サイボーグの哲学第3回
〜前回(第2回)のまとめ〜
・デカルトは「人間とは何か」を考察するに当たって「心:mind」と「身体:body」という二つの側面からこれを説明しようと試みました。
・その哲学的立場、あるいは彼の主張の問題領域は、しばしば「心身問題」「心身二元論」「動物機械論」などと呼ばれます。
・デカルトは、結論から言うと、人間には「心」と「身体」の合一(統合)を認めましたが、動物や機械には「心」の存在を認めませんでした。*)注1
・その判断が正しいかどうかはゆっくり考えることにして、そんなデカルトの考察の後を追いながら人間とサイボーグについて考えてみようというのがこの記事の目的です。
サイボーグの哲学 〜第3回〜
【デカルトの問題意識を支えていたものは何だったのか?】
さて、人間とは何かを考えるに際して、これを身体:body と心:mind の両面から考えて行こうというデカルトの方針を支えていた問題意識はどんなものだったのでしょうか? 今回はそれを考えます。
例えばこの哲学者自身による次のフレーズを読むとその一端がうかがえます。
(人間とは何かを考えるに当たって私の脳裏に)最初に浮かんできたものは私が顔や手や腕をもち、もろもろの肢体からなる全機構をもつと言うことであった。この機構は死体においても認められるものであって、私はそれを身体の名でよんでいた。次に浮かんできたものは、私が栄養をとり、歩行し、感覚し、考えるということであった。私はこれらの活動の源は精神にあると考えていた。
しかしその精神とはなんであるかについては、私は注意をはらわなかったか、あるいはそれを、風とか火とかエーテルとかに似た、何か微細なものであると想像し、これが身体の粗大な部分にゆきわたっているのだと考えていた。
(井上庄七、森啓 訳『省察』二、中公クラシックス、P.36、ただし最初の括弧書きと下線は引用者による)
このフレーズは、哲学史の上ではいろいろと問題になるところだとは思いますが、ここは細かいことは省略して簡単に解説します。
この日本語の訳文を読む場合に、気をつけておきたい語句があります。
1)まず、「もろもろの肢体からなる全機構」という所ですが、この部分のフランス語訳*を見ると「骨と肉からなり立つこれら機械の全体」となっています(後述の「補足」に少し詳しい説明を掲げておきました)。
この哲学者が、顔や手や腕を含め、身体を「骨と肉からなり立つ機械」だと考えていることが分かります。この点をまず大事な点としてチェックしておいてください。
*『省察』はもともとラテン語で書かれています。フランス語訳(私はラテン語が得意ではない、というかほとんど読めませんので、主にフランス語: Edition de F. Alquié, Œuvres philosophiques, CLASSIQUES GARNIER 版を参照しています)とラテン語原文は表現が一致するとは限りませんので、こういった翻訳上の違いが出てきます。以降もフランス語訳を頼りに話を進めます。
2)次に、上記の「これら機械の全体」(上に引用した翻訳文では「全機構」となっています)を「私は身体の名で呼んでいた」という所です。このときデカルトが使っている「身体」という語句ですが、フランス語では corps[コール]と言います。英語では body です。これは生きているか死んでいるかにかかわらずカラダまたはモノを表す言葉です。デカルトから見ると人間の身体はモノにすぎません。ただし、このモノにすぎない身体を活動させるという点で、デカルトは「身体」に「精神」が関係していると考えています(詳しくはこれからの記事の中でお話しします)。
3)次に「栄養をとり、歩行し、感覚し、考える」という文章の後に来る「私はこれらの活動の源は精神にあると考えていた」という箇所です。フランス語原文では「私はこれらすべての活動を心に関連付けていた」となっています(これについても後述の「補足」に少し詳しい説明を掲げておきました)。
ここで「精神」と訳されている語句のフランス語は âme[アーム]です。これまでの私の話では「心」と言ってきたものです。「心」と「精神」はこの場合同じ意味で、英語では mind の訳語が与えられるのが一般的です。
この âme[アーム]というフランス語は、訳者によって心とか精神とか、場合によっては霊とか、いろいろに訳されるのでやっかいなのですが、âme[アーム]は、corps[コール]とは別のもので、上の文では「風とか火とかエーテルとかに似た、何か微細なもの」で、それが「身体(corps)の隅々に行き渡っている」とされています。
4)なお「エーテル」という言葉も気になるところですが、フランス語原文は「微細な空気」です(この点も説明が必要ですが、長くなるので機会を改めて説明できればと思います。気になる方は「エーテル」もしくは「エーテル体」を検索してみてください。神秘主義に関係する解説に出会うかもしれませんが、デカルトはいわゆる神秘主義者ではありません)。
ここでデカルトが言っている「エーテル」については、"身体のように手で触っても確認できない" というくらいの意味で理解しておけば良いかと思います。デカルトは、実体としては「身体」とは別次元の存在だと思われる「精神/心」のことを、「エーテル:微細な空気」のようなものと考えていました(これも後で詳しく見て行きます)。
またもや用語への注釈を挟むことになってしまいましたが、とくに以下の三つの言葉はこれからの議論で頻繁に登場しますので最初に日本語との対応を解説しておきました。
・corps[コール]、英語では body 、日本語は、身体、体、・・・場合によっては死体などの訳が可能
・âme[アーム]、英語では mind、日本語は、心、精神、・・・場合によっては霊などの訳が可能
・machine[マシーヌ]、英語でも machine、日本語としては、機械・機構・・・などの訳が可能
ここまでの議論をまとめます。「人間とは何か」を考えようとするデカルトは、
1)まず、人間としての自分は身体=corps をもつという自覚から出発します。
2)次に、その身体は食べたり(栄養をとる)、動き回ったり(歩行)、いろいろなものを見たり聞いたり(感覚)、また考えたりしているが、そうした活動のすべては心=âme に関係すると考えた。
ということです。
このデカルトの思考を簡略化すると
○ 活動している身体=corps(機械=machine)
+
○ それと関係している心/精神=âme
↓
◎ 生きている人間 *)注2
ということになります。
このように、デカルトは
・自分には顔や手や腕がある
・自分はその体を滋養する
・自分はそれを動かす
・自分は感じる *)注3
・自分は考える *)注4
といった日常経験から出発しています。「人間とは何か」を考える場合の問題提起の仕方としては、いたってシンプルなもので、現代に生きる私たちにとっても比較的すんなりと受け入れられるものではないかと思います。
次回は、この問題意識から、どのような議論が生まれるのかを検討します。
【デカルトの問題意識についての補足】
1)骨と肉から成り立つこれら機械の全体(toute cette machine composée d'os et de chair)について
引用した翻訳では「もろもろの肢体からなる全機構」となっていますが、ここはむしろフランス語訳のように「骨と肉から成り立つこれら機械の全体」と理解した方が分かり易いかと思います。さらに言えば、デカルトは単に骨や肉だけでなく、身体(という機械の全体)を構成しているすべての要素を想定してこう言っていると考えるべきです。
人間の身体に限りませんが、人間以外の動物やその他の生物の身体構成要素を単に骨や肉といった「大雑把な *)注5」レベルで考えざるを得なかった17世紀とは違って、現代の科学はそれを分子レベルで観察できるようになりました。もしデカルトが今の時代に生きていたら、おそらくは、細胞やその細胞を構成している高分子/分子の運動・機能を含め「骨と肉から成り立つこれら機械の全体」と言ったに違いありません。
いずれにせよ、これから見ていくように、たとえデカルトが現代のサイボーグ技術やアンドロイドを具体的に構想できなかったとしても、窓の下を歩いている人を見て「もしあれが自動人形だったらどうやって私と(自動人形である)彼を区別できるのか?」(第2回参照)と問いかける彼の身体(corps/body)観には、サイボーグ技術の前提となる原理がすでに内包されていたことは間違いないと思います。
2)私はこれらすべての活動を心に関連付けていた(je rapportais toutes ces actions à l'âme)について
引用した翻訳では「私はこれらの活動の源は精神にあると考えていた」となっています。
確かにデカルトは心/精神=âme[アーム]を人間の身体運動の源(原因)だと考えていましたが、のちの議論で見るように、これはあくまでも人間の身体運動のうちでも特に意志的な行動や人間に特化された認知行動についてそう考えていたと言うことです。したがって、このフレーズもフランス語訳に沿って、デカルトは(身体の運動を心に)関連付けていたと理解しておく方が良いと思います。
というのは、人間以外の動物や機械(ロボット、サイボーグ、アンドロイドを含め)の身体運動は、デカルトの立場では、原則においては自然的な物理運動であって、そこに心/精神=âme[アーム]が関係していると考えていたかというと決してそうではありません。
ただし、サイボーグとアンドロイドの身体については、必ずしも単なる自然的な物理運動に還元できない行動、つまり何らかの知識(インテリジェンス)が関係するという意味で、人工的な知識にもとづく判断と、そう言って良ければ人工的な「意志行動」が問題となりますので、現代人である私たちは、これを新たな課題として考えなければなりません。いずれにせよ、このあたりのことを考えながら、デカルトの「人間とは何か」という問いを、現代の私たちの問いとして再構成するというのがこの記事の眼目ですので、以降の議論の中で詳しく見て行きたいと思います。
*注1
この背景には、動物や機械の行動は「身体」の機構のみで説明がつくだろうというデカルトの判断がありますが、これについては今後の議論で詳しく見ていこうと思います。
*注2
人間が「死んでいる」場合については後述します。ただしデカルトが先の引用文で「この機構(骨と肉からなり立つ機械の全体)は死体においても認められる」と言っている点をチェックしておいてください。
*注3/4
「感じる」と「考える」については今後の議論でくわしく見て行きます。
*注5
先に引用した翻訳文では「粗大な」となっています。フランス語訳は、形容詞:grossières[グロスィエール]です。