■本と私2 /『体は全部知っている』他 吉本ばなな
私は学生の頃、自分のことを特に繊細だとは思っていなかった。
私の周りには、
親から英才教育をされているとか
恒常に暴力を振るわれているとか、
リストカットを口にするとか、
引きこもりとか、
そういうキリキリしている人たちがいた。
キリキリしている人たちに比べて 私はなんて普通。
両親が居て貧しくもなく大学まで通わせてもらい、身体も自在に動き、つまりは「幸せもの」で、大した傷も負わずに来た。栄養は充分に与えられた。
彼らは大変だ。自分はそこには及ばない。
辛いとは不幸とはその人達に用意されたことば。私にはそれを謳う資格が無い。そう思った。
けれどそれなのに なんでこんなに苦しいのだろう。
不幸を血や病で表現している人たちを羨む時すらあった。
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私には私の。
本当は、そういうことだ。
知らない間に身が切れていた。
だけど、其れを自分で認めてやれなかった。
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繊細かどうかではない。
感受しているか、ただそれだけの話だった。
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フタをしていると、
時にそれは暴発寸前になる。
訳もわからず、
故に
いたたまれなくて、逃がしどころがなくて。
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そんな時に逃げ込んだのが、吉本ばななの本だった。
たくさん作品はあり、幾冊も読んだ。
ストーリーは覚えていない。
読んでいくと何かをずばりと言い当てる一文があちこちにあった。
「言いようがなかったあれをことばにしてくれた」みたいな。それを求めて、つぎつぎと読んだ。
時にその一文に、救われた。
生きている現実の世界の誰ともわかち合えるものではなかった。そもそも何が苦しいのか。
読むと何かが少し、安らいだ。
それでも、これは私より繊細なひと向けの本だ、と思いながら。
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大学生時代から社会人になり
結婚して実家をでる頃まで
私の本棚には着実に吉本ばなな作品が
増えていった。
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大学生の頃、
自覚のない閉塞、そのいたたまれなさで膨張していた時に、
誰も居ないつもりで
建物の廊下でひとりで歌ったことがあった。
めっちゃネガティブな曲。
radiohead の、nice dream。
自身のための、自身に沿う声音。同調。
そうしたら、実は周囲に聞こえていたようで、
同級生の男の子に「自分に酔ってるんじゃねえよ」と指摘された。からかったとかじゃない、多分自分ばかり不幸ぶるなという不快感の表出。
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顔から火が出た。
私は生きながらずっと自己陶酔しかしていないのかもしれない。
自慰行為ばかりしているのかもしれない。
私には必要なことだが、それは他者に理解されるものではない。
知っていた。
それをうっかり表出して、不快感というフィードバック。やり込めという、やはり傷ついている者からの、応酬。
ああ、やっぱり。
多分このあたりから
人前で出すものではないと再認識したかもしれない。
出したら撃たれる。裁かれる。
やっぱり自分の事は自分で始末しなけりゃあ。
だけど、結局、
周りからみたら、バレバレだったのかもしれない。
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自分のことは、わかっているようで、あんまりわかっていないのかもしれない。
自分に埋まっている罪とか価値とか。
ひとからどう見えているかとか。
本当に望んでいることはなんなのかとか。
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何を書いているのか、まとまらなくなってきた。
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吉本ばなな作品、
最近はあんまり読んでいない。
今読んだらどんな風だろう。
ぱらっとめくってみたら、またすいすいと世界に入り込むのか。
どうだろうか。