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サイボーグの哲学第2回

【おわび】

「次回から本題に入りたいと思います。」と書いてからなんと20ヶ月もの月日が流れてしました。結果的に「連載」と銘打ちながらも、長きにわたり一回目しか掲載がないということになってしまい、なんともお詫びのしようもありません。この間いろいろとありましたが言い訳をしても始まりませんので、これからなんとか定期的に稿を進めたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。

【はじめに】 

 デカルト(René Descartes,1596-1650)は今から400年以上も前に生まれたフランス人の哲学者です。彼が生前明らかにした哲学上の諸問題はしかし今日でも古びず、大きな意味をもちつづけていると私は思います。

哲学に限らずデカルトの功績はたくさんあります(数学、物理学、医学などの)。そのすべてをここに紹介することは私にはできません。この連載では、デカルトが考えていたことのほんの一端を紹介しながら「サイボーグ」をキイワードに、いったい人間はどんな生きものなのかを皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。


【心身(しんしん)問題という用語について】

 いま一端を紹介したいと言ったデカルトの思想(考え)は

◎人間と動物と機械はどこが共通していて、どこが違うのか

という問いから引き出される問題です。

この問題は、哲学史の上では「心身二元論」とか「心身問題:mind and body problem 」と呼ばれる場合が多いのですが、それはこの哲学者が人間という生き物を考察するに当たって、「心:mind」と「身:body」の両面から説明したうえで、両者の相互関係として人間の在りようを説いていたからです。

結論から先に言うと、この問題に対する彼の解答は以下の三点に集約されます。

1)人間は「心」と「身(体)」という二つの要素(正確には二つの実体:substance)の統合のうえに成り立っていると判断できる(この立場は「心身の統合」と呼ばれたりします)*実体:substanceについては後述します。

2)動物や機械には「心:mind」はなく「身:body」だけがあると判断できる(この立場は「動物機械論」と呼ばれたりします)。

3)人間は身体(body)において動物や機械と本質的に共通するが、その身体を心(mind)を用いて意志的にコントロールできる特別な「生き物」だと判断できる。

この判断が妥当であるかどうかはゆっくり考えて行くことにします。上記の判断の根拠となった考え方の基本は、とくに『情念論』(1649年刊行)というデカルト晩年の著作で詳しく語られています。

現代のサイボーグ技術、またそれが人間そのもののことを考えるに当たってどんな意味をもつかということを明らかにするためには、まずはこのデカルトの基本的な立場(心身二元論/心身問題)の意味を理解しておくことはとても大事だと思います。

【デカルトの問題提起:あれは本当の人間かそれとも自動機械か?】

 まずデカルトの問題提起から見ていきましょう。

 デカルトの生きた時代(17世紀前半)にはまだ「サイボーグ」はありませんでした。サイボーグに似た存在「ロボット」は存在しましたが、ロボットといってもそれは今のように精巧なものではありません。オートマタ:automata(自動人形)と呼ばれる、現代から見るとおもちゃみたいなものです(動力は主にゼンマイ)。デカルトはある日、窓の下を歩いている人の姿を見ながら、もしあれが自動人形だったらどうやって私と(自動人形である)彼を区別できるのか? という問いを発します。『省察』という本の中にこの話は出てきます。

「私は人間そのものを見る、と言う。けれども私は帽子と着物とのほか何を 見るのか、その下には自動機械が隠されていることもあり得るではないか。」(中公クラシックス「デカルト 省察/情念論」p.46、2002年)

現代で言えば、たとえば大阪大学の石黒氏が開発しているアンドロイドが喫茶店に座ってるのを見て「あれって本物の人間?」と一瞬戸惑ってしまうような状況です。しかし時代は17世紀です。通りを歩いている人を見て「あれって本物の人間だろうか?」という疑問を発するデカルトという人は、よっぽど変った人だったのでしょう。

現代に生きる私たちも、自分が普段から見ている人間、やましてやいま喋っている相手が本当に人間かどうかなんて、普通は疑いません(この先サイボーグやアンドロイドの技術が高度化すればどうなるかは分かりませんが)。

「だって、そんなの誰にでも分かるでしょう!」
「でもどうして分かるの?」
「どうしてって、理由はよくわかんないけど、見たり、触ったり、話してみればわかるよ。」

大体こんな感じで、私たちはいちいち相手が本物の人間かどうかなんて疑わないし、ましてそれを確かめようとも思わないでしょう。しかし、じつはこのあまりにも「当たり前」だと思われていた現実への疑問こそが、この哲学者の関心事だったわけです。


この問いを発するに当たってデカルトが意識していたポイントは二つあります。

1)人間である自分は動物や機械と同様に身体(body)をもつ
2)人間である自分は動物や機械とは違って心(mind)をもつ

という二点です。

ただし、1)の「身体(body)をもつ」はともかく、2)の「心(mind)をもつ」という場合、少し注釈が必要です。

デカルトに限りませんが、哲学で「心」と訳されることの多いこの用語は、フランス語では「l’âme:ラーム」と言います。英語では「mind」と訳されるのが一般的です。

この「l’âme:ラーム」という用語、日本語では「心(こころ)」と訳される場合が多いのですが、それはどちらかというと「感じる」方の心ではなく、「考える」方の心です。

むしろ「心」と訳すよりは「精神」とか「思考する能力」あるいは「理性」と訳した方がわかりやすいかと思います。ちなみに英語では、考える能力としての「心」を指す場合に「mind」を用いて、感じる方の「心」は「heart」と訳すことがあるようです。肝心のフランス語は日本語と同じように「感じる」ほうと「考える」ほう、両方の能力を「l’âme:ラーム」という言葉で表すことができますが、デカルトが「人間である自分は心(l’âme)をもつ」という場合、まず念頭に置いているのは「人間である自分は考えたり推論したりできる」という側面です。そういうこともあってこの「l’âme:ラーム」という用語は時に意思(志)という言葉(フランス語ではvolonté)で置き換えられる場合もあります。

注釈が長くなってしまいました。のちにすこし詳しくお話ししますが、人間に備わった「感じる」能力としての心と「考える」能力としての心をきちんと区別しておかないと、デカルトの主張がわかりにくくなってしまいますので、あえて最初にコメントを書きました。次回はデカルトの問題提起をもう少し詳しく見ていきます。
(2019/10/21)


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