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【映画記録】青年の海 四人の通信教育生たち

 月曜日にテストがあるのだけれど、テスト勉強をしたくなさすぎて現実逃避でずっと映画を見ている。

 このドキュメンタリーは通信教育生の制度改革に反対する学生運動について。「勤労学生」という言葉は、いまでは役所への申請の時くらいでしか見ないけれど、この時代は工場で働きながら大学に通う学生が大勢いた。通信の学生がキャンパスに集まる機会は非常に少なく、テスト終わりの学生たちに必死にビラを渡して集会に参加してもらう。学生が集まらなくてほとんどの集まりが流会し、活動は何度も停滞。いまの私たちから見ればそれなりに活気はあるように思えるけれど、それでも60年や68年の何万という学生たちが集まる運動からはかなりの距離がある。

 学生運動の歴史において1964年は冬の時代と呼ばれる。60年安保があって、しかしそこから急速に学生運動は衰退する。ベトナム戦争の開始と日韓基本条約への反対、各地の大学での学費値上げ反対闘争に火が付き始めるのは1965年を待たなければならない。そういう冬の時代のなかで、決して華々しくはないけれども、深い問いを突きつけてくる学生運動をよく撮ったものだと思う。

 映画はかなり被写体に寄って撮影され、喫茶店での討論のシーンでは時計の文字盤やまつ毛の1本まで見えるほどだ。画面が動かないので、必然的にかれらの語る言葉に集中せざるを得ない。その議論は思いがけず抽象的だ。大学で学ぶとはなにか、働きながら学問をするとはどういうことか、学問にどういう意義があるのかということが、切実な問いとして提出されている。
 働きながら学ぶというその切実さから来るのか、あるいはそもそもこの時代の学生たちは基本的にそうなのかは分からないけれど、本当に出てくる学生たちがみんな筋の通った議論をしている。いま、我々学生が果たしてこうしたが議論できるだろうかということを考えてしまう。

 働きながら学ぶその姿にある種の美しさを感じそうになってしまうけれど、討論する学生の発言に気づかされる。「働きながら学ぶことは美徳として扱われることが多いけれど、果たしてそれでいいんでしょうか」。1964年というのは、戦争やその後の混乱で学ぶ機会を失い、ようやくある程度の余裕を手に入れて再び大学に入ることができた人もそれなりにいただろう。
 「なんで通信に通うのか、家に金がなかったから、大学に落ちたから、学歴がないせいで賃金が安いのを変えるため、資格を手に入れるため、馬鹿にされたくないから、なにか真理に触れたいという欲求から」。働きながら学ぶ学生たちというのは、当時の社会のなにかしらの歪みが表出するところであったことも示唆される。

 ラストは、4人が河川敷の真ん中に広げた紙に、ペンキで汚れながら何かを書き殴るところを、カメラがぐるぐると回る。やりすぎのような気もするが、しかしかれらのエネルギーをたしかに感じる。

 私は学生運動をしており、ほとんどすべての時間を活動か文章を書くことに費やしています。社会運動において、なにかを見たり聞いたりしたときに、自分の意見をスラスラ言語化できる能力というのは非常に大切だと思っていて、その訓練として映画や本についてなるべく記録をつけるようにしようとこういう記事を書いています。私の活動を支援していただける方は、カンパとしてこの記事を購入していただけるとたいへん有難いです。

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