「やばい」などの抽象的な表現は、むしろわれわれの抽象的思考への適応を示しているのではないか。
肥大し複雑化した社会の制度は、それがどれほどある個人を下支えしていようと、たいていの人間に理解されない。
自分の大局的な目的について考えるとき、果たしてそれは他者についての考なしに行いえるだろうか。
有限と対置されることのない無限は、肯定的に捉えられるだろうか。
動物にも大局的な目的があるのだろうか。
スポーツの営みは、われわれ人間の生々しい本質と深く関わっており、そのことは隠されていたほうが良い。
われわれ人間は、目的論を生物学から取り払った今、動物福祉を語るうえで、なおも動物の目的論を展開することができるだろうか。
The unbridgeable gap is all the more apparent.
社会に対して自分が無害であることを示すには、マナーを体得すればよい。
自己責任の条件が自己の所有であるなら、自己を所有したくなくなることは存外普通の気分であろう。
現代科学において知覚が意味するところは、われわれの常識をかなり超え出ている。
現実の肯定は逆説的にも、あらかじめ肯定される理想が彼岸にあることを認識することで可能になるのだ。
あらゆる科学は理論的実践とみることができる。
治療的哲学はやはり必要なのだ。
徹底された都会だけでなく、徹底された自然もどこか疲れるところがあるなら、やはりその間をとるべきだろう。
我々は可能性に縛られることもしばしばあるのだ。