カレーうどんをすすって飛び散ったシミを刺繍にする ─刺繍ミシンワークショップレポート
はじめに
カレーうどんをすする時、ぼくらのシャツは汚れやすい。箸やうどんの先端から放たれた流動体は、緩やかな放物線を描きぼくらの服に着地する。小沢健二はシングル『流動体について』の中で「躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼 彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く」と歌ったけど、カレーうどんの汁もまた彗星のように昇り、起きている僕のシャツにまで届き、数学的、美的に炸裂するのである。たまったもんじゃない。
できるなら届いてほしくないけどいつの間にか届いてるのがシミというもの。それは愛着のある服であればあるほど、ぼくらを残念な気持ちにさせる。
洗う、クリーニングに出す、それでも汚れが落ちないと、売る、捨てる、新しい服に買い換える。いずれにせよ一度汚れた服はぼくらの体からも心からも遠ざかる。汚れたらまたユニクロに行けばよくて、その汚した服は袋に入れてゴミ捨て場に置いとけば誰かが回収してくれる。なかったことにできる。そこにはおびただしい物量の生産を叶える資本主義のシステムと、目まぐるしく早い消費のサイクルがある。それって、僕らが目指した豊かさだっけ。
汚れや綻びもその服と過ごした時間の蓄積じゃんって思う。すぐ捨てる、新しいものを買い直す、そんな早くて強い乱暴な流れに立ち止まって、衣服にとっての不都合とゆっくり向き合ってみることはできないだろうか。欠けやひび割れを金で継いだ器がいっそう輝くように、「躍動した流動体」と「君のシャツ」との間に、落胆以外のポジティブな関係性を見出だすことはできないだろうか。
日本では金継ぎが、ヨーロッパでは『ダーニング』と呼ばれる繕いの文化が発展した。ランダムな形の綻びやシミを覆い隠すように刺繍を施すことで不都合は修繕され、そこには愛らしさすら宿る。刺繍になるとなんでもかわいくなることに加え、なんでもない形が特別に思えるその心の明滅はどこから来るんだろう。
例えば20世紀スイスの画家パウル・クレーは、著書『造形思考』の中で、目的のない曲線を「散歩する線」と呼んだ。「線は散歩にでかける。いわばあてどない散歩そのものを楽しむのだ。」という彼の言葉からも、なんでもない形の自由さを慈しむ心が見て取れる。
「目的がない」は、「恣意性がない」に言い換えられるかもしれない。自分の意思を排除した線に親しみを覚えられるなら、もはや意思とかお構いなしに飛んでくるカレーうどんの汁も「散歩」しているといえないだろうか。
イタリアのプロダクトデザイナー、アキッレ・カスティリオーニも、恣意性や自我を排除したデザインで知られている。
必要最低限の機能やフォルムにまで削ぎ落とされた彼のデザインは、強さや速さ、権威が持て囃される資本主義の中で、自我を主張せず極めて透明で控えめだ。同じくイタリアの美術家ブルーノ・ムナーリもワイヤーの張りと布のたわみで照明を形作ったし、作曲家のジョンケージは紙のインク染みの上から五線譜を描いてランダムな音楽とかを作ってた。
彼らに共通するのは、完成の一歩手前で自分の意思や欲、社会通念と目の前の造形とを切り離した点にある。素材の特性や既製品の形、たわみや重力、自分の手でコントロールできない要因に造形の最後を委ねたのは、そこに資本主義からの解放を夢見たからだ。「こうなってんだし、これでいこう。」そんな、環境の生み出す「なんでもなさ」に対するあっけらかんとしたリスペクトがそこにはあるんじゃないかって思う。
ダーニングには、目的のない図案も糸の集積で可愛くできる力があった。不都合すらも刺繍になるとかわいくなるなら、いつもは残念なだけのカレーうどんのシミだって可愛くできるはず。けどそこには、不都合から愛らしさへの転換だけではない、デザインに対するひとつの姿勢が見出だせるかもしれない。
うっかり飛ばしてしまうシミ汚れ、自分の意思ではコントロールできない「流動体の美的な炸裂」を、「ぼくらを自我から解放するためのテキスタイル」と捉えてみることはできないだろうか。ぼくらの恣意性の外側で、重力や慣性、ターメリックの色素なんかが手を取り合いながらある一つの散歩するグラフィックが生まれるとき、ぼくらの愛着に対する態度はどう変わるだろうか。強くて速くて美しいものが価値とされる社会から抜け出すための実践として、ここはひとつ、カレーうどんをすすることからはじめてみよう。
カレーうどんをすすって飛び散ったシミを刺繍にする
1:すする
みんなで白い服を着てカレーうどんをすする。いつもは汚れが気になるから絶対にそんなことはしないけど、今日だけは全く気にならない、なぜなら刺繍になるから。7月の週末、貴重な土曜日をこんなイベントのために集まってくれたみなさんと一緒に、まずは黙々とカレーうどんをすする。
普段気を付けても飛んでくるシミが、いざ意識して飛ばそうとするとなかなか飛んでくれない。シミが飛ばないことをこんなに残念に思う日が来るとは。大きく音を立ててすする、箸から滑落させる、どんぶり鉢を服に近づけるなど、飛び散りやすいすすり方のコツを軽くレクチャーしながら「とはいえ気をつけつつ、それでもついてしまったシミの悔しさこそ刺繍になる価値が云々…」みたいな話もした。
慎重にカレーうどんをすする一同。「一本ずつ食べるといいかも」「ストローを吸う感覚で…」など、参加者同士でも「カレーうどんの汁飛ばしtips」が共有されていたのがいい光景だった。
みんな最初は緊張しながらすすってたけど、無事グラフィカルなシミができた。大きくシンボリックなシミ、遠くで風に舞う白いハンカチみたいに儚いシミ、カレーうどんの汁のストロークをそのまま感じさせるシミ……これを自分で意図的に描こうとするとなかなか難しい。偶然の力、まさにカレーうどんの汁が白Tを舞台にのびのびと散歩する様を間近で見ることができた。
2:トレースする
すすり終えたらシミをトレーシングペーパーの上からマッキーでなぞり、モノクロに二階調化させる。adobeキャプチャというアプリが便利。トレースができたら、jpg画像からそのまま刺繍データに変換できるソフトに取り込んで、縫い目の向きやピッチを調整すれば刺繍データの出来上がり。
3:刺繍する
枠をつけたら刺繍機にセットして、USBで刺繍ミシンにデータを取り込む。糸を選んだら刺繍の基準となる場所を設定する。データの端点とシミが対応する部分にポインターを合わせて位置を決めたら、スタートボタンを押して加工開始。
4:着る
見事にシミが刺繍になった。そのどれもがあまりにかわいくて、とても元の図案がカレーうどんのシミとは思えない。そこはかとなく金継ぎのような上品さも漂ってて、とにかく品のいいグラフィックがそこにはある。
うっかり飛び散ったカレーうどんの汁が刺繍になって、自分だけのグラフィックになった。きっとどれも自分で意図的に描こうとしたらこんなに魅力的には映らない。それはきっと、うどんや汁と自分との間に、ゆるやかなコミュニケーションが生み出せたからだろう。何よりも参加してくれたみんなが大事そうにTシャツを着てくれたことが嬉しかった。さっきまでカレーうどんが飛び散っただけのTシャツだったのに、今はなんておしゃれなんだろう。
さいごに
みんな、何かを作る可能性に開かれてる。だって、プロのデザイナーじゃなくてもこんなにイケてるテキスタイルが作れたから。イラレは誰でも使えるものじゃないけど、カレーうどんを飛び散らすことは誰でもできる。それこそ子供から大人まで。
クリエイティビティと呼ばれるものはきっと、デザイナーとか建築家とかシェフとか、「クリエイター」って名指されてる人たちだけのものじゃない。日々生きるために家族にご飯を作る人、犬の散歩をする人、走り回ってる小学生、そして、カレーうどんをすすったらシャツに汁が飛び散って絶望してしまうぼくらだって。
ごうごうと音を立てて走り過ぎていくシステムの中で、ぼくらは立ち止まって考えることを忘れてしまう。汚れたら売る、破れたら捨てる、いま美しいとされる基準から外れたら自分ごとから遠ざける、そんな具合に。
けど、0か100かの間にもっとコミュニケーションがあっていい。クローゼットかメルカリ行きかの間で窮屈さを覚えたときは、シミだって自分だけの刺繍にできる。そうやって、みんなが生活の隙間で何かを工夫しながら手を動かすことで、生産や消費に性急な時代をちょっとづつやわらかくしていけるかもしれない。
いつもいつでも目的が用意されてる感じは、ちょっと息が詰まる。サンダルをつっかけて、どこに行くでもなく散歩に出かけてみるくらいのラフさで世界を眺めてみるのがいい。そうすることで、ぼくらはまだまだ、いろんなことに気がつけるはずだから。