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【連載小説】サイバンカンメシ。-第2話

裁判官と聞いてイメージする言葉は、堅苦しい、真面目、笑わない、だろう。
そんな裁判官は、実は2~3年ごとに全国各地の裁判所への転勤を命じられる辛いお仕事である。この物語の主人公である裁判官・磁英三琴は、もちろん全国各地へぶっ飛ばされつつ、今日もご当地グルメを楽しむことに暇がない。
これは、そんな磁英三琴裁判官のリアルお仕事×ご当地グルメをライトにポップに楽しむための物語である。

※第1話はこちら


1.東京地方裁判所編
(2)ナンディニ

 裁判所内の所属先は部単位に分かれており、その部は民事部と刑事部に分類される。いわゆる刑事事件を担当するのが刑事部で、それ以外の訴訟を担当するのが民事部である。では令状部とはなにかというと、読んで字のごとく「令状」の仕事に特化した部だ。

 東京地裁は日本で最も大規模な庁であり、民事部の数も実に50以上を誇る。そのため、東京地裁では、令状担当の令状部、保全担当の保全部、破産担当の破産部……と細分化されているのだ。一般に“裁判”と聞いてイメージする事件を所管する部は、これら特殊な部との対比で「通常部」と呼ばれることもある。

 そんな特殊な部に磁英が配属された理由は、7月に留学から帰ってきたからだ。裁判官は、原則として2、3年ごとに、毎年4月に別の地域の庁へ異動する。夏に帰国する留学組はいささかイレギュラーな存在で、席数の決まった通常部には居場所がなく、結果、令状部や保全部といった席数に定めのない特殊な部に配属されがちなのだ。

 そんな令状部の仕事は主に3つ、勾留こうりゅう請求、勾留延長、そして保釈請求に対する是非の判断である。

 お昼前、磁英は午前最後の保釈請求書を検討する。

 保釈とは、保証金の納付等を条件として、勾留の効力を残しながらその執行を停止し、被告人の身体拘束をとく制度である。平たくいえば、逮捕の後、起訴されて留置場や拘置所にいる被告人に対し、「ちゃんと裁判に出てくれるならおうちに帰っていいですよ」と認めるものだ。

 保釈には権利保釈と裁量保釈のふたつがあり、前者は、特定の事由に該当しない限りは保釈を認めなければならないというものである。その事由は例えば死刑に当たる罪を犯した場合など、裁量の入る余地のないものである。

 そのため、問題となるのは後者、「適当と認めるときは職権で保釈を許すことができる」という裁量保釈だ。ではどんなときに「適当」と認めるか、その考慮要素は、保釈されたと場合に被告人が逃亡しまたは罪証を隠滅するおそれの程度、身体拘束の継続により被告人が受ける不利益の程度……などなどが挙げられる。

 これが終わったらお昼だな、と磁英は次の記録を手に取った。分厚い厚紙の表紙に書かれているのは「覚醒剤取締法違反」。

 被告人の年齢は35歳、覚せい剤使用は初犯、その他の前科前歴はなし。採尿の鑑定書あり、当然陽性、覚せい剤使用を認める旨の自白あり。客観証拠が固まっているうえに本人も罪を認めているとなれば、罪証隠滅のおそれは低い。

 身柄ガラ引受人ウケには63歳の母親、今までは別居していたが保釈後は同居して公判に出廷させることを約束する旨の身柄引受書あり。この母親を置き去りにとんずらするとは考えにくい。よって逃亡のおそれも低い。

 検討を終えた磁英は、裁判官室の隣の書記官室に顔を出す。

「すみません、これ保釈許可で。保釈保証金は150万円でお願いします」
「はーい」

 しばらくして書記官が持ってきてくれた保釈決定書の最後の一行、「東京地方裁判所刑事第14部 裁判官 磁英三琴」の隣に、カシャンと判子を押す。

 ハッと、そこで磁英は重大な事実に気が付いた。

 インドカレーを食べたい。

 もちろんニューヨークにもインドカレーはあったし当然堪能したが、ナンの味といい、カレーのスパイスといい、日本で食べるインドカレーとはまた別物であった。

 外の暑さを味わうとまた気も変わってしまうかもしれないが、少なくともいまの自分の舌はインドカレーの舌になっている。あわよくばチーズナンも食べたい。

 インドカレーチーズナンインドカレーチーズナンインドカレーチーズナン……。書記官に保釈決定書を渡しながら、磁英の頭の中では「インドカレーチーズナン」が無限ループする。

 決まりだ。立ち上がった磁英の瞳は決意に燃えていた。今日のランチはインドカレーで動かない。

「磁英さん、今日もランチは外に行くんですか?」

 隣の酒井が、記録を脇に寄せながら手を止めた。酒井は、大抵は机上でサンドイッチを齧って済ませているのだが、誰か付き合ってくれる人がいるならたまには外食もいい、そう考えているそうだ。

「ええ、今日はインドカレーです。行きます?」
「インドカレーですか……私、エスニックの味はあんまり好きじゃないんですよねえ」

 酒井は、食事にこだわらないくせに味にうるさいところがある。何度か酒井とランチに行った磁英はそう認識し始めていた。うどんを食べに行ったとき、酒井も何度か来たことがあると言いながら「でも味が日によって違いますよね。今日はちょっと塩辛くて出汁が薄めです。あとこしも強いですね」なんてコメントしたのだ。以来、磁英は酒井に少し嫉妬している。

 とはいえ、|推し(オススメ)は共有したいのがオタクというもの。磁英は得意げな顔になった。

「大丈夫ですよ、今日行くところは南インド系なんで原則スパイスは強いですが、例外にキーマカレーがあります。それほど癖が強くありません」
「私はぜひその原則と例外が逆であってほしかったんですが、そうですねえ。じゃ、ご一緒させていただきます」

 酒井がデスクの奥に判子を片付ける。磁英が持っているものと印鑑ホルダーに収まっていた。

「やっぱり三菱ですよねえ」
「ええ、見た目が安っぽくなくていい感じですから。先輩に勧められたんです」

 判子持ちの略で判持と書いてハンジと読む、裁判官がそう揶揄される中で、令状部にいる裁判官は、他の裁判官に比べて圧倒的に判子を押す機会が多い。そのため、判子本体に逐一インクを付けるのを煩雑に感じ、それぞれが独自に判子をシャチハタ化する印鑑ホルダーを購入する。なお判子本体も自費購入である。

「憎いね、三菱」
「それ電機ですよ、三菱鉛筆とは別法人どころか資本関係もありません」

 ハハハ、と談笑をしながら、二人は令状部を出た。

 磁英イチオシのインドカレー店は、東京地裁からはいささか離れている。そのため、霞ヶ関駅から日比谷線で一駅、虎ノ門ヒルズ駅まで移動する。

「結構遠いですね」
「それが難点です。でもヒルズ駅ができてよかったですよ、一駅分はショートカットできますから」

 そうでなければ、さすがに地裁から歩くには遠すぎる。ヒルズ駅を出てほんの数秒、既に汗をかいてしまいながら、二人は少し古いビルの間を歩き進めた。

「見えました、あれです。まだそんなに混んでいませんね」

 南インドカレー料理店、ナンディニ。磁英は既にインドカレーの味を感じながら、意気揚々と店内に足を踏み入れた。酒井も、テラス席に座る客のテーブルを一瞥しながら店内に入り「確かに、なんだかインドカレー気分になってきました」と頷いた。

「例によって磁英さんのオススメあります?」
「レディースセットがオススメです」
「食べたことないでしょう、磁英さんは」
「でも一番コスパがいいですよ」

 カレーにポリヤル、サラダ、ライス、パン、そしてドリンクまでついてきて1250円なのだ。女性であればお腹は満足度・満腹度ともに120%に違いない。

「インドカレーにラッシーって欠かせないじゃないですか。それになにより大事なのは、パンを追加料金なしでチーズナンに変更できることです」

 もちろん、他にも無料でパンをチーズナンに変更できるものはある。例えばナンディニセットだが、しかしこれは3種のカレーにチキンドライとワダまでついてくるので、平均的な成人男性より若干小柄な磁英にはいささか量が多すぎる。なによりラッシーもついてこない。なお、ナンディニセットはランチメニューの中で一番高価だったが、例によってニューヨークで円安に苦しんだ磁英にとっては誤差なので金額は問題ではない。

 くっ……と磁英はメニューの上で拳を握りしめた。それでも、ラッシーもついてくるレディースセットがうらやましい。

「なぜ私はレディーではないんでしょう……!」
「所作のせいでしょうか?」
「男子校育ちはガサツなんです。というわけで酒井さんにはレディースセットで、癖のない味がということだったのでキーマカレーをおすすめします」
「ありがとうございます。じゃ、私はレディースセットで、ついでにチーズナンにしますから、よろしければ半分ずつシェアしましょうか?」
「いいんですか……!」

 感激した磁英は、地裁を出る前、酒井に感じていた嫉妬を恥じた。もう二度と、メシにこだわりなんてないくせに、とは思うまい。

 注文を済ませると、酒井のもとにはすぐにマンゴーラッシーが運ばれてきた。店内が混んでいないこともあり、そう待たないうちに磁英と酒井それぞれの前に銀のプレートも運ばれてくる。

「お待タセしまシタ、レディースセットと、おてごろセットです」

 流暢な日本語で案内してくれるのを聞いても、今まではなんとも思わなかったが、留学帰りの磁英は関心した。磁英はさっぱり英語ができないままだった。

 さて、磁英の前に置かれた銀のプレートには、あつあつのポロッタに2種のカレー、それにポリヤルとサラダもついている。酒井の前に置かれたプレート上には三角形のチーズナンが4枚載っており、その2枚が早速磁英のプレート上に移された。

「ありがとうございます……ポロッタも半分食べます?」
「じゃ、いただきます。でも……ポロッタ? って初めて聞きました。まあ、私はメニューの名前が覚えられないタイプなんですけど」

 だから認識できないだけで食べたことはあるかもしれない。几帳面に見えて適当な酒井らしかった。

 そうしてチーズナンとポロッタを分け合った後、磁英は早速チーズナンを一口大にちぎる。中からはとろっと、たっぷりの熱々のチーズが溢れ出てきた。

 今朝から食べたかったのはこれだったのだ。意気揚々と、シーフードカレーにチーズナンを浸す。

 口に入れると、スパイスもあいまって舌がひりついた。ほふほふと、空気を吸い込んで食べごろを待ってから口を動かす。

 口の中に広がる海鮮の風味と、それに絶妙にマッチした南インドのスパイス。そしてなにより、チーズのクオリティが高すぎる。チーズナンに挟むチーズなんてなんでもおいしいから適当でいいと思ってしまいがちだが、ナンディニのチーズナンは適当とは程遠い。チーズナンだけで満たされる。

「ポロッタ、甘くておいしいですね」

 対面の酒井は、ポロッタを一口千切って口に入れていた。ポロッタは渦巻き状の平たい生地なので、紐をほどくように生地を千切ることになる。

「ね、単体で食べてもおいしいですよね。なんかちょっとスナックというか、おやつみたいな」
「ですね……あ、分かった、これクロワッサン生地ですねきっと」

 ……言われてみれば確かに! 言葉が出てこないときのもやもやがスッキリ晴れたように、磁英はハッと顔を明るくした。そうだ、これはクロワッサン生地の味だ。サクサクふわふわではなく、ナンのようだから気が付かなかったが、クロワッサンだ。バターが練り込まれているに違いない。

「酒井さんって……メシ適当なのに舌ちゃんとしてますよね」
「そうですか? あんまり考えたことなかったですけど。キーマカレーも、いい感じに甘くてピリ辛でいいですね」

 ほくほくと、酒井も熱々のチーズナンをキーマカレーに漬けて頬張る。

「キーマカレーって、こういうとこでも来ないと家じゃ食べられませんもんね」
「食べられますよ」
「え? キーマカレーのもととかあるんですか?」
「いやそうじゃなくて、豚ひき肉と、私がよく使うのはピーマンとナスと――」
「あ、そういうことなら大丈夫です、私料理はしないんで」

 酒井め……。くっ、と苦虫を噛み潰す。飯にこだわらないくせに、料理をしないくせに、味は分かるとは。しかしそれでもマトンカレーはおいしい。ジビエ特有の味わい深さを残しつつ、獣のクセを感じさせず、しっかりとした辛味をじりじりと舌に効かせてくる。

 それに、ポロッタとの相性もいい。ポロッタはクロワッサン生地に近くて――というのは酒井のいうとおりで悔しいが――少し甘めなので、ピリッと辛味のきいたマトンカレーを少しマイルドに味変もしてくれる。チーズナンとはまた違う方向でまろやかなカレーを味わえる。

 あとはインド特有のバスマティライスだ。普通はナンとライスどちらかを選ぶものだと思うが、ここではデフォルトでライスがついてくる。インドカレーについてくるこの独特の長米が結構好きだ。

 お子様ランチ風にカップでひっくり返したような長米の塊にスプーンをあてると、パラパラと粒が崩れる。そのバスマティライスをスプーンの上に載せ、ミニカレーを作って口に入れると、米一粒一粒がカレーに包まれて、ナンとは別のカレーが楽しめる。

 そしてポリヤルと生野菜サラダで箸休めをする。生野菜サラダには、インドカレー店特有の謎においしい甘いドレッシングがかかっていて、しびれた舌にも優しい。

 この謎のドレッシングの味の正体、酒井は分かっているかもしれない……。そう思ったが、収まった嫉妬が再び生じないよう、訊かずにおくことにした。

「あー、お腹いっぱい」
「ごちそうさまでした」

 磁英も酒井も、満腹度満足度ともに120%になり、手を合わせた。

「あー……お昼から仕事したくないですねえ……」
「インドカレーで暖まっちゃいましたしね。余計な汗かきたくないし、帰りたいですね」

 ぼやきながら、二人はヒルズ駅へと戻って行く。彼らは午後からも、書類にカシャンカシャンと判子を押す。


東京地方裁判所編第2話
「ナンディニ虎ノ門店」-日比谷線虎ノ門ヒルズ駅最寄り/インド料理

本作品はカクヨム、小説家になろうにも掲載しています。

https://ncode.syosetu.com/n5168jo/


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