花のふたご
生きながら死んでいるのか、死にながら生きているのか、わたしはときどき、わからなくなる。
ふがいなさにかぶりを振ることも、やるせなさに泣くことも、わたしにはかなわない。
光を見たい。
せめて光を見せてください。
まぶたを透かしてくる遠いまぼろしではなく、いま、ここにある、まばゆい力を。
何千回、祈っただろう。
世界が水晶のようにくだけ散ったあの瞬間、わたしはわたしのなかに閉じこめられた。
「息をしているだけですね」
病院でわたしは、意思も感情もなくしたぬけがらとして、あつかわれた。
――ちがうの。気づいて……
深い深い、灰色の水底にわたしはいる。そこからいくらさけぼうと肉声にならない。いくらもがこうと小指一本うごかない。
「息はいのちのあかしです。生きてるということです」
そう言って、すうちゃんだけは、わたしにずっと寄りそってくれた。
八年前のあの日、タクシーはプラタナスの並木道を走っていた。若葉の重なりのむこうに銀のような雲がたなびき、わたしのとなりには、すうちゃんがいた。
突然だった。
「きのうね――」
すうちゃんのことばを、ものが倒れるはげしい音がさえぎった。窓いっぱいにトラックがせまって、わたしはとっさにすうちゃんに覆いかぶさった。ものすごい力で投げ出され、たたきつけられ、すうちゃんが「ああちゃん」と何度もわたしを呼んで、それから……。
雨の音が聞こえてくる。
あやめのああちゃん。すみれのすうちゃん。
ふたごのわたしたちは、うまれたときから、どこへゆくにもいっしょだった。
「雨あがりの虹は出るかなあ」
「ぬかるみよけて、あっち歩こう」
雨ふりの日にも、そんなことを言いながら、ひとつのかさで肩をくっつけて歩いたっけ。水たまりがきらきらしてると、うれしくなって、長ぐつで飛びこんだっけ。わたしの顔にはねたしぶきを、すうちゃんはぬぐい、小さな花を髪にさしてくれたんだ。
花はわたしたちをどれほど遊ばせてくれたことだろう。うちのまわりはまだまだ田舎で、そよ風のなかを花が降るようだった。ひるさがりは、町の子の知らない、花づくしの遊びの時間。花をつんだら、おままごと。あとは、かんむりを編んだり、花うらないをしてみたり。
やがて夕日が空を七色に染めるころ、そこらじゅうに散り敷いた花びらを、ふたりの手で寄せあつめる。一日遊んでくれた花々は、こんもりきれいな山になる。
川が流れていた。
わたしたちは花をすくい、川のみなもにぱっとほうった。花は色とりどりのいかだのように、水にひろがり運ばれてゆく。草の上の花びらがなくなるまで、いくたびもいくたびもほうりながら、花がうれしがってると、わたしたちは信じてた。いっしょに遊んだ花びらが水をふくみ、つややかに生き返ったから。
ふわっと、病室に花の匂いがただよった。
「川べりでつんできたの」
すうちゃんが花をわたしの顔にやさしく押しあてた。
「わかる?」
なつかしい花の匂い。ひたいにふれるすうちゃんの手。わたしはうなづきたかった。うん、とひとこと言いたかった。
――伝えたい
わたしの思いは、花の匂いにつつまれ、こんこんとあふれ出て、まぶたの下で、かすかな目のうごきとなった。すうちゃんの指さきは、それをのがさず、感じてくれた。
わたしに意識がのこっていることを、すうちゃんはお医者さんに何度も訴えた。けれどわたしの目がうごくのは、すうちゃんの手に覆われたときだけだった。
「おうちへかえりたい?」
ふたりきりになった病室で、すうちゃんの指がまぶたに重なった。
――うん。
わたしは、父さんと母さんがのこしてくれた小さな家にもどってきた。すうちゃんは仕事をやめ、わたしを在宅で介護する決心をした。
「おはよう、ああちゃん。今日は六月七日。静かな雨よ」
わたしがいつを生きているのか、毎朝すうちゃんは教えてくれる。
ことこと煮る音が聞こえ、いい匂いがして、
「お待ちどおさま」
いのちのスープがチューブを通してわたしのからだにそそがれる。
ふしぶしがかたまってしまわないよう、すうちゃんはわたしの指、手首、足首、ひじにひざ、ひとつの関節もおろそかにせず、まげのばす。そのたびに
シャリン――
鈴が鳴る。
「奇蹟の鈴よ」
手首と足首につけた鈴が自然に鳴ったら、わたしがからだをうごかした知らせだと、すうちゃんは言った。
けれど、ベッドの上で、わたしが鈴を鳴らせないまま、なにも変わらない歳月が過ぎていった。それでもすうちゃんは、世界のだれからも忘れられたわたしのかたわらにいてくれた。
空気のそよぎがほほをかすめ、わたしは窓のあいてることを知る。わたしの指を曲げたりのばしたりしながら、すうちゃんが話をはじめる。いつものように、思い出話。
「おぼえてる? 川で花を見おくったあと、おたがいの肩に顔をうずめて、お祈りしたね」
そうだった。青白い花の梨の木をくぐったあたりで。
「お祈りがすんだら、ああちゃんは、なにをお祈りした?と、わたしにきいたの。しあわせがきますようにって答えたら、ああちゃんは、
わたしがすうちゃんをしあわせにしてあげる――
そう言ってくれた。
いま、わたし、人生をああちゃんにささげてる。
しあわせよ。
うごけなくても、しゃべれなくても、なんにもできないようでも、ああちゃんは、教えてくれるから。しあわせって、いま、ここにいるひとに、自分をささげることなんだと。
でも、ああちゃん……わたしやっぱり、もう一度ああちゃんの声を聞きたいよ。目をあわせたいよ。なのにああちゃんは、つぶやくことも、涙をこぼすことさえできないなんて……」
すうちゃんのことばがとぎれた。庭木がさらさら音をたて、風が部屋をふきぬける。ぽつりと、わたしの手にしずくが落ちた。わたしのかわりにこぼした、すうちゃんの涙だった。
「神さま、見てやってよ、ああちゃんを! 死んじゃいないわ! 生きてるのよ立派に!」
すうちゃんが泣いている。
目をつむったままなのに、わたしにはその姿がありありと見える。
灰色の水底に、天からつむぎだされた透明に輝く糸が降りてきた。金糸銀糸より、もっともっとまばゆい糸だった。
シャリン――
糸とわたしの腕がむすばれる。
シャリン シャリン――
糸にひかれ、奇蹟の音をかなで、わたしの腕はあがってゆく。
「ああちゃん……」
すうちゃんのたなごころがあわさって、わたしの手を宝もののようにそっとはさんだ。
見よ、と光がわたしを呼んだ。
ゆっくり目をあけると、光のなかにすうちゃんがいた。
涙が光のかけらになって、こぼれてる。
「すうちゃん」
「なあに? ああちゃん」
「花を」
「うん。花を?」
「川に……」
「うんうん」
「ながしてあそぼ」
「そうしよう」
「すうちゃん」
わたしは身をおこし、すうちゃんの手をにぎって、ずっと前からいちばん伝えたかったことばを口にした。
ありがとう
わたしたちはたがいの肩に顔をうずめた。
「しあわせがきますように」
「わたしがしあわせにしてあげる」
糸の光は、まゆのように、いつしかふたりをつつんでいた。