死生観。死について考えてみる。 第37回大阪作業療法士学会④
もうすぐ旧年が過ぎ、新年を迎えます。
自然は移ろいます。古いものが過ぎ去り、新しいものが生まれる。
世間の人々もまた同じように。
お伝えするのはワークショップ「死生観」について。
かつて死とは、もっと身近にあるものでした。そして日本では忌み嫌う「穢れ」として扱われていました。
そこから、死について話すことは縁起が悪いと避けられがちです。
現代社会では様々な制度や医療福祉が充実しているため、死はあまり身近な話題ではありません。
その分、いざ直面する時にどう考えてよいか、向き合い方がわからなくなっている気がします。
ワークショップでは和泉市にある石尾山弘法寺を舞台に僧侶、医師、介護支援専門員の3人がパネリストとしてディスカッションが行われました。
善知識
善知識とは、仏教用語で「善き友」「真の友人」という意味があるそうです。
今回場所を提供してくださった弘法寺副住職の渡邊さんが心掛けていることは、亡くなられた方のお話をよく聞くこと。そこからご家族との共通点が浮かび上がり、その人の人生も浮かび上がってくる。
その人が歩んできた人生=物語を、善き知識として次の世代に伝えることを重視されているといいます。
一つの死が終わりではなく次の物語へと繋がっていくと考えると、死の受け止め方が変わると思います。
傾聴する
エンドオブライフケア協会にも所属しておられる医師の藤原弘佳先生は、「最近亡くなることを覚悟してもらうことは無理だと気づいた。」
と話されていました。できることは一生懸命聞くこと。質問をしたり話を誘導したりせず、その人が話したいことにとにかく耳を傾けることが大切だといいます。
線を引きすぎない
介護支援専門員であり「もしバナゲーム」を伝えるもしバナマイスターでもある上村久美子さんは様々な死生観に触れてき経験を踏まえた上で、専門職としての線を引きすぎないことをもう一度意識してみようと考えておられるそうです。
「自分は〜職だからここまではできる。ここはしない。」とか役職によってできる事できない事の線を引きすぎると、人として大切な関わり方が希薄になってしまうのではないか。かつてご利用者のご家族から、そんな言葉をかけられたそうです。
死は受け入れられるのか
オーディエンスからの質疑応答で、「死にたい」と話している患者さんが、本当は死にたくないと思っている。
こちらからゴールを示すことができれば、死に向かっての行動ができたのではないか。との質問がありました。
渡邊さんは「死を受け入れる必要があるのでしょうか」と問いを返されます。
「まだ〜をしなくてはいけない。」と考えている人に「もう荷物をおろしたら」と言う事もできますが、むしろその人は荷物を背負っているからこそ生きていけるのではないでしょうか。
その時が来るまで、最後まで生き抜くこと。
その生き方に寄り添うこと。
死に向き合うことは、今をどう生きるかを考えることでもあると思います。