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平和への文学によるパス

 「高校時代、国語教科書で読んだ作品で印象に残っているのは?」——そう問われたなら何と答えるだろう?
 『AERA』誌は2020年にネットアンケートを実施して記事にしている。*1
 結果は、「山月記」「こころ」「舞姫」「檸檬」「羅生門」と文学作品が並んだ。*2

 中東ガザ地区では、イスラエル軍によるパレスチナの人々への無差別の攻撃が止むことなく続いている。
 いつ空爆に襲われるとも知れない環境下で、文学に親しむことは難しい。まして「書く」ことは無謀に違いあるまい。
 今のガザでの地獄のような生活を想像するとき、「文学に何ができるか?」と問われれば、「何も」とつぶやかざるを得ない——しかし今のガザでは、その「文学」を、「国連」や「政治家」に置き換えたところで、答えは同じかも知れない。

 高校の「国語科」では、2022年度実施の新学習指導要領から、「論理的な文章」や「実用的な文章」(契約書や取説)が幅を効かせることになり、「文学は好きな者が選べば良い」という路線が敷かれてしまった。
 現代日本では、科学やAIや経済に比べれば文学はモノの数ではない、という結論になったのだろうか? 人文系学部を潰しにかかった政治家の妄執(アベ-スガ)の亡霊のせいかもしれない。
 文学は今、教育を仕切る行政によって、歴史上初めて「味噌っカス」の席を与えらることになった。——それは妥当な方策なのだろうか?

 アメリカ在住のパレスチナ詩人ゼイナ・アッザームがガザをテーマにした詩を昨年発表した。
 ガザのまだ年端のいかない子を詩にした事情について彼女はこう語っている。

 ——子どもが殺された場合に身元がわかるように、足にその子の名前を書いておく親がガザにいることを知って驚き、十月、詩を書くことにしました。ガザの少年が足に自分の名前を書いているビデオも観ました。「バラバラになっても僕だとわかるように書いてるんだ」……そのことばを悲鳴のように聴きました。*3

 その詩の一部をメモしておこう。*4

    おなまえかいて

  あしにおなまえかいて、ママ
  くろいゆせいの マーカーペンで
  ぬれても にじまず
  ねつでも とけない
  インクでね

   ……(中略)……

  あしに おなまえかいて、ママ
  すうじはぜったい かかないで
  うまれたひや じゅうしょなんて いい
  あたしはばんごうになりたくない
  あたし かずじゃない おなまえがあるの
  あしに おなまえかいて、ママ
  ばくだんが うちに おちてきて
  たてものがくずれて からだじゅう ほねがくだけても
  あたしたちのこと あしがしょうげんしてくれる
  にげばなんて どこにもなかったって       (詩の引用は以上)

 文学にはなるほど国際政治の力学を左右する力はないのかもしれない。
 しかし、私たちの魂を玉突きして揺さぶることはできる。

 高校国語の新必修科目は「現代の国語」と「言語文化」の2科目。
 選択科目には「論理国語」と「文学国語」もあり、近代文学作品が並んだ「文学国語」(4単位)も選べるはずだが、大学入試と関連深い「論理国語」も4単位なので、両方を選べる生徒はあまりいない。他教科との衝突が避けられなくなるからだ。
 必修科目「現代の国語」を、生徒たちは「げんこく」と呼んでいるそうだが、これはかつての「現代国語」と同じ呼び名である。しかし中身はまるで違ってしまった。「現代の国語」には文学作品は入ってこないからだ。*5 
 もうひとつの必修科目「言語文化」の方は、生徒たちから「げんぶん」と呼ばれているそうだが、この呼び名、かつての「現代文」(近現代の小説・評論等を載せていた選択科目)と同じである。しかし同じ「げんぶん」でも「言語文化」の方は、漢字混じりの方の名から想像できるように、古典と現代文のミックスで、しかも古文・漢文が中心。それに近現代の詩歌と伝統文化に関する解説文がちょっとだけ加わわってはいるが、近現代小説はひとつも載ってはいない。
 「言語文化」もかつての「げんぶん」とはまったく違う内容なのである。

 人文系学部を毛嫌いしたあの安倍くんの路線*6 、そして4年前、菅首相が、日本学術会議の会員候補6人(いずれも人文系)を任命拒否した恐怖政治のような手法、それらの延長上に、「文学なんてやったって就職できないぜ」という世評の後押しもあって、こういう「歪んだ改革」になってしまったのであろう。

 作家・又吉直樹氏は、「絶対そうだ」という決めつけを留保し、「それは本当か?」と問うことによって視点を増やし、立体的に問題を把握する大切さを、教科書「現代の国語」掲載の文章の中で説いていた。7 小説を代表とした読書のススメであり、偏狭な選択しかできない政治家たちへの戒めのようにも読めた。
 思想家・内田樹氏の、人間のやっている「仕事」の本質は「多彩で予測不能の攻撃の起点となるような絶妙の『パス』を『次のプレーヤー』の足もとに送り込むこと」だという文8 も、その教科書には載っていて、ハッとさせられた。

 ガザの子に材を取った、ゼイナ・アッザームの「おなまえかいて」は、まさにその「絶妙なパス」であると思い当たったからだ。

 ——その絶妙パスを足もとに受けて、すぐそこにいるはずの次のプレーヤーに、いったいどんなパスを送ればよいか、考えた挙句の、この拙いパスなのである。

*1 AERA dot. 2020/01/11 記事「大論争・心に残る作品2位『こころ』は高校教科書でもう読めない!?」(『AERA』誌2020年1月13日号)
*2 これらが並んだのには、裏事情が絡んでいる。高校国語教科書は、出版各社がそれぞれ複数種出しており、それら全てにほぼ共通して採用されている教材はかなり限られている。これらの文学作品はそういう「定番教材」の筆頭格なのである。1年で「羅生門」(芥川)、2年で「山月記」(中島敦)「こころ」(漱石)、3年で「檸檬」(梶井)「舞姫」(鴎外)というのが、学習順の典型。従ってこれら5作品が「ベスト5」を占めたのは、偶然ではなく「必然」。文学をありがたがる裏付け資料としてはやや心許ない。但し、私の教職経験においても、高校生が現代文教材として歓迎するのは評論より小説であり、「印象に残った」と答えるのも小説が多かったから、この週刊誌記事も「ガセ」とは言えないと思う。
*3 拙訳。原文は”I wrote a poem at the end of October when I learned that some parents in Gaza were writing their children’s names on their legs so they could be identified should the parents or the children be killed. I recently saw a video of a little boy in Gaza who was writing his own name on his leg. “So l can be identified” he cried. It was truly heartbreaking as a parent and as a grandparent. I am so heartbroken. The poem is titled “Write My Name” and it’s in the voice of a child from Gaza.”
*4 詩の訳は、原口昇平。『現代詩手帖』2024年5月号「特集:パレスチナ詩アンソロジー」より。
*5 新指導要領スタート年の教科書検定では、「文学的な文章は除く」と文科省解説に示されたいたにもかかわらず、「羅生門」など5つの文学作品を載せた第一学習社の教科書がなぜか検定を通り、他社を抑えてシェアトップとなったが、2024年版第一学習社「現代の国語」の教科書(4種ある)のいずれにも文学作品は載っていない。
*6 2015年6月、下村文科相は各大学に対して「教員養成系や人文社会科学系の学部の廃止・転換を含めた組織見直し」の通知を発出した。(当時の首相は安倍晋三) 
*7 第一学習社「標準 現代の国語」に掲載。又吉直樹「なぜ本を読むのか」(出典:『夜を乗り越える』小学館よしもと新書 2016)。※トップ画像参照
*8 掲載教科書は同上。内田樹「人はなぜ仕事をするのか」(出典:『期間限定の思想 「おじさん」的思考2』晶文社 2002)※トップ画像参照

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