【書評】後藤繁雄 著 『アート戦略/コンテンポラリーアート虎の巻』コンテンポラリーアートは再接続で成り立っている
本書は、簡潔にいえばコンテンポラリーアートの解説本なのだが、読み終えた感想は「まるで哲学書」である。そのため簡単にとはいかないが、しかし丁寧に読めばコンテンポラリーアートについて理解できるよう構成されている。
著者の後藤繁雄氏は、京都造形芸術大学で教授を務めながら、アートワールドの発展のため新たなアート教育を模索しつつ、アートフェアに積極的に関わるなど、最前線で活躍しているクリエイティブディレクターだ。
普段、アートに関わっていない一般人にしてみれば、コンテンポラリーアートは難解な印象だろう。それもそのはずで、ヨーロッパで栄えた「視覚プレイ」のアートに対し、アメリカで始まったアートは「頭脳プレイ」、つまり概念なのである。マルセル・デュシャンの発表した『泉』は、見るという行為から脱却させるための、初めの一歩だったのだ。
「美術家が作品の美的価値を完全に支配しないこと、価値判断は作者以外の人によって左右されることに最初に気づき、それを口にしたのはデュシャンだった」(P.23)
これはデュシャンにインスパイアされた画家、ジャスパー・ジョーンズの発言だ。鑑賞者は、サインが書かれただけの便器を見て退屈し、逆に考えることによる快楽を得るようになったという。デュシャンにつづき、「ただの写し絵」を作品として発表しつづけたアンディ・ウォーホルも、「視覚的な興味を失わせる」というコンセプトをもっていた。
そのはじまりを意識すると、コンテンポラリーアートへの理解は一気に深まる。
しかし同時に、コンテンポラリーアートについて、じつは理解するだけならまだ簡単なのだと思い知らされる。本書を読み進めると、著者はアートばかりではなく、哲学、科学、文学、音楽、経済、政治、時事など、さまざまなジャンルの著作を読みこみ、聴き、見ていることがわかる。
それは著者の後藤氏が、コンテンポラリーアートのテーマを「再編集」としているからだろう。新しく生まれた作品が、何をモチーフにしているのか。作者はいったい何に触れて育ち、どのような価値観で生き、創作に臨んだのか。
これらを抜きにして、コンテンポラリーアートを評価することはできない。“アートワールドのルールは、どんどん書き換えられ、再編集”(P.290)されているから、プレイヤーの頭のなかはつねに最新でなければならないのだ。
それは、長年コンテンポラリーアートのアワードに関わってきた著者の言葉にも表れている。
“素手で、裸眼で、世界に触れなくてはならない。
可能性を、常に見落とさないようにしなければならない。
素晴らしい才能や作品に出会ったら、体全体から褒め、励まさなければならない。
(中略)
アート専門の批評家で、ほかのジャンルは全くの門外漢だと言う人が、コンテンポラリーアートの査定ができるの?”(P.282~283)
(中略)
僕はアーティストたちの「才能」が好きだ。
「才能フェチ」と言ってもいいぐらいだと思う。
AIが世界を管理しつくしたって、奇妙でミラクルな才能の人間が現れて、世界を変えていくと信じている。”(P.292)
現代のアートは、もはやすべてを包摂した存在なのかと考えさせられる。
コンテンポラリーアートについて理解したいとは思いつつ、何冊も積読してしまったような人には、ぜひ本書を読んでみてほしい。丁寧に読めば、この一冊でかならず概略はつかめるはずだ。ジャーゴンや知らない人が続々と登場するかもしれないが、本文の横には脚注欄が設けられている。人名や作品、文献など、ある程度の知識はリアルタイムに補完できるだろう。
それに加え、私は本書を読むときにはつねにタブレットPCを携えた。マルレーネ・デュマスの死体の絵が生々しいと説明されても、ヴォルフガング・ティルマンスが今の代表的なフォトアーティストだと言われても、テキストだけではよくわからない。Googleの画像検索で視覚的に補完することをおすすめする。(Takuyat1992)