倍化水
ある日のこと、山本という男が森で木を切っていた。
夕暮れも近かったので、彼は早く作業を終わらせようと斧を振り上げた。その瞬間、汗ばんだ手から斧がするりと抜け、飛んでいってしまった。
山本はすぐに斧が飛んで行った方向に走った。
「どこだ、どこだ、俺の斧やーい」
彼が斧を発見したのは、水たまりの中だった。驚いたのは斧が二つ見つかったことだ。手にとって調べてみると瓜二つ。全く見分けがつかない。大きさや色だけでなく、歯のかけ方、柄の傷、持ち心地まで同じだった。なぜ二つあるんだろう。山本は疑問に思ったが、そろそろ斧を買い換えたかったこともあり、どちらも持ち帰ることにした。
◇
もう少しでこの木も倒れる。そうしたら今日の作業もしまいだ。
山本は切り口めがけ、勢いよく斧を振った。すると木に当たった瞬間、斧はポキリと折れてしまった。
あれ?
力を入れすぎたか。
まあ大丈夫だ、もう一本ある。
山本はこんどは折れないよう慎重に、先ほどの半分ぐらいの力で斧を振った。するとまた同じ箇所がグキリと折れ、半分から上が宙ぶらりんになった。
どうしたもんか……。これでは作業が出来ない。
山本は急いで隣のエリアの藤田のもとへ向かった。
到着すると、藤田は作業の終えて帰ろうとしていた。山本は彼を呼び止めて斧を借り、自分のエリアへ戻って木を切り倒した。
「悪いな。助かったよ」
「ああ、俺がまだいてよかったな」
「恩に着る。まさか両方折れるとは思わなかった」
山本は腰をかがめ、折れた斧の残骸を拾った。
「わはは。二本も折れるなんて、お前ついてないな」
「二本……。藤田、ちょっと来てくれないか」
山本は藤田を先ほどの水たまりまで案内した。
「ここに斧を落としたら増えたんだ」
「斧が増えた? そんな事があるか。たまたま似たような斧が落ちていただけだろ?」
「いや、どちらも俺の斧だ。細部までそっくりだ。もしよかったら、お前の斧を落としてみてくれないか」
「え、ああ」
藤田は戸惑いながらも、斧を水たまりに浸した。
しかし特に変化はなかった。
「ほら、斧が増えるなんて、そんなおかしな事あるわけがないだろ。水たまりに入れただけで斧が増えるなら、永遠に増やせるじゃないか」
藤田は呆れたような表情で山本を見ていた。しかし彼が手を伸ばし斧を持ち上げようとした瞬間、もう一本の斧がスッと姿を現したのである。何もないところから現れたのではなく、子どもが産まれるかのように、斧から斧が出てきたのだ。
はじめ透明だった子斧は、五秒もすると実体化した。
「あああ、増えた。増えたぞ」
藤田は増える瞬間を目の当たりにして、言葉を失った。山本もあんぐりしたまま、二つの斧を眺めていた。
「どこからどう見ても同じ、両方とも藤田の斧だ」
山本は手に取ってじっくり観察したあと、そう結論づけた。
藤田は入念に水たまりを観察していた。
「おい、見てみろ」
山本が水たまりを覗くと、葉っぱの隣には同じ形の葉っぱ、小石の隣には同じ形の小石など、全てがふたつ存在していた。
物を増やす水、そんなものが実在するのだろうか……。
「藤田、少し試していいか」
山本はそう言って、右手につけていた軍手を水たまりに放り込んだ。するとまたしばらくして分化した。
「信じられねえ」
「どうだ藤田、俺の言ったことは本当だっただろう」
山本は軍手を拾い上げ、右手にはめようとした。
しかし指が軍手を突き破ってしまった。彼は首をかしげたが、すぐに原因を解明した。
手袋が、弱い……。
「藤田、触ってみてくれ」
軍手を受け取った藤田が上下に伸ばしてみると、糸が簡単にほどけた。
「本当だ……。もしかしたら、数は増えるが、堅さが半減してしまっているんじゃないか?」
「そうかもしれない。藤田、お前の斧を地面に振り下ろしてみてくれ」
「え、ああ」
藤田は言われた通りに振り下ろした。すると山本の斧と同様、柄の部分からポキリと折れてしまった。
二人は仮説の正しさに確信を得た。
「藤田、俺、いいこと思いついたかもしれない。とりあえず日が暮れるから今日は帰って、明日またここへ来てくれないか?」
「あ、ああ」
「いいか、ここのことは誰にも言うな。奥さんにもだ」
「わかった」
◇
翌日、二人が水たまりを訪れると、面積は倍ほどになっていた。
「雨が降ったみたいだな」
「ちょうどいい、これで実験がしやすい」
「実験?」
「まあ見てろって」
山本は小石と大きい石を同時に水たまりに放り込んだ。すると、同じタイミングでどちらも一つずつ増えた。
「大きさは関係ないってことだな」
さらに彼は小石と、家から持って来た茶碗を同時に放り込んだ。また同じタイミングでどちらも二つになった。
「材質も関係なし、と」
「山本、六十秒だ」
「え?」
「今数えたら、ちょうど六十秒で増えるみたいだ。そして実体化するまでは、およそ五秒。俺の体内時計だがな」
藤田はそう告げた。
山本は増えた茶碗を拾い上げた。そして強く握るとミシッと音をたて、ヒビが入った。
「やっぱり脆くなってる。でもまあ、鉄や陶器は力を込めない限り大丈夫そうだ。木や布は増やしても、使い物にならなそうだが……」
二人の実験はさらに続いた。一度増やしたものは、それ以上増えないこともわかった。三十秒ほどで水たまりから取り出しても、もう一度浸すと増えることもわかった。また、実体化する五秒の間に触ると、消えてしまうらしい。
実験は隣の水たまりでも行われた。しかし分化現象は起きなかった。
「そろそろやるか」
山本はそう言って水たまりの中に硬貨を一枚、投げ入れた。
六十秒後、硬貨は二枚になった。藤田はそれを見て、ニヤリと笑った。
「問題は硬さなんだよ」
山本は硬貨を拾い上げ、両手の人差し指と親指に挟んで力を込めた。しかし少し曲がっただけだった。
「大丈夫みたいだ。増やす前と比べたら柔らかいけど、気になるほどじゃない」
藤田はそれを聞いて、百枚ほどあった山本の硬貨を全て放り込んだ。
六十秒後、硬貨は二百枚になった。二人はあまりの嬉しさにハイタッチを交わした。
藤田も、一度家に帰って全ての硬貨を取ってきて、倍額に増やした。
二人はその足で町の銀行へ行き、全てをお札に両替した。そして直ぐさま別の銀行で、ふたたび硬貨へ両替した。一度増やした硬貨は、それ以上増えないという実験結果があるからだ。二人はまた水たまりへ戻り、さらに倍額へ増やした。
翌日も、その翌日も、二人は硬貨の倍化作業に明け暮れた。みるみるうちに財産は増え、あっと言う間に月給を超えた。
◇
「同じ町ばかりで両替してると、怪しまれるな」
「隣町へ行こう」
二人は様々な町の銀行を巡り続け、マネーロンダリングに明け暮れた。持ち金が身分不相応な額になってきたので、髭を剃り、作業着からスーツにしたのは言うまでもなかった。
十日も経つと年収はゆうに上回った。二人は作業用のトラックを購入し、さらに硬貨を増やした。
「ニセ硬貨が出回っていると言う噂も聞かない。バレることはないだろ」
「そうだな」
「あと一週間ぐらいあれば、一生遊んで暮らせるほどの金が手に入るぞ」
「そしたら、この町を出よう」
取引先の森林組合から山本に電話があったのは、その夜であった。
「ここ十日間、出荷がありませんがどうかなさいましたか?」
「ええ、はい、ああ、ちょっと、体を壊しておりまして」
「大丈夫ですか?」
「まあ、何とか」
「こちらも発注におわれてまして。作業を再開できるのはいつ頃になりますか? もし長引きそうであれば、代わりのものを送りますが」
「あ、あと二、三日で復帰できると思います」
「わかりました。ではお待ちしております」
もちろん山本に仕事を続ける気などなかった。それでも辞めると言いださなかったのは、水たまりに行くためだ。金を産む水をそう簡単に手放すわけにはいかない。その気になれば担当エリアごと買い取ることもできたが、そんなことをしたら金の出所を疑われてしまう。
あと二日だ、それでやめよう。二日あったら、四回は銀行に行ける。もう十分だ。山本が藤田にそう告げると、彼も同意した。
◇
最終日は朝からトラックの荷台に硬貨を積み、県外の銀行へ向かった。
「藤田、今後どうするんだ」
「そうだな、嫁と南の島にでも行くよ。お前は?」
「親にいくらかあげて、残った金で家でも建てようかな。大豪邸だぞ」
「それでもまだ余るな」
銀行で換金すると、十億いくらと聞こえた。二人は静かに喜びを噛み締めた。そして再び銀行を巡って両替し、水たまりまで運んだ。
「藤田、これで最後だ」
「ああ、山分けだぞ」
「これを銀行に持っていったら、もう預けたままにしよう。いいか、これは完全犯罪だ。一生の秘密だぞ」
「もちろんだ。お前に出会えてよかったよ。本当に感謝してる」
「またたまには連絡するよ」
「ああ」
二人が硬貨を投入して六十秒後、さらに倍額になった。そして実体化した硬貨を半分ずつ、お互いのトラックの荷台に積み込んだ。
全ての作業が終わった。長かった、やっとの事でばれずにここまできた。顔を合わせた二人は、溢れ出てくる達成感にまかせ、力強くハイタッチを交わした。
その瞬間だった。
十本に増えていた二人の脆い指は、大きな音を立てて砕け散った。
「うぎゃえええええ」
「ぎゅわあああああ」
その喚き声は森の中に響き渡り、二人は水たまりに倒れ込んだ。
翌朝、大量の硬貨とともに、足が四本になった藤田と、頭が二つになった山本が発見された。真っ赤に染まった水たまりは、やがて透明にもどり、今日も何かを倍にしている。