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砲弾の飛び交う中で育った子ども時代(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その2)

激しい戦場だった故郷「ベンチェ」

F:19歳で船に乗って出てくるまで、どこに住んでいたのですか。

ベトナム南部、メコン河口地域のべンチェ省で生まれ育ちました。
ホーチミンの南西で、かなり田舎です。
ベンチェ省は全体としてメコンデルタの出口にあたり、地形が複雑です。
今は橋ができて出入りが簡単だけれど、昔は船がないとベンチェを出られなかった。
ベトナム戦争のときは、不便だけれど隠れるのにはもってこいということで北ベトナム軍が潜伏して、激しい戦闘がありました。

ベトナム国内でも「ベンチェ市民だ」と言うと「うわぁ、ベトコン(*註)!」と反応されるほどで、南部では特に戦闘が激しかった場所です。

[*註:「ベトコン」は、国土が南北に分断されていたベトナムにおいて南部で反政府活動を行い、後に北ベトナム軍と共に南北統一戦争に参戦した「南ベトナム解放民族戦線」を指す。元は蔑称]

でも、この地形のおかげで亡命もしやすかった。
亡命できたのは、だいたいが海の近くに住んでいた人です。
私もベンチェの港から船で亡命しました。

いつも日常に「死」があった子ども時代

F:1975年にベトナム戦争が終わり、1981年時点で19歳ということは、子どものころはまだ戦時下だったということですね。

そうそう。
私の家には、11人家族のために防空壕が3つあり、毎晩、防空壕に入って寝るんです。
住んでいるところのちょうど前が川で、夜になると川はベトコンだらけ。
川のこちらは南部政権側で、昼間は南部の軍人がいるけれど、夜は(反米、反南部政権の)ベトコンが活発になり、川をはさんで爆弾を落としあう。
だから必ず防空壕で寝ないと死んじゃう。
防空壕といってもそれほど頑丈じゃなくて、セメントで作ったものもあれば、砂袋100個ぐらいを積み上げただけのものもありました。

朝になると、きょうだい揃って「見に行こうぜ」と川まで走って出かけます。
夜の爆撃で死んだベトコンの生々しい死体が、橋に並べられているんです。それが毎朝の日課。なぜか、恐ろしいということはなかった。

むしろベトコンに対して「あなたたちはちょっかいを出したから、こんなふうに死んでしまったんだね」「おまえら、なんでこっちに来るんだよ」という感じ。

生まれた時から戦争があたりまえの環境で育った。
「ものごころがついた時からずっと戦争。 子どものときの記憶は戦争しかない」

北ベトナム側に爆弾を落とされて、南ベトナム側のこちらにも、亡くなった人がいっぱいいました。
友だちの家に行くと、8人家族のうち1人しか生き残らず、お棺が7つ並んだ横でぐすぐす泣いている子も見た。
戦闘で亡くなる軍人も多く、お葬式が本当に大変でした。

でも、なんとも思わない。平和なときを知らないから。

あなたたちが見たら恐ろしいと思うかもしれないけれど、空を見ると爆弾がたくさん飛んでいるのにも慣れているし、爆弾の音は生まれたときから聞いて寝ているので子守歌みたいになっている。

たまに爆撃がないと「今日は静かね」となって、寝られないぐらい。
もし死んでも、自分は戦争で死ぬ運命だったんだなと思うだけ。
こわいという感覚はなく、それが日常生活です。

当時は「ちょっと荷物を預かってね」と言われて預かると、実はそれが爆弾で、急に爆発したということもよくありました。
だから、荷物は預からない。預からなくても、爆弾がそっと置かれていることもあります。
市場でいつ突然に爆発があってもおかしくない時代でした。
そんな戦争の記憶が強く残っています。

F:戦時下でも、学校には行っていたのでしょうか。

戦争は戦争、学校は学校。
1日やそこらのことではなく、何十年と続く戦争の一部なので*、学校はあるし、ふつうに生活していました。

*註 ベトナム戦争の経緯について [ベトナム戦争(Wikipedia)]

夜9時以降、朝5時までは外に出ると撃たれるから誰も外に出ないし、サイレンが鳴ると「隠れよう」とはなるけれど、それが終われば洗濯したりご飯を作ったりする。

北と南のはざまで

当時のベトナムは、互いの実際の状況がよくわからないまま国が分断されていた。

私が小さいときは「国を分けているのなら、北側は北におとなしくいればいいのに、なぜ南にちょっかいを出すのか」と思っていました。
結局、北側としては「南側はアメリカ軍に占領されていて、かわいそうだから助けにいこう」ということで戦っていたみたいですね。

でも実際に南側が解放されてみると、南のほうが北より豊かで自由もあったというので、がっかりする人がいっぱいいた。

共産党は、日本ではどうだかわからないけれど、財産をみんなで共有する考え方だから資本家を許さない。

ベトナムが南北に分かれたとたん、共産党が支配する北部にいた金持ちは殺された。地主は土地を農民に貸し、農民は大変な金額を負担することになって、農産物を作ってもずっと貧乏なまま。

体制が変わり「血と涙まですべて奪ってきた金持ちに反対しろ。地主は殺して、土地はあなたたちに与えよう」と言われてしまうと、何も持っていない人には強い動機ができて、金持ちを責めるようになる。

実際には、土地は個人でなく国のものになり、国が個人に貸すわけだけれど、金額は収穫に見合うだけになったので暮らしがよくなった人はいる。
でも、金持ちの人にしてみたら、悔しくてしかたない。

何も持っていない人は、無くすものがないから強いですよ。
ベトナム戦争のときも川に隠れて、水中でストロー1本をくわえて(川の水面からストローだけ出して)空気を吸いながら1週間じっと我慢できたぐらい根性がある。

南に隠れていたベトコンは、外に出て日光を浴びないから肌が真っ青だし、しんどそうなので、だいたい見たらわかる。

「失うものが無い人間には怖いものがない」
そんな北ベトナムの兵士の青白い顔を覚えている

そんな人たちに、アメリカ軍は勝てません。
南が負けてしまったのには、そういう事情もありました。


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