誰もが必ずすること。生きること、死ぬこと。
世界が変わっていた
目が覚めたら、家族がわたしの周りにいた。
「お母さん運動会終わったよ」と娘。
え? なんで運動会終わったの? 訳がわからない。
どういうこと? と聞きたかったが、わたしはしゃべれなかった。
喉に管が入っていたからだ。
家族のほかに看護師さんがいる。
ここは病院らしい。
すべて後から知ったことだが、わたしは「敗血症性ショック」状態だったようで、多臓器不全で黄疸もひどかったらしい。
たくさんの管につながれ、顔はパンパンで黄色くなっていたわたしを見て
夫は助からないと思ったそうだ。
子ども二人と、どうやって生きていこうかと。
一週間前
わたしは突然はげしい悪寒におそわれた。
パートから帰ってきてコーヒーを飲んでのんびりしていた時だった。
今まで体験したことのない悪寒。娘に毛布を出してもらい、くるまった。
歯と歯がぶつかるくらいガタガタふるえた。
熱を測ると38度を超えていた。風邪? ほかに症状はなにもなかった。
解熱剤を飲んで休んだ。しかし、また熱が上がるたびにはげしい悪寒。
何かがおかしい、と感じていた。
次の日熱を測ると40度になっていた。これはやはりおかしい。
日曜日だったため休日でも診てくれる病院にいった。
インフルエンザは陰性。
「とにかく悪寒がつらい」と訴えるも「インフルエンザでも悪寒はするから」と取り合ってくれなかった。インフルエンザではなかったのに……。
だが医者は「夜にまた容態が変わってしまうことがあるかもしれません。家族は家にいますか?」と聞いた。夫は出張で不在だったがわたしの母が家にくる予定だったので、「母がいます」と言うと「それならよかった」と医者は言った。
今思うと、医者も何かおかしいと感じていたのだろうか。
この医者は研修医だったと後で知る。(ベテランの医師だったらちがったのかと何度も考えてしまった)
その日の夜、わたしは一人でベッドに寝ていた。
母と娘と息子三人は居間ですごしている。
わたしは、来週小学校の運動会なのに子どもたちに風邪をうつしたら大変だと思っていた。
結婚して仕事を辞め、子どもを二人授かった。子育てが少し落ち着いたので週に何日かパートにいっていた。時々友人とランチをし、子どもや夫の話で盛り上がる普通の主婦だった。
この年もいつもと同じように運動会に向けて、席の確保やお弁当の心配をするはずだった。まさか運動会にいけなくなるなんて、思わなかった。
娘は小学6年生、息子は1年生だ。最初と最後が見られるのだ。そう思いながら枕元にあるテレビのバレーボールの中継をながめていた。そこまでの記憶はあるがそれ以降はまったく記憶がない。
ここからは娘の説明。
【息子がわたしの様子を見にきた。息子「お母さんが変だ」と娘に伝える。
娘「お母さん大丈夫?」と聞くと、わたし「救急車呼んで」と言う。
母「そんな大げさな」と口をはさむも、娘「うん」とはりきる。
(数日前に校外学習で救急車を呼ぶ勉強をしたばかりだった)
娘、救急車を呼ぶ。わたしは歩いて救急車へ向かう。付き添いは娘。
救急車で。
歩いてきたことに隊員さんも少しおどろく。
生年月日を聞かれる。わたしはその日の日付を答え年齢は22歳と言う。
娘、隊員さんに「お母さんだよね?」と確認される。
わたし「吐きそう」と言う。娘「吐くの?」と身構える。
しかしわたしは吐くことなく、そのままガクッとなり意識を失う。】
娘はこの時お母さんは死んだと思ったと言っていた。
娘の説明を聞いても、わたしは何一つ覚えていない。
息子がわたしのところにきて異変に気づいてくれなかったら、たぶんそのまま亡くなっていたのだと思う。
母が大げさと思ったのなら、娘が救急車を呼びたいとはりきったことも奇跡だ。意識はなかったのに、混濁していたのに「救急車を呼んで」と言ったわたしもすごい。いくつかの奇跡が重なってわたしは無事病院に運ばれた。
母と息子も後からきてくれたようだ。
その時わたしは、泡を吹いていたと息子に後から教えてもらった。
二人とも怖かったよね、ごめんね。
その日から一週間、集中治療室(ICU)に入ることになる。
寝たきりの生活
目が覚めた後、HCUに移された。(ICUより重症度が低い人が入る高度治療室
)
喉に管が入って話せないわたしは、文字盤を使って意思を伝えるしかなかった。
とにかく喉がかわいて仕方がなかった。「みず」と何度も文字盤を指したが看護師さんから「ごめん、わからない」と言われた。わたしの頭と指の連動が悪かったのだろう。まったく通じなかった。
検査、検査の毎日。栄養は点滴。お風呂は入れないので体を拭いてもらい、髪まで洗ってもらった。
食事はしないのに歯は磨く。その時少し口に入る水がとてもおいしく感じた。
水が飲めるって素晴らしいことなのだ。
体が固まってしまうと困るのでリハビリもはじまる。足を動かしにきてくれる。寝たきりなので体位交換も定期的にしてくれて、(寝ている時も)本当に看護師さんにはお世話になった。
看護師さんは本当に天使だと思う。
一般病棟へ
一般病棟に移ったら、友人がきてくれた。突然のことだったのでみんなびっくりしたよね。そしてたぶんわたしの顔を見てまたびっくりしたはずだ。
黄疸がひどく顔色が悪かったと思う。(わたしは鏡を見ていなかった)
差し入れに雑誌を持ってきてもらったが、雑誌ってこんなに重たかったっけ?
全身の筋肉が落ちていた。筋肉がない体はすごく重い。この時の握力は3。今は21ぐらいある。(3だと箸は持てるがペットボトルのふたは開けられない)
喉から管を抜いた。やっと水が飲める! と思ったのに、出てきた水はどろどろの物体。喉の筋力がないため液体は誤嚥になる恐れがあるのでまだ飲めなかった。
食事もどろどろ。ご飯も味噌汁も。それでも経口食になったのは進歩だった。
喉のトレーニングとリハビリの甲斐あって、少しずつ食事もできるようになった。
ある日のメニューに麺類があった。麺類大好きなわたしは気分が上がった。しかし麺は食べられなかった。なぜなら、麺をすする力がなかったから。口元に持っていった麺は、すべて箸から落ちていった。
今まであたりまえにできていたことが、できなくなる。歩く、食べる、話す。歩ける、食べられる、話せる。
あたりまえなものなんて何一つなくて、本当にありがたいことなのだ。
できなくなって、はじめて知った。
歩けるようになるか
やっと車いすで移動ができるようになり、リハビリもベッドの上ではなく、リハビリ室で、できるようになった。
でも少し体を動かすと血圧が上がる。思うように進まなかった。
一度医者に、「歩けるようになりますか?」と尋ねたことがある。
若い女性医師は、わたしが聞きたい言葉を言ってくれなかった。
歩けるようになるとは思えなかったのだと思う。歩けるようになるともならないとも言わずはぐらかされた。
少しずつたまっていく不安のかけらのようなもの。それが積み重なって絶望になるのかもしれない。
「なぜわたしなの?どうして?どうして?」
この問いは何度も心の中でした。
答えは、わからなかった。
急性期病院から回復期病院へ転院することになった。
リハビリを中心にするとのこと。寝たまま転院先の病院へ搬送された。
新しい病院
回復期の病院に入院している人は、ほとんど高齢者だった。わたしは最年少だった。40歳。ここで、とてもびっくりしたことがある。
なんとトイレが男女一緒なのだ。信じられない……。
わたしが最初に身につけたもの。それは鈍感力だった。気にしていたら入院生活が送れない。なるべく同じ個室に入るしかなかった。
高齢者だからいいってこと? そんなのおかしい。
お風呂はリフトに乗って湯舟まで運ぶシステム。リフトの操縦者は男性。
わたしは、一人特別にシャワーだけのお風呂タイムだった。
起き上がれない時は寝たままでお風呂に入れてもらった。仰向けで。
それは、とても恥ずかしい……ここでも鈍感力を発揮した。
車いすで移動はできるものの、一人でトイレにいってはダメだった。
万が一転倒などがあったら大変だからだ。個室に入って座ってから介護者は出ていく。用が済んだ後も然り、個室まで迎えにくる。
それが嫌で仕方なかった。もちろん恥ずかしいのもあるが、トイレにいきたくなるのは決まった時間ではない。職員の方が忙しい時間帯にお願いするのが申し訳なかった。基本、みんな優しかったが時々あからさまにめんどうだと顔に出す人もいた。
一人でトイレにいく許可が下りた時、とてもうれしかった。
男女一緒のトイレなのに。わたしの鈍感力は順調に育っていた。
本格的なリハビリ
リハビリは土日以外毎日。
PT(理学療法・運動機能の維持、改善)
OT(作業療法・作業に焦点を当てて指導、治療)
SP(言語療法・発声発語、摂食・嚥下機能の訓練)の三種類。
毎日だったがやはりここでも血圧が上がり最初はうまく進まなかった。
少し前まで普通に歩いていたのに、立つこともままならない。
体がすごく重い。棒につかまって歩くのも汗をかく。キツイ。
周りは高齢者ばかり。隣でリハビリしている方は90歳と聞いて、わたしの倍以上生きているんだと不思議な感じがした。
毎日のリハビリで筋肉痛。筋肉痛になるのは筋肉を使っている証拠。とわかっていてもつらい。
PTでは重りをつけて一見トレーニングみたいなこともしたので、ほかのPTの先生からは、「よしよしさんのところはほかとちがうね」と言われた。
そうだろう。最年少だもの。
OTでは細かい作業や日常の動きみたいなものをやっていく。
軽くて少し大きめのブロックを持って、横に移動する(カニ歩き)がとてもむずかしかった。足が思うように出ない。すごく大変だった。
STでは発声や言葉の訓練。歌を歌う時間もあった。わたしは小田和正さんの「言葉にできない」を歌っていた。今、その歌を聞くと当時を思い出して少し切ない気持ちになる。
高齢者の方の中には、軍歌を歌う方もいるとのことだった。
音楽にはその人の人生が出るのだな、とぼんやり思った。
わたしはリハビリを一度も休まずにやった。
子どもたちからの手紙を見えるところに貼り、早くよくなりたいとがんばった。
本格的にリハビリができるようになってから、娘と交換日記をはじめた。
今日はこんなことしたよ、学校で何があったかを教えてくれた。
数行だったけど心がホッとした。
自分の治る力を信じて
医師から「血圧が安定してきたから薬をやめましょう」と言われたが、安定してきたのに薬をやめることに不安があった。
血圧の薬は一度飲んだらやめられないと思い込んでいた。
大丈夫なのかな。看護師さんに不安を告白すると
「自分の治る力を信じて」と肩を優しくポンとしてくれた。
その看護師さんは普段から明るく、高齢の男性患者さんを「キュート」と言いながら車いすを押していたこともある。いつも笑顔だ。
その彼女に言われた言葉で、わたしは一気に不安が消えた。単純。
でも言葉の力ってすごい。明るい彼女の言葉だったからかもしれない。
それから生理がきた。びっくりした。ずっときてなかったから。
看護師さんに伝えると、「体が回復している証拠だね」と言われ、
治る力が本当にあるのだと実感する。
子どもたちの気持ち
子どもたちはよくがんばったと思う。
入院生活も満了を迎えるころ、(入院できる日数が決まっていた)
子どもたちの情緒が不安定になってきた。
それは夫からも聞いたし、娘との交換日記でもわかっていた。
そろそろ家に帰ろう。
わたしの体的にはまだリハビリをしていたかった。この状態で退院することが不安だった。
医師に相談すると「安定剤も出せるから大丈夫だよ」と言われたが
薬に頼るのは嫌だなと思ってしまった。精神的なことで薬を飲むことに抵抗があった。
でも子どもの、特に娘の心が心配だった。決めた、もう家に帰ろう。
退院への準備
杖を使って歩く練習もはじめた。
一人では全然だめで、窓から入る風に倒れそうになる。
リハビリの先生に支えてもらっていた。
退院するためにいくつかのテストがあった。
その中に1分間、その場に立っているというものがあった。
杖とか手すりにつかまらずに立つ。
もうすぐ1分というところで、膝からくずれた。
自分の意思ではなく、膝が勝手にくずれ落ちた。
足が疲れた感覚もなく突然のことだった。
今まで体感したことなかったのでおどろいた。
ショックだった。こんな状態で本当に退院できるのか。
退院を決めてからが、一番気持ちが揺れ動いた。
子どもたちのこと、自分の体のこと、退院後の生活のこと。
不安がふくらんでいく。
退院前に家の中の様子をリハビリの先生たちが見にくることになった。
手すりを取り付ける場所の確認、家の中の危ない場所の確認をするためだ。
ケアマネージャーさんの言葉
家を確認することの説明を受けた時、ケアマネージャーさんが
「もし歩けるようにならなかった時は……」この言葉を聞いた時、後の説明がまったく入ってこなかった。
歩けるようにならないの?
ずっと歩くためにリハビリをしていたから、歩けないなんて考えもしなかった。ケアマネージャーさんはいつもの仕事をしただけで、何も悪くないのだと思う。けれどもわたしは落ち込んでしまった。あまりの落ち込みように夫はケアマネージャーさんに苦言を呈したようだ。
後日ケアマネージャーさんに「すみませんでした」と謝られた。
わたしがめんどくさい患者なのかもしれない。
だけどあの言葉は聞きたくなかった。
家の中の危ない場所の一つに、キッチンマットがあった。
つまずくと困るので外すことにした。健康な時には気にならなかった場所だ。
お風呂場とトイレ、玄関に手すりを設置することになった。リハビリの先生は丁寧に家の中を見てくれた。
決めたら、進むしかない。家に帰ってからの生活に向けてリハビリをする。
家で転んでしまった時の対応、料理の練習。
家の中では歩行器を使うことになった。歩行器と車いすを借りる手配。
手すり設置の工事の日程。退院への準備が結構忙しく、不安をあまり感じずにすごせた。
子どもたちもうれしそうで、退院を早めてよかったと思った。
担当医師に「ご主人厳しそうだから無理しないでよ」と言われてしまった。
ここでは書かないが、夫はとても個性的だ(変わっている)。
たぶん、ちがう星で生まれたのだと思う。医師はきっとわかったのだ。
無事に退院
家の中は歩行器を使って歩く。家事もしばらくは夫とわたしの母がやってくれた。週一回のリハビリに通い、少しずつ生活に慣れていった。
リハビリが終わると途端にやることがなくなった。周りの友人はそれぞれ働いていた。
わたしだけとり残された気持ちになった。
ある日、娘が「みんなでキャンプにいきたい」と言いだした。
すると夫が「こんな役立たず連れっていってどうするの」と言った。
役立たずとはわたしのことだ。
今思い返しても本当にひどい。
ぜったいちがう星の人だ。
この「役立たず」というワードがわたしの思考の大半をしめるようになった。そして「もう死んでもいいかな」という気持ちになる。
死にたいわけじゃなく死んでもいいかな。
生きていても何の役にも立たないなら死んでもいいかな、と思った。
生きる気力がなくなった。せっかく助かった命なのに。
カラーセラピーとの出会い
そんな時、友人に「カラーセラピーの勉強しない?」と誘われた。
まったく興味がなかったが、時間はあったのでつきあった。
このカラーセラピーとの出会いがわたしを変えた。
色の意味を勉強していくのだが、最初の講座で「赤」の意味を知る。
「赤」は生きるエネルギーの色。わたしには「赤」が足りなかったと気づいた。
講師の方には病気からリハビリをがんばって今にいたることを話していた。
「がんばってきたよしよしさんの姿はきっと誰かの力になると思います」と言ってくれた。
今までがんばってきたことが少し報われた気がした。わたしが誰かの力になれるならそんなうれしいことはない。
「生活に赤を取り入れてみてね」講師の言葉。
それから、トマトを食べたり、赤いハンカチを持ったりと生活に赤を取り入れた。
講座を受けてよかった。わたしはみるみる元気になり、「死んでもいいかな」という気持ちはいつの間にかなくなっていた。
リハビリは終わっていたが、診察は継続していた。
医師は診察のたびに、わたしの足音を聞いて「だいぶ軽くなってきたね」
「またよくなっているね」と言ってくれた。
急性期の病院で、医師に歩けるようになるか聞いた時、はぐらかされたと
話すと「急性期は悪い時しか診ないからね、人間はよくなるよ、歩けるようになる」とはげましてくれた。(残念ながら歩けないケガや病気はある)
今では、杖も使わずに歩けるようになった。
後遺症はあるし、できないことも増えたけれど今も生きている。
同年代よりもペースはゆっくりだ。歩くのも遅い。だけど生活できている。
病気になって入院していた時は、「なぜわたしが?」の思いから抜け出せずにいたが、今は病気になったから今があると思える。
あたりまえなことなどなにもなくて、すべてがありがたい。
生きていることが奇跡なのだ。
時間は有限なのだと身をもって経験した。
やりたいことがあったら、やってみる。好きなこともやってみる。
嫌なことはやらない。なるべく心地よい状態ですごす。
すべて自分次第だから、やりたくなかったらやらなくていい。
決めるのはつねに自分。好きなように生きればいい。
現在50代
今、わたしは文章を書くことが好きだったと思い出し、ライティングを学び、これを書いている。
50代なのに? 50代でも? 日々やってみたいことに挑戦している。
推し活は生きる活力になっていて、これからも続けたい。
つらかった過去もすべて今につながっていて、ムダではなかった。
自分の成長に必要だったのだと思う。(でも寝たきりの闘病生活、つらかったリハビリは二度とできない)
子どものため、そして何よりも自分がよくなりたかった。歩きたかった、話したかった。
その一心でがんばった結果です。生きることや命のことをたくさん考えました。精神的にも成長できたと思います。
わたしの経験が少しでもあなたのお役に立てれば幸いです。
「時間は有限」ですよ。
役立たずな人なんていないと思います。
みんなそれぞれ素晴らしいです。
元、役立たずより。