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わたしが「わたし」であるために

なぜ、書き続けているのか。ここ最近、ずっとそのことについて考えている。

1980年、未来学者であるアルビン・トフラーは著書『第三の波』で、分離された生産活動と消費活動が再び融合に向かっていく「生産消費者(プロシューマー)の到来」という未来を予測した。

まさにその「波」が訪れ、かつてメディアから情報を「享受する」側であった消費者はSNSや口コミの台頭によって自ら情報を取捨選択し、発信する「送り手」に変化しており、今や世を生きる個々人すべてが影響力を持つ時代。

プロとアマチュアの境目はどんどん曖昧になってきている。一億総表現者時代の到来である。(こちらでは、「一億総メディア時代」とも称されていた)

つまり、誰でも「書ける」。文章を書き、「ライター」を名乗ればその日からライターになれる時代なのだ。バズ記事を生み出せる人。繊細な筆致で読者の感情を揺さぶれる人。素晴らしい構成で読み手をあっと驚かせる人。

SNSを通して、毎日たくさんの文章を目の当たりにする。その度、「こんなわたしが書いていてよいのだろうか」と思う。「書き続けることに意味はあるのだろうか」と。泣きそうになるくらい切実に思っている。

けれど、こういう時代だからこそ、わたしは不特定多数の「誰か」ではなく「わたし」でありたい。そのために、何があっても文章を書き続けたい。

原点は、小学生時代6年間、ジャポニカ学習帳に書き続けていた童話だった。

友達が少なくても、いじめられていても。書いていれば、わたしは文章の中で「わたし」として生きられた。思うがままに書きつけていた物語が、登場人物が、わたしを救ってくれた。とりたてて取り柄もない自分が、唯一表彰台に上がれたのが読書感想文を書いたときだった。

仕事に忙殺され、周囲に圧倒されて一瞬何もかもわからなくなったとき、当時の楽しさをふっと思い出した。合間に、とある友達が本業とは別に日々継続して自身の作品を発表しているのをずっと見ていた。本人には照れ臭くて伝えられていなかったのだけど、実はその姿にも感銘を受けていた。

「継続」って、一番難しいことだと思う。作品を発表するうえで不特定多数の心ない一言が突如襲ってくるとも限らないし、自分を信じ続けないといけない。

でも、本当に「書く」のが好きなら、自分を試してみたいと思った。立ち止まらずに進めるのか。誰かの声も周りの目も気にせず、「今」のわたしが等身大で飾らずに、「今」書けるものを毎日絶対に出すことができるのか。そして、そんな丸裸のわたしに共感してくれる人が一体何人いるのか。

まだまだ、道半ばである。けれど、どうか見ていてほしい。わたしは「わたし」であり続けられるのか。いつか、誰かに届く文章を書けるのか。


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