【仕事】サイレントマジョリティの存在価値に気付かされた話。
人をどこで判断する?
見た目?
言葉?
態度?
元来、私は人を「行動」で判断してきた。
口先だけの人は信用ならないとばかりに、言葉巧みに会話が弾む話術が達者な人ほど警戒してきた。
そしてそれは、あながち間違っていなかったと自負している。
一方、おとなしすぎて、自分から発言しない人に対しても、実はネガティブな印象を抱いていたのも事実。
意見はないのか?
自分の考えは?
いつも受け身?
特に生徒には、「荒波に飲まれないようにちゃんと自分の意見は持つんだぞ」という趣旨の話を都度してきたのだ。
自分(私)が良しとする範疇で、適度に発言してくれる人、
そしてその人の考えが、態度や行動に現れている人、
に好感が持てた。
つまり、自分との温度が合う人、波長が合う人である。私自身が、(是非は別として)空気を読みながら意見は伝える、言ったからには行動に示す、を心掛けているから、同じ志の人には親近感が湧くし、安心して人間関係を構築できる、と。
でも、これが覆される場面に出会した。
私が月に数回発行している、クラス通信にまつわる話を少ししたい。
義務感、使命感とまではいかないが、「教師たるものクラス通信出すべし」みたいな変なポリシーを持っており、毎年受け持つクラスの状況に合わせて通信を配布している。
内容や頻度は年度によって違うが、過去一番出したときで年間40回。長期休業を除いて毎週または週2で発行していたことになる。我ながら、この時は頑張ったと自分を褒めたい。
しかし今年は、多く発行しようとか、毎週出そうとかという、回数しばりは辞めた。
通信はあくまで手段。
然るべきタイミングで、旬な話題と強烈なメッセージを認めた通信にしたいという意気。
私なりの渾身の内容である。
noteみたいなサラッと打つのとは違い、クラス通信は比べものにならないくらい力が入っている。
伝えたかったことが多すぎたときの通信のボリュームは、なんと10,000文字(原稿用紙で25枚分)
卒論??
だがしかし、生徒からの反応はない。
配布して、読み始める姿勢が窺える。
ただ、せっかちな私は読む時間をその後とらず、重点項目を紹介して、後ほど読むよう促して次の活動へシフトする。
もしかしたら、読者である生徒の反応を知るのが怖いのかもしれない。
心のどこかでは、「先生、面白かったよ」と言って欲しいのかなと、淡い期待を持っていたのかもしれない。
でもやはり、反応は特にない。
反応がないのは、私が苦手とする状況である。
作成・発行し続けて9ヶ月が経った。
今、冬の保護者面談が終わったばかり。
なんと、嬉しいコメントが多数寄せられた。
「読んでますよ」と。
生徒向け通信が、保護者に渡っていたのだ。
生徒が家庭で「面白いから読んでみて」と渡しているようだった。その生徒たちは、私へは一切クラス通信の話はしてきたことはない。
親とは家庭で、話題のひとつにしていることが発覚。
いやぁ、寝耳に水でなんだか照れてしまった。
ポリシーで、行事予定や事務連絡などはクラス通信には掲載しないことにしている。
「記事」として必要な内容や、「担任の考えていること」、「生徒に伝えたいこと」を一生懸命書く。
サイレントな人たちは、言葉通りのサイレントではなかった。
ちゃんも伝わっていた。
読者が、拾ったことを自分で取捨選択して自分の血肉にしてくれれば良いのだ。
なんか、肩の力が抜けた。
もちろん、クラス通信の位置づけはSNSとは全く違う。
商用書籍とも違う。
さらに言うと、クラス通信を出すかどうかは、教師の判断に委ねられる(特に高校はね)。
知ってる限りだと、自分の職場では私ひとり。
出す出さないで優劣があるわけではないけれど、私はこれからも出す。
「毎回楽しみにしてるんですよ」
久しぶりに、グッと来たよね。
発信の意義についても、考えさせられた機会であった。
言葉は尊い。
覚悟をもって、文字を紡ぎ続けようと思う。
その代わり、noteはゆるーく続けます。笑
では、また!