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ジャン=ジャック・サンペの一周忌によせて

昨年(2022年)の今日(8月11日)フランスの国民的イラストレーターであり作家のジャンジャック・サンペの訃報が世界を駆け巡った。この日の「ル・モンド」紙には「Le dessinateur Jean-Jacques Sempé est mort」(漫画家ジャン=ジャック・サンペ逝く)と題されたフランシス・マルマンド(Francis Marmande 1945~)の追悼記事が掲載された。

https://www.lemonde.fr/disparitions/article/2022/08/11/le-dessinateur-jean-jacques-sempe-est-mort_6137814_3382.html

私自身サンペの著書『今さら言えない小さな秘密』(原題は Raul Taburin:ラウル・タビュラン、1995年。旧翻訳タイトルは『とんだタビュラン』1997年)の再版出版(2019年)に関わったこともあって、昨年この記事を読みながら、サンペについて思ったことを書き留めるつもりでいたのだが、いろいろなことが重なってそのままになってしまった。一周忌に当たるのを機に簡単に私の「思い」をメモしておきたい。

 サンペの名はわが国ではおそらく、世界40カ国に紹介されたルネ・ゴシニとの共作『プチ・ニコラ』シリーズと結びつく場合が多いのではないかと想像する。私もサンペを知ったのはこのシリーズの翻訳本を通してであったが、いうまでもなくサンペはこのシリーズだけではなく、多くの単行本の作者であり、また1978年からはあの「ニューヨーカー」誌の表紙を描いていた人物として、世界にその名を知られた作家=漫画家であった。

ところで、もしフランス人に「ジャン=ジャック・サンペ って誰?」と聞いたら、「あのデシナトゥール:dessinateurでしょう」という答えが帰って来るに違いない。ただこのデシナトゥール:dessinateurというフランス語にぴったりの日本語がなかなか見つからない。もし日本人同士で同じ会話をしたときに、「あの漫画家でしょう」と答えるとサンペのイメージが少しずれてしまう気がする。デシナトゥール:dessinateurは原義から言うと、おそらく「描く=デッサンする人」のことだが、サンペを漫画家と呼ぶか、イラストレーターと呼ぶか、挿絵作家あるいは風刺作家と呼ぶか・・・個人的には、そのどれをとってもいまひとつ「しっくりこない」。あるいは「落ち着かない」というのが正直なところだ。ただ、この「落ち着かない」感覚、実は私にとっては否定的なものではない。呼び方はどうでも良いけれど、サンペという作家自身について「この人はこんな人」とはなかなか言えないという意味で、この「落ちつかなさ」は、私にとってむしろ肯定的なのだ。

と言うのも、「デシナトゥール:dessinateur」であるかれによって生み出される絵(線)と言葉(物語)に触れると、題材が何であれ、私はなぜか「一所に落ち着く」あるいは「ハッピーな結末へ導かれる」といった安定感との距離を感じるのだ。だからと言って不安や不満が残るのではない。全く逆で、私も含め多くの読者は、ほのぼのとした笑いと同時に幸福感を体験するにちがいない。ただ余韻がなんとなく単純ではないのだ・・・ 問題はこの笑いと幸福感の質なのだと思う。

 昨年(2022年)の今日(8月11日)「ル・モンド」に追悼記事を書いたフランシス・マルマンドはその記事の中でこんなことを言っている。

・・・私たちは瞬く間にその描線に引き込まれ、笑う。そのあと私たちは何時間も、そして夜を徹してこれを眺めることになる。テキストとイメージ、(人の)外見と本性、個(人)と全体(市民)、愚行と大志、卑屈と高邁、そのギャップを描かせたら彼の右に出るものはない。そこにあるのは、人を笑わせる中間地点に位置する感情、風刺の上に成り立つ “状況的なコメディ” の氾濫である。・・・

(原文)
・・・Le dessin se voit en un clin d’œil, le rire jaillit, et après, on s’y perd des heures, des nuits entières. Il excelle dans le décalage – entre texte et image, personnage et nature, individu et ville, bêtise et ambition, humilité et grandiose –, ce sentiment de l’entre-deux qui fait rire, ce cadrage-débordement du comique de situation, sur fond de satire.・・・

 フランスの作家/ジャーナリストらしいある種「哲学的な」コメントだが、これをあえて私なりに言い換えると、サンペがもたらす笑いと幸福感には、どこか一筋縄ではいかない、簡単には割り切ることのできない人間の「性(さが)」が凝縮されているということになる(もっともこれは私なりの解釈であって、フランシス・マルマンドはまったく別のことを言いたいのかも知れないが、それはさておき)。

マルマンドは「人を笑わせる中間地点に位置する感情、風刺の上に成り立つ “状況的なコメディ”の氾濫」という表現を使うが、思うに、ここでかれが言う「中間地点:l’entre-deux」あるいは「状況:situation」とは、おそらくは、何のことはない「いろんな人がいろんな機会にいろんなところで出会う」という、私たちにとってはごく当たり前の日常のことだろう。私たちはこの日常において、さまざまな人間と時間と場所を共有しながら、何かを一緒にやったり、話したり、笑ったり・・・と、たしかにあるときには幸福感も経験する。しかし、一方でそこには喧嘩もあれば、いがみ合いもあれば、嫉妬もあれば、下手をすると殺し合いだってあるというのが現実だ。そして、普段から新聞の社会面を賑わせている否定的な事件を見てもわかるように、概して人々はそう簡単に「いろんな人がいろんな機会にいろんなところで出会う」という日常において、残念ながら、笑いや幸福感を共有するという肯定的な現実に常に恵まれているわけではないのだ。つまり私たちは「引き裂かれている」と同時に、その一方で、笑いやがもたらす「幸福の共有」にも関与しているということだ。

 ここで自ら問うてみる。サンペの作品から単純な笑いや幸福感ではなく、一歩距離をおいた、その意味では確かに「笑い」であるけれど、それと同時に人間がもつ否定的な本姓への「気づき」を体験するのは私(個人:individu)だけだろうか? 私と同じような感覚をもつ人(他者)が他にいるのかどうか、正直なところ私にはよくわからない。ただ、この社会にもし「私と同じように」感じる人(他者あるいは全体としての市民:ville)が一人でも存在するなら、マルマンドの言う「人を笑わせる中間地点に位置する感情」はこの先も生き延びることができるだろう。

 この先サンペのような作家が現れるかどうか知る由もないが、私は、この個人(私)と全体(市民)とにかかわる複雑な現実の向こうに見える希望を解く鍵になるのがまさにサンペ流の風刺:satire なのだと思う。風刺については、2015年にフランス・パリ11区で起きた『シャルリー・エブド』の事件を含め、考察を続けたいが、とりあえず今日はサンペの冥福を祈りながら、自分が彼から学んだ(と思う)ことをメモした。もし私以外の方からご意見を聞くことができれば幸いである。11July 2023 kudot(12July2023一部修正)

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