『トヨタの子』が驚くほど率直に描いた「愛」と「憎しみ」
付き合いのある雑誌「ベストカー」の版元、講談社ビーシーの役員から、献本が送られてきたのは6月、ちょうどこのnoteの立ち上げと、自動車会社各社の決算記事に忙殺されている最中だった。本に挟まれている栞には「乞御高評」とある。要するにノーギャラで書評を書いてくれということである。
講談社ビーシーは名前から想像が付く通り、講談社の子会社である。その役員と取材で顔を合わせた時、「池田先生、本読まれました?」と聞かれた。「あ、いやまだ忙しくて手がつけられていません」「ウチは1円も儲からないんですけど、親会社から言われているんで頼んます」。
というのがこの書評を書くことになった理由だが、だからと言って、已む無く書くわけではない。多分筆者は、この本については他の人には書けない書評が書ける。そしてそれは有料noteの読者にとって興味深いものになるだろうと思うのだ。実のところ諸々の仕事が片付かない間、ずっとこの本のことを考えていたし、早く書きたかった。
しかしながら、世のしがらみで、もっと順番を急がなくては浮世の義理が立たない原稿がたくさんあったのである。読者も原稿を待っているし、欲しいタイミングで原稿が来ないと社内で立場が悪くなる編集担当もいる。彼ら彼女らを蔑ろにはできない。
タイムリープという奇妙な仕立ての背景
ということでお待たせしてしまったこの『トヨタの子』。タイトルが指すのは言うまでもなく豊田章男その人である。基本的な仕立ては、トヨタ自動車創業者の「豊田喜一郎」と、その孫「章男」の二人を軸にした物語である。設定はSF仕立てで、タイムリープもの。
なんともまあ、奇妙な仕立てにしたものである。とか言いつつその理由は大いに見当が付いている。多分、自動車好きの読者諸氏はどこかで目にしたことがあると思われるが『トヨトミの野望』という本がある。
2016年に講談社から発売され、続刊も含めて3冊で完結している。2作目の『トヨトミの逆襲』(2019)、3作目の『トヨトミの世襲』(2023)は講談社の最大のライバルであろう、小学館から発売された。1作目も文庫化は小学館からとなった(2019)。
トヨトミシリーズは、名を名乗れないジャーナリストが覆面作家「梶山三郎」なるペンネームを使って、世界一の自動車会社トヨ……いや「トヨトミ」の真実を伝えると自称する本だ。ついでに言えば、梶山三郎は1人ではない。数名のグループである。
なんならその名をここに挙げることも可能だが、それを明らかにしたところで大した意味はない。後述するが背後にもっと大きな集団がある。仮に今の制作メンバーを排除したところで、多分補欠が繰り上がって同じ体制になる。すでに儲ける仕組みはできている以上、システムは止まらない。
『トヨタの子』同様、こちらもフィクション仕立て。トヨタではなくトヨトミという架空の会社だとすることで、訴えられる心配もなく、言いたい放題が書けるわけだ。
『トヨトミ』は恨みの沼に咲いた花
トヨタにはかつて、役員が70名、相談役などの役員OBが80名、併せて150名もの役員級がいた。リーマンショックでマイナス4610億円の営業損益の赤字決算に沈んだ時、当時の章男氏はここに大ナタを振るい。数年掛かりで120名を退任させて30名まで削った。広報部の予算も8割削った。切られた側は、それぞれの個人の人生としてはたまったものではないのはわかるが、平社員の首切りよりよほどマシである。会社に何かがあった時、責任を取るのが役員の仕事だ。個人としては理不尽な処遇でも社会通念上は“仕方がないこと”である。
トヨタの役員ともなれば、大なり小なり取り巻く人々がいる。いわゆる派閥だ。閥のトップが消えたことで、出世ラインから外れた社員も大量にいるし、そこに連なっていて取引を打ち切られた業者もいる。その恨みは章男氏に向かう。筆者はこういう業者にネットで絡まれたことがあるので、実例として承知しているのだ。ああ、もうちょっとで名前を書きそうだ(笑)。
そういう切り捨てられた人々の怨念を丹念に醸して、トヨトミシリーズはできている。恨みを抱いて辞めた社員、傍流として社内に残りつつ不満と鬱屈を抱えている人たちが、「豊田章男をこき下ろせるなら」と、いくらでも証言をする。そしてそういう人々の恨みを養分にして、鮮やかな黒い花を咲かせるジャーナリストがいる。
往々にして事実は一面だけではない。なので、章男氏への反感は全部逆恨みだ、などと言うつもりはもちろんない。ある意味では、そういう怨念の存在を明らかにした意味で、そして事実の捉え方について、表裏の片面を訴えた意味では、トヨトミシリーズには存在価値があると思う。
ただし、トヨトミシリーズをドライブしているのはつまるところ恨みなので、その情報にフラットさやフェアネスを要求してはいけない。事実の主張より復讐が優先。恨みとはそういうものである。
トヨタ史の闇と光
さて、章男氏を批判し、こき下ろすことが目的の本なので、描かれた章男氏が面白かろうはずはない。おそらく反論したい部分は山ほどあったに違いない。トヨタの中に多分誰か知恵者がいたのだと思う。同じくフィクション仕立てで、章男氏の側から見た小説を出そう。つまり『トヨタの子』は『トヨトミの野望』のアンサー本である。敗者の歴史本である『トヨトミの野望』と勝者の歴史本である『トヨタの子』。トヨタ史の裏と表である。
この594ページにも及ぶ労作を、ついつい「トヨタ vs アンチトヨタ」の軸で見てしまうのは、筆者の自動車経済評論家としての職業病で、書評でありながら、本来主役たるべき著者の吉川英梨さんがそっちのけなのは大変申し訳ない。文芸としての評論もやれと言うならばやるのだが、それは何も筆者でなくとも書ける。何より主筋を2本にすると読者が読みにくい。そして他の誰も書けないという意味でも、労作への敬意を払い、失礼を詫びつつもやはりトヨタ軸に終始させていただく。
『トヨタの子』を単独で見ると、今も現役の経営者である豊田章男氏を主人公にした小説、という仕立てに対して、「個人崇拝的な気持ち悪さを感じる」と筆者の知人が言っていた。世評にも同様のものは見受けられ、それはおそらく自然な感情だと思う。
だが、恨みを持つ連中に、盛り放題、好き放題に描かれた現トヨタ側が辛抱しきれずに出したカウンター、という背景が見えてくると、ちょっと絵柄が変わってくるのではないか。
トヨタに向けられた呪いの凄まじさ
さてその勝者の歴史本を読んで、色々と思う所があった。
これまで筆者は章男氏に様々な取材をする機会に恵まれた。質問に対して意外な回答をすることも多いし、挟まれる昔話もかなり多岐にわたって聞いてきた。それらとこの『トヨタの子』に描かれた話は結構精密に符合する。端的に言えば、読んでいる間中ずっと「あの発言はそういう意味だったのか」と「これは直接聞いたことがあるな」の繰り返しだった。あくまでもフィクションではあるけれど。
『トヨタの子』に描かれている大きなテーマのひとつは、「豊田家とトヨタへの呪いの凄まじさ」である。
トヨタは嫌われている。おそらくは、大きいもの、強いものが嫌いという判官贔屓もあるだろう。先に書いたようにトヨタに切り捨てられたものもいるだろう。トヨタを褒めて提灯持ちだと言われたくない人もいるし、空気を読んで巻き込まれないように振る舞う消極的アンチトヨタもいる。
「トヨタは税金を払っていない!」か?
単なる知識不足が批判を呼ぶケースもある。例えば、法人税法では、赤字は繰り越せる期間が最大9年(現行法は10年)と決まっている。リーマンショックで巨額損失を出したトヨタは、法人税法の規定通り赤字を繰り延べ、5年間赤字を補填し、その間は納税対象ではなかった。この間のことを「儲かっていたのに税金を払っていない」と言う人がいる。制度を知らないだけの話だ。国税庁を舐め過ぎである。払わなければならない税を払わないで済ます方法はない。国税庁へのツケは強制力があるだけに指定暴力団よりヤバい。法に則って納税しただけのことである。
消費税の還付もずっと因縁を付けられている。日本で造って、例えばアメリカ合衆国で売るクルマに消費税を課税する権利があるのはどこか。アメリカの税当局である。そもそも消費税は消費への課税であり、消費地で課税されなければ課税根拠がおかしくなる。製品を造った国だとは言え、日本の税当局には課税権がない。
当たり前だ。もしそんな権利が日本の税当局にあるなら、世界中の国々から、あらゆる日本製品の課税権を強奪してガッポガッポ儲けられる。ただし、そんなことをしたら相互主義の原則に基づいて、われわれは輸入品を買う度に生産国から納税を求められてしまう。だから当然、トヨタは生産台数のうち輸出した分について、国内で仕入れや外注費、諸経費などを通して納付した消費税の還付を受ける。むしろ一回払わされていることが不当だと言える。阿呆な解説をして大企業を悪者にしたニュースを広めるメディアや団体が元凶なのだ。
ことほど左様に、トヨタを嫌いの原因と理由は多種多様だ。原因は何かひとつではないのだ。
いや、他人ごとではない。筆者自身、その「トヨタへの呪い」のご相伴に預かっているのでよくわかる。たとえ是々非々であろうともトヨタの肩を持つような記事を書くと、呪いの流れ弾が飛んでくる。筆者にしてみれば、トヨタの太鼓持ちをする気はさらさら無い。ただ日本経済の一助になりたいという意味で、章男氏と気が合う部分があるだけだ。
筆者はあくまでも「日本経済の味方」でありたいと思っている。だから過去の記事や動画でもその旨は繰り返し主張してきたし、「トヨタが日本経済に仇為すことがあれば、遠慮なく批判する」とも言ってきた。筆者の動画での発言を見た章男氏は、取材先で筆者の目をじっと見て「池田さん、いつまでも日本経済の味方でいてください。トヨタの味方をする必要はありません」と言った。
書籍の話に戻る。トヨタへの多様な呪いのストーリーを詳らかにすることがこの小説の目的のひとつである。ある種象徴的なのだが、小説の中で「章男」がタイムリープするのは「いわく付きの呪いのエンジン」の力である。
「常識外れの出世」が呼び寄せる呪い
グローバル企業たるもの、今時世襲はないだろうという見方がある。それに同意できる部分は多い。これは本来、創業家一族という特権で世襲が続くことに対する否定であって、人事は出自を問わず平等であれという話である。そしてトヨタの社長も、第5代(豊田英二氏)、第6代(豊田章一郎氏)と続いたあと、創業家一族から離れた。
ところが章一郎氏の長男である章男氏は、トヨタに入社するや様々な部署を短期間で駆け抜けるように経験し、通常のトヨタ社員にはありえないスピードで出世して行く。
「世襲の時代が終わった」空気が支配的な時期にこれをやられたらどうなるか。その姿は周囲の目には、銀の匙を咥えて生まれてきた特別扱いの貴種と映る。
世襲が終わり、新たに平等で開かれた経営がスタートした中で、時代を逆行するように異例の人事異動を重ねながら昇進を続ける章男氏を、周囲は当然白い目で見る。「どうせ父である章一郎会長の引き立てで特別扱いされているのだろう」。誰がどう見てもそう見える。
しかしこれは巧妙なハメ技だった。章一郎氏はこの人事に一切関与していない。章男氏を陥れるためにわざわざ悪目立ちをさせる。コネで特別扱いされているかのごとく、豊かな演出力を持って人事をコントロールする勢力がいた。章一郎氏に忖度して息子を優遇している振りをしながら、その実地獄へ続く道を用意したわけだ。
満を持して罠は閉じられたが
2008年9月のリーマンショックでトヨタが赤字に転落するや、章男氏本人のあずかり知らぬところで、大政奉還の如く社長の椅子を創業家に返還すべく動き、その上でリストラの足を引っ張って2期連続の赤字を出そうと奔走するものたち。狙いは章男氏の社長就任→責任を取らせての退任、である。つまり世襲の時代が終わったにも関わらず、空気を読まずに舞い戻ってきた創業家のボンボンをスピード出世させて社内イメージを落とし、しかる後に最悪の場面でトップに座らせ、最短で辞任に追い込み、そのまま放逐する。まあすごい話である。
それに拍手喝采を贈るのはトヨタに入社した名も罪も無き普通の男たちである。自分たちの地道な努力をよそに2段飛ばしで階段を駆け上って行くプリンスなど、好きになれるはずがない。だから章男氏に味方はいない。アンチ勢力は、章男氏に味方を作らせないために一部署に定着させず、帝王学ルートに見せかけて無関係の部署へのスピード異動を繰り返し行ったのだ。
ただひとつ、仕掛けた側にとって予想外だったのは、章男氏が経営者としての才覚を持っていたことだった。
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