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映画『永遠のジャンゴ』の孤独について

 ロマ、ジプシー、ツィガーン・・・ いろいろな呼び名を持つこの人たちをはじめて目の当たりにした、というか、はっきりと意識して見たのは、パリの地下鉄に乗っているときだったと思う。40代の男が奏でるバイオリンの音色にどこかものすごく惹きつけられて、演奏がつづくなか、混雑した車内をかき分けるようにしてやってきた少年の差し出す缶に、10フラン硬貨をそっと入れた。

それはいまから二十年も前の話だが、これまでいろいろな時期に自分はツィガーンの音楽を聴いていたんだ、いやそれだけじゃなく、実は自分はかれらの音楽がほんとうに好きだったんだと、改めて気づかせてくれたのがこの映画『永遠のジャンゴ』だった。

たとえば19歳の時に札幌市民会館で間近に聞いたサビカス(Sabicas)のフラメンコギター、20代になってロシア語を勉強していたときに、歌詞を覚えようと必死になって聞いたロシア民謡「黒い瞳」のメロディー、それからずうっと後、還暦を過ぎてから出会った、サラ・ネムタニュ(Sarah Nemtanu)の弾く「チャルダッシュ」(曲:ヴィットーリオ・モンティ)・・・数え上げるときりがないけれど、要するに、この、どこか涙が出てきそうになる音楽は、映画の最初からおわりまで、ずっと鳴り響いていた。年のせいもあると思うが、実際のところ、作品を見終わった自分の目が潤んでしまって、ちょっと気恥ずかしかった。

 映画の舞台設定やストーリーについては、他に譲ることにして、どうして自分が涙ぐんでしまうのかを少し考えてみた。よくわからないが、それはおそらく「政治権力」に対峙する人間のはかなさ、というかむなしさに起因しているように思った。

映画の予告編などを見ると「音楽を武器にナチスに立ち向かったJAZZギタリストの物語!」といったコピーに出会うけれど、私には「ナチスに立ち向かっている」ジャンゴ・ラインハルトというのは、どうしてもしっくりこない。

確かに、彼も人間である以上「政治」そして「権力」とつきあわざるをえない。しかしそれが何であれ、何かに「立ち向かう」JAZZギタリストという設定でこの映画を見ても、はたして政治権力に立ち向かうヒーローに出会えるなんてことはないだろう。ジャンゴは「立ち向かう」のではない。単純に戦争も、政治も「俺には関係ない」と思う(!)のだ。ところがむこうは「関係がある」とか、さらには「おまえは関係を持たざるをえないのだ」と言って来る・・・

そのときこれを単純に拒否することもできるだろう。そして拒否することが命に関わることもあるだろう。どちらであってもツィガーンである彼にとっては本質的に同じことだ。ただ現実的には大きな違いがある。この場合拒否すれば命が危ない。

しかしだからといって、彼は単純に「命が惜しいから」拒否しないのだろうか。実際、映画の中の彼は、命が危うくない場合(様々な人間関係における)でも、この向こうからやってくる「関係の強要」を簡単には拒否しない。なぜだろうか? 

おそらく「立ち向かう」というスタンスに立つ限り「平和」、言い換えると単純に「戦いがない」という意味での平和ではなく、戦いがあろうがなかろうが「戦いとは関係のない」心の平和=平安を得ることができないからだ。拒否すれば多かれ少なかれ「立ち向かう」あるいは「戦う」ことになる。

「ギターを武器に」というけれど、最後にナチスから逃れてスイスへ逃げる途中、彼は身からはなさずに持ち歩いた愛用のギターで必死に雪穴を掘り、ドイツ軍とシェパードの集団から身を守る。そのときこの「武器」であるはずの愛用ギターがもろくも折れてしまう光景は、この、言ってみれば「立ち向かわない」スタンスを象徴しているようだ。

 自分のやりたいこと、自分の愛するもの・・・ を自分に引き受けて生きて行こうとするときに、社会はさまざまな形でそれにプレッシャーをかけてくる。この抑圧にあえて「立ち向かう」という選択ではなく、それと関わりながら(つまり拒否はせず)、ある場合には運命も甘んじて受け入れて、本質的に抑圧の「圏外」にいる自分を生きて行く・・・ そんなツィガーンの切なさ、空しさ、哀愁、孤独・・・ エチエンヌ・コマール(Etinenne COMAR)監督は、そのあたりを実に上手に描いている。(H)

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