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時間と因果

 我々の宇宙では、エントロピーの流れが存在している。エントロピー 低から高である。高温側から低音側に熱が流れると言っても良い。しかし我々生命はこの流れを遡上する存在である。Eさんのように前を向いて遡上すれば、未来に原因があり、過去に結果があることになる。

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 しかし、Wさんのように後ろを向いて遡上すれば、過去に原因があり、未来に結果があると錯覚する。Wさんの場合、時間の流れ感覚はエントロピーの流れと一致する。しかしこれは決定論である。Eさんのように前を向いて遡上すれば、エントロピーの流れと時間の流れは逆行している。つまり未来に原因がある。これは自由意志の存在を意味する。

 哲学的ゾンビには、意識はあっても自由エネルギーの高みを目指す意志がない。あったとしても意志は意識を下回っている。(意志と意識については、新しい哲学ー1新しい哲学ー2を参照してください。)
 ではこの意志は何によってもたらされる力なのか。それは未来にある究極の原因を目指して遡上することでもたらされる力である。遡上すること自体が力を生んで遡上させるのである。永久機関のように聞こえるかも知れないが、ヨットが風の力を使って風上に進む(タッキング)ことを考えれば良い。
 言い忘れた。未来にある究極の原因とは死である。従って、不老不死を標榜することは、未来の否定となる。

20201212下3行追記

未来にある究極の原因とは死と書いたが、それは生(誕生)でもある。右側の山のある地点を死=生のポイントとすれば、それより右側は死んだ状態(生まれていない状態)であり、左側は生きている状態だからである。

 このような時間についての考え方の違いは、東洋と西洋の世界観の違いに端を発しているのかもしれない。元々東洋ではEさんのように未来に原点を置き、西洋ではWさんのように過去に原点を置いていたのではないだろうか。

 西洋の多くでは、キリスト教などの一神教の影響が強く、そこでは、時間は過去から未来へと流れ、世界観は決定論になる。世界には始まりがあり、創世記があり、西方教会には原罪もある。未来には最後の審判があるが、カルヴァン派では、そこで救われるかどうかは既に決定しているとされているようだ。

 一方、東洋の多く、特に仏教の影響が強い国では、元々時間は未来から過去へと流れているものだったのではないだろうか。仏教には創世記がない。あるものは、現在から未来における浄土であり、阿弥陀浄土では悪人正機であり、誰もが救われる。

 西洋的考え方は、科学という形で、今や日本人の多くにも浸透しているので理解しやすいと思う。問題は、東洋的な考え方の方で、多分かなり昔の日本人には、なじみのある考え方であったと思うのだが、今の我々には奇異な感じがするであろう。しかし、次のような考えれば、これもまた見方として成立する。

 過去は過ぎ去ったもので、「あった」ものだから、変えることができる(いやな記憶は忘れて、残す記憶は都合よく適応的にストーリー化する)。未来は「まだない」ものだから、変えることはできない。結果は後からついてくるものだから変更可能である。変更可能なもの同志だから結果は過去にある。原因は最初にあるものなので変更不可能である。変更不可能なもの同志だから原因は未来にある。自由意志の自由とは過去を変える自由である。

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