0778:小説『やくみん! お役所民族誌』[23]
第1話「香守茂乃は詐欺に遭い、香守みなもは卒論の題材を決める」
[23]澄舞と東京、姉と弟
<前回>
*
インターンシップ二日目午後。午前中に検討した法令違反事例をもとに30分ほどディスカッションを続けた頃、二階堂に電話が入った。
「ちょっと外します。その間、そうね、明日作る啓発素材について二人で相談してて」
二階堂がパーティションの向こうに姿を消すと、みなもは隣の小室に真面目な顔を向けた。
「あらためて。えふん。──昨日は我が家のことでバタバタしちゃって、ごめんなさい。啓発素材の話し合いがほとんどできなかった」
「謝らなくていいよ。香守さんも、おばあちゃんも、悪くない。悪いのはナチュラリズムの連中でしょ」
「そういってもらえると、助かります」と頭を下げてから、みなもは両手を口の前に広げて小さな声で「いよっ、男前」と付け足した。本人は気づいていないが、深刻になりそうな時におちゃらけて場を和ませようとするのは、父しゃん由来だ。
これに対して小室は胸を張って軽く手を挙げ「君い、本当のことをいっても世辞にはならんよ」と低い作り声と微笑を返し、すぐに真顔になる。
「もう時間がないから、決めてしまわなきゃね。エシカル消費で行く? ぼくはそれで構わないよ」
「あ、ごめん、気が変わった。あのね、やっぱり悪質商法でやりたい」
小室は、へえ、という顔をした。そのままみなもが言葉を継ぐ。
「おばあちゃんが詐欺だの悪質商法だのにやられちゃってるの見たら、他人事じゃないもの。テーマは悪質商法被害防止、どう?」
「オッケー、同感だ。興味を持って取り組めるのが一番だよ」
テーマが決まると、次は具体的なモチーフと啓発媒体だ。モチーフはすぐには決まらなそうなので、先に媒体を考えることにした。
「読みやすさという点ではマンガが一番なんだけどなあ。小室君、絵、描ける?」
「描けるように見える?」
「見える見える」
「描けないって。美術は五段階の2だったよ。香守さんは?」
「描けるように見える?」
「うーん、無理かなw」
「むっ。そういわれると、私の画力を見せたくなるなあ」
みなもはおもむろに緑のボールペンを握り、ルーズリーフの白紙を開いて小室を睨みながらペンを動かし始めた。どうやら小室の似顔絵を描こうとしているらしい。小室の目の前で、緑の線が重ねられていく。
「……ぷっ」
小室が吹き出した。みなもも笑いながら、それでもペンを動かし続け、やがて「似顔絵」が出来上がった。
「くはははは、いやあ、香守さんは画伯だったかあ」
「目があって鼻があって口があって、ほらそっくり」
「やめ、やめて……腹が痛い……」
小室は声を押し殺して笑い続けた。つまりは、そういう絵だった。歪んだ線が不揃いなパーツ構成の記号的な顔を象る、前衛作品だ。
「残念ながら私たちコンビでは、マンガは諦めるしかないね」
こくり、こくりと小室が痙攣しながら頷く。
「あ、それともこの絵で推して参る?」
はははははっ、ひいっ、と小室が決壊した。
「君い、インターンシップ中にそんなに大笑いしてはいかんよ」
みなもは先ほどの小室の口調を真似た。笑いのツボに入った相手には追い打ちを掛けていくスタイル。
そこに二階堂が戻ってきた。机に突っ伏す小室とその横で誇らしげなみなもを見て「え、なになに?」と笑いながら、イスに腰を下ろす。
少しの間、2人が落ち着くのを待って、二階堂は口を開いた。
「ごめん、ちょっと作業中断ね。今の電話、ナチュラリズムのオカダさんだった。この後、上司から大事な連絡をするって。掛かってきたら返金交渉再チャレンジするから、また横で聴いてて」
*
哲さんとキイチとの通話は短かった。「澄舞県消費生活安全室にアポ取りました、担当者の二階堂主任が対応可能です」というだけの内容だからだ。
午前中にキイチから香守茂乃の件で澄舞県消費生活センターが動いていると聞き、哲さんは少し思案をした。充が社員になる気があるのなら、祖母をハメるわけにはいかない。充の様子と、センターの反応、そのふたつから対応を判断したい。そう考えて、充が来ている間にセンターに連絡が取れるよう、キイチに調整を命じていた。
哲さんは充に向かって微笑んだ。
「この後、ちょっと仕事の電話を掛けなきゃいけない。少し待っていてもらっても、時間は大丈夫かな?」
充は壁に掛けられた時計を見た。1時45分。
「授業があるから2時半にはここを出たいんですけど」
「うん、わかった」
哲さんは応接から事務机に移動した。
「電話借りるよー」
哲さんの声がけに龍神が「あ、白いコードレスが転送掛けてます」と応えた。幾重にも電話転送サービスを噛ませて発信番号を偽装するのは、悪質商法の基本だ。アンゴルモアは深網社グループでも違法性を帯びない部門だが、顧客の身辺調査の便などから一応そうした回線を確保していた。
哲さんは受話器を手にとり、ふと思い出したように充に尋ねた。
「ところで香守君は、大学は続けたい、ということでいいのかな?」
「あ、はい」
端的な返事がすぐに返ってきた。哲さんは真意を測る眼差しで充を見た。タイミングを外した質問は、心の隙を突いて反応を見る技法だ。充の反応は、極めて自然なものだった。
充の匿名ブログには、学友や教官への恨み言が綴られている。人間関係としては、大学にも居場所はないと感じているように思ったが──。
まあ、その洞察は後回しだ。
「今から電話をかける先はね、香守君。偶然なんだけど、君の故郷の澄舞県の県庁だよ」
充の祖母の案件であることは、ひとまず伏せておく。後日家族経由で知る可能性は想定している。もしかすると、これから掛ける電話で相手方から祖母の名が出てくるかもしれない。仮にそうなってもなお、彼の心を乱さない対応を、示しておく必要がある。
「私たちの仕事は、消費生活センターとの交渉が欠かせない。いずれ君にもそういう機会が訪れるだろう。様子を聴いておくといい」
*
机上の電話が鳴り、二階堂は受話器を取り上げるのと同時にスピーカースイッチを押した。音声は周囲に聞こえるが、こちらからの声は受話器を通じてのみ送るモードだ。これで傍らにいるみなもと小室、周囲の室員にも会話の内容が伝わる。
「はい、澄舞県消費生活安全室、二階堂です」
会話時より少し低いトーン、他所行きの声。受電時に所属と氏名を名乗るのは澄舞県庁の標準作法だ。
「二階堂さんですね。私はナチュラリズム健康革命協会のシモガキと申します」哲さんの偽名のひとつだ。
「シモガキさん。社長さんですか?」
「いえ、主に渉外系の顧問を務めております。弊社のオカダから、二階堂さんとトラブルになっていると聴きました。何か法律上の問題だそうですがよく理解できないというので、私が代わりに承ります。特商法の関係ですか?」
特定商取引に関する法律の消費者行政現場での略称「特商法」を、シモガキと名乗るこの男はさらっと口にした。少しは話が通じそうだと、二階堂は思った。
そこから3分あまり、主に二階堂から、これまでのやりとりの要点を説明するフェーズが続いた。
哲さんの電話機もスピーカーモードにされていて、会話は充にも聞こえていた。姿の見えない相手の声に意識を集中する。高校では政治・経済ではなく倫理を選択していたから、法律や行政についてはあまり知識がない。それでも、深網社傘下の会社が独り暮らしの高齢者に大量の健康食品を売りつけたことが「とくしょうほう」の「かりょうはんばい」に当たる違法行為として問題視されていることは理解できた。
「なるほど。おっしゃる事は大体分かりました」流れを受けて哲さんが口を開いた。「うちのオカダから聞いた話といくつか食い違っているので反論もしたいんですが、まずそちらの用件の中心を聞かせてください。澄舞県庁は、うちに何を求めているんですか?」
「違法な行為は止めてください」
「ふむ、返品を認めよ、ではなく?」
「具体的な返品・返金は消費生活センターの相談員が別途交渉しています。私は本庁の特商法担当として、事業を適法に行っていただくようお願いをしています。ただ、過量販売には取消権が認められており、これを妨げることは違法ですので」
消費者行政における相談員と行政職員の職務は、明確に区切られている。個別の消費者被害の救済支援は相談員の役割で、行政職員は法令違反の是正指導を担当する。
そもそも消費生活センターに配置される相談員は、国家資格「消費生活相談員」またはそれに準ずる資格を持つスペシャリストだ。比較すれば、まったく関係の無い部署から異動してきて3年後にはまた外へ出て行く行政職員は、素人みたいなものといえる。もちろん公務員試験と入庁後のキャリアを基盤として、どのような所属に移動しても短期間で職務関係知識を深く身につけて行くが、それも自分の担当職務に限られる話だ。
「わかりました。うーん、そうだなあ……取り敢えず、反論しますね?」
哲さんはにっこり笑ってそういった。もちろん電話で話をしている二階堂にはその表情は分からない。目の前で哲さんを見ていた充は、なんだか楽しそうだな、と思った。
「特商法の過量販売規制は承知をしています。訪問販売と電話勧誘販売が対象で、当社の通信販売は対象ではない筈ですが?」
「そこは先ほども申し上げたように、最初の注文は通信販売でも、途中から電話勧誘による販売に切り替わっています」
「それ、いつからかご存じです?」
さらっと哲さんが発した言葉に、二階堂は言い淀んだ。茂乃からの聞き取りでは販売形態の切り替え時期までは特定できていないからだ。
2秒の沈黙からそうと察した哲さんが、言葉を継ぐ。
「確かにこのお客さんには、最初は毎回ハガキで注文票をいただいていたのを、新製品のお薦めを機会に電話で承るようにしました。でもそれ、二ヶ月前ですよ? それ以前とは別の商品を、御家族を含めて五人分を一ヶ月分ずつ、まだ二ヶ月。これのどこが過量なんですか」
「……御家族?」
「ええ、息子さん夫婦と、お孫さんが二人。同居ではないけれど近くに住んでいるとお聞きしています」
二階堂は受話器を耳に当てたまま、みなもを見上げた。弟の充は東京にいるから、家族構成は正しい。みなもは小さく「合ってます」とささやいてそれを伝えた。
シモガキと名乗る男は、丁寧な口調のまま流暢に主張を並べた。過量販売規制をはじめ特商法の規制については社員教育を行っていること。通信販売の段階から、家族みんなで健康になりたいからといわれて、商品を購入されていたこと。定期的に「食べ残しはありませんか」と確認するなど丁寧に聴き取りをして、商品の販売量などが適正かどうかを判断していたこと。
もちろんこれは、哲さんの嘘だ。キイチから聴き取った状況をもとに、適法な状況をでっち上げる。多くの商品を販売したとしても、正当な理由があれは、違法性は問われない。認知症が進んでいるとの報告から、行政も詳細な証言は得ていない筈だと踏んでのことだ。
「当社はこのように認識しています。違法性があるなら改めますが、正確な要件事実を指摘していただけませんか」
要件事実──午前中に聞いたばかりの言葉だ。法律に詳しく一筋縄でいかない相手なのだと、二階堂は知った。
同じ事をみなもも感じていた。相手はこちらの家族のことを知っている。悪質業者なのだとしたら、それは怖いことだ。そうではなく善良な事業者なのだとしたら、おばあちゃんの認知症は日常生活に支障のあるレベルで、相手に迷惑をかけたことになる。どちらにしても、雰囲気は相手方に有利な気がした。
みなもは無意識に体を緊張させ、手にしていた資料封筒を胸の前でかき抱いた。その身じろぎを見て、二階堂は彼女の表情に目をやり、動揺を察した。受話器を左手で耳に当てたまま、机上にあった古封筒の裏に黒のボールペンで「大丈夫?」と記す。それでみなもは自分の緊張に気づき、慌てて頷いて無理に笑顔を作った。
一方、シモガキと名乗る哲さんの傍らでは、充がやりとりに聴き入っていた。この人は凄い、役所の人の論難に一歩も引かず、むしろ言い負かしそうな勢いだ。基礎となる法律知識、論理の適用と展開。間違いなく、頭がいい。そして意思の力。自分にはないもの、自分が憧れ求めるものを、この人は持っている──。
澄舞と東京、消費生活センターと悪質事業者。距離も性質も隔たる両者の側で、姉弟がそれぞれの想いを抱いていた。
「要件事実を明確に示せないのであれば、今日のこのお電話は行政指導の段階ですね?」
「──そういうことです」
「つまり行政手続法に基づいた任意の協力を求めておられると、こう理解してよろしいですか?」
「そうなります」
法律に詳しいなら話が早いと最初に思ったが、これは早すぎる。未調査で確実な違法性を指摘できない今の段階では、強制力のない行政指導しかできないと、シモガキは分かっている。今日はこれ以上追及できない、来週後藤さんに行政調査を掛けてもらって──。
「では、協力しましょう」
「えっ」
二階堂はシモガキの言葉の意味を捉えかねた。
「法律に触れるかどうかは別として、このお宅では当社の商品が食べ切れず大量に余っているという事実を、今こうしてお聞きしました。発送準備中のものは差し止めて、今後も契約はしません。未開封のものの返品返金は、消費期限の問題もあるので全てというわけには行きませんが、可能な範囲で対応するようオカダに指示しておきます。具体的な話は、オカダとそちらの相談員の、ええと、久米さんとで詰めていただくということで、よいですか?」
「あ、ええ、はい、ただ──」
「二階堂さんのお役目は、我々に適法な商売をさせることでしたね。他のお客さんも含めて状況をあらためて確認させて、改善を要するものは改善を図ります。社員もあらためて教育しておきます。他に何かありますか?」
急転直下の展開に二階堂は肩透かしを食らった気分だが、悪い方向ではない。
「いえ、分かっていただけたのであれば、いいんです」
それから二言三言言葉を交わし、受話器を置く。それからみなもを見上げた。
「状況、分かった?」
「解決したんですか?」
「そうみたいね」
みなもの体から緊張がほどけた。はああ、と大きく息を吐いて上半身を前に傾ける。
「……よかったあああっ」
先程までの不安な気持ちが嘘のようで思わず大きな声を出してしまい、みなもは口に手を当てた。二階堂は笑ってポンとみなもの腕を叩いた。その掌の暖かさが、みなもには心地良かった。
「でも、返金額の交渉はこれからだから。久米さん、お願いね」
二階堂は低書架の向こうから上半身を乗り出して聴いていた久米に言った。
「はい。こんなにうまく行くなんて信じられない。二階堂さん、ありがとう」
「私は、あー、ほとんど何もしてないというか」
「そうだね、手玉に取られたね」野田室長がいつの間にか傍らに立っていた。
「ですね、向こうは関係法令をよく理解している。実はまっとうな業者だったのか、それともよほど巧妙な悪質業者か。……行政調査は中止ですか?」
「そうだなあ。今のやりとりを踏まえると、違法な過量販売を繰り返している悪質業者という心証はないねえ」
香守茂乃の案件は和解の道筋が見え、コンプライアンスの徹底も約束された。こうなると、他の被害相談が出てこない限り、特商法調査案件としての優先順位は低くなる。
「まあ、結論は来週後藤さんが出てきてからにしようか」
「わかりました」
二階堂は壁の時計に眼をやる。
「時間が押してきたね。さっきの続きに戻ろうか」
二階堂の言葉に、みなもと小室は頷いた。
*
「どうして、返金を約束したんですか? 交渉は哲さんの方が有利に聞こえました」
充の言葉に、哲さんは通話を終えた受話器を軽く振って見せた。
「有利な状況を作った上で、戦略的撤退をしたのさ。これで向こうは調査する理由がなくなる。ナチュラリズムは規制に触れる商売はしてるけれど、詐欺じゃないからね。行政との駆け引きは、まっとうな企業の顔をしたまま、引くべきタイミングで引く。それが商売を続けるコツだよ」
受話器を机上に置き、哲さんは立ち上がると充の正面に立った。充は自分より少し背の低いこの男に真っ直ぐに見つめられ、眼を泳がせた。
「香守君。世の中で他人に支配されずに生きる術を、君に与えよう。深網社に入ってくれるね?」
充はおずおずと頷いた。
「よし、決まりだ」
哲さんが差し伸べた右手を、充は握った。哲さんの掌の冷たさが、適度な距離感を感じさせて、充には心地良かった。
「今日はもう時間がないね、これからのことはまた夜に電話するよ」
「はい。……それでは、失礼します」
充はぺこりと頭を下げて出口に向かう。その背に哲さんが声をかけた。
「あ、ひとつだけ」
充は足を止め、上半身だけ振り向いた。
「大学は、可能な限り続けたまえ。つらくなったら辞めていい。それまでは、教育資源を享受できる大学生の身分を手放さない方がいい。そこで学ぶ様々な知識は、必ず俺たちの仕事の役に立つ。いいね?」
充は一瞬とまどいの表情を見せたが、素直に「はい」と頷いて、ドアノブに手をかけた。
<続く>
--------以下noteの平常日記要素
■本日のやくみん進捗
第1話第23回、5,737字から1,393字進んで7,130字、上記のとおりドラフト脱稿。一年半前に絵師みどりのさんに描いてもらった第一話用タイトルカットの場面に、ようやく辿り着いたよ。
■本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
【累積325h15m/合格目安3,000時間まであと2,675時間】
ノー勉強デー。
■本日(実際は2日分)摂取したオタク成分
『壬生義士伝』第4部ラストまで。主人公が意外と早めに退場、長男も戦死してどう終わらせるのかと思ったらそう来たのか。史実に基づく流れなんだろうな。『後宮の烏』第2話、1話から間が開いたけど、やっぱこれは出来がいいな。『新米錬金術師の店舗経営』第2話、安心して観られる。『ビステマ』第6話、勇者だけが最後までゲスいのか。