいこについては執拗なほどの食物表現が見られるのは否定できないだろう。(この作品においてだけなのかもしれないが。)
アクション映画で「5分ごとにアクションが見られる!」といったような宣伝文句がたまにあるが、その具合に「20ページごとにご飯を食べている」気がする。
確かに食べ物のシーンが良く見えるのは良い話である証拠ということは小説や映画、アニメ問わずよく言われることかもしれないが、何かその視点ありきなのかなという邪推すら呼び起こすほどである。
色々と粗雑に話を撒いてしまったが、一つ目の共通点としては「物質的なこだわりの構造」であり、そしてそれによる「良きイメージ」の創造である。それが村上春樹は「孤独な男」、瀬尾まいこは「家庭的な温かさ」という違いがあるだけである。
ただし、一つだけ言っておきたいのは、どちらが良い悪いという話がしたいという話では決してないことである。
どちらのテーマにもかならず良さがあり、かならず悪さがある。
ただ構造が似ているような気がするから並べて語ってみたらどうなのだろうという一種の試みである。
ちょっと話が長くなってきたので、編を分けて投稿しようと思う。