417 ハンナアレント・革命について 腕時計問答 高級腕時計
革命についての「Amazonレビュー」より。綺麗にまとまっていたので引用させてもらいます。
5つ星のうち5.0 フランス革命ではなく、アメリカ独立運動こそが徹頭徹尾一貫した革命であった
2019年12月23日に日本でレビュー済み
〇本書では、革命を切り口に、統治と自由の諸問題を考えることになる。革命とは、「政治的な被支配者が支配者にのし上がる(つまりは政治的自由を求める)ことである」と考える著者は、アメリカ独立運動を正真正銘の革命だったとしたいようだ。それではフランス革命は違うのかと言いたくなるが、著者によれば、フランス革命では、目的が政治的自由から途中で貧困の克服に移ってしまったから、ダメなのだという。著者は、別の著作(人間の条件)で、生存のためのlaborよりも作品を残すworkを高く評価し、それよりも政治活動actionに高い価値を置いている。そのような視点から、革命たるもの徹頭徹尾actionであって欲しかったと考え、Laborの問題である貧困解決に向かった仏革命を残念に思っているように思う。著者の結論に賛同するにせよ、しないにせよ、刺激的で啓発的な本だと思う。
〇また、本書に限らずアーレントの特徴は、論旨を進める合間に挟まれる饒舌なおしゃべりだ。古今の文献がすべて頭にはいっているかのような自由自在な議論である。論旨とは直接の関係は無いようにも思われるが、その博識に触れて楽しむこともアーレントを読む楽しみである。
〇以下には私なりに整理した本書のポイントをまとめる。興味があればご覧ください。
〇1.革命の意味:被支配者が支配者にのし上がるという意味での革命は、近代の産物であり、仏革命が嚆矢である。イギリスの無血「革命」などは、復古であり被支配者が支配者の地位に就いたのではない。そもそもrevolutionは天体用語で循環的な意味を持つ。仏革命もアメリカ革命も当初はかつて手にしていた権利を再び取り戻すという意識で始めた。革命が目指したものは、自由でもあり解放でもある。いわゆる「自由」には、抑圧からの解放liberationを意味するlibertyと積極的に公共体での役割を図るfreedomとがある。ギリシャポリスの自由は、libertyのみではなくfreedomを前提にしていた。仏革命の当初はfreedomを目指したが、下層民が登場するにおよんで貧困からの解放が主題となった。
〇2.社会問題:フランス革命は政治的自由(参加)を求めて始まったが、パリ下層民が前面に出てくることによって貧困からの解放と言う社会問題の解決が目的となった。これに対してアメリカの新世界では以前から貧困・貧窮は解決されていたから(奴隷制に目をつぶればということだが)、革命は最後まで政治的であり新しい統治体制の確立が目的であり続けた。
〇3.幸福の追求:米独立宣言は「幸福追求権」を定める。起草者のジェファソンは公的幸福(統治に参加して力量を発揮し称賛を浴びる幸福)と私的自由(他に煩わされずに自分の利益となることに没頭できる幸福)の双方を含意したはずであるが、後に私的自由のみを意味するように解釈されるようになってしまった。しかし、アメリカ革命の当事者は、公共の仕事にかかわり、議論をし、自らを発揮することで称賛を受けることにこの上ない喜びを感じていたことは間違いない(これは古くはソクラテスに連なる)。
〇4.自由の構成:革命はその後の統治機構を作らなくてはならない。フランス革命では、人民(実体はない)を法を超越する最高の存在と捉えて(ルソーの一般意思)、それを根拠に立憲会議で上からの憲法を作成したが、その憲法は注目も重視もされずに変遷を重ね成功しなかった。これに対してアメリカは、コロニーが集まって州を形成し、州が集まって連邦を形成するという下からの権限移譲に基づいて憲法を作った。内容的に特別新しいものはなかったが、確かな根拠(理論でしかない社会契約が存在するように見える)をもとにゆるぎない憲法となった。
〇5.新しい秩序:社会をつくるには権力だけではなく権威がいる。絶対王政は王権神授説を前提としたように、最高位の法は、権威をまとわなければならない。アメリカ革命はここを鮮やかに切り抜けた。Founding fathersが議論し合意した内容を「われわれは、これらの真実を自明のものとみなす」と宣言することによって、独立宣言の前文をさらなる理屈や説得なしに通用させる権威あるものとした。これは新しく始めることが権威の源であるということで、古代ローマに学んだもの。アメリカでは、check and balanceを徹底し、新しい工夫として、最高裁判所(議会の制御)と上院(利害ではなく普遍的意見の源)に権威を与えた。フランス革命ではかかる新しい始まりができなかったので、自然法やら神々の認証やらを考える必要があった。
〇6.革命の伝統:革命の後になると革命的精神(公的活動に参加することに幸福=公的幸福を覚える精神)が忘れられている。これは残念なことだ。実は、どの革命でもその初期の段階でジェファソンの唱えた区制のようなものが自然発生的に出現する(パリ・コミューンのセクション、評議会、ソヴィエトなど)。それは人民の公的参加の場である。さらにそれらは上位の評議会を構成し、最後は全国的な代表を選出するまでになる(アメリカの下位から上位への権限移譲そのものである)。しかし革命党は、得てしてこれらの評議会の抑圧に回る。結局のところ革命党は中央集権的な一党独裁を求め、地方組織に公的参加ではなく命令の執行を求めるのである。
太田さんとホリエモンのコラボ。面白かったw
適切な肖像権利用・パブリシティガイド
https://www.j-m-a-a.com/data/jmaa_guideline20220325.pdf
新型G-SHOCKも!カシオスマートウォッチおすすめ12選|ソーラー充電対応も
2023/04/15
出典:amazon.co.jp
耐久性が高く、アウトドアやスポーツでの使用にぴったりなカシオのスマートウォッチ。様々なアプリがインストールできるOS搭載機種も続々登場。歴代人気のG-SHOCK(Gショック)からも最新モデルが登場し、アスリートや登山家から注目を集めています。
しかしカシオのスマートウォッチは、トレーニング計測に特化した機種や、ソーラー充電ができるアウトドア向けタイプまでさまざま。iPhoneやAndroidと連携できるモデルもあり、どれ選んでいいかわからないという方も多いはず。
この記事では、使い方に合わせたカシオスマートウォッチの選び方に加え、おすすめ商品12選をご紹介。G-SHOCKの最新モデルをはじめ、OS搭載、ソーラー充電などタイプごとに紹介するので、ぜひ参考にしてください。
目次 [非表示]
耐久性抜群!かっこいい見た目のカシオ(Casio)スマートウォッチでできること
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スポーティーで高級感のあるデザインが人気のカシオの腕時計。中でも耐久性の高い「G-SHOCK(Gショック)」や「PRO TREK」シリーズにスマート機能を搭載しているモデルが人気です。
【カシオスマートウォッチでできること】アプリ連動で登山・釣り・ゴルフなどアクティビティに活躍
出典:amazon.co.jp
カシオのスマートウォッチは心拍数計測やトレーニングの記録など通常のスマート機能に加え、「Wear OS by Google」というOSを搭載し、様々なアプリをインストールできるモデルがあります。
「Wear OS by Google」搭載タイプで使えるカシオのオリジナルアプリは、登山や釣りなどの8つのアクティビティに対応。あなたの趣味や活動に合わせ、カシオのスマートウォッチをさらに便利にアップデートできます。
カシオスマートウォッチと連動できるアプリ&できること一覧
アクティビティアプリ名内容登山YAMAP
ViewRangerルートガイド・地図ダウンロード・ナビゲーションスノースポーツSki Tracks for CASIO標高、地図機能・位置情報・滑走数、滑走時間、滑走距離の計測ゴルフHole19 Golf GPS世界中の41,000以上のコースアシスタント・スコアカウンター・残距離計測釣りFishbrain世界中の釣りポイント表示・潮汐情報・魚の動き予測・釣果計測サイクリングNAVITIME
Bikemap自転車用道路検索・地図機能・時間、スピード、距離計測・走行ルート記録フィットネスExercise Timerワークアウトメニュー作成・メニュー進捗状況表示ランニングStravaStravaルート、走行軌跡の記録・ペース、距離、タイム記録・心拍数記録馬術Equilabトレーニング作成・速度、時間計測・トレーニング内容記録
これら特定のスポーツやアクティビティに特化したアプリを使うことで、トレーニングや成果の向上に役立ちます。また、ほとんどのアプリがオフラインでも使用可能なため、電波を気にする必要もありません。
【圧倒的な耐久力】水や気圧、塵にも強い設計
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G-SHOCK(Gショック)の「G」はGravity(重力)のこと。「落としても壊れない腕時計」をコンセプトに、カシオは耐久性の高い時計を追求してきました。カシオでは多くの「G-SHOCK」や「PRO TREK」シリーズのスマートウォッチに、高い耐久性能機構を採用しています。
耐衝撃構造「SHOCK-RESISTANT STRUCTURE」
ボタンやネジからもホコリや泥が入らない防塵機構「MUD-RESISTANT STRUCTURE」
水泳に使用できる20気圧防水
ダイビングにも使用できるISO規格200m潜水用防水
標高の高い山へのアタックや、雪山でのトレーニングなど、ハードな活動を行う方ほど耐久性の高いカシオのスマートウォッチがおすすめです。
また文字盤の表面に特殊なサファイアガラスを搭載。ダイヤモンドの次に硬いといわれるサファイアガラス製なら不意に腕時計のガラス面をぶつけてもヒビや傷が入る心配もありません。建設現場など外でのハードワークをする方にもおすすめですよ。
カシオスマートウォッチ最新モデルと人気シリーズ
この章では人気のG-SHOCKシリーズの最新機種やアウトドアシーンで使いやすいPRO TREKシリーズなどについて解説します。それぞれのメリットや特徴をご紹介しますので参考にしてください。
アウトドアに最適!PRO TREKシリーズが大人気
おすすめ
SmartOutdoorWatch(スマートアウトドアウォッチ)
最安値 ¥39,000 (税込)
耐久性や機能性を追求した「PRO TREK」シリーズは、アメリカ・ロシア・日本の3か国の衛星測位に対応した正確なGPS機能が搭載されたPRO TREK最上位モデルです。誤差の少ない位置情報の取得ができ、地図もカラーで表示できます。
「Wear OS by Google」が搭載されたことで、地図データを本体にダウンロードでき、オフラインでも現在地の測位ができるようになりました。電波の途切れやすい登山やスキー・スノボ、海上に出る釣りなどアウトドアを楽しむ方にはぴったりのスマートウォッチです。
G-SHOCK(ジーショック)のこだわりがつまった!「G-SQUAD PRO GSW-H1000」が登場
おすすめ
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥68,150 (税込)
2021年5月15日、初めてG-SHOCKにWear OS by Googleを搭載した「G-SQUAD PRO GSW-H1000」が登場しました。G-SHOCKらしく、耐衝撃や20気圧防水などの耐久性能はそのままに、スポーツやワークアウトに特化した多彩な機能を搭載。現在カシオから販売されているスマートウォッチの中では最上位モデルです。
スマートウォッチならではの、心拍計測・方位・高度・気圧・加速度・GPSの機能も装備。スポーツだけでなく、登山や釣りなどのアウトドア向けの機能も充実しています。また、iPhoneやandroidなどのスマホと連携せずに本体だけでランニングの距離や速度、ペースなどのデータを計測・記録が可能な点も嬉しい特徴。屋内・外でのワークアウトやジョギング、エクササイズなどの効率アップをサポートしてくれます。
さらにGoogleのOSを搭載したことで、メールの送受信や電話機能付き、さらにはGoogleアシスタントによる音声操作もできるようになりました。トレーニングだけでなく日常使いにも申し分なく人気のモデルです。
従来モデルに比べてより軽量化!「G-SQUAD GBD-H2000」
おすすめ
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥49,500 (税込)
前モデル「GBD-H1000」と比較して、より軽量化された新モデル「GBD-H2000」が2023年3月10日に発売。重量は63gで、前モデルの101gと比較して38%軽量化しています。
心拍測定やGPSによる距離・速度測定、ソーラーアシスト充電にも対応しているほか、スマホからの通知も受け取り可能。前モデルでは少し重いと感じていた方にぴったりで、多機能かつ付け心地がいいスマートウォッチをお探しの方におすすめです。
よりカジュアルでコスパに優れるDW-H5600
出典:casio.co.jp
日常的に使うことを考慮して作られた角型デザインのDW-H5600が2023年5月19日に発売予定です。GBD-H2000と比較してカジュアルな機能性で、加速度や心拍のセンサーは搭載しているものの、GPSは搭載していません。
測定可能なアクテビティも4種類しかありませんが、その分価格は安いのが特徴の1つ。ソーラーアシスト充電にも対応しているため、普段は時計として使いつつ、たまにアクテビティを計測したい方などにおすすめです。
【ソーラー充電可能】カシオスマートウォッチおすすめ比較一覧
商品最安価格OS搭載電源タイプバッテリー稼働時間搭載機能メール・着信機能防水
G-SQUAD GBD-H1000-4JR楽天市場¥45,437 AmazonYahoo!無USB+ソーラー充電時刻モード:12カ月 セーブモード:66時間 通常モード:14時間光学式センサー・トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・GPS機能・トレーニングプラン作成・トレーニングデータ管理有20気圧防水
G-SQUAD GBD-100SM-1JF楽天市場¥19,800 AmazonYahoo!無USB+ソーラー充電通常モード:14時間 バッテリーセーブモード:66時間トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム・消費カロリー表示・携帯電話探索有20気圧防水
G-SQUAD GSW-H1000-1JR楽天市場¥68,150 AmazonYahoo!有USB+ソーラー充電通常モード:14時間 バッテリーセーブモード:66時間トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム・消費カロリー表示無20気圧防水
G-SQUAD GBD-H2000-1A9JR楽天市場¥49,500 AmazonYahoo!無USB+ソーラー充電通常モード:16時間、ウォッチモード心拍計測オフで約2か月、パワーセービング状態で約23か月アクテビティ機能・トレーニング分析機能・アクティビティログデータ・心拍測定機能・睡眠計測・呼吸計測・歩数計測・アクティブタイム計測・方位計測機能・モバイルリンク機能有20気圧防水
【ソーラー充電可能】カシオのスマートウォッチおすすめ4選
4位
G-SQUAD GBD-H2000-1A9JR
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥49,500 (税込)
ソーラー充電も搭載!多数のスポーツに対応できるG-SHOCK
速度や距離を計測できるGPSに加え、心拍数や歩数なども計測できる複数のセンサーを搭載したG-SHOCK。ランニングペースなどを把握できるほか、水泳の泳法やターンの判定もできます。
ソーラー充電対応で、充電が少なくなっても時刻だけはソーラー充電で駆動可能。スポーツで活動量を計測した後に充電が少なくても、陽が出ていれば時計としての機能が使えなくなることはありません。
前モデルのGBD-H1000と比べて軽量なのも魅力の1つ。本体重量は63gしかないため、スマートウォッチ装着時の重さが気になる人にもおすすめです。
OS搭載無電源タイプUSB+ソーラー充電バッテリー稼働時間通常モード:16時間、ウォッチモード心拍計測オフで約2か月、パワーセービング状態で約23か月搭載機能アクテビティ機能・トレーニング分析機能・アクティビティログデータ・心拍測定機能・睡眠計測・呼吸計測・歩数計測・アクティブタイム計測・方位計測機能・モバイルリンク機能メール・着信機能有防水20気圧防水
3位
G-SQUAD GSW-H1000-1JR
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥68,150 (税込)
USB+ソーラー充電を装備したハイスペックなカシオスマートウォッチ
USB+ソーラー充電でバッテリー切れの不満を解消したG-SQUADの上位機種「GSW-H1000-1JR」。屋外での使用でも充電切れの心配を軽減できます。
高度計、気圧計、方位計などを装備し、登山などの屋外アウトドアにも適したモデルです。
またアウトドア向け機能の他にも、トレーニングログ機能を搭載。タイム計測やペース、有酸素運動効果のデータまで表示できます。
アウトドアなど屋外での使用と、日常のトレーニング計測もしたいという方におすすめです。
OS搭載有電源タイプUSB+ソーラー充電バッテリー稼働時間通常モード:14時間 バッテリーセーブモード:66時間搭載機能トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム・消費カロリー表示メール・着信機能無防水20気圧防水
2位
G-SQUAD GBD-100SM-1JF
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥19,800 (税込)
ソーラー充電搭載ながら2万円以下と安い。コスパ最強のカシオスマートウォッチ
トレーニングサポートに優れ、ソーラー充電機能を備えた「GBD-100SM-1JF」がG-SQUADシリーズの中でも人気です。時刻モードだけの使用ならUSB充電がいらないほどの充電力。充電切れを気にせず、日常的にフルで使えます。
心拍測定や歩行数の計測機能を使っても約66時間ほどの充電のもちの良さ。
さらに歩行開始とともに計測を始める「ステップトラッカー」を搭載。毎日の総歩数と目標達成率を表示してくれます。
ほかのモデルに比べて安いので、購入しやすいですよ。健康が気になる方の運動不足解消にぴったりのソーラー充電式スマートウォッチです。
口コミ・レビュー
トレーニング機能が充実していて、値段が安いスマートウォッチを探して見つけました。ディスプレイの表示がとても見やすいです。着け心地が良く、デザインも素晴らしいのでとても気に入っています。ソーラー充電ができるので、トレーニング機能やGPSを切っていればほとんどUSB充電の必要がありません。機能も豊富なのでおすすめできる商品だと思います。
OS搭載無電源タイプUSB+ソーラー充電バッテリー稼働時間通常モード:14時間 バッテリーセーブモード:66時間搭載機能トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム・消費カロリー表示・携帯電話探索メール・着信機能有防水20気圧防水
1位
G-SQUAD GBD-H1000-4JR
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥45,437 (税込)
多機能でバッテリー長持ち!上位モデルのカシオスマートウォッチ
「GBD-H1000-4JR」はソーラー充電・光学式センサーを搭載したG-SQUADの上位のモデルです。晴れた日の窓際はもちろん、蛍光灯下でも充電ができるソーラー式充電。1日中身につけることが多い方も充電切れの心配なく使えます。
耐衝撃性に優れ、ディスプレイに直接傷がつかない構造。また、水泳にも使える20気圧防水なので、ウォータースポーツのトレーニングでも使用できます。
トレーニングログ機能はもちろんのこと、日常生活の活動量(消費カロリーや心拍数)も計測でき、多機能で幅広く使えるモデルです。
屋外や屋内、日常生活やトレーニング時など、様々なシーンで使いたいと思っている方におすすめ。
口コミ・レビュー
機能が豊富で、使っていてとても楽しいG-SHOCKです。RUNボタンを押して歩き始めるだけで距離や時間、歩数や消費カロリーを計測してくれるので便利です。予想以上にバッテリーが長持ちで、通常使用なら2~3日はUSBでの充電はいりません。スマホとの連携も素晴らしく、トレーニングの管理に役立っています。さすがG-SHOCKという感じです。
OS搭載無電源タイプUSB+ソーラー充電バッテリー稼働時間時刻モード:12カ月 セーブモード:66時間 通常モード:14時間搭載機能光学式センサー・トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・GPS機能・トレーニングプラン作成・トレーニングデータ管理メール・着信機能有防水20気圧防水
【OS搭載】新作カシオスマートウォッチおすすめ比較一覧
商品最安価格OS搭載電源タイプバッテリー稼働時間搭載機能メール・着信機能防水
ANGLER LINE PROTREK B70¥24,640 楽天市場AmazonYahoo!有USB充電通常モード:1.5日、省電力モード:3~30日Wear OS by Google・GPS・二層構造ディスプレイ・高度、気圧、方位、タイドグラフ、日の出日の入り時刻、活動量の計測&表示-20気圧防水
プロトレックスマート 心拍計測機能 WSD-F21HR楽天市場確認中 AmazonYahoo!有USB充電通常モード:1.5日、省電力モード:3~30日Wear OS by Google・GPS・二層構造ディスプレイ・高度、気圧、方位の計測&表示・光学式センサー(心拍計)・トレーニング管理機能有20気圧防水
ANGLER LINE PROTREK B70¥24,640 楽天市場AmazonYahoo!有USB充電通常モード:1.5日、省電力モード:3~30日Wear OS by Google・GPS・二層構造ディスプレイ・高度、気圧、方位、タイドグラフ、日の出日の入り時刻、活動量の計測&表示-20気圧防水
【OS搭載】新作カシオのスマートウォッチおすすめ人気ランキング3選
3位
ANGLER LINE PROTREK B70
最安値 ¥24,640 (税込)
「釣り」のデータを管理できる!釣り人向けスマートウォッチ
PRO TREKシリーズの中でもフィッシング機能に特化した「ANGLER LINE B70」です。GPS機能はGPS・GLONASS・みちびきの3衛星に対応。正確に位置を表示してくれるGPS機能をもとにフィッシングポイントを記録。さらに、魚の釣れやすい日の出日の入りの時間を自動で教えてくれる機能も。釣り人にはもってこいのスマートウォッチです。
さらに、20気圧防水の設計で川辺や海辺の使用も安心。文字盤にはイルミネーター(照明)が搭載され、暗所でも時刻を確認できます。
本格的に釣りの趣味を楽しみたいという方におすすめです。
口コミ・レビュー
ディスプレイの表示がとてもシンプルで見やすいスマートウォッチです。スマホとも簡単に連携できるし、文字盤のレイアウトを視覚的に変更できるので使いやすいです。時計と地図が同時に表示できるタイプは珍しいですね。時計としての機能を失わずにナビができるので便利です。夜は電源を切れば2~3日は電池が持つのでバッテリーも強いですね。LINEの通知も見れるので普段使いに重宝しています。
OS搭載有電源タイプUSB充電バッテリー稼働時間通常モード:1.5日、省電力モード:3~30日搭載機能Wear OS by Google・GPS・二層構造ディスプレイ・高度、気圧、方位、タイドグラフ、日の出日の入り時刻、活動量の計測&表示メール・着信機能-防水20気圧防水
2位
G-SQUAD PRO GSW-H1000-1A4JR
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥64,999 (税込)
iPhoneやAndroidでも管理できるOS搭載モデル
G-SHOCKシリーズ初のWear OS by Google搭載機種「G-SQUAD PRO GSW-H1000」。OSを搭載したことで、さまざまなスポーツや趣味活動をサポートするアプリが使えるように。データもそのままiPhoneやandroidのスマホはもちろん、本体でも管理できるので、トレーニングやダイエットの効率化にぴったりです。
さらに耐衝撃性能と水泳にも使える20気圧防水仕様で、屋外スポーツの衝撃による破損の心配もありません。
メールの送受信可能・通話機能付き・SNSの通知対応と携帯さながらのモデル。仕事でスマホを携帯できない方にもおすすめです。
口コミ・レビュー
デザインの良さと、マルチセンサーの搭載でこちらの商品に決めました。見るからに頑丈な造りで安心感があります。以前のスマートウォッチは登山などでGPSを使っていると5時間ほどで電源が落ちていましたが、これは12時間ほどもちました。かなり使い勝手がいいですね。トレーニング中も心拍を測定できるので、ペースをつかみやすいですよ。トレーニングで使うにはぴったりだと思います。
OS搭載有電源タイプUSB充電バッテリー稼働時間通常モード:1.5日、省電力モード:3~30日搭載機能Wear OS by Google・GPS・二層構造ディスプレイ・高度、気圧、方位の計測&表示・光学式センサー(心拍計)・トレーニング管理機能メール・着信機能有防水20気圧防水
1位
プロトレックスマート GPS搭載 WSD-F30
SmartOutdoorWatch(スマートアウトドアウォッチ)
最安値 ¥39,000 (税込)
長時間のアウトドアでも問題なしのタフな新作モデル
アウトドア向けとして設計されたPRO TREK smartの「WSD-F30」。最大3日間のGPS機能と地図表示を可能にした最小電力「エクステンドモード」を採用。高山への2泊3日のアタックやキャンプでも安心して使えます。日常生活用強化5気圧の防水性能で雨の中でも使用可能。
モノクロとカラーの2層表示で、電力消費を抑えつつも見やすいディスプレイです。高度や気圧、方位を一括で表示できるので手元で情報をすぐに確認できます。
またOS搭載機種なので、カシオのオリジナルアプリを使って普段のエクササイズやトレーニングの記録もできます。生活全般でフルにスマートウォッチを活用したい方におすすめです。
口コミ・レビュー
思っていた以上にコンパクトで、仕事中でも使いやすいスマートウォッチです。バッテリーの持ちもよく、通常使用で2日間くらいはもちました。GPS機能として日本の「みちびき」も使用できるとあったので、ジョギングの走行ルートを計測しましたが、とても正確です。タッチパネルの液晶画面は意外と大きく使いやすいですね。良い買い物だったと思います。
OS搭載有電源タイプUSB充電バッテリー稼働時間通常モード:1.5日、省電力モード:3~30日搭載機能Wear OS by Google・GPS・二層構造ディスプレイ・高度、気圧、方位、タイドグラフ、日の出日の入り時刻、活動量の計測&表示・位置情報共有・オリジナルウオッチフェイス・メール・着信機能有防水日常生活用強化5気圧防水
【健康管理(ヘルスケア)】カシオスマートウォッチおすすめ比較一覧
商品最安価格OS搭載電源タイプバッテリー稼働時間搭載機能メール・着信機能防水
G-SHOCK × asics GSR-H1000AS-SET楽天市場¥57,200 AmazonYahoo!無USB充電トレーニングモード:50時間 通常モード:55時間モーションセンサーセット・光学式センサー・トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・GPS機能・トレーニングプラン作成・トレーニングデータ管理有20気圧防水
G-SQUAD GBD-100-2JF楽天市場¥17,424 AmazonYahoo!無USB+ソーラー充電通常モード:14時間 バッテリーセーブモード:66時間トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム・消費カロリー表示・携帯電話探索無20気圧防水
G-SQUAD GBD-100-1A7JF楽天市場¥17,424 AmazonYahoo!無電池式‐トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・潮回りデータ・ムーンデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム有20気圧防水
G-SQUAD GBD-H1000-8JR楽天市場¥66,000 AmazonYahoo!無USB+ソーラー充電トレーニングモード:14時間 通常モード:18時間光学式センサー・トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・GPS機能・トレーニングプラン作成・トレーニングデータ管理有20気圧防水
ジーショック G-LIDE GBX-100-1JF楽天市場¥16,505 AmazonYahoo!無電池式‐トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・潮回りデータ・ムーンデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム有20気圧防水
【健康管理(ヘルスケア)】カシオスマートウォッチおすすめ5選
5位
ジーショック G-LIDE GBX-100-1JF
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥16,505 (税込)
モバイルリンク対応スクエア型カシオスマートウォッチ
世界中のアスリートから支持を受けるG-LIDEの「GBX-100-1JF」。日常のトレーニングに必要な機能を多彩さが特徴です。加速度センサーによる計測タイム・消費カロリー・ペース・走行距離・平均ペース・平均速度・速度・ラップタイムなど多くアクティビティ計測機能を搭載していますよ。
またモバイルリンク対応なので、iPhone・androidで月間データや運動データの管理が可能に。水泳でも使える20気圧防水で、サーフィンやヨットなどマリンスポーツのアスリートに人気を集めています。
センサーによるデータ計測で健康管理を意識したいという人におすすめのスマートウォッチです。
口コミ・レビュー
とてもコスパの良い商品だと思います。コンパクトなデザインなのでどんな服でも邪魔にならず、しかも機能が豊富。iPhonとのリンクも簡単で、詳細なタイドグラフが見れるのでトレーニングに助かります。しかも一般的なスマートウォッチと違い電池式なので、充電の面倒が無いのが魅力ですね。ただ頻繁に省電力モードに入るので、故障と間違わないように注意が必要です。トレーニング目的なら最強のスマートウォッチだと思いますよ。
OS搭載無電源タイプ電池式バッテリー稼働時間‐搭載機能トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・潮回りデータ・ムーンデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイムメール・着信機能有防水20気圧防水
4位
G-SQUAD GBD-H1000-8JR
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥66,000 (税込)
心拍センサー搭載でさらに持久力・運動効率をアップ
トレーニング管理に優れたG-SQUADでも心拍センサーを備えた上位モデル「GBD-H1000-8JR」。5種類の豊富なセンサーで心拍数と共に、歩数・温度・気圧を測定し、活動状況をリアルタイムでの確認が可能です。持久力の強化につながる数値管理ができ、より効率的な運動を意識できます。
バッテリーの充電はUSB充電に加え「ソーラー充電」も搭載。屋外での使用時、バッテリー切れの心配を軽減します。
運動状況や健康状態をセンサーでより精細に管理したいという方におすすめです。
口コミ・レビュー
雑誌に特集されていたこの「GBD-H1000-8JR」を見て一目惚れし購入しました。ランニングで使用していますが、GPS機能は優秀で正確に位置を計測してくれます。スマホとリンクして心拍数や歩数、気圧や距離まで計測できるのは、個人のトレーニングには本当に便利です。普段使いならソーラー充電で賄えるほどなので、USBでの充電の回数が少なくて済むのも良い点ですね。
OS搭載無電源タイプUSB+ソーラー充電バッテリー稼働時間トレーニングモード:14時間 通常モード:18時間搭載機能光学式センサー・トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・GPS機能・トレーニングプラン作成・トレーニングデータ管理メール・着信機能有防水20気圧防水
3位
G-SQUAD GBD-100-1A7JF
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥17,424 (税込)
オートラップ機能あり!ダイエットにもぴったりカシオスマートウォッチ
G-SHOCKシリーズでもトレーニングサポートを目的として作られたG-SQUADの「GBD-100」。Bluetoothによるスマホと連携が可能です。距離や走行時間の計測はもちろん、ランナーには嬉しい自動でタイムを測定するオートラップ機能が搭載。アプリと連携して達成度・履歴・トレーニングメニューを管理でき、目標に合わせてサポートしてくれます。
また歩行を感知して自動で計測をスタートする「ステップトラッカー」を装備。1日の歩行数や移動距離を自動で記録・表示します。
ランナー向けの機能が豊富ですが、ダイエットを成功させたい方にもおすすめのスマートウォッチです。
口コミ・レビュー
値段の安さとデザインのかっこよさでこの商品を購入しました。画面も見やすく、操作性も抜群です。本体も軽く、マラソン中に着けていても楽ですね。電池式なのでフルマラソンでもバッテリー切れの心配が無いのが嬉しいですね。スマホと連携すれば速度や距離、オートラップも計れるのでトレーニングも計画的にできます。とてもコスパの良い商品だと思いますね。
OS搭載無電源タイプ電池式バッテリー稼働時間‐搭載機能トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・潮回りデータ・ムーンデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイムメール・着信機能有防水20気圧防水
2位
G-SQUAD GBD-100-2JF
G-SHOCK(ジーショック)
最安値 ¥17,424 (税込)
G-SHOCKのスポーツモデル!トレーニングメニューも自動作成可能
光学式センサーと加速度センサー搭載で緻密な運動量計測ができるG-SQUADの「GBD-100-2JF」。専用アプリで、スポーツや活動ログを録り、自動で独自トレーニングメニューを作成してくれます。スマートウォッチひとつで、まるでインストラクターが付いているようなサポート。
さらにトレーニング機能だけでなく、消費カロリー計測機能も装備。歩数や距離から消費カロリーを計算しアプリに表示します。日常の健康管理も簡単です。
毎日トレーニング機能を使っても、電池は丸2年も持ちます!都度、充電するのが面倒な方や、スポーツ、トレーニング機能が充実しているスマートウォッチが欲しい方におすすめのモデルです。
価格は16,000円とリーズナブル。ヘルスケアができて安いカシオスマートウォッチを探している人はぜひチェックしてみてください。
口コミ・レビュー
機能がたくさんあってデザインもよく、素晴らしいスマートウォッチです。サイズも大きすぎず腕に馴染みます。スマホにアプリを入れて連携すると、ワークアウトの設定などを細かく設定できるので楽しくトレーニングができますね。Bluetoothで接続するとLINEやメールなどの着信を教えてくれるのが便利です。ポケットにスマホを入れたくないので助かりますね。
OS搭載無電源タイプUSB+ソーラー充電バッテリー稼働時間通常モード:14時間 バッテリーセーブモード:66時間搭載機能トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・モバイルリンク機能・ワールドタイム・消費カロリー表示・携帯電話探索メール・着信機能無防水20気圧防水
1位
G-SHOCK × asics GSR-H1000AS-SET
G-SHOCK SPORTS(ジーショック スポーツ)
最安値 ¥57,200 (税込)
カシオとアシックスの共同開発から生まれたランナー向け端末
カシオとアシックスの共同開発から生まれたランナー向けのスマートウォッチ「Runmetrix」です。G-SHOCKとモーションセンサーを連携し、ランナー個人に最適なトレーニングプランを作成します。またランニングフォームやトレーニングの改善点をアドバイスしてくれます。理想の走りを追求できますよ。
モーションセンサーを装着することで、ピッチやストライド体の傾きなど、20種類以上のランニング指標を測定できます。光化学センサーと加速度センサー搭載で、脈拍や歩数、移動距離や運動の強度が計測可能。さまざまな角度から分析し、理想の走りを目指せます。緻密なデータやトレーニングプランを元に本格的なトレーニングをしたい方におすすめです。
口コミ・レビュー
期待していた以上に高性能な組み合わせです。モーションセンサーはウェアに付けても邪魔にならず、クリップがしっかりしているので落下の心配もありません。センサーでは腕の振りや体の傾斜などランニング姿勢の弱点を的確にアドバイスしてくれます。想像以上のクオリティに驚くばかりです。本格的にランニングのトレーニングを積みたいならぜひおすすめします。
OS搭載無電源タイプUSB充電バッテリー稼働時間トレーニングモード:50時間 通常モード:55時間搭載機能モーションセンサーセット・光学式センサー・トレーニング機能・トレーニングログデータ・ライフログデータ・GPS機能・トレーニングプラン作成・トレーニングデータ管理メール・着信機能有防水20気圧防水
カシオスマートウォッチの選び方
カシオのスマートウォッチを選ぶポイントは4つあります。
OSの有無
スマホ連携
バッテリーや充電タイプ
計測機能
これらのポイントを押さえて、スマートウォッチを便利に使いたいシーンに合わせて選びましょう。
メール受信もSNSも自由に使える、OS搭載かチェック
出典:amazon.co.jp
カシオのスマートウォッチには、GoogleのOS「Wear OS by Google」搭載機種と非搭載機種があります。OS搭載のスマートウォッチは通常のスマート機能に加え、以下の便利なツールを使用できます。
OS搭載スマートウォッチの追加機能
各種アプリの追加
音声で操作できるGoogleアシスタントの使用
メール受信・通話・SNS着信通知(LINE含む)機能
「GooglePlayMusic」「GoogleFit」「GoogleMap」などGoogleAppsの機能
スマホを手元に置けないアクティビティ中にも、音楽を聴きたい時ってありますよね。またOSを搭載した製品であれば、スマホにかかってきた電話をスマートウォッチに転送し通話を楽しめます。スマートウォッチで直接会話もできるし、Bluetoothでペアリングしたイヤホンを使って通話もできます。
OS搭載のないタイプでもBluetoothでスマホ連携が可能
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OSが搭載されていない製品でもBluetooth接続(モバイルリンク)によってiPhoneやAndroidスマホとの連携が可能です。
モバイルリンクでできること
GPS機能と連携により距離補正や走行ペースの計測
タイムを計測・歩数計測機能・インターバルタイマー・ラップタイム計測・消費カロリー計測などのトレーニングサポート
ライフログやアクティビティ履歴の記録
トレーニングメニューの作成
メールや電話などの着信通知
OS搭載モデルの相場は約4〜7万円ほどですが、モバイルリンクタイプは約1〜3万円で購入できるのがほとんどです。
トレーニングログを取るだけで十分と感じている方、データは基本的にスマホで管理したい方は、コスパがいいOS非搭載の「モバイルリンクタイプ」がおすすめですよ。
関連記事:【4,000円以下も】iPhone対応スマートウォッチおすすめ15選|安い・おしゃれなモデルを厳選
バッテリー稼働時間や充電タイプをチェック
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スマートウォッチのスマート機能をよく使う場合は、充電の持ちもチェックしましょう。スマートウォッチは通常の腕時計に比べ機能が多い分、消費電力量が高くなります。通常使用でも1~3日ほどしか充電が持ちません。GPS機能などをフルに使うと8時間ほどしか使えないことも。野外での活動が多い方は特にバッテリー稼働時間には注意しましょう。
電力セーブモード(エクステンドモード・マルチタイムスピードモード)を使用すると3日~1ヵ月ほど使用できる場合もあります。より充電の持ちを気にするなら、電力セーブモード搭載かチェックしましょう。
バッテリー稼働時間を重視するなら、1〜2週間ほど充電がもつHUAWEIスマートウォッチの記事も参考にしてみてください。
関連記事:【2021年最新版】HUAWEIスマートウォッチおすすめ15選|1万円以下で購入できるモデルも豊富に紹介
外での使用が多いなら、ソーラー充電ができるタイプを選ぶ
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1日の中で外に出る機会が多い方や、長時間の登山などを楽しむ方には「ソーラー充電機能」搭載の製品もおすすめです。カシオの製品にはUSB充電+ソーラー充電ができるタイプがあります。
時刻表示モード・歩行数計測・通知機能だけの使用なら、曇り空の野外でも対応できます。USB充電と併せると使用時間が延長されますので、バッテリーの持ちが心配な方はチェックしてくださいね。
利用用途に合った「機能」をチェック
カシオのスマートウォッチにはさまざまな機能があります。自分に合った機能はどれなのか事前にチェックしておきましょう。下記機能をひとつずつ紹介します。
健康管理に最適:「歩数計」「消費カロリー」機能
ランニングするなら:「心拍センサー」機能付き
登山、ランニングの距離を計測:「GPS」機能
海や川、ダイビングなどでも使う:「防水」機能
健康管理するなら「歩数計」「消費カロリー」機能があるものを
健康を考えて毎日の運動量を測定するなら「アクティビティ計測」機能が付いた製品を選びましょう。アクティビティ計測では、歩数・消費カロリー、移動距離や速度などが測定できます。筋力や体力の増強、心肺機能や基礎代謝アップを効率的に行うなら、結果や目標設定が具体的に見えることで、楽しみながら継続できますよ。
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「心拍センサー」付きでランニングのペース管理もできる
効果的にダイエットや心肺機能の増強を進めたいなら、心拍数や移動距離などを計測できる「光化学センサー」搭載機種がおすすめです。有酸素運動を効果的に行うには、心拍数を50~60に保つといいと言われています。この数値を基準にスマートウォッチで簡単に、効果的な運動ができているか判断できるでしょう。
心拍数が低すぎると運動効果が薄く、高すぎると息が切れて運動が長続きできません。スマートウォッチで心拍数を計測しながら運動すると最適な運動量を選べるので、結果も出やすくなりますよ。
「GPS機能」で現在地が分かり、走った距離の計測も簡単に!
スマートウォッチを購入するなら、ぜひ確認したいのがGPS機能です。GPSや測位衛星により、地図上にあなたの正確な位置を表示してくれます。ジョギングやサイクリングなど移動するワークアウトで、正確な移動距離が測定可能です。また、登山や船釣りで地上の電波が届きにくい場所でも、GPS機能があれば自分のいる位置を把握できます。遭難の危険や心配を減らせますね。
さらにアプリと併用してゴルフナビを採用。世界中のゴルフコース表示や、ボールの飛距離なども計測できます。GPSが搭載されるだけで、使い方の幅がとても広くなるので、ぜひチェックしてくださいね。
関連記事:【2021年】マニアが選ぶ Garmin(ガーミン) おすすめ20選|ゴルフや登山で使った感想もレビュー
ダイビングやサーフィンの時も使える「防水機能」をチェック
釣りやボートなどの水辺、水泳やダイビングなどのマリンスポーツなどでスマートウォッチを使用するなら「防水機能」もチェックしましょう。カシオの製品には軽い雨でも大丈夫な「5気圧防水」から、水泳にも使える「20気圧防水」まで、防水性の高いスマートウォッチが揃っています。また中にはダイビングにも使用できる「ISO規格200m潜水用防水」を採用している製品もあります。
アクティビティの最中にスマートウォッチが壊れでもしたら楽しさは半減してしまいます。水辺での使用が多い方は防水機能を必ずチェックしてくださいね。
ダイビングに使えるスマートウォッチをお探しの方はこちらの記事もおすすめです。
関連記事:【アウトドアに強い】SUNNTO(スント)スマートウォッチおすすめ人気ランキング10選
カシオスマートウォッチ関連アクセサリー
ディスプレイを傷から守る保護フィルム
スマートウォッチのディスプレイに傷をつけたくない。そんな方にはカシオ製品対応の保護フィルムをおすすめします。カシオのスマートウォチは、ディスプレイにも硬度の高いガラスを使っていますが、少しぶつけると多少は傷がついてしまうことも。
ディスプレイに傷がつくとショックを受けますし、時計を見るたびに気になってしまいますよね。カシオの製品に対応した「トラン」の保護フィルムは高硬度のアクリルシートで、ディスプレイを割れや傷から守ってくれますよ。
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最安値 ¥1,000 (税込)
ランニングのデータ分析が可能!モーションセンサー
アスリートの方や、本気でランニングを極めたい方におすすめするのが、カシオとアシックスの共同研究から生まれた「モーションセンサー」です。スマホやスマートウォッチと連携して使用します。
ウェアにつけて走るだけで、フォームのチェックや改善のアドバイス、ペースの分析やランニングメニューの自動作成が可能。その精度は高く、口コミでも多くの好評価を得ています。フォームからしっかりランニングを見直し、これまでのタイムを更新しましょう。
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最安値 ¥14,080 (税込)
その他:カシオスマートウォッチの関連アイテム
レントリーではカシオスマートウォッチの関連アイテムを解説しています。ぜひ参考にしてください。
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カシオスマートウォッチのよくある質問
suicaなどの電子マネーは使えますか?
残念ながらカシオのスマートウォッチは電子マネー支払いには対応しておりません。
スマートウォッチ上でLINE通話はできますか?
「Wear OS by Google」を搭載している機種ならアカウント連携することで通話も可能です。本体にはヘッドホン端子がないので、通話の際は直接スマートウォッチに話しかけるか、通話ができるBluetoothイヤホンが必要です。LINE通話(通話機能付き)ができるのは以下の4製品です。
PRO TREK smartの「WSD-F30」「WSD-F21HR」「WSD-F20」
G-SQUAD PROの「GSW-H1000」
カシオスマートウォッチ中古で購入できますか?
カシオのスマートウォッチは楽天やAmazon、メルカリなどのフリマアプリで購入できます。しかしスマートウォッチの中古での購入はおすすめしません。スマートウォッチのバッテリーは寿命が約2年です。さらにバッテリー電池の交換はメーカー非推奨で、交換の際に時計が壊れてしまうことも。数カ月で使えなくなった、ということが無いよう新品での購入をおすすめします。
カシオのスマートウォッチ、バッテリーの交換はできますか?
カシオのスマートウォッチのバッテリーの交換はできません。メーカーも非推奨で受け付けてくれる店舗も少ないようです。ネットで検索すると受け付けるメガネ店もありますが、交換後すぐに故障してしまうという例は多いようです。
カシオスマートウォッチはレディースでも使えますか?
カシオスマートウォッチは女性でも使えます。ただし、手首の細い人、手の小さい人だとスマートウォッチが浮いて見えることも。レディース用をお探しなら「CASIO Baby-G(カシオ ベビージー)」のスマートウォッチをチェックしてみてください。
ピンクゴールドやホワイトなど、女性向けにデザインされた商品がたくさんありますよ。
カシオスマートウォッチのまとめ
「カシオスマートウォッチ」のタイプや機能、選び方からおすすめアイテムまで解説しました。本記事のポイントをまとめると以下の通り。
Gショック最新モデルは、OS搭載で豊富なアプリと連携できる
人気のPRO TREKシリーズは、登山や釣り、ランニングなどのアクティビティに最適
アウトドアにぴったりのソーラー充電機能付きのモデルも登場
用途に合わせて必要な機能をチェックして選ぶ
あなたに最適なカシオスマートウォッチは用途や使う場所、使いたいアプリなどで異なります。記事を参考に、あなたにぴったりのスマートウォッチを見つけてくださいね。
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/097.html
第2次岸田改造内閣 閣僚名簿
令和4年8月10日発足 令和5年4月1日現在
職名氏名備考
内閣総理大臣
総務大臣
法務大臣
外務大臣
財務大臣
内閣府特命担当大臣(金融)
デフレ脱却担当
文部科学大臣
教育未来創造担当
厚生労働大臣
農林水産大臣
経済産業大臣
原子力経済被害担当
GX実行推進担当
産業競争力担当
ロシア経済分野協力担当
内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構)
国土交通大臣
水循環政策担当
国際園芸博覧会担当
環境大臣
内閣府特命担当大臣(原子力防災)
防衛大臣
内閣官房長官
沖縄基地負担軽減担当
拉致問題担当
ワクチン接種推進担当
デジタル大臣
内閣府特命担当大臣(デジタル改革 消費者及び食品安全)
国家公務員制度担当
復興大臣
福島原発事故再生総括担当
国家公安委員会委員長
国土強靱化担当
領土問題担当
内閣府特命担当大臣(防災 海洋政策)
内閣府特命担当大臣(こども政策 少子化対策 若者活躍 男女共同参画)
女性活躍担当
共生社会担当
孤独・孤立対策担当
経済再生担当
新しい資本主義担当
スタートアップ担当
新型コロナ対策・健康危機管理担当
全世代型社会保障改革担当
内閣府特命担当大臣(経済財政政策)
経済安全保障担当
内閣府特命担当大臣(知的財産戦略 科学技術政策 宇宙政策 経済安全保障)
内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策 地方創生 規制改革 クールジャパン戦略 アイヌ施策)
デジタル田園都市国家構想担当
国際博覧会担当
行政改革担当
復興大臣
福島原発事故再生総括担当
令和4年8月10日~令和4年12月27日
秋葉 賢也(あきば けんや)衆議院
総務大臣
令和4年8月10日~令和4年11月21日
寺田 稔(てらだ みのる)衆議院
法務大臣
令和4年8月10日~令和4年11月11日
(はなし やすひろ)衆議院
経済再生担当
新しい資本主義担当
スタートアップ担当
新型コロナ対策・健康危機管理担当
全世代型社会保障改革担当
内閣府特命担当大臣(経済財政政策)
令和4年8月10日~令和4年10月24日
山際 大志郎(やまぎわ だいしろう)衆議院
内閣官房副長官
内閣総理大臣補佐官(国家安全保障に関する重要政策及び核軍縮・不拡散問題担当)
内閣官房副長官
内閣官房副長官
内閣法制局長官
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超LSI技術研究組合
日本
川崎市高津区(NEC中央研究所内)設立1976年から1980年の約4年間業種半導体事業内容VLSIの実用化代表者根橋正人関係する人物垂井康夫、田中昭二テンプレートを表示
超LSI技術研究組合(ちょうエルエスアイぎじゅつけんきゅうくみあい)とは、官民合同によるVLSIの製造技術の確立へ向けたロードマップを策定し、製造設備の国産化を目指した技術研究組合である[1]。
競合会社の技術者達が共同で共通の技術的課題に挑むという前例はなく、この超LSI共同研究所の成功によって、世界的にこの形式の研究所方式が多く採用されることとなった[2][3]。
概要[編集]
これまでにも集積回路の規模拡大を目指す動きは国内の企業や研究機関で実施されていて、電電公社を中心とするプロジェクトが一部先行しており[2]、通商産業省の大型プロジェクト制度として工業技術院電子技術総合研究所と富士通、日立、NEC、三菱電機、東芝による共同研究で製造設備の国産化に取り組んだ[2]。これを機に日本における LSI 開発は、それまでの電卓などの民生品主導の LSI開発から、大型コンピュータ用超LSI開発へ方向転換して[4]、それまで競合する各社、製造装置メーカー陣営の協力を得られるように呉越同舟で各社共通の課題であった超LSI向け製造装置の開発と、超LSIのシリコン結晶の欠陥を減らし、大口径化で反りのない良質なウエハーを得る技術の二つに重点を置いて開発が進められた[2]。5社から約100人が参加し,4テーマ6研究室体制で行われ[5]、その結果、半導体メーカーの製造装置の国産化比率は20%程度からこのプロジェクトが終了する 80年代初めには、国内半導体メーカーの使用する製造装置の70%以上が国産化されることになった[2]。総予算は1976年度から4年間に700億円でその中で約290億円が「次世代電子計算機用大型集積回路開発促進補助金制度」からの補助金だった[6][7]。
成果[編集]
この研究所の代表的な成果は電子線描画装置と縮小投影型露光装置(ステッパー)の国産化で、これらの開発により世界的な市場占有率で両者共に過半数を占めるまで成長し、その他の成果と総合して1980年代の日本の半導体産業の興隆期をもたらしたと考えられる[3]。
影響[編集]
1990年代以降、各国で類似の共同研究計画が策定され、実行された。一方、日本国内では後継の計画は20年間無く、それが半導体産業の国際的な競争力の低下に繋がったという指摘も散見される[5]。
関連項目[編集]
SEMATECH - アメリカ合衆国が進める類似の産学連携プロジェクト、当初は日本の半導体産業に対抗する目的だったが、現在では半導体産業各社の共通の技術的な課題を解決するためのコンソーシアムになり、日本のメーカーも参加する。
G450C - ニューヨーク州立大学が進める450mmウエハーの産学連携プロジェクト
電子立国日本の自叙伝 第6回 ミクロン世界の技術大国
脚注[編集]
[脚注の使い方]
^ 奥山幸祐「20世紀後半 超LSIへの道」(PDF)『SEAJ Journal』2011年9月、2016年3月26日閲覧。
^ a b “超LSI共同研究所*−共同研究所の元祖” (PDF). 一般財団法人 武田計測先端知財団. 2016年3月26日閲覧。
^ a b “超エル・エス・アイ技術研究組合 国家プロジェクトが残した成功体験の光と影”. 日経クロステック. 2016年3月26日閲覧。
^ “超LSIプロジェクトの影の演出者”. 一般社団法人 半導体産業人協会 日本半導体歴史館. 2016年3月26日閲覧。
^ 「特許情報による共同研究開発の知識創造の役割に関する調査研究」(PDF)『技術と経済』第538巻、2011年12月、ISSN 0285-9912、2016年3月26日閲覧。
文献[編集]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年4月)
『電子立国日本の自叙伝』日本放送出版協会、1996年。ISBN 9784140840122。
垂井康夫 著、千葉文隆 編『超LSI共同研究所物語』共同研究所員、武蔵野展望社、2019年。ASIN B07S867KYX。この項目は、コンピュータに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:コンピュータ/P:コンピュータ)。この項目は、大学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育/PJ大学)。
ロレックス
55の言語版
ツール
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2010年11月)
ロレックス
Rolex SA
スイス
ジュネーヴ設立1905年業種精密機器事業内容時計代表者ジャン=フレデリック・デュフォー (CEO)従業員数2800人[1]外部リンクROLEXテンプレートを表示
ロレックス
日本ロレックス本社
ロレックス(Rolex)は、スイスの高級腕時計メーカーである。1905年にドイツ人のハンス・ウィルスドルフがロンドンで創業した。
現在は「ウォッチ」に分類される腕時計を主たる商品としている(時計業界では、腕時計や懐中時計を「ウォッチ」、置時計や壁時計などを「クロック」としている)。全ての部品を自社製造しているマニュファクチュールであり、なおかつその大部分でクロノメーター認定を受けている[2]。
20世紀初頭に時計商社としてイギリスで創業したが、当時は時計関税が高額だったため以後漸次スイスに拠点を移し、その過程でメーカー化した。懐中時計が主流であった当時、早くから腕時計の利便性に着目し[3]ていた。格段に高い防水性を誇る「オイスターケース」を開発したオイスター社を買収して実用時計に採用する事で腕時計の使われ方に大きな影響を与え、自動巻き機構「パーペチュアル機構」や日付が午前零時頃に一瞬で切り替わる「デイトジャスト機構」の開発、腕時計で初めてクロノメーターの認定を受けた。
ブランド[編集]
ロレックス (Rolex)主要ブランド。本項で説明する。チューダー (旧 チュードル) (Tudor)1926年に商標登録、1946 年にはハンス・ウィルスドルフがTHE TUDOR WATCH COMPANY を設立、イギリスでの販売拡大を狙って発売された。名前はかつてのイギリス王家チューダー家にちなむ。トレードマークもチューダー家と同じ薔薇であり、初期のモデルは文字盤に薔薇が描かれていた(現在は盾のマーク)。長らく日本国内において正規代理店の取り扱いはなく、並行輸入品が「チュードル」という名前で出回っている程度だったが、2018年に正規代理店での取り扱いを「チューダー 」として開始した。かつては汎用ムーヴメントであるETA(エタ)社製のムーブメントを使用していたが、現在はムーブメント、ケース共にロレックス社内の工房で独自に開発及び生産されたものを使用している(ムーヴメントに関しては、ブライトリングと提携しており、お互いのムーヴメントの技術を導入している)。当初は本家ロレックスに似たモデルを多く販売していたが、現在は独自のデザインによるモデルを主に販売している。
略歴[編集]
ロレックス自身が正式に明らかにしておらず不明な部分が多々ある。一般に知られるのは以下の通りである。
ウィルスドルフ&デイビス→ロレックス・ジュネーヴ[編集]
1881年3月22日 - 創業者ハンス・ウィルスドルフ (Hans Wilsdorf) がドイツのバイエルン州クルムバッハに誕生。
1900年 - ハンス・ウィルスドルフがスイスのラ・ショー゠ド゠フォンにあるクリオ・コンテンに入社、イギリスへ時計を輸出する仕事に就いた。
1905年 - ロンドンのハットンガーデン86番地に義兄弟デイビスとともにウィルスドルフ&デイビスを設立、当初は時計商社であり、ジャン・エグラーの機械を輸入して時計を製造販売した。
1915年11月15日 - ウィルスドルフがドイツ語の名称であり1914年に始まった第一次世界大戦の影響からイギリス向けの輸出に支障があるためロレックス・ウォッチカンパニー'に社名変更した。
1920年1月27日 - スイスのジュネーヴ、マルシェ通り18番地にモントレ・ロレックス (Montres Rolex S.A.) 設立。
1933年 - パーペチュアル機構の特許を取得。
1960年 - ハンス・ウィルスドルフ死去。
ジャン・エグラー→ロレックス・ビール[編集]
1881年 - ビールのレープベルクに工場を建設しマニュファクチュールとなった。
1891年 - ジャン・エグラーが死去し、妻のマリア・エグラーが跡を継ぎ、ジャンの子オットー・エグラーとヘルマン・エグラー兄弟が輔佐した。
1896年 - ヘルマン・エグラーがアンクル式脱進機を採用した小型エボーシュを作成した。
1902年 - アンクル式脱進機を搭載した女性用腕時計の量産を開始した。
1912年 - イギリス植民地への輸出業務をビールに移転。ジャン・エグラーがロレックス・ウォッチ・エグラーSA (Rolex Watch Co Aegler S.A.) に社名変更した。
1926年 - グリュエンへのムーブメント供給を始めた。
1936年 - マニュファクチュール・デ・モントレ・ロレックス・エグラーに社名を変更し、ロレックス向けの専業となった。エミール・ボレが経営に参画した。
1944年 - ヘルマン・エグラーが死去し、ヘルマン・エグラーの姪エマ・ローザの長男エミール・ボレが跡を継いだ。
1963年 - ロレックス・ビールとなった。
1967年 - エミール・ボレが死去し、子のハリー・ボレが跡を継いだ。現在でもボレ家が経営し、ベルン州立銀行が信託を受けて監督している。
ロレックス・ルロクル[編集]
1968年 - ロレックス・ジュネーヴとロレックス・ビールが共同で設立した。
ロレックス全般[編集]
1908年7月2日 - 欧州のどこの国の言葉で読んでも同じ発音になるように考えられた造語「ロレックス」をラ・ショー゠ド゠フォンで商標登録。
1926年 - 王冠のトレードマークを使い始める。
1926年10月28日 - オイスターケースを開発したオイスター社を買収し、防水技術の特許を申請。以降オイスター社は、オイスターケースに汎用ムーブメントを搭載した下位ブランドとなり、チューダーが登場するまで併売される事となる。
1927年 - この年からダイアル、ケース、ムーブメントの全てにロレックスの銘が入る。メルセデス・グライツが遠泳でドーバー海峡を横断、その際ロレックスオイスターを使用し世界の注目を集めた。この遠泳はロレックスのプロモーションとして防水技術の高さを証明するために企画された。
1927年9月21日 - 捻じ込み式竜頭の特許を取得。
1943年 - この頃チュードルブランドが登場する。
1945年 - デイトジャスト機構の特許を取得。デイトジャストとデイトを発売。
1953年 - エクスプローラー(I)発売。サブマリーナー発売。
1954年 - GMTマスター発売。
1960年1月23日 - 特殊モデルがアメリカ海軍の深海潜水艇バチスカーフ、トリエステの外側に取り付けられ、世界一深いマリアナ海溝チャレンジャー海淵最深部に到達した。
1961年 - コスモグラフ・デイトナ発売。
1971年 - シードウェラー発売。エクスプローラーII発売。
1972年 - オイスタークォーツ発売。
1976年 - ロレックス オイスターの誕生50周年を記念して、世界をより良い場所にするため人類の知識を向上させ、文化遺産を守り、自然界の種とその生息地の保護に貢献する、独創的なプロジェクトに勇気と強い信念を持って取り組む個人を支援する「ロレックス賞」が設立される。
1983年 - GMTマスターII発売。
1992年 - ヨットマスター発売。
2008年 - ディープシー発売。デイデイトII発売。
2009年 - デイトジャストII発売。
2012年 - スカイドゥエラー発売。
秘密主義とデマ[編集]
ロレックスは営利企業ではあるが、「ハンス・ウィルスドルフ財団」という基金をベースにしている財団法人組織であって実態を公にする義務がなく、社内資料をほとんど公にはしていない(それでも、近年は以前と比べて格段に多くの情報が公開されるようになっている)。そのため、その人気と相俟って世間には多くのデマが流布している。以下はその一例。
創業者はルース・ハイドフェルド創業者は「ハンス・ウィルスドルフ」(Hans Wilsdorf) )である。ロレックスは1908年にスイスに移ったこの年はスイスで商標を初登録した年である。スイス移転は上記略歴のように単純に「何年」と言えるようなものではない。ラインホルト・メスナーがエベレスト単独無酸素登頂を達成した時にエクスプローラーIIを使用したロレックスがメスナーを使って宣伝した事実はあるし使用はしたかも知れないが、実際にエベレスト単独無酸素登頂時に使用されたのはオイスタークォーツである。三大発明防水ケースである「オイスター」、全回転ローターを備えた自動巻機構「パーペチュアル」、瞬間日付送り機構「デイトジャスト」をロレックスが発明したとする広告があるが、いずれもロレックスが主張したものではなく、また事実ではない。防水ケースはオイスター社の開発品を会社ごと買収した物である。全回転ローター自動巻きとデイトジャストは他社が懐中時計で実現していたが、腕時計サイズに小型化し、また実用時計に採用出来る耐久性に昇華させたのはロレックスである。クォーツは試作のみで量産していない1960年代、スイスCEH主導のbeta21計画に参画してクォーツ開発に力を注ぎ、1970年には本数限定にて販売に漕ぎ着けた。当時はロレックスも、将来的な本命としてクォーツ開発に力を入れていた。1970年代後半から1990年代にかけては自社開発のオイスタークォーツを量産し、一時は生産の1割がクォーツだった。
北米モデル[編集]
多くの時計ブランドと同じで、アメリカが自国時計産業保護を行っていた時期にはケースやムーブメント部品を輸出し、現地代理店と共同で組み立て工場を設立し、北米で生産をした(セカンドライン参照)。
この時期のモデルは本国のものに比べてカラーバリエーションが豊富である。また、カナダのイートン百貨店とその代理店が資本的に深い結びつきを持っていたため、同百貨店の勤続25周年モデルやオリジナルブランド「ソーラー」の一部モデルを生産行っていた。文字盤にはロレックスの表記はなく「アクアキング」「ソーラー」「レーサー」等モデル名のみが書かれていたが、ケースやムーブメントにロレックスの物を使用していた(ソーラー全てがロレックスへの生産委託ではなく、一部はウィットナーが製作した)。
この様なモデルは他にもあるが、代理店契約解消、時間の経過、イートン百貨店自体の身売り等様々な要因でその全容解明は非常に困難である。
一部ショップで「リダン」と偽ってダイヤル変造し、単なる一般モデルを「北米向け」と称して販売していた。
主要な製品[編集]
ドレス系オイスターモデル[編集]
バブルバック (Bubble Back)自動巻の機械にはローターがあるため、その草創期かなり厚さがあり、ぷっくりと泡状に膨らんだ形状の裏蓋を使用して収納しており、その形状からこう呼ばれていた。1930年代から1950年代の製品がこれに当てはまり、後には膨らみが小さくなったセミバブル形状になり、1960年代になると消滅した。カバードバブルバックのベルト取り付け部をカバーしたモデルの俗称。フーデット、スカーデットとも称する。バイスロイ (Viceroy)特徴的なケース形状のモデル。プレシジョン (Precision)英語で「精密」の意味だが特に高精度の機械を搭載しているわけではない。ロレックスの場合、クロノメーターを取得していないモデルの場合にこの言葉を文字盤に記載する例があった。エアキング (Air-King)時針分針秒針の三針式、直径34mm、ノンデイトで最もシンプルなモデル。長らくノンクロノメーターで廉価版モデルの位置づけであったが、現行モデルは全ての製品がクロノメーターの認定を受けている。ペットネームとしては1940年代から続く現在のロレックス最古のモデルで、ケース素材にステンレスを用いている。2016年に40mmの116900が出てくるまでは、同社の製品の中でもっとも廉価なものであった。エアキングデイト (Air-King Date)エアキングにカレンダーを装備したモデル。1950年代後半から1970年代頃迄販売されたが極めて数が少ない。オイスター・パーペチュアル・デイト (Oyster Perpetual Date )1945年発売。三針式、直径34mmで、3時の位置に日付のあるモデル。前出のエアキングのデイト付に相当する。風防に日付を拡大するためのサイクロプスレンズがついている。現行モデルでは全ての製品がクロノメーターの認定を受けている。同様に日付を搭載するデイトジャストとの違いは、本来深夜12時を回ると瞬時に日付が変わる機構を搭載しているか否かによるものであったが、1970年代からデイトジャストと同様のキャリバーを搭載しているため、両者の違いはケースの大きさだけになった。ケースには主にステンレスが用いられるが、一部に貴金属を用いたモデルがある。オイスター・パーペチュアル (Oyster Perpetual)三針式、直径36mm。日付機能なし。後述のデイトジャストの日付なしモデルに相当する。現行モデルは全ての製品がクロノメーターの認定を受けている。2015年に39mmが登場した。デイトジャスト (Datejust )
デイトジャスト(クォーツ)
1945年11月発売。午前0時を境に日付が一瞬で替わる「デイトジャスト機能」が有名だが、1957年にCal.1036を搭載するまで日付の瞬間切り替え機構は搭載していなかった。1970年代からオイスター・パーペチュアル・デイトも瞬間切り替えとなり差はなくなっている。ロレックスでは一番販売個数が多いフラッグシップモデルで、ロレックスが考案・もしくは改良した最新機構は優先してこのモデルに搭載されることが多い。防水性に優れたステンレスをくり抜いた「オイスターケース」、自動巻き機構である「パーペチュアル機能」、日付送りを0時前後で瞬時に行う「デイトジャスト機能」を同時に搭載した初めての時計。三針式、3時の位置に日付のあるモデルで、直径36mm。ボーイズサイズ(直径31㎜)やレディースサイズ(直径26㎜)もある。日付部分を約2.5倍の大きさに拡大する「サイクロプスレンズ」が付いており、現行モデルは全製品がクロノメーター認定を受けている。ケースはステンレスの他に、ホワイトゴールドやイエローゴールド、ピンクゴールド(ロレックスでは「エバーローズゴールド」と呼んでいる)等の貴金属も多く用いられる。文字盤のバリエーションもバータイプ、ローマ数字タイプ、ダイヤモンド入りタイプなど数多く、近年は花柄の文字盤も制作された。素材と文字盤の組み合わせは百種類以上にも及ぶ。現行Ref.116234他、Cal.3135。また1990年代まではクォーツ式の物も生産されていた(Ref.17013他、cal.5035)。自動巻き式とはケース(クォーツ式は角ばった形をしている)やブレスレットの形状が異なる。現行モデルではヒゲゼンマイはパラクロム製になっているが、レディースの一部モデルにシリコン製ヒゲゼンマイが搭載されているモデルがある。デイトジャストII (Datejust II )2009年発売。デイトジャストのケース径を一回り大きい直径41mmとしたモデル。ムーヴメントに耐衝撃機構「パラフレックス」を搭載している。デイデイト (Daydate)三針式、3時の位置に日付があり、12時の位置に曜日表示があるモデル。直径36mm。デイト、デイトジャストと同様に日付にはサイクロプスレンズがついている。ケース及びブレスレットにはすべて貴金属をもちいており、文字盤に宝石がはまっているモデルもあり同社の製品中で一般にもっとも高価なプレステージモデルである。デイトジャスト同様、僅かながらクォーツ式のモデルもある(Ref.19018他、cal.5055)。現行モデルはすべての製品がクロノメーターの認定を受けている。デイデイトII (Daydate II)デイデイトのケース径を一回り大きい直径41mmとしたモデル。スカイドゥエラー (Sky-Dweller)GMTマスターIIの上位機種で、GMT機能の他に年次カレンダーを装備している。ベゼルを回転させることによって時針・分針、GMT、カレンダーの操作を切り替えることができる。デイデイトと同様、貴金属モデルのみの展開。
スポーツ系オイスターモデル[編集]
ターノグラフ (Turn-O-Graph)元々はデイトジャストのバリエーションのひとつで、10分毎の記載のある両方向回転式ベゼルを持ち、現在のスポーツ系ロレックス一連のデザインの原型とも言えるモデル。ターノグラフ以前は「サンダーバード」という名前で呼ばれていた。2013年に製造終了。エクスプローラーI (Explorer I)1953年発売。三針式、日付なし、黒文字盤の同社のスポーツモデルのさきがけとなった製品。初期型はRef.6150。その後Ref.1016、Cal.1560、ハック機能付きのRef.1016、Cal.1570に移行し1989年に一旦製造中止となったが、翌1990年にRef.14270、Cal.3000として文字盤のデザインを一新して再発売され、2001年よりRef.114270、Cal.3130に移行し、2010年に現行モデルであるRef.214270、Cal.3132にモデルチェンジされた。直径39mmで、クロノメーター認定取得。エドモンド・ヒラリーのエベレスト初登頂時に用いられたとする資料が多いが、実際にその時使用されていたかどうかは定かではない。ヒラリーはその後広告に使われ、このモデルも探検家用モデルとして有名になった。後述する1960年頃の一部のモデルを除き蛍光塗料によって針や文字盤表示が塗られており、暗いところでも時間の確認が容易である。通常のモデルと同じデザインと素材でありながらノンクロノメーターを一回り小さなボーイズサイズケースに収めたモデルも極限られた市場向けに少数販売された。エクスプローラーデイト (Explorer Date)1960年ごろ北米市場限定発売。当時のエアキング及びパーペチュアルデイトに酷似したデザインの黒・白・金色文字盤でステンレスやコンビのケースを使用したカレンダー付きモデル。極少数だけ販売され、好事家に幻と言われるほど稀少である。ノンクロノメーター。エクスプローラーII (Explorer II)1971年発売。時針分針秒針24時間針の四針式、3時の位置に日付のあるモデル。初期型はRef.1655、Cal.1575。1988年Ref.16550に、1991年Ref.16570、Cal.3185に、2011年にRef.1655のデザインに倣ったRef.216570、Cal.3187、2021年にRef.226570、Cal.3285に移行した。直径42ミリ。洞窟探検家用とされ、日光が遮られ昼夜の区別がつかない場所でも24時間針によって昼夜を判断できる。この24時間針は当初は単純に24時間表示をするだけのものだったが、現行モデルは24時間針を単独操作することが可能で、第2時間帯を示すことができ、その結果後述の「GMTマスターII」に近い機能を持つようになった。現行モデルは全製品クロノメーター認定を受けている。ラインホルト・メスナーが1980年にエベレスト単独無酸素登頂を達成した時に使われたとする資料が多いが、実際にこの時使われていたのはオイスタークォーツである。サブマリーナー (Submariner)
サブマリーナー
1953年発売。三針式、逆回転防止ベゼルを有するモデル。直径41mm。デイト機能付(Ref.126610LN他)とデイト機能無(Ref.124060)の2つのモデルがあり、日付ありのものにはサイクロプスレンズがついている。素材でもステンレス製、一部にゴールドを使ったコンビモデル、オールゴールドモデルなどバリエーションも豊富。潜水作業用の時計で防水性能が他のモデルと比べて高く(サブマリーナ以外は大体100m防水)、初期製品はRef.6536、Cal.1030で100m防水であったがその後200mに強化され、現行モデルでは300m防水になっている。その後ノンデイト・ノンクロノメーターのRef.5513が約25年間製造されるロングセラーとなり、1962年にデイト付のRef.1680が登場。その後、Ref.16800、Ref.168000を経て、1989年にRef.16610、Cal.3135にモデルチェンジして、これも20年以上製造されるロングセラーモデルとなった。2020に現行モデルとなるRef.126610LN、逆回転防止ベゼルは逆時計周りにのみ操作可能なべぜルで、潜水作業中に残酸素時間を簡単に測定できるようになっている。現行モデルはノンデイト、デイトともにクロノメーター認定を受けている。ジェームス・ボンドが映画「007」シリーズの中で愛用していることでも有名で、現在のロレックス・スポーツモデルでの一番人気モデルとなっている。シードゥエラー (Sea-Dweller)1971年発売。サブマリーナーの派生モデルでヘリウムガスを抜くためのバルブがケースの9時位置につき飽和潜水に対応している。初期型は防水性能610mのRef.1665、Cal.1575。直径40mm。三針式で回転ベゼルを有する。日付はあるが破損の危険性を減らすためサイクロプスレンズはついていない。1980年に防水能力が1220mのRef.16600、Cal.3135に移行したが、ディープシーの発売により2008年にいったん生産が打ち切られた。その後、2014年にニューモデル(Ref.116600)として生産再開された。すべての製品がクロノメーター認定を受けている。ディープシー (Deep-Sea)2008年発売。シードウェラーの防水性能を強化したモデル。Ref.116660。直径44mm。防水性能は3900m。サイズも大型化された。クロノメーター認定を受けている。デイト機能が搭載されているが、サイクロプスレンズは搭載されていない。2009年「DEEP SEA」表記が商標権侵害に当たると日本の時計メーカーエルジンに提訴され、敗訴。オイスタークォーツ (Oyster Quartz)1972年発売。1990年代まで販売されたクォーツモデルで、一時は生産の1割を占めていた。ラインホルト・メスナーが1980年にエベレスト単独無酸素登頂を達成した時に使われた。デイトジャストと比べ、角ばって厚みのあるケース形状をしており、ロレックス特有の「フラッシュフィット」を用いないブレスを採用している。GMTマスター (GMT Master)1954年発売。時針分針秒針24時間針の四針式、昼夜を区別する特徴的な2色又は単色の両方向回転ベゼルを有するモデルで、当時世界最大の航空会社であったパンアメリカン航空(PANAM)の協力を得て共同開発された。初期型はRef.6542。3時の位置に日付があり、サイクロプスレンズがついている。全製品クロノメーター認定を受けている。初期モデルのみ5気圧、以降現行モデルまで10気圧防水となっている。メイン時間帯を短針+文字盤、第2時間帯を24時間針+指定した時間帯に合わせてセットした回転ベゼルで同時に表示する。本来は航空用時計として開発され、非公式ながらNASAのアポロ計画の際一部米空軍出身の飛行士の私物として宇宙に行ったり、人類初の音速突破を果たしたパイロットチャック・イェーガー米空軍退役少将が現役当時からずっと愛用しているなど魅力的な逸話は多い。回転ベゼルにより他の時間帯の時間を容易に読めるため、仕事上時差の問題を抱えることの多い国際線旅客機のパイロットやビジネスマンにも使用されている。赤青ベゼルのモデルを石原裕次郎やチェ・ゲバラが愛用していたのはつとに有名である。2000年に生産終了。GMTマスターII (GMT Master II)1983年発売。GMTマスターの短針のみ1時間単位で動かす機能が追加された上位機種で第3の時間帯も容易に管理できるようになった。コスモグラフ・デイトナ (Cosmograph Daytona)
デイトナ
1961年発売。ロレックス唯一のクロノグラフモデル。これ以前コスモグラフはムーンフェイズ機能を持つモデルの名称であった。「コスモグラフ」という名称が物語る通り当初はアメリカのアポロ計画の為に開発された物だが、NASAの選定の際にオメガの『スピードマスター』、ロンジンのクロノグラフモデルとNASA公認腕時計の座を争ったが、コスモグラフは温度テスト中に2度に渡って時計が停止し、更に秒針がたわんで試験中止となってしまった。その後はカーレース用のモデルとして宣伝された。初期型はRef.6241、Cal.72B。以前はバルジュー(現エタ)の手巻きキャリバー72を改造したキャリバー72Bやキャリバー727を搭載していた。俗称「エキゾチック・ダイヤル[5]」と呼ばれたダイヤルデザインのモデルがポール・ニューマンに愛用され「ポール・ニューマン・モデル」とも呼ばれて1本約1000万円前後という高価格にて取引されている。1988年からゼニスとモバードが共同開発した『エル・プリメロ』を大幅に改造したCal.4030を積み自動巻き化されたRef.16520に、2000年には自社製自動巻キャリバーCal.4130となったRef.116520に移行した。ゴールドとのコンビモデルや金無垢・プラチナモデル、ダイアモンド・宝石をちりばめたモデルなど種類は豊富。現行モデルはすべての製品がクロノメーター検定を受けている。タキメーターがベゼルに刻印(現行モデルはプリントされている物もある)されていることにより、工場での生産数を計ったり、車などの走行時に1,000mの目印に合わせてクロノグラフを止める事で平均速度を出せるなどの特徴を持っている。サーキットであるフロリダ州のデイトナ・インターナショナル・スピードウェイと関連すると思われるが命名の理由は明らかでない。しかしロレックスは1991年からデイトナ24時間レースのスポンサーとなり、優勝した旨を裏蓋に刻印したデイトナを優勝チームのドライバー3名+補欠1名に提供している。また、2013年からF1の公式計時を開始した関係で、近年はF1と絡めた広告展開を行っている。
ヨットマスター
ヨットマスター (Yacht-Master)1992年発売。回転式ベゼルを持ち、サブマリーナーのドレスアップ版としての位置づけを持つモデル。すべてのモデルに貴金属ケースや文字盤が採用されているが、防水性能は10気圧防水にとどまる。スポーツ系ロレックスのモデルでは唯一、メンズ、ボーイズ、レディースの3種類の大きさを持つモデル(現在はレディースモデルは製造終了)。ミルガウス (Milgauss)三針式、日付機能無で、ケース内に収められた軟鉄製の帯磁ケースでムーヴメントを保護しており、1000ガウスの耐磁性能を備えたモデル(ミルガウスの『ミル』はフランス語で「1000」の意味)。初期型は稲妻形の秒針を備えRef.6541、Cal.1066。後に稲妻型の針は通常の直線針に変更され、1980年代末に一度生産が打ち切られたが、2008年に再び稲妻型の針を付けて復活した。
ノンオイスターモデル[編集]
プリンス (Prince)1920年代から1930年代に販売された角形モデル。ケースは長方形で2ダイヤルを持ち上ダイヤルが時分を表示し下ダイヤルが秒を表示するいわゆるドクターズウォッチ。高精度の機械を積んでいる。近年復刻版Ref.5440を発売するが、ムーブメントは新設計のcal.7040を搭載している。現行版はクロノメーター認定取得。プリンセス (Princess)プリンスのレディース版。チェリーニ (Cellini)オイスターケースを使わず現行モデルは日常防水の薄型ドレスモデル。チェリニウム (Cellinium)チェリーニのプラチナケースモデル。カメレオン1950年代から1960年代に販売されたベルトを簡単に交換できるレディースウォッチ。非常に小型の手巻きムーブメント「Cal.1400」を搭載。
ボンド・ウォッチ[編集]
イアン・フレミング原作のスパイ小説「007」シリーズでは、主役のジェームズ・ボンドがロレックス・オイスターを愛用している。映画でも秘密兵器として数々の作品にサブマリーナが登場しており、ボンド・ウォッチとして一部の収集家に人気がある。映画の中では数多くの改造が施された武器として使用されていることが多い。ショーン・コネリーが出演した作品では『Ref.6538』、ジョージ・レーゼンビーの出演作品ではクロノグラフの『Ref.6238』(コスモグラフ・デイトナの前身モデル)、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトンの出演作品では『Ref.5513』が使われている。ピアース・ブロスナンが主役に抜擢された作品以降はライバル会社であるオメガとスポンサー提携をしたため、同社の『シーマスター』、ダニエル・クレイグの出演作品では、『シーマスター・プラネットオーシャン』が使用されている。それ以外にもセイコーのTVウォッチ、ハミルトン・パルサー、ブライトリング等ロレックス以外の腕時計も使用されている。
オフィチーネ・パネライ[編集]
イタリアの軍用時計、オフィチーネ・パネライのラジオミールの機械とケースを製造・提供していた。他社の時計のためにロレックスがムーブメントやケースを公式に供給したのはこれ一例のみである。ただし上記のとおりアメリカの法的な事情により、北米支社が現地生産していたことがある。
オイスターケース[編集]
オイスターケースの製造は、資本関係がない外部メーカーに生産委託をしている。ある日そのメーカーの工場に武装した強盗団が押し入り、多数のケースを強奪した。
当時、ロレックスの外部への生産委託についてスイスの時計業界では公然と囁かれていたものの、情報を公開しないロレックスの体質のため(いわゆる「ロレックス神話」)、世間では「ケースまで自社で生産している」と噂されていた。
なお、この強盗団のリーダーはスイスでも有数の名門高級時計ムーブメント企業ジャケ(現ラ・ジュウ・ペレ)の経営者の夫で、偽物を製作販売しようとして忍び込んで起こした事件である。この事件に関わった従業員は当時のジャケから全員が退職している。 2012年 プロサー社傘下にあるラ・ジュウ・ペレはシチズン時計によって買収された。
スポンサー[編集]
ロレックスは全米オープンや全英オープン、マスターズといった男子メジャーゴルフ選手権やライダーカップ、F1、ル・マン24時間レース、デイトナ24時間レース、全豪オープン・全仏オープン・ウィンブルドン選手権・全米オープン・ATPファイナルズなどのATPツアー・WTAツアーのオフィシャルタイムキーパーを担当している。
またロレックスはウィーン・フィル、アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーも支援している。
脚注[編集]
^ “Montres Rolex S.A.”. Funding Universe (2008年8月18日). 2009年12月16日閲覧。
^ ただし元々スイスの時計産業は分業化が進んでおり、クォーツショック以前でも自社一貫生産をするメーカーのほうが少数派であった。
^ 初期には懐中時計も生産した。
^ クリオ・コンテンによる異動とも言われるが定かではない。
^ Ref.6239、Ref.6241、Ref.6262、Ref.6263、Ref.6264など。
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商品番号 v043
在庫あり
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ピンクゴールド(PG)
ROLEXロレックス
ロレックス バブルバック [3131] 14K 金無垢 1947年 アンティークROLEX BUBBLE BACK Ref.3131 PG Cal.630NA(6th) IVORY DIAL Ca.1947 Ser.550
¥848,000(税込)
型番Ref.3131年式1947年素材ゴールド(PG)付属品付属品無しレアリティコンディションを含めてアルファオメガで2-3年見てない時計/星2になりそうな時計
A-文字盤【アイボリー】:経年変化によりクリアが全体的に変色しています。統一感はあります。機械自動巻 Cal.630 【オーバーホール済み】:傷有りケースゴールド(PG) 32mm 【全体的に傷有り(磨きで取れる)】:全体的な使用感はありますが、裏の刻印やラグの穴はバリが残りますバンドイギリス金細工ギルド/ジョングリンゼル製9金ブレスレット 1951年 16.6/17.4cm ゴールド(PG/YG) 【使用感有り】
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歴史に名を残す、伝説の時計職人8人
2021.08.25
イラスト:西田真魚
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腕時計づくりの伝統を継承しつつ、技術やデザインにおいて独自の変革をもたらし、数々の傑作を手がけたカリスマ職人8人を紹介する。
伝説の時計職人① ジェラルド・ジェンタ
既存の枠にとらわれない素材やデザインを活かした名作を次々と手がけ、「時計界のピカソ」と称されたジェラルド・ジェンタ。彼は15歳からジュエラーとして修業して23歳でデザイナーに転向しており、いわゆる生粋の時計師ではない。だからこそ、パテック フィリップの「ノーチラス」などの独創的なモデルが誕生したのだろう。
【詳細はこちら】ロングセラーを生み出し続けた天才デザイナー、ジェラルド・ジェンタに迫る
伝説の時計職人② ロジェ・デュブイ
1995年にカルロス・ディアスを共同経営者として自らの名前でブランドを設立し、それから20年にも満たない短期間に30種類以上ものムーブメントを自社開発。設立当初からマニュファクチュールを確立し、斬新なデザインの源泉となる独創性と品質へのこだわりを作品へと昇華している。
【詳細はこちら】斬新なコレクションで時計通を魅了した、ロジェ・デュブイとは?
1/4
伝説の時計職人③ フィリップ・デュフォー
自動化された工業生産が常識的な現代にあって、スイスの伝統技法にこだわるフィリップ・デュフォー。それゆえ生産本数が年間20本程度と少なく、作品の希少性は価値がとても高い。一方、「デュアリティ」のように超絶的な複雑時計も手がけ、時計愛好家から絶大な支持を得ている。
【詳細はこちら】伝統の手作業を継承する、孤高の時計師フィリップ・デュフォー
伝説の時計職人④ ミシェル・パルミジャーニ
専門家でも修復不可能とされる古時計を現代に甦らせることから「神の手をもつ男」とも称されるミシェル・パルミジャーニ。1975年に自らの工房を開設し、96年には「パルミジャーニ・フルリエ」を設立。マニュファクチュールへのこだわりと誇りを貫き、精緻を極めた作品で独自の地位を確立している。
【詳細はこちら】「神の手」をもつ孤高の天才時計師、ミシェル・パルミジャーニとは?
2/4
伝説の時計職人⑤ アントワーヌ・プレジウソ
“キング・オブ・ダイヤモンド”ハリー・ウィンストンが2001年から凄腕の独立時計師とコラボレーションしているオーパス・シリーズ。その第2号を手がけたのが、超絶機構に美をもたらすアントワーヌ・プレジウソ。トゥールビヨンの華麗な動きを強調したモデルのように、複雑なメカの中に芸術作品というべき美を表現できる希有な時計師だ。
【詳細はこちら】超絶機構に美をもたらす、凄腕の持ち主アントワーヌ・プレジウソに注目
伝説の時計職人⑥ フランソワ=ポール・ジュルヌ
ハリー・ウィンストンがオーパス・シリーズの第1号を託した時計職人こそ、スイスの技術にフランスの美的感性を融合させたフランソワ=ポール・ジュルヌ。彼が手がけたスペシャルピースは、2つのバランスホイールが独立して動く「クロノメーター・レゾナンス」という複雑機構だけでなく、デザイン面でもスチームパンク的な独特の個性を備えている。
【詳細はこちら】スイスの技術にフランスの美的感性を融合させた、フランソワ=ポール・ジュルヌ
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伝説の時計職人⑦ フランク・ミュラー
“マスター オブ コンプリケーション”と称され、数々の画期的な複雑時計をつくり出したフランク・ミュラー。流麗な曲線で構成された樽形「トノウ カーベックス」が特に傑作と名高いが、このデザインは知人女性からの要望で誕生したもの。彼は機構だけでなくフォルムにおいても、時計界に革新を起こしたのだ。
【詳細はこちら】世界初の革命的なフォルムをつくり出した、フランク・ミュラー
伝説の時計職人⑧ ジュリオ・パピ
複雑機構の専門工房から独立し、さまざまな時計ブランドの依頼で超絶的なモデルを開発してきたジュリオ・パピ。最近もミニッツリピーターで「美しい音」の解析に成功するなど、機械式時計の伝統に新しい発想を吹き込む革新性で時計愛好家を驚かせている。
【詳細はこちら】専門工房を率いて、超絶的モデルを開発したジュリオ・パピ
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ビザールギターの魅力
2022.01.24
ビザールギターといのはご存知だろうか?
bizzareの意味を調べると「異様な・異常な」とでてくるが、要は「変な形のエレキギター」である。
エレキギターは1930年代に誕生し、1940年代にむけて一般に認知されていったので実質80年強と歴史は決して長くない。
エレキギターの普及とともにFender、Gibson、Gretsch、Rickenbackerなどの有名メーカーが今もなお現行モデルを作っている世界標準となっているような洗練されたモデルのギターを次々誕生させる中、それらはとても高価で庶民に手の届かなかったので1950~70年代にかけて、それらのメーカー以外の人たちが、独自のシェイプ、デザイン重視の見た目、良心的な価格でたくさん作り出した「変なエレキギター」がビザールギターである。
庶民が手を出しやすいリーズナブルな価格なだけに、お世辞にも弾きやすいとも言えないものも多く、粗悪なパーツを使用しているので音が劣悪だったり、無駄に沢山のスイッチが付いていたりで操作性も複雑だったりで、お金に溢れたバブル期などにはゴミ扱いされたこともあるが、当時最先端だった家電や車などを意識したビジュアルがレトロで可愛く、劣悪だと思われたサウンドも一流メーカーのギターからはどうやっても出せない音なのでむしろオンリーワンだということで、現在はビザールギターファンやコレクターが存在するほどのコアな人気を獲得している。
日本のメーカーではTEISCO、GUYATONEなどが有名で、国産ピアノで知名度のツートップであるYAMAHAとKAWAIもビザールを作っている。
また海外のものでは、イギリスVOX社が出しているティアドロップやファントムはビザールの代名詞と言ってもよいだろう。
VOX VOX PHANTOM
ローリングストーンズのBrian Jonesでお馴染みのギター VOX TEARDROP
ビザールギターは安価だった??
ベンチャーズの登場により1960年代後半に日本に訪れたグループ・サウンズブームにより若者が一気にエレキギターを手に取った。
フェンダーの当時の最高級モデルであったジャズマスターの定価が20万円だった当時、TEISCOのSpectrum5などはは3万円台の価格設定で販売していた。
1967 Teisco ET-460
Guyatone LG-140T
ビザールギターは元来リーズナブルであったことにより、当初は若者にとって手軽に買えるエレキギターであるというのが最初の理由だとは思うが、その奇抜なデザインは、学校でエレキ禁止をされてもグループ・サウンズのバンドをやりたい若者にとって、むしろセンセーショナルであり、結果的にグループ・サウンズといえばビザール・ギターというイメージになっていった。
私もTEISCOのSpectrum5の復刻版を所有しているが、独特の高音のシャリシャリ感と良くも悪くもズッシリしない音は他に変えの効かないサウンドである。
写真は「最後のグループ・・サウンズ」として有名なキャプテンズの傷彦氏も使用しており、共演した時に撮影したギターの2ショット。
ギブソンレスポールや、フェンダーのストラトやテレキャスが定番化する中、1958年に発売の前述したフェンダーの最高級ギター・ジャズマスターや1962年発売のジャガーの様に、それまでの定番とは違う変わったシェイプやスイッチの雰囲気に憧れた他メーカーが「もっと変な形にしよう」「もっといっぱいスイッチつけよう」「せっかくスイッチいっぱい付けたのだし色もカラフルにしょう」という考えにいたったのが容易に想像できて愛おしい。
ビザールギターを愛する人たち
ビザールギターのコレクターとして有名なギタリストといえば、ペトロールズの長岡亮介だ。
星野源や椎名林檎のサポートギタリストとしても活躍している。
著者もスタジオで何度も出会ったことがあるが、いつも見たことのない形の古い特殊な専用ケースを持ち歩いておられるし、映像や写真も数多くが「変わったギター」をぶらさげている。
新潟の「あぽろん」という楽器店は、カナダのビザールギターの復刻メーカーEastwoodや、VOXギターを復刻するアメリカのPhantom Guitarwoksなど、世界各国のビザール復刻メーカーの代理店でもあり、日本ではここでしか買えない復刻のビザールギターがたくさん並んでいる。
またビザールギターは冒頭に前述したように当時最先端だったデザインを重視した見た目であるのため、1950〜60年代のモダンな雰囲気にマッチするので、ミッドセンチュリーなテイストのインテリアを好む人たちのディスプレイとしても活躍している。
熊本のレストラン「ONE DROP Dining’studio」はライブが出来るので、私もアマチュア時代からお世話になっているが、店主の花香さんのコレクションした数々のミッドセンチュリーなアイテムとともに沢山のビザールギターが並ぶ店内は、まるで映画の主人公にでもなったような気分になり、私的には日本を代表するオシャレスポットである。
数々の著名なアーティストがライブをしていたり、和モノレコードオンリーのDJイベントなどの、違いの分かる大人向けのイベントなども多く開催されているので、ぜひ行ってみてほしい。
ONE DROP Dining Studio
熊本県熊本市東区沼山津1-1-21
096-331-1106
https://one-drop.org/
簡単にビザールギターのことを紹介してきたが、私も紹介したTEISCOのSpectrum5以外にも、ET-220というギターを所有していた事があるが、あまりに劣悪な音で実用には向かず、いろんなメンテナンスショップに相談しても「これ自身がこういう音なので、どうにもならない」と匙を投げられ、インテリア以外に使い道が無かった過去があるので、「実用性」だけの面から考えると確実に洗礼されたギターの方が使い勝手は良い。しかし、私はビザールが愛おしくてならない。
「他とは違う」ことを掲げて、レスポール、ストラト、テレキャスなどのような定番を目指すもスタンダードになれなかった”刹那”こそが、ビザールギターのなによりの魅力なのだ。
ドイツの教育
ドイツの教育
連邦教育研究省連邦教育研究省大臣アニヤ・カルリチェク(Anja Karliczek)詳細プライマリー:100.5% [1]セカンダリー:101.3% [1]ポストセカンダリー:61.7% [1]
ドイツの教育(ドイツのきょういく)では、各州が所管し、また責務を負っている。教育制度は複線型教育、職業教育と実習の重視、資格制度の重視、進路変更の容易性に特徴づけられる[2]。またドイツ資格フレームワーク(DQF)が定められている[3]。
義務教育は15歳まで。しかし18歳に満たないうちは、全日制の学校に通学していない者は就職するかたわら、定時制職業学校に通学する義務がある。
下記のような硬直的な制度に批判があり現在ドイツでは教育改革が進行中である。
初等教育[編集]
ドイツの教育制度。
灰色が基礎学校、緑がギムナジウム、赤が実科学校、黄が基幹学校
まず義務教育の年齢(6歳)に達した子供は、「基礎学校(Grundschule)」と呼称される公立の初等学校(ISCED-1)へと進学し、10歳まで4年間の教育を受ける(グレード1-4)[4][5]。義務教育である事から、原則として入校試験などはない。概ね日本の新学制における小学校1年生から小学校4年生に相当すると考えてよい。修了後は卒業という形式は行わず、上部学校の5年生へ「編入」するという形式で学業を継続する事になる。
また、公立学校以外の選択肢には以下がある。
フリー・オルタナティブスクール
教会の運営する学校
またこの時に後述する職業教育か高等教育準備のどちらを希望するか、予め進路選択を行っておく必要がある。
中等教育[編集]
中等教育ステージ1[編集]
初等教育を通常10歳で修了後、次の進路は以下に分かれる。
ギムナジウム - グレード12-13にてアビトゥーアを受験する、あるいはグレード10-12にて職業上級専門学校(Fachoberschule)への編入試験を受ける
実科学校 - グレード10にて卒業する
基幹学校 - グレード9で卒業する
総合学校 (Gesamtschule, 一貫校)
ドイツにおいては伝統的に職人の徒弟制度に由来する即戦力的な職業教育と、大学教育に代表される高等教育が明確に教育課程として分離されている。従って日本における中学校及び高等学校のような、後期初等教育・中等教育の時点から異なる教育を受ける事になる。もちろん両者は途中移籍や再履修が可能であるが、一方の学校を卒業した状態から直接もう一方の進路に進む事は現実的な方法ではない(職業訓練修了→大学など)。
最初の2年間は、観察指導段階(Orientierungsstufe)が設けられている[5]。
高等教育への進学準備[編集]
ギムナジウム(バーデン=ヴュルテンベルク州)
高等教育へ進む事を希望する場合、ヨーロッパ中央部で見られるギムナジウム(Gymnasium)という8年制の長期教育課程へと進学する。後期初等教育を下級生として終えた後、上級生として中等教育を受ける形となる。日本における中高一貫教育に小学校高学年を合わせたような長大なものであり、教育を受ける生徒にとって子供時代の大部分を過ごす重要な場所となる。こうした要素からしばしば文学や創作作品の舞台とされる事も少なくない。
卒業後はアビトゥーアと呼ばれる大学入校資格を取得する試験への受験資格を与えられる。このアビトゥーアが実質的な卒業試験であり、同試験合格によって正式に中等教育を完了したと見なされ、日本における高卒資格に相当する社会的地位が与えられる。
職業教育[編集]
基幹学校(ヴッパータール市)
実科学校(ミュンヘン市)
一方、大学などの高等教育を希望しないか、もしくは志願できるだけの学力を持たない学生は、基礎学校を卒業してのち、直ちに労働者としての訓練を受ける。この進路を選んだ場合は、それぞれ「基幹学校(Hauptschule, HS)」および「実科学校(Realschule, RS)」と呼ばれる教育課程の、どちらかを選択する場合が殆どである。
基幹学校は職業教育校のようなもので、義務教育の延長として小学校高学年から中学校に相当する6年制教育を受ける(2Aレベル)[4][6]。基本的に義務教育の範囲内として留年や進級試験はないが、最終学年への進学のみ進級試験に合格する必要がある。ここで訓練程度を測った上で、卒業者に日本の中卒相当の資格を与える。ギムナジウム編入などが困難である事に加え、そうした意欲や可能性を持つ生徒は、後述する実科学校への進学を希望する為、多くは15歳前後で労働者として就職する。
実科学校は、同じく職業教育学校として位置づけられている教育課程(2Aレベル)で、期間は6年制となる[4][6]。基幹学校に比べて、実務訓練だけでなく高等教育準備に関する課程も行われるため、ギムナジウム進学に失敗したが高等教育を諦めていない人間が進む場合が多い。卒業後は中卒相当資格と同時にギムナジウム編入試験を受ける資格を与えられる。ただし編入試験は、実科学校内の成績優秀者でなければ合格が難しいとされており、選に洩れた生徒は、基幹学校の場合と同様に、若年労働者としての社会に出る事になる。
デュアルシステム[編集]
ドイツの義務教育は15-16歳で終了する。しかし18歳に満たないうちは、全日制学校に通学していない者は、徒弟として就職するかたわら定時制職業学校に通学する義務がある(デュアルシステム)[7]。
生徒は週1-2日は職業学校へ、週3-4日は企業にて実地訓練を行う[8]。企業はデュアルシステムに対し、生徒一人当たり年間2万ユーロを投じているとされる[9]。
中等教育ステージ2[編集]
全日制の職業学校には以下が挙げられる。
職業専門学校(Berufsfachschule[7])とは、入学にあたって実務経験やこれまでの職業教育が求められない1年課程の職業教育機関(3B)[4]。主に16歳で基幹学校を卒業した者が入学する。修了者はドイツ資格フレームワーク(DQF)レベル4とみなされる[3]。
上級職業学校(Berufsoberschule, BFS)は、既に3Bレベルの職業教育を受けた者が対象であり、職業学校の修了者またはデュアルシステム修了者が入学する。2年課程の職業教育(4A)であり、修了時に専門大学への入学資格が得られる[4]。
上級専門学校(Fachoberschule) - ギムナジウム転入者および実科学校修了者が入学する、2年課程の職業教育機関(3A)。修了時に専門大学(FH)への入学資格が得られる[4]。
高等教育[編集]
詳細は「ドイツの高等教育」を参照
大学[編集]
種別毎の大学進学者割合(1996年)[10]総合大学に
入学FHに入学大学以外へアビトゥーア保持者62%20%18%FH入学資格保持者N/A58%42%
就学学生の割合(%, 2009年) [11]総合大学専門大学(FH)言語・人文97.0%3.0%スポーツ99.4%0.6%法・経・社会科学54.5%41.4%数学・自然科学80.0%20.0%医学・健康科学84.1%15.9%獣医学100%N/A農・林・食料栄養科学56.7%43.3%工学42.2%57.8%芸術・芸術学74.8%25.2%合計68.3%30.4%
「ドイツの大学一覧」も参照
ドイツにおける大学は以下に分類される[12]。
総合大学(Hochschule) - 全ての専門領域を扱う。
工科大学(TU, Technische Universität)
教育大学(PH)
連合大学(GHS)
神学大学
専門大学 (FH,ファッハホーホシューレ)
アビトゥーア試験合格によって総合大学入学資格を取得した者は、原則的にあらゆる大学・高等教育機関への進学を政府から許可される[6]。理論の上ではアビトゥーア以外の入校試験は必要なく、望んだ大学の専攻へと進めることになる[10]。しかし実際には定員や志願者数の問題からアビトゥーア合格者内でも成績優秀者が優先される傾向があり、また大学が個別試験を行う場合もある。
一方で専門大学(FH)への入学にはアビトゥーア合格か、あるいは以下いずれかのFH入学資格が必要である[10]。
大学以外の高等教育機関[編集]
ファッハシューレ(Fachschulen, 職業コレーク) - 2年制の5Bレベル高等職業教育機関であり、入学にあたっては職業実務経験が求められる[4][6][13]。修了時にはマイスター資格が付与される[4]。
資格フレームワーク[編集]
ボローニャ・プロセスに準拠する形で、全国資格フレームワーク(NQF)が制定されている[3]。
近年の動向[編集]
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国際化による異文化相手の商売や輸入品や移民の増大やコモディティ化、大量生産大量消費の文化や生産ラインの自動化などにより伝統的なマイスター制度が先進工業の発展に寄与しなくなったことや、12歳で人生が決まってしまう複線型学校制度に疑問が上がり、近年は米日のような単線型教育制度に近い、義務教育からアビトゥーア取得までの義務教育から中等教育までの教育を柔軟な方法で行うシュタイナー学校や総合学校制度が広まっている。他にアーベントギムナジウムという夜間制ギムナジウムも存在しており、年齢制限なども寛容な傾向にあるので働きながらアビトゥーア資格を目指す方法も存在する。
脚注[編集]
[脚注の使い方]
^ 日本機械工業連合 2008, p. 5.
^ a b c GERMANY European inventory on NQF 2014(Report). CEDEFOP. (2015).
^ a b c d e f g h “Mapping of National education programmes - Germany”. UNESCO. 2015年11月2日閲覧。
^ a b c d 木戸裕「ドイツの大学入学法制--ギムナジウム上級段階の履修形態とアビトゥーア試験」『外国の立法』第238巻、国立国会図書館調査及び立法考査局、2008年12月、NAID 40016372415。
^ a b c 日本機械工業連合 2008.
^ 日本機械工業連合 2008, p. 129.
^ 日本機械工業連合 2008, p. 6.
^ a b c 寺澤幸恭「ドイツにおける「実務型」高等教育に関する考察(1) -専門大学の実習セメスタ- (インターンシップ)」『岐阜聖徳学園大学短期大学部紀要』第36巻、2004年3月、85-101頁、NAID 110000963675。
^ 寺澤 幸恭「ドイツにおける「実務型」高等教育に関する考察(5) -専門大学の発展と学術審議会-」『岐阜聖徳学園大学短期大学部紀要』第45巻、2013年2月28日、1-14頁、NAID 110009557087。
^ 田中 宏幸「ファッハホーホシューレ : ドイツの高等教育システムの現状と新タイプ大学」『金沢星稜大学論集』第36巻第2号、2002年12月、147-153頁、NAID 110000040713。
^ 日本機械工業連合 2008, p. 79.
参考文献[編集]
カシオの「余り計算電卓」が品薄になったワケ発売後2週間で欠品、急きょ増産に動いた
遠山 綾乃 : 東洋経済 記者 著者フォロー
2017/10/29 6:00
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特段画期的というわけでもない「余り計算電卓」が大きな話題となったカシオ計算機。ただ、製品のコモディティ化が進む業界の中でつねに用途を模索する(背景写真:記者撮影、電卓写真:カシオ計算機)
割り算の「余り」を簡単に計算できる――。
カシオ計算機がこの夏発売した電卓の売りは、ただそれだけだ。店頭予想価格は1700円。高度な機能を備えているわけではない。しかし、会社が予想だにしなかったヒットの様相を見せている。
余り計算電卓が発表されたのは、7月12日。その直後からネット上で大きな反響が起きる。「いったい何に使うの?」。複数のネットメディアが取り上げ、それをキュレーションサイトが掲載。また、ツイッターなどのSNSでも情報が拡散された。カシオ側の想像を超える事態となった。
ネットで拡散、発売後2週間で欠品に
7月21日に発売されると、半月ほどで欠品が発生し出荷を止めた。その後生産を担う中国工場で一時的に生産量を計画の1.5倍まで増やし、10月上旬になってようやく店舗に電卓が行き渡った。
肝心の用途には、どういったものがあるのか。たとえば調剤薬局では、患者に1シート14錠の錠剤が何シート必要で、バラの錠剤がいくつ必要か、物流現場では、入荷した製品を一定個数ずつ箱詰めする場合に何箱必要で、何個余ってしまうか、といった計算が必要になる。
こうした場面では、余り計算電卓を用いることで通常の電卓より計算回数を大きく減らせる。調剤薬局の場合、通常の電卓では処方する錠剤数をシート1枚当たりの錠剤数で割り、患者に丸々1枚のシートで渡せる錠剤数を計算。それを必要量から引き算することで、余り、つまりバラで渡す錠剤の数を計算していた。
一方、電卓で余りを計算できるようになると、日数に合わせた患者に渡すべきシート枚数とバラの錠剤の数を一気に計算できるようになる。手間が省けることで、全部で4回の計算を必要としていたところが2回へと半減した。
余りを計算する機能そのものは、新しいわけではない。1993年、カシオは余り計算に対応した小学生向け電卓を発売。しかしその後の学習指導要領の改訂で授業時間が短縮し、需要が減少。2014年に生産・販売を終えている。シャープも以前、同様の機能を搭載した電卓を販売していたが、生産をやめている。
関数電卓ではオーバースペックだった
「÷余り」というボタンを押すと、余り計算ができる(写真:カシオ計算機)
2015年ごろ、調剤薬局や物流といった一部の業種に携わる人から「余りを簡単に計算できる電卓はないのか」という要望がカシオの元に寄せられるようになった。だが余り計算をするには、高いもので数万円にも上る関数電卓を手に入れるしかなかった。もちろん、関数計算を必要としない人にはオーバースペックだった。
当時のカシオ社内では、以前から販売しているローン計算のできる電卓や土木測量用電卓のように、業種に合わせた特殊な計算機能を持つ電卓の展開を模索していた。顧客からの要望によって余り計算の潜在需要が発見され、製品企画の中から余り計算電卓が選ばれ、発売が決まったのだった。
通常、電卓の新製品を発売しても大きな広告宣伝を展開することはない。一般消費者向けのベーシックな電卓と比べて余り計算電卓の生産台数は少なく、当初の生産は月1万台に満たなかったようだ。「法人向けの商品は認知されるまでに時間がかかる」と営業本部戦略統括部の尾澤慶子氏は話す。それだけに、ネットで拡散した余り計算電卓のケースは異例といえる。
欠品を解消して店頭に並んだばかりで、今後の販売見通しはまだ不明だ。ただ尾澤氏は「電卓は春にいちばん売れる製品なので、そこでどれくらい売れるかが見極めのポイントになる」と話す。
→次ページコモディティだからこそ工夫を
電卓はカシオにとって祖業だ。電卓市場ではカシオ、シャープ、キヤノン、米テキサス・インスツルメンツ(TI)などが主なプレーヤーだ。100円ショップなどで売られる低価格製品を除くと、電卓の世界市場は約1億800万台(ビジネス機械・情報システム産業協会調べ)。カシオは年間5000万台を生産しており、半分近くものシェアを握っている。
前身の樫尾製作所を経てカシオ計算機が設立されたのは1957年のこと。第1号の製品は電卓の先祖となる計算機で、価格は48万5000円だった。1965年にはカシオが電卓1号機を38万円で発売。その後TIが要素部品の外販を始め、電卓の製造が容易となると、40社以上がしのぎを削る「電卓戦争」と呼ばれる時代に突入した。
地道な改良で差別化を模索してきた
カシオ計算機が1972年に発売した小型計算機「カシオミニ」(写真:カシオ計算機)
そんな中、カシオが1972年に発売したのが「カシオミニ」。表示を6ケタに絞る代わりに小型化を実現。電卓の普及価格帯が4万円台だった中で、1万2800円という低価格が受けヒットとなった。
その後価格競争が激しくなると、TIに要素部品を依存していた各社は差別化ができず、次々に撤退する。残った電卓メーカー会社は、価格以外の利点を見いだすことに注力していった。シャープが省電力かつ本体を薄くできる液晶を使って手帳サイズの製品を出すと、カシオは名刺サイズで対抗。1983年にはクレジットカードサイズの電卓を発売した。
小型・薄型化といったハード面での劇的な進化には区切りがついた。「それ以降はハードウエアからソフトウエアへ、つまり法人向けや教育向けなど、シーンに即した計算を支援する方向に発展した」(カシオ広報)。そして用途に合わせた電卓を順次発売するようになっていった。
「多くの人にとって電卓は、基本的な四則計算ができれば十分。プラスアルファの特長をつけて買ってもらうことは、つねに私たちのテーマだ」と尾澤氏は話す。どこにでもある製品だからこそ、どう差別化するかが重要だ。模索の末に生まれた製品の1つが、余り計算電卓だった。
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全権委任法
34の言語版
ツール
民族および国家の危難を除去するための法律(正式名称)
全権委任法(通称)
国会 (ヴァイマル共和政)|Reichstag (Weimar Republic)成立日1933年3月23日署名日1933年3月23日署名者パウル・フォン・ヒンデンブルク(ドイツ国大統領)
アドルフ・ヒトラー(ドイツ国首相、副署)
ヴィルヘルム・フリック(内務大臣、副署)
コンスタンティン・フォン・ノイラート(外務大臣、副署)
ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク(財務大臣、副署)施行日1933年3月23日現況:廃止
1933年3月23日、議場で全権委任法への賛成を要求するアドルフ・ヒトラー
全権委任法(ぜんけんいにんほう、正式名称:独: Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)、日本語訳では民族および国家の危難を除去するための法律(みんぞくおよびこっかのきなんをじょきょするためのほうりつ)、または、国民および国家の苦境除去のための法[1](こくみんおよびこっかのくきょうじょきょのためのほう)は、ヴァイマル共和政下のドイツ国において1933年3月23日に制定された法律。
国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)による事実上の一党独裁制の確立へと進む中、アドルフ・ヒトラー首相が率いる政府に、ヴァイマル憲法に拘束されない無制限の立法権を授権した[2]。この法律は立法府が行政府に立法権を含む一定の権利を認める授権法の一種であり、単に「授権法」と呼ぶこともある[3][4][* 1]。
経緯[編集]
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出典検索?: "全権委任法" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年2月)
前史[編集]
ドイツにおいて政府に対して広範な権限を付与する授権法は、帝政下の1914年の第一次世界大戦勃発にあたって制定されたものが始まりである。1918年の敗戦後の帝政崩壊を経たヴァイマル共和政期でも不安定な政情に対応するために1923年に二度制定されており、1931年の関税法も政府に命令権限を認める点で一種の授権法であった。しかし、いずれの場合も授権の範囲は限定されたものであり、国会(ライヒスターク)への報告が義務づけられたうえに国会による政府措置の破棄も可能であった[7]。
戦間期の世界恐慌後、深刻な不況・失業率の急増に対して対応できない議会に対し不信が高まっていた。ヒンデンブルク大統領は議会を重視せず、国家緊急権である大統領緊急命令(ヴァイマル憲法第48条)を多用することで政治運営を図った。1931年には発令された緊急命令の数が国会採択を上回り、1932年には60発令に対し、議会での立法はわずか5に留まっている[7]。こうした権威主義体制は、議会制民主主義に失望する大衆の支持を集めていった。これらのことは、既に全権委任法以前から反議会主義的な世論が形成されていたことを示している。
ヒトラー内閣[編集]
「ナチ党の権力掌握」も参照
ヒトラーは政権を握った際、自らに独裁権を与えることを主張していた。1932年7月の選挙で国民社会主義ドイツ労働者党(通称:ナチ党)は第一党となり、国防相であったクルト・フォン・シュライヒャーがパーペン内閣への協力を要求した。この時、ヒトラーは自らの首相就任と全権委任法の成立を要求している。しかしこの時は妥協が成立しなかった。
1933年1月30日に成立したヒトラー内閣最初の閣議でも、一定の授権法制定が議題となった[8]。その後ヒトラーはまもなく国会を解散し、4年間の政権委任を訴える選挙キャンペーンを行った。この選挙中の2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーは大統領に要請し、「共産主義暴動の発生に対応するため」として、「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(de:Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe)」の2緊急命令を布告させた。ヒトラー政府はこの二つの大統領緊急命令の権限で、国会議員を含む多数の共産党員・社会民主党員を逮捕・予防拘禁した。また州政府への命令権限を利用し、州政府を次々に掌握していった。選挙の結果、ナチスは288議席、連立を組む国家人民党は52議席を獲得し、過半数を獲得した。全権委任法制定を待つまでもなく、ナチ党はこの段階でほとんど絶対的な権力を手にしていた[9]。
3月7日の閣議でヒトラーは、憲法の範囲を超える全権委任法の制定への意志を表明した[8]。ヒトラーは国会での採択に自信を見せ、「共産党の議員が国会に現れることはないであろう」「彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているのだから」と続けた[10]。3月15日の閣議では、ナチ党員の内務大臣ヴィルヘルム・フリックから法案を内示し、3月20日には最終案を提示した。副首相フランツ・フォン・パーペン、経済大臣アルフレート・フーゲンベルクは国民会議による憲法制定条項を追加することで、ナチ党の権限を制約しようとしたが、国会議長ヘルマン・ゲーリングによって簡単に一蹴された。こうして閣議は全員一致で全権委任法に賛成し、次の国会に提出することが決定された[11]。
この間、各州の地方政府ではナチ党によるクーデターが相次ぎ、次々にナチ党の支配下に落ちていった。3月9日には最後まで抵抗したバイエルン州政府が総辞職し、国家代理官にフランツ・フォン・エップが就任した[12]。
採択への道[編集]
3月21日、国会議事堂が全焼したために現在のブランデンブルク州に位置するポツダムのフリードリヒ大王の墓所のある衛戍教会で、ヒンデンブルク大統領が列席する盛大な国会開会式が行われた(ポツダムの日)。この日の午後、ナチ党はいわゆる全権委任法、「民族および国家の危難を除去するための法律案」を国家人民党と共同で提出した[13]。
この法律は5条の法律案であるが、内容は議会から立法権を政府に移譲し、ナチ政府の制定した法律は国会・帝国参議院(ライヒスラート)や大統領権限を除けば憲法に背反しても有効とする法律案である。つまり、非常事態を理由にして、為政者の権力濫用を拘束し国民の人権を保証する憲法を骨抜きにし、ナチスに逆らう者に「公益を害する者」というレッテルを貼り、人権を剥奪して弾圧するようなナチ立法を(憲法に反していても)有効とし、選挙を経ていないナチ行政府公務員に立法権まで与える法律案であった。
実質的な憲法修正の内容を持つ本案は、本来は可決には総議員の2/3以上の出席を得た上で、出席議員の2/3以上の賛成を必要とした。ヒトラー与党は過半数の議席を得ていたが、2/3には足りなかった。そこでナチスは連立与党の国家人民党、鉄兜団などの協力で議院運営規則の修正法案を同時に提出していた。この修正案は、委員会や投票に参加しない議員の会議への出席を排除できた上に、排除された欠席議員は全て出席したもの(棄権扱いで、採決の分母から除外)と見なして計算することを可能とするものであった。既にドイツ共産党議員(81議席)は全員が「予防拘禁」、あるいは逃亡・亡命を余儀なくされ、一人も出席できない状態であった。あとは中央党の同意さえ取り付ければ、「円満な採択」が可能な状態となった。
3月22日の午後4時から、ヒトラーと中央党党首ルートヴィヒ・カースの会談がもたれた[14]。カースは執行段階での大統領関与の保証、監視委員会の設置、委任法からの除外項目の画定という三つの条件を提示した。これに対しヒトラーは大統領と自分が対立することはあり得ず、監視委員会は内閣の内に設けると回答し、さらに中央党の支持基盤である教会との関係や教育政策は対象とならないとした上で、州の権限に対する侵害は考えていないと回答した[14]。カースはこの意見を持ち帰り、翌3月23日の午後1時から中央党は法案への対処を決める会議を行った。この席でカースは、反対した場合に「党に対して不愉快な結果」が降りかかるおそれがあるとし、賛成しなくてもナチ党は法によらない手段でその権限を獲得するであろうと述べた[15]。他の議員もおおむね同じ考えであり[16]、党内で行われた事前投票でも、12人もしくは14人の反対者が出るに留まった[17]。中央党は多数決原理をとっていたため[17]、実際の投票では全員が賛成に投票することとなった[3]。
採択[編集]
議場となったクロル・オペラハウス
3月23日の昼過ぎ、臨時国会議事堂となったクロル・オペラハウスの周辺を突撃隊・親衛隊が取り囲んだ。演壇の後ろにはハーケンクロイツ旗が掲揚されていた[15]。まず議院運営規則の改正案の審議が行われ、起立多数で採択された[18]。共産党議員の他、26人のドイツ社会民主党議員ならびにドイツ人民党と中央党所属の2議員も逮捕・逃亡・病気などで欠席を余儀なくされた。
ついで全権委任法の審議が始まり、ヒトラーが法案の趣旨説明を行った。ヒトラーは「真の民族共同体建設」のためには、「民族の意志と真の指導の権威が結びついた一つの憲法体制」を作ることが必要であり、全権委任法の制定はそのためであると説明した[15]。また政府の行為に国会の承認を得ることはしないが、必要である場合には同意を求めることもあるとした。さらに国会、帝国参議院の存在と、大統領の地位と権限を保証し、教会に対する政策も変化しないとした[19]。そして最後に「政府は諸君の拒否の表明と、それにともなう抵抗の宣言を受け入れる覚悟を固めるものである。今や戦うか、平和を選ぶかは諸君自らである」と、否決された場合の強行手段を暗示した[20]。これにより、最後まで逡巡していたドイツ国家党の5人も賛成に回ることを決めた[21]。
このあと2時間の休憩が取られ、午後6時過ぎに再開された審議の冒頭、ドイツ社会民主党党首のオットー・ヴェルスがこの日唯一の反対演説を行った[21]。
ヒトラーは即興にしてはきわめて巧みに、ヴェルスの主張を逐一余裕たっぷりに粉砕していった[23]。
その上で、「我々をブルジョアと誤解しないでくれたまえ。ドイツの星は昇りつつあるが、君たちの星は消えかかっている。君たちの弔鐘は鳴りわたったのだ」[25]とまくし立てた。
続いて立った中央党党首カースの演説は自己弁護に終始し、言葉とは裏腹に躊躇いを残したまま下した決定を自分自身に納得させようとする惨めなものに終わった[26]。
この後、バイエルン人民党、ドイツ国家党、キリスト教社会人民運動の賛成演説が続いた。最後に国会議長ゲーリングが「今や、ドイツの頂点に立つのは我々の指導者(Führer)である。もはや、言葉は不要である。今や、行動あるのみである。我々の指導者、ライヒ首相に対し、我々は盲目的な忠誠を捧げ、ドイツの勝利にいたるまで彼に付き従うことを誓うものである」と宣言し[27]、投票にうつった。
採決政党議席数率賛成投票反対投票
国民社会主義ドイツ労働者党28845 %2880
ドイツ国家人民党528 %520
中央党7311 %720
バイエルン人民党193 %190
ドイツ国家党50.8 %50キリスト教社会人民奉仕40.6 %40
ドイツ人民党20.3 %10ドイツ農民党(ドイツ語版)20.3 %20ドイツ農民連盟(ドイツ語版)10.2 %10
ドイツ社会民主党12019 %094
ドイツ共産党8113 %- - 総計647100 %44194
採決時、この時点ではまだ共産党議員は議員の資格を保持していた[28]にもかかわらず、議長ゲーリングは議員総数を共産党議員の分を差し引いた「566」と発表した[29]。国会による成立後まもなく開催された帝国参議院でも、この法律は全会一致で承認された[27]。帝国参議院の議員は選出州政府の命令に従うことが定められており、すでに各州政府はナチ党に握られていた[30]。
内容[編集]
全権委任法の前半
全権委任法の後半
署名は上から
大統領ヒンデンブルク
首相ヒトラー
内務大臣フリック
外務大臣ノイラート
財務大臣クロージック
のもの
いわゆる全権委任法は全5条からなる。
前文:国会(ライヒスターク)は以下の法律を議決し、憲法変更的立法の必要の満たされたのを確認した後、帝国参議院の同意を得てここにこれを公布する。
ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。本条は憲法第85条第2項および第87条に対しても適用される。
ドイツ政府によって制定された法律は、国会および上院の制度そのものに関わるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。
ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。憲法第68条から第77条は、政府によって制定された法律の適用を受けない。
ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
要旨をまとめると、以下のようになる。
第一条は、立法権を国会に代わって政府(ヒトラー内閣)に与えたものである。
第二条は、政府立法が憲法に優越し得る(違背し得る)ことを定めたものである。この条文には国会・帝国参議院・大統領の権限に関する留保事項が存在しているが、法学者ウルリヒ・ショイナー(ドイツ語版)らは留保事項は従来の憲法でなく、将来制定される憲法に基づくものであると解釈し、制限は極めて限定されたものだと解釈している[31]。
第四条は、外国との条約を成立させる際、議会の承認が必要ではないことを確認したものである。
第五条は、この法律が時限立法であったことを示す。全権委任法の成立には中道政党である中央党の賛成が必要であったが、この規定は中央党が賛成へ傾く一因になった。
またこの法律には、従来の授権法には存在した、国会に対する通告義務、国会による政府措置の破棄権限の条項が存在しないなど、従来の授権法と比べても異質な立法であり[32]、新たな憲法体制への道を開く、暫定憲法ともよべる法律であった[33]。
成立後[編集]
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出典検索?: "全権委任法" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年2月)
ヨーゼフ・ゲッベルスが24日の日記に「今や我々は憲法上もライヒ(ドイツ国)の支配者となった」と書いた[9]。またナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』は「第三ライヒ(第三帝国)」のはじまりであると宣言した[34]。全権委任法はすでにナチ党が手中にしていた権力[35]に合法性を与えるものとなった[9]。これによってヴァイマル共和政は名実ともに崩壊、新たな「憲法体制」(Verfassung)が構築された。制定手続きはヴァイマル憲法の憲法改正手続きに則って行われ、ヒトラーも制定理由を「新たな憲法体制」を作るためと説明している[36]。
当時の法学者カール・シュミットはこの法により、政府が立法権を手中にしただけでなく、憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと説明している[37]。
同法の成立後、ナチ党は他の政党や労働組合を解体に追い込み、同年7月14日には政党新設禁止法を制定、一党独裁体制を確立していく。大統領権限は不可侵であるとされて首相・閣僚任免権や国軍最高指揮権は依然として大統領のヒンデンブルクにあったが、すでに病体であったヒンデンブルクはこれらの措置に対して強い行動を起こさなかった。
1934年1月30日には『ライヒ新構成法(ドイツ語版)』が制定されたが、その第四条には「ライヒ政府は新憲法を制定できる」という条文が定められた。この条文を根拠に政府は全権委任法を超えた措置をも行うようになり、本来ならば憲法改正手続きを行わなければならない帝国参議院(ライヒスラート)の廃止が決定されている[38]。8月2日の『ドイツ国の国家元首に関する法律(ドイツ語版)』発効による大統領職と首相職の統合ならびにヒトラー個人への大統領権限委譲も、この『ライヒ新構成法』第四条を根拠としている[39]。ヒトラーはこれによって完全にドイツの独裁者となった(総統)。8月19日には『国家元首に関する法律』の条項に賛成するか否かという民族投票(ドイツ語版)が行われた[40]。投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票であった[40]。
1937年には全権委任法の期限切れを迎えた。当初関係省庁は「ライヒ立法に関する法律」を制定し、指導者兼首相に立法権が存在するということを明文化しようとした。ヒトラーは当初この案に賛成していたが、「心理学的理由」からこの立法を拒否し、全権委任法の延長で対応することにした[41]。ヒトラーは自らの権限が国会の議決に基づくという形を嫌い、国会による延長法の制定という形をとったものと見られている[41]。1939年にも同様の措置がとられたが、その4年後の1943年には『政府立法に関する指導者命令』(総統命令)によって、全権委任法の権限を今後も政府が行使すると規定された。この措置により全権委任法自体は延長されず失効したものの、その効果は政府が保持し続けることとなった[42]。この命令では「国会がこの措置を批准することを留保する」という文言が存在したが、国会は1942年4月以降開かれず、批准措置はとられなかった[41]。1945年9月20日、ドイツを占領していた連合国管理理事会(英語版)はナチス法の廃止に関する管理理事会法第一法律(ドイツ語版)を発し、他のナチス政権下に成立した複数の法律とともに、全権委任法および関連する法令の廃止を宣言した。
合法性[編集]
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この法律が合法的な手段で制定されたという意見は存在しているが、カール・ディートリヒ・ブラッハー(ドイツ語版)は、欺瞞や恐喝による同意の取り付け、左翼議員の逮捕や各州政府の改編は明らかな違法行為であったと指摘している[30]。
現代ドイツ基本法への影響[編集]
第二次世界大戦後に成立したドイツ連邦共和国(東西統一以前の旧西ドイツ)では、憲法(ドイツ連邦共和国基本法)の国民主権規定を防衛する義務を国民に課し、「戦う民主主義」を基本としている。言論・結社の自由などの天賦人権は保障されているが、民主主義体制の否定、連邦共和国の破壊を目指す政党は自由の名の下に保護される資格がなく禁止される(基本法21条)。また1968年6月24日の改正では、憲法的秩序を除去しようと企てる者に対し、他の救済手段が存在しない場合、すべてのドイツ人は抵抗権を有する(基本法第20条4項)ことが明記されるようになった[43]。
脚注[編集]
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注釈[編集]
出典[編集]
^ 「授権法(じゅけんほう)とは - コトバンク」(コトバンク)。出典元、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
^ 「独逸連立内閣 : 二閣僚を更迭して第二ストレーゼマン内閣成る」大阪毎日新聞(1923.10.8 (大正12))(神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】 )
^ 南利明「民族共同体と法(三) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制」『静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇』第25巻第1号、静岡大学、1989年、61-98頁、doi:10.14945/00003566、NAID 110007615716。
^ ジョン・トーランド、149p
^ 正式に共産党議員の議席が剥奪されるのは、3月31日の「ラントとライヒのグライヒシャルトゥングのための暫定法律」施行による(南利明 1988, pp. 221–222)
^ 山内敏弘「西ドイツ非常事態憲法における抵抗権」『一橋論叢』第65巻第1号、一橋大学一橋学会、1971年、92-113頁、NAID 110007638453。
参考文献[編集]
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四宮恭二 『ヒトラー1932~1933(上・下巻)』 日本放送協会、1981年。
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有澤廣巳 『ワイマール共和国物語(上・下巻)』 東京大学出版会、1994年、ISBN 4-13-003303-4(上巻)、ISBN 4-13-003304-2(下巻)。
南利明「民族共同体と法(二) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制」『静岡大学法経研究』第24巻第2号、静岡大学、1988年、199-223頁、NAID 110007616176。
南利明 「指導者-国家-憲法体制における立法(一)」『静岡大学法政研究』第8巻第1号、静岡大学人文学部、2003年10月、69-129頁、doi:10.14945/00003575、NAID 110007522689。
南利明 「民族共同体と指導者 : 憲法体制」『静岡大学法政研究』第7巻第2号、静岡大学人文学部、2002年、123-183頁、doi:10.14945/00003572、NAID 110000579739。
南利明 『ナチス・ドイツの社会と国家』(勁草書房、1998年)ISBN 978-4326200399。
ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー 2巻』 集英社文庫、1990年、ISBN 4-08-760181-1。
中井晶夫「ナチス権力と中央党員の行動」『上智史學』第29巻、上智大学史学会、1984年、11-39頁。
イアン・カーショー『ヒトラー(上)1889-1936 傲慢』石田勇治監修、川喜田敦子訳、白水社、2016年1月20日。ISBN 978-4560084489。関連項目[編集]ウィキソースに全権委任法の原文があります。ウィキソースに1937年の全権委任法延長法の原文があります。ウィキソースに1939年の全権委任法延長法の原文があります。ウィキソースに1923年10月の授権法の原文があります。ウィキソースに1923年12月の授権法の原文があります。
ナチ党の権力掌握
29の言語版
ツール
ナチ党政権獲得1周年を記念したポストカード(1934年1月29日発行)。ヒンデンブルクと並ぶヒトラーの肖像とブランデンブルク門での松明行進が描かれている
ナチ党の権力掌握(ナチとうのけんりょくしょうあく、ドイツ語:Machtergreifung[注 1])では、ドイツの歴史において、アドルフ・ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)によるドイツ国における権力掌握の過程、第一次世界大戦敗戦による帝政の崩壊、ヴァイマル共和政の混乱からナチス・ドイツの成立といった一連の史実を記述する。
ナチ党は、ドイツのそれまでの内閣や大統領の歴代政権が獲得することのできなかった強大な権力を「合法的」[注 2]に手中にした。この権力掌握の過程は、大きく分けて二つの時期に分類される。ナチ党が国内有数の政党になってから1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するまでの期間と、政権についたヒトラーとナチ党が国内の政敵をほぼ一掃し、立法権・行政権・司法権の三権[注 3]を含むドイツ国内の権力を、党・国家そしてヒトラーが支配するまでの期間である。後者の過程は政権獲得からほぼ2年以内の短期間であった。
背景[編集]
第一次世界大戦敗戦[編集]
背後の一突きを描いた1919年のオーストリアの絵はがき。ユダヤ人が戦場のドイツ兵を背後から刺そうとしている。
「国民社会主義ドイツ労働者党#歴史」、「第一次世界大戦の賠償」、および「反ユダヤ主義」も参照
ヴァイマル共和政期のドイツは、第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約によって、敗戦国として協商諸国に対して、莫大な賠償金を課せられ、領土は割譲された。
ドイツは海外植民地と普仏戦争で得たアルザス=ロレーヌ等を失い、ラインラントは非武装化され、ザール地方は国際連盟の管理下に置かれた[3]。1936年にナチス政権がラインラントを再武装化するまで、ヴェルサイユ体制とよばれる国際秩序が形成された[3]。
また軍備が制限されたために、大量の軍人が失職を余儀なくされ、失業者や武装組織「ドイツ義勇軍(フライコール)」のメンバーとなり、社会の不安定要因となった。彼らと国軍に残留した者の間では、「ユダヤ人に唆された共産主義者がドイツ革命を起こしてドイツ帝国に敗北をもたらした」とする陰謀論、「背後の一突き(匕首伝説)」が流布していった。ドイツ軍を指揮したパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥、戦時中実権を持ったエーリヒ・ルーデンドルフ陸軍大将、マクス・パウエル大佐、フォン・ヴリスベルク将軍も匕首伝説が事実であったと証言し、大戦の敗戦責任はユダヤ人と共産主義者ら左翼にあるとした[4][5]。また、ロシア革命でウクライナから逃亡してきたピョートル・シャベルスキー=ボルク(Piotr Shabelsky-Bor)は、ユダヤ人の国際陰謀について書かれた『シオン賢者の議定書』をドイツ福音教会の神学者ミュラー・フォン・ハウゼン[注 4]に手渡し、1920年にミュラーは仮名[注 5]でドイツ語訳を出版し12万部を売った[5][6]。ミュラーは、ユダヤ問題の解決のためには、ユダヤ人を閉じ込めるしかないと主張して、外国籍ユダヤ人の入国禁止、ドイツ人学校への入学禁止、金融業の国有化、ユダヤ人が経営する商店へのダビデの星の掲示義務化、ドイツ名の名乗り禁止、ユダヤ人団体の禁止などを列挙し、のちのニュルンベルク法などのような、ユダヤ人条例(Juden Ordnung)を提案し[5]、違反したユダヤ人は死刑と主張した[7]。全ドイツ連盟のクラースはこのユダヤ人条例案を支持した[7]。
一方で、コミンテルン指揮下に置かれたドイツ共産党は再度の革命を目指し、勢力を拡大しつつあった。また、国会は安定多数を獲得する政党が最後まで出現せず、議会に基礎を置く首相の指導は不安定であった。またドイツ帝国以前からの伝統を持つ各州の独立傾向は強く、中央政府の権力は掣肘された。
1920年3月13日に軍の縮小とドイツ義勇軍の解散に反発したカップ一揆が発生し、国家人民党、ドイツ国民党、経済界は新政府を支持した[8]。これに対して社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟はゼネストを行い、さらに左翼復員のルール赤軍によるルール蜂起が発生したことで、カップは退陣した[8]。ルール蜂起も国軍によって鎮圧された[8]。
1921年1月、賠償額交渉で総額2,260億マルクという莫大な賠償金が課せられたため、ドイツ全土は激しい怒りに満ちた[注 6]。ドイツ政府は修正を要求したが、連合国は拒否してライン地方を占領し、圧力をかけた[8]。1921年5月のロンドン会議で総額1,320億マルクへと修正され、ドイツが拒否する場合はルール地方を占領するという最後通牒を通達した[8]。中央党のコンスタンティン・フェーレンバッハ首相は退陣し、中央党左派のヨーゼフ・ヴィルトが首相となり、賠償支払いに応じたが、右派は批判した[8]。1921年10月、連合国はオーバーシュレージエンの4分の1をポーランド帰属と断定したが、そこには鉱工業が集中していたため、ドイツは反発した[8]。1921年は物価が急激に上昇し、食料品は大戦末期の8倍、1922年には130倍となり、1923年にはハイパーインフレーションとなった[9]。
このような状況のなか、1921年にアドルフ・ヒトラーがナチ党の指導者[注 7]となって以降、同党は拡大を続けた。ヒトラーには魔力的とも評される演説の魅力があり、また党による演出と宣伝もそれを大きくさせた[10]。
ルール占領とハイパーインフレーション[編集]
フランス軍によるルール占領
1923年1月11日、フランスとベルギーが木材賠償の支払いが遅れているという理由でルールを占領した[11]。ドイツ国民は社民党からドイツ国家人民党まで怒りが広がり、反フランスの「国民統一戦線」が成立した[8][11]。ヒトラーは同日、フランスに占領された責任はマルクス主義、民主主義、議会主義、国際主義の背後にいるユダヤ人にあると演説した[11]。3月31日にはフランス軍の銃撃でクルップ社の13人の労働者が死亡し、41人が負傷した[11]。フランスとドイツの交渉が膠着したことでルール地方を事実上失ったドイツは石炭を外国から輸入せざるをえなくなり、またルール地方の企業支援のために通貨を無制限に発行し、5月には1ドル=15000マルク、11月には1ドル=4兆2000億マルクと下落し、ハイパーインフレーションが進行し、貨幣マルクはパピエルマルク(紙くずマルク)と呼ばれた[9][12]。
1923年夏、バイエルン州政府は、中央政府がルールでの「消極的抵抗」を中止したことをドイツへの裏切りとして非常事態を宣言し戒厳令が敷かれ、フォン・カールを州総監に任命して全権を委任した[12][13]。シュトレーゼマン中央政府も大統領緊急令で対抗したが、バイエルンはバイエルン駐在軍を州軍として編成し、州司令官ロッソウをバイエルン軍司令官として任命し、バイエルンは独立国家の様相を呈した[12]。ただし、カールはナチ党を抑えようとしたため、ナチ党は反発を強めた[13]。さらにライン地方も中央政府からの分離運動を開始し、共産党・コミンテルンも中央政府をファシズムとして批判した[12]。
コミンテルンはドイツ共産党に武装革命を指示し、共産党は1923年10月23日にハンブルクで武装蜂起して党員24人と警官17人が死亡、ザクセンでは軍とデモ隊の衝突で23人の死者、31人の負傷者が出て、鎮圧され、各州で共産党は非合法化された[12][13]。共産党による反乱に対して、ナチ党は自分たちも行動しなければナチ党支持者が共産党に転向することを恐れた[13]。
ミュンヘン一揆[編集]
バイエルン首相カール・警察長官ザイサー・バイエルン軍司令官ロッソウの三巨頭は、ナチ党とルーデンドルフを外してベルリンでナショナリスト独裁政府を樹立する計画を持っていた[13]。1923年11月初頭、ザイサーがベルリンで陸軍最高司令官ゼークトとクーデター計画の交渉をするが、ゼークトは拒絶した[13]。これに対してナチ党とルーデンドルフを中心とした闘争連盟(Kampfbund)もベルリンへの進軍を計画した[13]。ヒトラーは11月6日カールが会合に現れなかったため、クーデターを決心、11月8日カールの集会に武装したナチ党が乱入し、ヒトラーは聴衆に向かって、ロッソウは国防大臣、ザイサーは警察大臣、カールは州摂政に任命し、「ベルリンのユダヤ人政府」を標的とするミュンヘン新政府の樹立を宣言した[13]。ヒトラーは「今夜、ドイツ革命がはじまる」と宣言し、群衆は賛同の声にどよめいた[13]。しかし、バイエルン軍も州警察も一揆に協力はせず、翌9日ヒトラーたちの行進に対して銃撃戦がはじまり、一揆勢力14人、警官4人が死亡し、こうしてミュンヘン一揆は一日で鎮圧された[12][13]。ナチ党は禁止されたが、三巨頭も権力と信頼を失い、翌年に失脚した[13]。
ヴィルヘルム・マルクス内閣では授権法(全権委任法)が与えられ、公務員40万人を解雇するなど大幅な予算削減を行った[12]。
ナチ党、ルーデンドルフ、オーバーラント団、国旗団は1923年に首都ベルリンに進軍するためバイエルン州政府を掌握しようとクーデターを起こした。このミュンヘン一揆による権力掌握は失敗したものの、ヒトラーとナチ党の存在はドイツ国内外に広く知れ渡った。ナチ党はその後合法戦略に転換し、国会選挙での議席獲得を目指した。一方で党の半武装組織突撃隊は共産党の赤色戦線戦士同盟などと激しく衝突し、死者を出すことも珍しくなかった。また政治活動が禁じられていた軍内部にも浸透を図った。しかしこの過程で党員の将校が党細胞を組織しようとしたとして、反逆罪で訴追される事態が発生した。これはウルム国軍訴訟(ドイツ語版)と呼ばれ、ナチ党の合法性をも問う訴訟となった。
ミュンヘン一揆を起こしたルーデンドルフは無罪放免になったあと、1924年に国家社会主義自由運動の国会議員となり、1925年ドイツ大統領選挙に出馬したが得票数最低で落選した[14]。
1924年1月、ドイツ経済の破壊なしに賠償支払いを円滑にするドーズ案が出され、8月に連合国とドイツは了承した[12]。国際環境の好転によって12月総選挙ではナチ党も共産党も後退した[12]。しかし、国内では右翼、左翼の準軍事組織の結成が相次いだ。1924年2月、社民党系の「黒赤金国旗団」が310万を擁し、夏には共産党系の赤色戦線闘士同盟が結成され10万の勢力となった[12]。ナチ党の突撃隊、鉄兜団、ドイツ民主党系の青年ドイツ騎士団などが展開した[12]。1924年4月のバイエルン州選挙、および5月の国会選挙で民族ブロックが第一党となった[13]。
『我が闘争』
ミュンヘン一揆で収監されたヒトラーは自由が許され、支持者からのプレゼントや賛辞であふれ、来客も絶え間なく訪れ、法廷で演説し歓声が沸いた[13]。1924年4月の判決では禁錮5年と200金マルクの罰金にとどまり、警官の犠牲や社民党事務所の破壊、14兆6050億マルクの強奪などの責任は問われなかった[13]。ヒトラーは獄中で『我が闘争』を執筆、1925年から1926年にかけて出版し、「全能の造物主の精神において」「私はユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦う」と宣言した[15]。ヒトラーによれば、「寄生的存在であるユダヤ人は有害なバチルス菌のようにどこまでも広がっていき、定着した先で宿主の民族を消滅させる[16]。ユダヤ人は平等と労働者の条件の改善を主張しているが、その目的はユダヤ人以外のすべての民族を奴隷にして絶滅させることにあり、黒髪のユダヤ人は若い娘を奪ったり、ライン川にニグロを連れてくるなどあらゆる手段を用いて混血による退化をもたらし白色人種を滅ぼそうとしている[16]。人類のプロメテウスであり、輝く額から神々しい天才のひらめきによって文化を創造したアーリア人が絶滅すれば地上は深い闇につつまれ、人類の文化は消え失せ、世界は荒廃するだろう」と述べた[16]。
1925年2月、禁止処分が解除されたためナチ党が再結成され、新規約では「ドイツ国民の最大の敵はユダヤ人とマルクス主義」とされた[17]。2月27日の党集会は盛会となった[17]。27年までナチは公の場での意見表明は禁じられたが、1926年7月のヴァイマル党大会では演説が許可され、親衛隊(SS)も初めて姿をあらわし、推定8000人の参加者は熱烈にヒトラーを歓迎した[17]。
低迷期[編集]
エーベルト大統領が死去したため行われた1925年の大統領選挙では与党ヴァイマル連合(社民党・中央党・民主党)は中央党のヴィルヘルム・マルクスを、一方、国家人民党ら右派は戦時英雄ヒンデンブルクを担ぎ、ヒンデンブルクが勝利した[12]。ヒンデンブルクは穏健な統治をすすめ、右翼過激派から批判されるほどであった[12]。ヒンデンブルクは1925年末ロカルノ条約を締結し、国際連盟への加盟を実現させ、これによりヨーロッパの国際政治は安定したが、ソ連はロカルノ体制を警戒した[12]。
当時、ナチスは低迷期に入っていた。1927年、第四次マルクス内閣は失業保険制度など失業政策を実現させた[12]。1927年3月にナチスはバイエルンで演説禁止が解かれたが、聴衆の数は減少していき、勢力は伸びなかった[18]。1927年の内務省報告でも、ナチ党は影響力がないとみなされていた[17]。
ドイツ経済も回復し、アメリカ文化が浸透するなか、1928年5月の国会選挙でナチ党の得票率はわずか2.6%にとどまり[17]、社民党が第一党として躍進し、国家国民党も後退した[12]。選挙で惨敗したナチ党は結束を強めた[17]。
世界恐慌の時代[編集]
テューリンゲン州議会選挙[編集]
1929年12月のテューリンゲン州[19]議会選挙でナチ党は11.3%を獲得し6議席を得て連立政権に加入、内相と文相のポストを獲得した[20]。1930年にはテューリンゲン州政府にナチ党幹部のヴィルヘルム・フリックが内務大臣として入閣した。フリックは全権委任法、バウハウスの閉校、警察組織制度改革などナチ党の思想に基づく政策を実行し、テューリンゲン州はナチ党政策の「実験場」となった[21]。
国の中央政府(ライヒ政府)であったブリューニング内閣のヨーゼフ・ヴィルト内務大臣はナチ党の合法性を疑い、州政府から警察に出される補助金を打ち切ったが、これはライヒ政府とテューリンゲン州の訴訟に発展した。この訴訟においてはナチ党が非合法活動を行っている政党であるかどうかが争点となったが、ヒトラーは1930年9月20日に行われた「ウルム国軍訴訟」の法廷で「こうした高揚を代表する運動は、しかしながら、非合法な手段によっては準備されないのである」という「合法誓約」を行って党の合法性をアピールした[22]。また国防省がナチ党員である事を理由に職員を解雇したことは違法であると判決が下ったこともあり、ライヒ政府のテューリンゲン州への介入は違憲である可能性が高まった。こうした事で不利を察知したライヒ政府は和解に動き、12月30日にテューリンゲン州が和解に同意した。この和解によってナチ党の違法判断は行われる事が無く、ナチ党は完全な合法政党として扱われるようになった[23]。
ナチ党の得票数の変化選挙日得票数得票率当選数1928年5月20日810,0002.6%12人1930年9月14日6,410,00018.3%107人1932年7月31日13,750,00037.3%230人1932年11月6日11,740,00033.1%196人1933年3月5日17,280,00043.9%288人1933年11月12日39,655,28892.2%661人
1930年の国会選挙[編集]
1929年の世界恐慌はドイツの経済に壊滅的な打撃を与え、この事態はドイツ政府への支持を一気に失わせた。1930年3月20日にドイツ社会民主党のヘルマン・ミュラー首相が辞職すると、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は後継首相に中央党のハインリヒ・ブリューニングを指名した。ブリューニングは社会民主党の協力を得て大連立による議会運営を目指したが、社会民主党を嫌っていたヒンデンブルクの意向やドイツ人民党との連携を嫌った社会民主党側の拒絶もあり、少数連立による議会運営を余儀なくされた。従来の内閣は議会勢力の支持を受けた結果、大統領に任命されるという形式が執られていたが、ブリューニング以降の首相任命においてはこれらの手続きはとられなかった。これ以降の内閣は国会を基礎とせず、ただ大統領の信任のみに基づく内閣であったため、大統領内閣と呼ばれる。
1930年3月、ヒンデンブルク大統領は賠償を緩和するヤング案に署名したが、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「ドイツ国民の奴隷化」だとして反発し、ナチ党は過激な行動で一挙に名をあげた[12]。1930年5月、フランスのブリアン首相がヨーロッパを統一する計画を発表すると、ドイツは現状固定化になると反発した[24]。
1930年9月の国会選挙でナチ党は650万票を獲得して、107議席の第二党となった[25]。第一党の社会民主党は後退し、ドイツ国家人民党、ドイツ人民党は票を減らし、共産党は支持を伸ばした[25]。
選挙期間中にナチ党支持の国軍ウルム駐屯地の士官3人が軍事クーデターを計画していたという嫌疑で国家反逆罪に問われた裁判でヒトラーはナチズムは合法的に権力を奪取し、ナチ政権下の憲法裁判では「1918年11月の罪」(ドイツ革命のこと)が問われるだろうと法廷で述べ、傍聴人から歓声があがった[25]。1930年10月5日のブリューニング首相との会談でヒトラーは「共産党、社民党、フランス、ロシアを絶滅させる」と語った[25]。
与党の国家人民党と人民党の議席が激減し、ブリューニング首相の政権運営はさらに苦しくなった。ブリューニングはドイツ社会民主党の協力を得たが、議会運営は困難であった。このためヒンデンブルク大統領に議会の議決を必要としない大統領令を発出させることで政権運営を行った。1931年には大統領緊急令の数が国会採択を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5に留まっている[26]。しかし社会民主党に反感を持っていたヒンデンブルクは、次第にブリューニングへの信頼を失い、息子で陸軍大佐のオスカー・フォン・ヒンデンブルクや大統領官房長のオットー・マイスナー、国軍の実力者である国防次官クルト・フォン・シュライヒャーらといった側近グループを重用し始めた。
オーストリアとの関税同盟[編集]
1931年3月、ドイツはヴェルサイユ条約で禁止されたオーストリアとの関税同盟を発表した[24]。しかし、1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディートアンシュタルト(ロスチャイルド家創立)が破綻すると、金融危機がはじまった[24]。ドイツ=オーストリア関税同盟を非難していたフランスはクレディートアンシュタルトへの借款を拒否し、同盟の成立を阻止した[27]。アメリカなど諸外国の資本はドイツから撤退し、続けて大手紡績会社が倒産すると主力銀行の一つダナート銀行が破産したため、ドイツ政府は7月に金融機関に休業を命じた[24]。しかし、恐慌は加速し、1931年末には失業者は600万人近くにのぼり、1932年にはホームレスが40万人、失業率は約30%となった[24]。労働組合の行動力は低下し、就業者と失業者の溝が深まり、鉄兜団は国粋政府樹立をとなえた[24]。
シュライヒャーはナチ党の協力を得ることが円滑な政権運営を可能にすると考え、ヒトラーを取り込もうとした。1931年10月14日、シュライヒャーの仲介でヒトラーははじめてヒンデンブルク大統領と会談した。ヒトラーは政府への協力を確約せず、さらに元帥(ヒンデンブルク)の威厳に落ち着きを失ったこともあり、相互に悪印象を与えるだけの会談となった。ヒンデンブルクはヒトラーの長広舌にうんざりして「首相の器ではなく、せいぜい郵政大臣どまり」[28]と評している。10月21日、ナチ党は国家人民党や鉄兜団などの右派とともにハルツブルク戦線を結成してブリューニング内閣とヒンデンブルク大統領への攻撃を強めた。
1932年ドイツ大統領選挙からブリューニング内閣崩壊へ[編集]
ヒンデンブルク大統領の応援演説を行うブリューニング
ヒンデンブルクとヒトラーの選挙広告(1932年3月)
1932年4月の大統領選挙に際して、ブリューニングとヒトラーはヒンデンブルク大統領の続投を目指して交渉し、ブリューニングはナチ党を弱めようとし、ヒトラーはブリューニングの罷免を条件に支持するとヒンデンブルクに交渉したが、ヒンデンブルクは拒否した[29]。
ヒトラーは当初「自分は首相になるつもりだ。大統領の柄ではないし、大統領にはならないことも知っている」[注 8][30]と大統領選挙出馬を否定していたが、選挙公示の15日前に出馬を決めた。出馬しなければ支持者を失うことをおそれての立候補だった[29]。
ヒンデンブルクは社民党や中央党の支持を得て53%の票を獲得し、ヒトラーも37%の1300万以上の票を獲得した[29]。
選挙終了間もない1932年4月13日の州議会選挙では、ブリューニング首相と国防相ヴィルヘルム・グレーナーによってナチ突撃隊と親衛隊の活動が禁じられた[29]。グレーナー国防相がブリューニング首相と大統領に要請しての大統領令だった。左翼の準軍事組織が適用外であったので、ナチスは当局は偏っていると批判した[29]。シュライヒャーもこの措置に反発し、ヒンデンブルク大統領を説いて社会民主党の国旗団も同様に禁止させるべきであるという大統領書簡を発表させた。重大な問題を起こしていない国旗団を解散させることは出来ず、グレーナーはシュライヒャーの辞職要求を受けて辞任した。州議会選挙では、プロイセンとアンハルト自由州においてナチ党は第一党となった[29]。
さらにブリューニング内閣が打ち出した東部(東プロイセン)農業救済政策はユンカーの猛反発を受け、政権は末期状態となった。
国防相グレーナー配下のクルト・フォン・シュライヒャー将軍は軍とナチ党による独裁体制を樹立することを目指し、ヒンデンブルク大統領側近という立場から政権中枢でブリューニング倒閣運動を展開した[29]。5月8日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、突撃隊・親衛隊の禁止令を解除すること、新内閣成立まもなく総選挙を行うことと引き替えに協力を求めた。ヒトラーは応じ、次期内閣への支持を約束した。
国防相グレーナーの国会演説中で騒ぎがおき、シュライヒャー将軍はグレーナーに軍の支持は失ったと告げたことで、1932年5月12日にグレーナーは辞任した[29]。5月29日、ヒンデンブルクが辞任を求めると即座にブリューニングも辞任した[29]。同日午後、ヒンデンブルクはヒトラーと会談し、突撃隊禁令の撤回などが約束された[29]。
5月30日にブリューニング内閣は総辞職した。
パーペン内閣[編集]
パーペンとシュライヒャー(1932年)
続けてシュライヒャー将軍は旧友フランツ・フォン・パーペンに首相就任を打診し、さらにナチ党以外の政党からの影響を受けないような閣僚リストも作成したうえでパーペン内閣が1932年6月1日に成立した[29]。パーペン内閣には貴族出身者が多く『男爵内閣』と呼ばれた。シュライヒャーは国防相となった。パーペンは中央党の党員であったが、ブリューニングを裏切る形で後継首相となったことで中央党から離脱せざるを得なかった。このためパーペン内閣の与党は存在しなくなった。ヒトラーはパーペンに面会した際に「あなたの内閣は一時的な措置である」と述べた[29]。ナチ党は人気のないパーペン内閣を支持することはなく反政府の立場を鮮明にした。
5月から6月にかけてナチ党はオルデンブルク州、メクレンブルク=シュヴェリーン州、ヘッセン州で44〜49%の得票率を記録した[29]。突撃隊と親衛隊の禁令も解除された[29]。
プロイセン血の日曜日事件[編集]
6月から7月にかけてドイツ各地でナチ党員と共産党員による衝突と殺人事件が多発し、相互に犠牲者を出していった[29]。7月17日、首都ベルリンを置くプロイセン自由州アルトナでの血の日曜日事件では突撃隊のパレードに対して共産党員・赤色戦線戦士同盟が発砲し、17人が死亡、64人が負傷した[29]。社会民主党の牙城であるプロイセン州では、社民党のオットー・ブラウンが州首相を務めていたが、7月20日、パーペン内閣は大統領令によって、血の日曜日事件の責任などを理由にブラウン州首相を解任し、パーペンがプロイセン総督(プロイセン州国家弁務官)となった(プロイセン・クーデター)[29]。社民党は抵抗できずに降伏した[29]。州政府罷免は裁判所によって違憲とされたが、パーペンは従わず乗り切った。この事件は後にナチ党が州政府を掌握する際の先例となった。
1932年7月ドイツ国会選挙[編集]
ヒトラー(1932年)
ヒンデンブルク大統領は国会を解散し、総選挙が7月31日に行われることになった[29]。この1932年7月ドイツ国会選挙で国民社会主義ドイツ労働者党はさらに躍進、230議席を得て第一党となった。パーペンは辞職してヒトラーに政権を渡すことを考えた。またヒトラーは自身を首相とする内閣改造案をシュライヒャー将軍に打診し、シュライヒャー将軍はヒトラーの要求をヒンデンブルク大統領に伝えたが、大統領は拒絶した[29]。ヒンデンブルクはこの時にはヒトラーを『ボヘミアの伍長』と嫌っていた。
8月5日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、副首相の地位を提示した。しかしヒトラーは首相の地位と全権委任法の成立を要求した。シュライヒャーはヒンデンブルクとヒトラーを会見させることのみ約束した。
8月13日、ヒトラーはベルリンを訪れシュライヒャー、パーペンと相次いで会談した。シュライヒャーとパーペンはヒトラーに副首相としての入閣を提案したが、ヒトラーは受け入れなかった[29]。
その日の午後3時、ヒンデンブルクとヒトラーの会談が始まった。ヒトラーは首相の地位を要求したが、ヒンデンブルクは拒否し、突撃隊によるテロへの警告を行うとともに、パーペン内閣への協力を求めた。ヒンデンブルクは「異なる考え方をもつ者に対してこれほど寛容ではない党」に政権を渡すことはできないし、テロ行為には最大限厳しく対応すると回答し、ヒトラーは自制心を保ったが怒りで爆発寸前だった[29]。ヒトラーは退出後には自分を『屈辱的な会談』に引っ張り出したパーペンを激しく罵った。すっかり気落ちしたヒトラーは副首相の地位でも良いかと弱気になったが、パーペンがこの会見の模様を新聞にリークしたことで激怒した。憤激した突撃隊が直接行動に出ようとする動きもあったが、突撃隊には2週間の休暇が与えられることで沈静化した。この新聞発表にはナチ党を引き入れようとしたシュライヒャーも当惑し、パーペンを見限って新政権を建てることを計画し始めた。
折しもパーペン内閣が8月9日に発効させた対テロ闘争緊急令によって、シュレージエンのポテンパ村での突撃隊による共産党員の殺害事件に対して死刑判決が出された[31]。ナチ党は「血の判決」だとパーペン政権を非難したため、パーペンは政治的判断で減刑に応じた[31]。ナチ党は対テロ闘争緊急令をマルクス主義に対するものと考えて歓迎しており、フェルキッシャー・ベオバハター紙はナチ政権での緊急令では共産党と社民党幹部は逮捕され、強制収容所に収容されるだろうと論じていた[31]。
パーペン内閣崩壊[編集]
ベルリン市電ストライキ。バリケードで線路を封鎖している
新国会が開催されると、ナチ党は中央党の協力を得てヘルマン・ゲーリングを国会議長に選出した。国会は当初はスムーズに展開していた。しかし、9月12日の本会議で共産党議員エルンスト・トルグラーがパーペン内閣不信任案を提出した[31]。
すでにパーペンは8月30日時点でヒンデンブルク大統領から解散命令を受け取っていたが未提出のままだった[31]。パーペンは大急ぎで国会解散の大統領令を出すことで不信任案の採決を阻止しようとしたが、ゲーリングは無視して不信任案の採決を行った。採決は賛成512、反対42の圧倒的多数で不信任案が可決され、パーペン内閣を信任したのはドイツ国家人民党とドイツ人民党だけだった[31]。同時に解散命令も発効し、次回選挙は11月6日に定められた[31]。
前回の選挙で資金を使い果たしたナチ党にとっては厳しい選挙戦となった[31]。大多数のメディアはナチ党に敵対的であったし、ナチ党はラジオの利用も許されなかった[31]。選挙期間中、ナチ党は保守主義者パーペンを攻撃し、またベルリン交通労働者のストライキを共産党と一緒に支持したことなどから、ナチ党を共産主義・社会主義とみなすイメージが中産階級の間で広まった[31]。新聞もナチ党を共産党扱いし、共産党を警戒する財界人は援助を引き上げた。
1932年11月ドイツ国会選挙でナチ党は第一党は確保したが、前回比200万票を減らし議席数も230から196に減った[31]。支持を伸ばしたのは共産党とドイツ国家人民党だった[31]。共産党が着実に議席を伸ばしていることが保守派の警戒心をあおった。
パーペンはナチ党を含む各党に協力を求めたが、拒否された。パーペンは辞任の意向を伝えたが、ヒンデンブルクは「ペンキ屋ふぜい(ヒトラーのこと)にビスマルクの椅子を与えるわけにはいかない」[注 9]とヒトラーを拒否した。それから2回ヒンデンブルクとヒトラーの会談が行われたが、またしても交渉は物別れに終わった。このようにヒンデンブルク大統領は変わらずヒトラーを嫌い、ヒトラーもヒンデンブルクを軽蔑していたが、大統領の後ろ盾を得ずに権力を掌握することは不可能であった[31]。
この間にヒトラーを首相にするようにという請願書が多数大統領の下に送付された。特に11月19日にライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハト、合同製鋼(ドイツ語版)社長フリッツ・ティッセン、ヴィルヘルム・クーノ元首相ら「ケップラー・グループ(ドイツ語版)」の政財界人が連名で送った請願書は有名である (Industrielleneingabe)[注 10]。
1932年12月1日、ヒンデンブルク・シュライヒャー・パーペンの三者会談を行った。パーペンは議会の機能停止と軍隊による治安維持を提案した。シュライヒャーはパーペンの代わりに自分が首相になり、社会民主党やナチ党の一部を切り崩すことで事態を沈静化すると提案した。パーペンは議会に秩序が戻るまでの数ヶ月間は自分が首相として留まると主張したが、これに対しシュライヒャーは「坊さん、坊さん、汝は苦難の道を選びたり[注 11]」と、かつてマルティン・ルターに投げつけられた言葉を投げかけ[注 12]、ここにいたって二人の関係は完全に破綻した。
ヒンデンブルクはパーペンに組閣を依頼したが、シュライヒャーは非常事態を宣言して憲法違反を犯す計画がなされてしまえば内戦になることは避けられないし、ストライキと混乱が起きると軍は国境を防衛できないと忠告した[31]。翌日の閣議でシュライヒャーは軍や警察にナチ党が浸透しているため、強硬手段は内戦やポーランドの介入を招くとの軍の調査結果を発表した[注 13]。この結果を受けてヒンデンブルクも「祖国を内戦に追いやることは出来ない」として、不承不承ながらシュライヒャーを首相に任命した[31]。ヒンデンブルクはパーペンを気に入っており、辞任の際も握手して落涙し、「私には一人の戦友がいた」と書かれた写真を贈った[33]。この後、パーペンはヒンデンブルクの側近となった。
シュライヒャー内閣[編集]
ナチ党分裂の危機[編集]
グレゴール・シュトラッサー
12月3日、シュライヒャーは正式に首相に就任した。
シュライヒャーはヒトラーに協力を求めたが拒絶されたため、ヒトラーの右腕で現実的穏健派だったグレゴール・シュトラッサーに副首相として入閣を打診した[34]。ヒトラーが指導者原理の強硬路線でパーペン内閣への入閣を拒絶したのに対して、シュトラッサーは首相ポスト以外であっても入閣すべきであると考えており、当時党内の幹部では唯一の反対意見を述べるなどナチ党の組織を現実的に再編した穏健派とみなされていた[34]。またシュトラッサーは労働組合にも融和的であった[34]
シュトラッサーは党の資金力がこれ以上の選挙に耐えられないと考えており、この提案を党に持ち帰ることを了承した。しかし12月5日にホテル・カイザーホーフで開かれた幹部会でこの提案を披露したところ、かつての部下であるゲッベルスをはじめとする幹部からヒトラーを裏切ったと猛反発を受けた。ヒトラーもシュトラッサーを猛批判し、ショックを受けたシュトラッサーは12月7日に党の役職をすべて辞任し、翌日ミュンヘンに帰った。この時、シュトラッサーは次のような言葉を残している。
ナチス左派の領袖であり、組織を仕切ってきた古参幹部シュトラッサーの離脱はナチ党にとって大きな衝撃であり、シュトラッサーの出方次第ではナチ党が分裂する可能性も高かった。ナチ党は結党以来最大の分裂の危機を迎えた[34]。
ヒトラーは党の分裂に怯え、もしそうなったならば「私の夢はどれ一つとして実現しないでしょう」「すべてが失われた時、私がどうするかおわかりでしょう。(中略)約束を守って、弾丸で自分の一生にけりを付けるつもりです」とクリスマスにヴィニフレート・ワーグナーへ送られた手紙で自殺すらほのめかしたけれども、シュトラッサーは党内の支持勢力を糾合してヒトラーに対抗する道を選ばず、党の分裂は回避された[36]。
ヒトラー、ゲッベルス、レーム、ヒムラーらは、シュトラッサーの作った組織を廃止し、大管区指導者をヒトラーが直接指導する体制を作り上げ、党内ではヒトラー支持のキャンペーンが実施された。12月初頭のテューリンゲン州の町村議会選挙でナチ党は壊滅的な結果に終わった[34]。
一方、シュライヒャー首相は社会民主党の協力を得るため、労働組合の組織全ドイツ労働総同盟(ドイツ語版)の代表テオドール・ライパルトと接触を持ったが、社会民主党はシュライヒャーに反感を持っており、交渉を禁じた。
また、シュライヒャーはユンカーを押さえようと1930年に行われた東部農業救済政策で不当な利益を得た者の調査を開始するとした。しかしこれはユンカーの猛反発を受け、自身も東部に農地を持つヒンデンブルクもシュライヒャーへの不信感を募らせた。この農地は息子オスカーの名義となっており、相続税の負担を逃れるための名義替えであるという疑惑が存在していた。
パーペンの水面下の策動[編集]
ケルンにあるシュレーダー男爵旧邸
車に乗り込もうとするヒンデンブルク大統領と息子オスカー。後部中央の黒服の人物がマイスナー、その右がパーペン
この情勢を見てパーペンは復権のために動き出した。ワイン商でナチ党員のヨアヒム・フォン・リッベントロップを仲介にしてヒトラーと接触を取り始めた。1933年1月4日、ケルンの銀行家クルト・フォン・シュレーダー(ドイツ語版)男爵邸でヒトラーとパーペンは極秘会談を行った(銀行家シュレーダー邸におけるパーペンのヒトラーとの会談(ドイツ語版))。この会談でヒトラーとパーペンによる内閣の設立が合意された。シュライヒャーに裏切られたヒトラーにとってパーペンはヒンデンブルクとの交渉人であり、他方のパーペンもシュライヒャーに政権を追われたことから、ヒトラーの入閣を画策し、さらにパーペンを副首相とすればヒトラーの首相就任に働きかけるとの合意であった[37]。しかしこの情報は新聞記者に察知され、シュライヒャーの知るところとなる。
シュライヒャーはヒンデンブルクにパーペンに接触しないように依頼するが、ヒンデンブルクはパーペンが密かにヒトラーと交渉することを許可した。さらに、シュライヒャーはユンカーを味方につけようとして破産したユンカーの農地買い取り計画を提議したものの、シュライヒャーを見限りつつあったヒンデンブルクはこの案を拒否した。軍部の上層部は大半がユンカーであったため、ユンカー優遇策に失敗したシュライヒャーは軍の支持すらも失ってしまった。
1月15日にはリッペ自由州で州議会選挙(ドイツ語版)が行われた。リッペ州はドイツにおける最小の州であり、その選挙は普通であればほとんど注目されない地方選挙であり、どの政党も本腰をいれて取り組んでいなかった。しかしナチ党の選挙の責任者であったゲッベルスはこれを逆手にとり、リッペを一大キャンペーンで覆い尽くした。このことで、ドイツ国民はリッペ州選挙は国政の行方を占う一大選挙であるかのように錯覚した。選挙の結果、ナチ党は9議席を獲得して第一党となった。ナチ党は再び上り調子の党であると認識され、沈滞ムードを吹き払った。党には再び献金が殺到し、「党の財政状態は、一晩で根本的に改善された」[注 15][38]。この翌日、シュトラッサーは正式に党から除名された。1月18日、リッベントロップ邸でヒトラーとパーペンの再交渉が行われた。ヒトラーは首相の地位を再度要求したが、パーペンはヒンデンブルクやその息子のオスカー・フォン・ヒンデンブルク大佐が強い反対を示し困難であると話した。この際にリッベントロップはオスカーとヒトラーの会談を提案した。
ヒンデンブルクは息子のオスカーの言葉に左右されることが多かったから、ヒンデンブルクを動かすためには彼の説得が不可欠であった。それまでは公然とヒトラー嫌いの発言をしていたオスカーを説得するために1月22日にリッベントロップの別荘でヒトラーとオスカーの極秘会談が行われることになった。オスカーは大統領官房長マイスナーを同行し、ヒトラーはゲーリングとヴィルヘルム・フリックを連れてきていた。一時間ほどオスカーとヒトラーは別室で会談し、それから食堂で豆とベーコン料理のみの会食が行われた。別室の会談で何が話されたのかは現在も明確になっていないが、ヒトラーがヒンデンブルクの土地取得に関する疑惑を表沙汰にすると脅迫したものと歴史学者は見ている[注 16]。会食の後、車に乗ったオスカーは「こうなってはやむを得ない。ナチスを政府に迎えざるをえないだろう」とつぶやいた[注 17][39]。パーペンはこの時のオスカーの様子を見て、自らの首相就任を諦めた。以降パーペン、オスカー、マイスナーはヒトラーを首相にするよう、ヒンデンブルクに働きかけはじめた。
シュライヒャー内閣崩壊[編集]
オスカーとヒトラーの会見の情報はすぐさまシュライヒャーにも知られた[注 18]が、彼に残された手段は限られていた。シュライヒャーはヒンデンブルクに国会の停止と軍部による独裁政権樹立を提案した。しかしヒンデンブルクは拒否し、しかもこの提案は外部に漏洩し、社会民主党や中央党から『憲法違反』『人民の敵』と罵られた。シュライヒャーは憲法を犯す意思はないと弁明したが、この弁明はかえって数少ない与党である国家人民党に見捨てられることとなった。これを見てパーペンは国家人民党と鉄兜団を自派に引き入れた。
1月28日、シュライヒャーは最後の手段として国会の解散をヒンデンブルクに持ちかけ、受け入れられなければ自らは辞職するとした。ヒンデンブルクは再度拒絶し、シュライヒャーの辞職を求めた。しかしヒンデンブルクはなおも迷っており、次のように語った。
シュライヒャー首相は輸入関税に消極的であるとして農村同盟から闘争を宣言され、さらにドイツ国家人民党からも抵抗を宣言されたため、1933年1月28日に内閣総辞職した[41]。
ヒトラー内閣成立[編集]
シュライヒャーが去った後、パーペン、オスカー、マイスナーなどの大統領の重臣たちがヒンデンブルクの元を訪れてヒトラーの首相任命を要請した。ヒンデンブルクはパーペン内閣に戻そうとしたが、ヒトラー内閣も可能と考えるようになっていた[41]。ヒンデンブルクは「ではあのヒトラーを首相にするのが、わしの不愉快きわまる義務なのかね?」[42]と言って抵抗したものの最後には折れ、パーペンを副首相、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク中将を国防相にすることを条件とした。ヒトラーはパーペンを副首相とすることを不承不承認めたため、ヒンデンブルクもヒトラーが引き下がったことを喜び、ヒトラー内閣を承認した[41]。
翌日1月29日、パーペンは大統領の言葉をヒトラーに伝え、ヒトラーは承諾した。パーペンによる閣僚リストでは外相ノイラート、財務相クロージク、運輸郵政相リューベナハはシュライヒャー内閣からの引き継ぎで、プロイセン内相にゲーリング、経済相に国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクだった[41]。
パーペンは保守派によってヒトラーを確実に封じ込めることができると考えており、懸念に対して「われわれはヒトラーを雇ったのだ」と語った[41]。フーゲンベルクは、ヒトラー内閣以外に選択肢はないが、ヒトラーの権力を制限すべきだと会談で述べ、ヒトラーの就任に反対した鉄兜団に対してヒトラーの封じ込めは可能だと反論した[41]。
ヒトラーは選挙後に大統領の同意に頼らないようにするための全権委任法を通すとパーペンに伝え、頻繁な国会選挙を望まないパーペンとヒンデンブルクも了承した[41]。
成立日のヒトラー内閣
1933年1月30日の夜ブランデンブルク門前で松明行進を行う突撃隊
首相官邸の窓に現れたヒトラー
首相への道が開けたことにヒトラーとゲーリング、ゲッベルスは喜び、マクダ・ゲッベルスが焼いたナッツケーキで祝宴を開いた。そこにシュライヒャーの使者ヴェルナー・フォン・アルヴェンスレーベン(ドイツ語版)が訪れ、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に指名すれば、軍部のクーデターが起こると警告して去った。ヒトラーは驚き、ベルリンの突撃隊に警戒態勢を取らせ、党員である警察幹部にヴィルヘルム街(官庁街)の占領準備を命令した。さらにジュネーブ軍縮会議から帰国中のブロンベルク中将に連絡し、ベルリン駅から大統領官邸に直行させた。この措置は一揆の発生に対応するためと、シュライヒャーとの連絡を絶ってブロンベルクを確実に味方に引き入れるためであった。
1933年1月30日朝、大統領官邸に新内閣の首脳が集まった。国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)、ドイツ国家人民党、鉄兜団の連立内閣ヒトラー内閣が誕生した。
首相はナチ党のヒトラー、副首相にドイツ国家人民党のパーペンが就任した。首相官邸でヒトラーはプロイセン州総督へ就任できなかったことを不満に思い、国会選挙をすると主張し、フーゲンベルクと口論になるという一幕もあった[41]。フーゲンベルクはナチ党が要求する総選挙に反対し、新政府発足は遅れた。パーペンは午前11時までに政府が成立しなければシュライヒャーと軍のクーデターが起こると激高した。そこにヒトラーとゲーリングが到着して選挙後も内閣改造はしないと言ってフーゲンベルクを説得したが、彼はなおも納得しなかった。しかしマイスナーが大統領を待たせてはいけないとたびたび注意し、解散については中央党やバイエルン人民党とも話し合うとヒトラーが告げたため、フーゲンベルクも折れた。
ヒンデンブルク大統領は国民的右翼勢力が遂に結束したことを歓迎した[41]。
それから新首相の親任式が行われたが、大統領が通常行う歓迎演説や任務の説明も省略された。ヒトラーはその日の夕方、閣僚に対して、共産党を禁止すればゼネストとなり軍の動員となるが、それは避けたい、最善の策は国会を解散し、次の選挙で政府が過半数をとることだと主張した[43]。パーペンとヒンデンブルクは国民による新政権の承認の必要性ということから、選挙を承認した[43]。選挙にあたってヒトラーは、パーペン内閣が準備していた「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を発効させ、敵対勢力のメディアや集会を押さえ込むために活用された[43]。
ナチ党員は歓喜し、街に繰り出して行進した。夜にはゲッベルスの演出で松明を持った突撃隊員が大行進を行った。後に「白いバラ」運動を起こす反ナチ運動家となったショル兄妹の姉・インゲは、「ラジオも新聞も今後ドイツのすべてがよい方向に進むであろう」と報じていたと回想している[44]。
首相就任日に撮影されたヒトラーとナチ党幹部[注 20]
ヒトラー内閣は首相こそヒトラーであるものの、閣僚はパーペンが選定した。ナチ党員の入閣はヴィルヘルム・フリックとゲーリングの2名のみであった。さらに内務大臣であるフリックには警察の管理権が無いという弱体ぶりで、またゲーリングは無任所大臣にすぎなかった。このため外部の観測では実権がパーペンのものであると見られていた[注 21]。パーペン自身もそのつもりであり、「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語っている[注 22][46]。
2月1日、ヒトラーはラジオ演説で、1919年のドイツ革命以来14年間、共産主義によってドイツ国民は汚染され、このままではドイツは崩壊すると警告し、経済政策によって苦境を克服すると述べた[43]。具体的政策としては、四カ年計画を発表し、大規模な失業対策を約束した。このラジオ演説に、ヒトラーは「国民的高揚」という語を用いたので世論はヒトラー・フーゲンベルク政府を「国民的高揚の政府」と名付けていた。しかし、ナチ党の幹部連、特にゲッベルスはこの呼称に飽きたらなさを感じており、3月末以後からは「国民的革命」の語を使用し始めた。従って1933年の3月末迄を「国民的高揚時代」と称し、同年4月から中頃迄を「国民的革命時代」と呼ぶのを常とした[47]。
2月2日、ヒトラーは中央党との話し合いが決裂したとして、早速国会を大統領令により解散させた。さらに軍の支持を得るために、ハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長(参謀本部の秘匿名称)宅で軍幹部を集めて政策の説明を行った。会談を仲介したのは新国防相のブロンベルクであった。ヒトラーはマルクシズムと「悪性腫瘍のような民主主義」の根絶を述べた。また「東方における領土征服とその容赦ないドイツ化」(東方生存圏)のために再軍備を行うとした。また軍事組織になるのではないかと警戒されていた突撃隊に関しては、軍隊が「唯一の武器の所持者であり、その組織に手を加えるつもりはない」と話した。ヴェルナー・フォン・フリッチュ、フリードリヒ・フロムといった将軍は侵略構想に不安感を覚えたが、海軍のエーリヒ・レーダーのように好感を持って迎えた将軍も存在した。これ以降、この時ヴィルヘルム・フォン・レープが感じたようにヒトラーとナチ党は軍部の取り込みに力を入れるようになった。一方で国軍にかわって軍となることを目指していた突撃隊幕僚長エルンスト・レームを始めとする突撃隊幹部は次第に反感を募らせていった。
2月4日、「ドイツ民族保護のための大統領令」[48]が発出され政府による集会・デモ・政党機関紙の統制が行われることになった[49]。
プロイセン州の強制的同一化[編集]
1933年2月6日、かねてから中央政府やナチ党に反発していたプロイセン州政府に対して秩序確立のための大統領令[50]が出され、プロイセン州は国家弁務官となるパーペンの指揮下に置かれた。
プロイセン州はドイツ全土の3分の2を占め、さらに首都ベルリンをも擁していたから、パーペンはこの州の政府を掌握することによって自分の権力が確固たるものとなったと考えた。ただ、この時にヒトラーはパーペンに要求してプロイセン州の内相にゲーリングを就任させることに成功した。州の内務省はその州の警察を管掌していたから、これによりドイツ国内で最強のプロイセン州警察が、中央政府では無任所大臣にすぎなかったゲーリングの手中に握られることとなったのである。州内相となったゲーリングは警察幹部を自分が信頼できる人物に置き換え、「突撃隊、親衛隊、鉄兜団への敵意を示すような行動を避ける」ことと「国家に敵意を持つ組織には断固として対処し、銃の使用をためらわない」ように通達した。これは実質的な共産党に対する警察権力の行使を容認したものであり、共産党員は反発し、共産党の機関紙は政権を激しく非難した。しかしゲーリングはこれを『共産党叛乱の予告』として、2月21日には突撃隊、親衛隊、鉄兜団の団員5万名を『補助警察(ドイツ語版)』として雇い入れた。ラインハルト・ハイドリヒは後に「1933年にナチ党が国政の指導を引き受けたとき、自分たちにとって、国家の敵を撲滅する最重要手段の一つが警察組織でなければならないということははっきりしていた。」と述べており[51]、『警察国家』はナチス体制を示す象徴表現のひとつとなった。2月24日には共産党本部のカール・リープクネヒト館(ドイツ語版)をプロイセン州警察当局が捜索し、「共産党叛乱の計画書」を発見したと発表した。
これを先例として国家弁務官は他の州にも相次いで置かれ、州の独立は失われていった。これは国家による州の強制的同一化(Gleichschaltung)の始まりであった。
国会議事堂放火事件[編集]
炎上する国会議事堂
詳細は「ドイツ国会議事堂放火事件」を参照
1933年2月27日の夜、国会議事堂が炎上した。現場では、元オランダ共産党(英語版)員で国際共産主義グループ (IKG)に属するマリヌス・ファン・デア・ルッベが捕らえられた。ルッベは国会議事堂に火を付ければ革命勢力が立ち上がると考えて放火を行ったと供述している。調査に当たったプロイセン州政治警察局のルドルフ・ディールスもルッベの単独犯行であると見ていた。この動きは火事の発生時点からナチ党によって仕組まれた陰謀であるという説もあるが、ルッベ単独による偶発的な事件であるとする説が強い。
この放火は単独犯だったが、ナチ党は共産党による組織的暴動とみなし大弾圧を開始し、4月までにプロイセンだけで約2万5000人が拘禁された[52]。ヒトラーは国会議事堂放火事件を「共産主義者による叛乱の始まり」であると主張し、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」[53]と叫び、単独犯ではなく組織的な陰謀であると断定した。ゲーリングもディールスの意見を無視し、公式発表にあった「百ポンド」の放火材料も「千ポンド」と書き直した。さらに二人の共産党議員が共犯であるとも付け加えた。この日のうちに国会と地方の共産党議員および公務員への逮捕命令が出され、共産党系新聞はすべて発行停止となった。
翌2月28日、ヒトラーは閣議で「民族と国家の保護のための大統領令」[54]と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令[注 23]」の二つの緊急大統領令制定を提案した。これは「法的考慮に左右されずに決着を付ける」[55]ためのものであり、政府は非常大権を得た。言論・報道・集会および結社の自由、通信の秘密は制限され、令状によらない逮捕・「保護拘禁(ドイツ語版)」が可能となった。秩序回復のためには州自治権よりも政府の干渉権が優先するとされた[52]。パーペンもわずかな修正を加えただけで賛成し、ヒンデンブルクも黙って署名した。この結果3,000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束された。
「最後の選挙」[編集]
詳細は「1933年3月ドイツ国会選挙」を参照
2月20日、シャハトの仲介でヒトラー、ゲーリングは国会内に置かれた議長公邸(ドイツ語版)でクルップやIG・ファルベンといったドイツ有数の企業の首脳との会合を行った (1933年2月20日の秘密会談(ドイツ語版))。この席でヒトラーはナチ党への協力を求め、ゲーリングは「この選挙がこれから先10年間の、いやおそらくは100年間の最後の選挙となることを認識されるのであれば、われわれがみなさんに要求する犠牲は決して過大なものではないでしょう。」と語りかけている[56]。シャハトが全体で総額300万ライヒスマルクの献金を提案すると、グスタフ・クルップがルール財閥を代表して拠出した100万ライヒスマルクを筆頭に、他の企業も追随して献金した。シャハトは「(新内閣は)ナチス党が主張している『でまかせの改革』を実行するつもりはない」[57]と考えており、他の財界人も同じ考え方をしていた。
ヒトラーは首相就任を「国家社会主義運動にドイツの指導をヒンデンブルクが託した」ものであると定義し、「国家社会主義革命」によって手に入れたものであるとした。つまりこの時点でヒトラーとナチ党は「国民と国家の指導者」(nationaler Führer)となっており、選挙はその信任投票であるとした[58]。ユダヤ人批判は抑えられたが、具体的な綱領は出されなかった。ただ「ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ、しかる後、我々に審判を下せ!」[59]と訴えた。ゲッベルスの指揮するナチ党の宣伝組織は財界から得た圧倒的な資金力と国家権力を駆使した大規模な宣伝を行った。党の主要な演説は、ラジオ放送された上に街頭に設置されたスピーカーからも流れた。突撃隊の暴力は警察によって見逃された。投票日の前日は「目覚める国民の日」と名付けられ、投票を促すキャンペーンが行われた。
3月5日に投票が行われ、結果ナチ党は288議席を獲得した。ナチ党の得票率は43.9%と単独過半数には及ばなかったものの、連立相手である国家人民党の52議席を合わせれば340議席となり、過半数を越えた。これはヒトラー内閣の強硬策が各地で「ドイツの天敵であるボリシェヴィズムへの対決」として歓迎されたものとみられている[52]。社会民主党など他の政党はほとんど得票率が減少しており、中でも共産党は前回の得票率16.86%から12.32%へと大幅に減少させたが、81議席を獲得し第三党の地位を維持した。
全権委任法[編集]
ポツダムの日(1933年3月21日)ヒンデンブルクと握手するヒトラー
ポツダムの日、ヒンデンブルクに答辞を送るヒトラー
全権委任法の制定を求めるヒトラー、1933年3月23日
詳細は「全権委任法」を参照
投票結果が発表された直後、ゲーリングはプロイセン州の公共建造物にナチ党党旗ハーケンクロイツ(鉤十字旗)旗を掲げさせた。中央党が抗議したが、「ドイツ住民の大部分は、3月5日に鉤十字旗に信仰を告白したのだ」と述べて撤回しなかった[60]。
3月7日、ヒトラーは閣議において選挙結果は「革命であった」と宣言し、当初予定されていた憲法の枠内に収まる全権委任法ではなく、憲法そのものを覆す包括的授権法である事を明らかにした[61]。しかしヒトラーは「かかる授権法をライヒスターク(国会)は可決するであろう。」と述べたが、憲法改正的な法律を通過させるためには国会において議員定数3分の2の以上の出席、そしてその3分の2の賛成を必要とした。さらにライヒスラート(上院)の承認も必要であった。しかしヒトラーはこう続けた「共産党の議員はライヒスターク開会の際に姿を見せることは無いであろう。それというのも、彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているであろうから。」。
3月9日、突撃隊幕僚長レームとミュンヘン大管区指導者アドルフ・ワーグナーは、突撃隊を引き連れてバイエルン州首相官邸に押しかけ、州首相ハインリヒ・ヘルトに辞職を要求した。ヘルトは大統領に救援を求めたが、「首相と相談せよ」という返事を得たのみであった。ヘルトら州政府は「混乱を収拾できない」として解任され、国家弁務官にミュンヘンの突撃隊指導者フランツ・フォン・エップが任じられた。これにより、すべての州が政府の統治下に置かれ、州政府による自治は事実上終焉した[62]。
3月15日、再度行われた閣議で内相フリックが全権委任法の具体的な案を提示した。議案の内容は政府に国会や憲法に制約されない幅広い権限を授与するものであった。さらに「議長は許可を得ず欠席した議員を排除できる」「自己の責任によらず欠席した議員は、出席したものとみなされる。排除された議員も出席したものとみなされる」という議院運営規則の修正案を出した。パーペンやフーゲンベルクは国会を国民議会にし、新たな憲法作成の可能性を盛り込ませる事で授権を制限しようとしたが一蹴され、全員一致で承認せざるを得なかった[63]。
3月21日、ポツダムの衛戍教会で新国会の開会記念式典が行われた。当日は「国民高揚の日」と名づけられ、ゲッベルスの演出による壮麗な儀式が行われた。儀式の場には旧ドイツ帝国皇族が参列し、空の皇帝玉座も据えられていた。しかし共産党議員と欠席を選んだ社会民主党議員の姿は無かった。ヒトラーは「国家社会主義運動」に国家指導が託され、「古い偉大さと若い力が結合」されたと演説した。大統領をはじめとする保守主義者はヒトラーがプロイセン王国以来の伝統を尊重すると感じた。ゲッベルスの日記によるとヒンデンブルクは眼に涙を浮かべていたという[64]。この日はナチス・ドイツ時代を通じて祝日となった。戦後はポツダムの日と呼ばれ、ドイツの歴史における象徴的な日の一つとなる。同日午後、国会に全権委任法法案と議院運営規則改正案が提出された。また「国民高揚の政府に対する卑劣な攻撃の防衛のための大統領令(ドイツ語版)」が制定され、「政府と政府を支持する政党」に反対する「虚偽の宣伝」を行うことが禁止された。すでに緊急大統領令による拘束者数は3月前半のプロイセン州だけで7700人を超えていた[65]。
国会は暫定議会場となったクロル・オペラ劇場で行われた。閣議でのヒトラーの言葉通り、共産党議員81人全員、そして社会民主党議員26人、中央党・ドイツ人民党議員それぞれ1人は、逮捕・病気・逃亡などの理由で欠席した。議院運営規則改正案は起立多数で通過し、採択の時が迫った。この法案に対して社会民主党は批判したが、他の保守派は左翼を撲滅したいと願っていたため賛同した[43]。中央党も党に賛成に回った。
こうして大統領の意志に左右されることを忌避したヒトラーは1933年3月23日に授権法の一種である「国民および国家の苦境除去のための法(全権委任法)」を成立させた[52]。議案説明に当たったヒトラーはこの法律が「国民と国家の指導の精神的かつ意思的統一を確立」するためであり、「民族の意思と真の指導の権威が結びついた一つの憲法体制をつくりあげる」ものであるとした[66]。さらに国会や州、大統領の権限は侵されないと強調した。議場を突撃隊が取り囲み、「われわれはこの法律を要求する!さもなければ放火と殺人だ!」と叫ぶ中、唯一社会民主党が反対に周り、党首オットー・ヴェルスが反対演説を行った。しかし抵抗はむなしく、圧倒的多数で可決された。突撃隊員は歓喜して党歌『旗を高く掲げよ』を合唱した。続いて開催された上院でも、満場一致で採択された。上院議員は州政府選出議員であり、指示を行う州政府がナチ党によって握られた今、反対などできるはずも無かった。こうして国会が持っていた立法権は政府に吸収され、議会政治は終焉した。
翌日、ナチ党の機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』は「ドイツは目覚めた。偉大な仕事が始まった。『第三帝国』の日が到来したのだ。」と書いている[67]。
ユダヤ人デパートボイコット[編集]
1933年3月、ユダヤ人が所有するデパートを敵視する「営業中間層闘争同盟」がドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃や強盗などの暴行を繰り返した[52]。
これに対してユダヤ人知識層はアメリカなど海外から反ドイツ世論を喚起し、ドイツ商品ボイコット運動を始めた[52]。これに反発してドイツでは、ユダヤ人商店やデパートへのボイコット運動が展開した[52]。さらに米国ユダヤ人会議の反ドイツボイコット運動に対して、ヒトラーは「外国による扇動」を企んだ者に対して対処するとして、3月28日には首相命令によるユダヤ人企業、商店、医師、弁護士へのボイコットを実現するための党声明が出された[52]。
イギリス、フランス、アメリカ政府がドイツでのユダヤ人ボイコット運動を批判し、ドイツ政府との交渉で、ユダヤ人による反ドイツボイコット運動も抑えられた。一方、4月5日に一日限定のボイコット運動が行われたが、ナチ党員のプラカードを無視して買い物をする市民も多かった[52]。
グライヒシャルトゥング(均制化、強制的同一化)[編集]
ヒトラーは歴史上の偉大な人物としてマルティン・ルター[要曖昧さ回避]、フリードリヒ大王、リヒャルト・ワーグナー[要曖昧さ回避]の三人をあげた[68]。
ナチ党の基本理念では、理想的な民族による民族共同体を一人の指導者が率いる指導者原理によって指導する体制がナチス・ドイツの理想とされ、党や国家はそのための手段であると考えられた。この民族を「理想に合致した鋳型に入れて鋳直す」作業をナチ党は「Gleichschaltung」(グライヒシャルトゥング)と呼んだ[69]。これは均制化または強制的同一化と訳され、中央政府への政治経済的イデオロギー的権力集中の過程を指し、州自治(地方自治)の吸収や、政党・労働組合の解体もこの動きの一つである[70]。3月20日、大統領令により『国民啓蒙・宣伝省』が設立され、大臣となったゲッベルスは就任直後の会見で「政府と民族全体のグライヒシャルトゥングの実現」が省の目的であると述べた[71]。
1933年3月31日、ラントとライヒの均制化(グライヒシャルトゥング)に関する暫定法律が制定された。これにより州議会の各党議席は国会の議席配分と同一のものに変えられた。ただし、すでに禁止された共産党は除外されている。4月7日には第二法律が制定され、国家弁務官にかわって州総督(または国家代理官、Reichsstatthalter)が設置されることとなった。これにより中央集権化の動きは加速していった。
また、国会議事堂放火事件の共犯者に無罪判決を出すなど、一定の独立性を保っていた司法界もやがてナチ党の支配下に組み込まれた。1933年3月21日には上級地方裁判所の上に「証拠調査の必要を認めないという確信を得た場合、これを拒否できる」「判決に関してはいかなる法律上の救済も認めない」等強い権限を持つ特別裁判所が設置された[72]。9月6日からは刑法の見直し作業がはじまった。在来の法概念を根底から覆す罪刑法定主義の放棄により、犯罪そのものだけではなく、民族共同体に悪影響を及ぼすとされた「犯罪への性向」も刑罰の対象とされた[73]。さらに1934年4月24日には人民法廷が設置され、ヒトラー・国家・ナチ党・民族共同体に対する反逆はこの法廷で裁かれることとなった。この法廷においては職業裁判官と別にヒトラーに指名された者が裁判官となり、法律ではなくナチズムの見地から見て好ましい判決が要請される[74]、一種の政治裁判所であった[75]。
またユダヤ人・同性愛者・精神障害者・遺伝的疾病者などの「国民共同体に悪影響を与える異分子」を排除する動きが強まった。
4月1日には突撃隊によるユダヤ人商店へのボイコット呼びかけが行われた。ヒンデンブルクはユダヤ人退役軍人への差別には強硬に反対したが、ある程度の配慮を行うという曖昧な約束がされるにとどまった。4月7日にはユダヤ人が公職に就くことは禁止され、教育機関からも追放された(職業官吏再建法(ドイツ語版))[76][77]。同じ頃、法曹界、病院、学校でユダヤ人を制限する反ユダヤ法が制定された[76]。
4月10日にはゲーリングがプロイセン州首相となり、4月26日にはプロイセン州政治警察局が、プロイセン州秘密警察局に改組した。この組織は郵便略号から「ゲシュタポ」と呼ばれる。11月30日には『秘密国家警察に関する法律』が制定され、ゲシュタポの権限は国内全域に及ぶことになり、事実上ゲーリング直属となった。またこの頃には合議体であった内閣も「内閣の中で指導者の権威が完全に確立されるに至った。もはや表決が行われる事はない。指導者が決定を下すのだ。」とゲッベルスが日記に記すように、ヒトラーの独裁体制となった[注 24][78]。
5月1日は社会主義インターナショナルの祭典の日(メーデー)であったが、ゲッベルスはこれを「国民労働の日(Tag der nationalen Arbeit)」というイベントにする計画を立て、ヒトラーは50万人の聴衆を前に階級分断をやめて民族共同体として団結する必要性を訴え、ナチスに共感していない者でさえも感動した[76]。その翌日、突撃隊とナチ企業細胞組織はドイツ国内の労働組合の事務所と銀行を襲撃し、財産を接収して、幹部は逮捕された[76]。
労働戦線によるレクリエーション
1933年4月から5月にかけてドイツ学生協会(ドイツ語版)(ドイツ学生会[76])がルターに因んだ12ヶ条の論題(英語版)を出して、1817年のヴァルトブルク祭(ドイツ語版)に合わせて非ドイツ的な書物が焚書された[79]。この5月10日の焚書はゲッベルスの発案とされてきたが、ライヴァルの国民社会主義ドイツ学生連盟(ドイツ語版)を出し抜くためにドイツ学生会が発案したものである[76]。ゲッベルスは5月10日の焚書演説でユダヤ人が支配してきた知性偏重の時代は終わり、ドイツの革命によってドイツの自由が獲得されるのだと述べた[80]。
5月10日には新たな労働組合組織としてロベルト・ライが率いる「ドイツ労働戦線」が成立し[76]、ナチ党による労働者の組織化が行われた。
一党独裁体制の確立[編集]
5月26日には共産主義者の財産を没収する法律が定められた。社会民主党の支持も急速に失われていき、3月から4月にかけて準軍事組織の国旗団は解散し、党支部も閉鎖された[76]。一部の亡命者が6月18日にプラハで機関誌を発行すると、それを口実にドイツでの社会民主党の活動は禁止され、党の資金も没収された[76]。
この頃から他の政党も「自己解散」の道を選んでいった。6月26日、フーゲンベルクはロンドン会議において首相や閣僚に相談することなしに、ドイツの植民地返還と東欧植民地獲得を主張した責任をとって辞任した[76]。同時期に諸政党はナチ党に吸収されたり、解散していった。6月27日にドイツ国民戦線(ドイツ国家人民党)が解散した[76]。6月28日にドイツ国家党(旧ドイツ民主党)が、6月29日にドイツ人民党が解散した[76]。鉄兜団も突撃隊に組み込まれた[76]。7月4日、ヒムラー配下のバイエルン政治警察によって幹部を逮捕されたバイエルン人民党も解散に追い込まれた[76]。7月5日、ナチ党以外の最後の政党であった中央党も解散した[76]。
7月14日の政党新設禁止法で、ナチ党はドイツで唯一の合法政党となり、一党独裁体制がここに確立した[76]。
この頃から医師連盟や教職員会、フライコール、街のコーラスグループから同好会に至るまでありとあらゆる団体は解体され、ナチ党主導によるものに再編成された。ボーイスカウトなどの青少年組織も解体され、党の青少年組織であるヒトラーユーゲントに編入された。これにより、街の社会的な組織はほぼ完全に根絶され、「独裁者が歓迎するあの組織なき大衆へと鋳造された」[81]。出版・放送業界も宣伝省の監督下に置かれ、報道・表現の自由は消滅した。また、ナチズムによる「民族共同体」建設といったスローガンや、ヒトラーユーゲントなどのナチ党組織による運動によってもたらされる高揚感は、青少年たちにナチズム運動の一員であるという実感を与えた[44]。
このような動きに大きな抵抗は出ず、ヒトラーの山荘ベルクホーフはヒトラーの姿を一目見ようとする人々で賑った。海外にも熱烈な信奉者が生まれ、ドイツの「正当な要求」を理解する動きが生まれた。
また、国会議事堂放火事件以降継続されていた保護拘禁は市民の間にも恐怖を与え、1933年の夏には「当局に反対しただけで警察の追及を受ける」という認識が広まっていた[82]。さらにゲシュタポが密告を奨励したため、市民の間には友人が密告者かもしれないという恐怖心が芽生えた。また、拘禁された人々のその後が不明であることも恐怖に拍車をかけた[83]。
ウィリアム・シェリダン・アレン(英語版)は「ナチスは、人々を威嚇するためにはほとんど何もする必要がなかった。みせしめのために左右両派の人物を攻撃し、残りのすべてを社会の自然な成り行きに任せれば良かったのだ。」と評し、市民は「今更じたばたしても無駄である」という感情に包まれたとしている[84][83]。
10月14日、ヒトラーはジュネーブ軍縮会議で突撃隊が軍隊扱いされることになったことに反発し、国際連盟から脱退した。ヴェルサイユ体制からの離脱は多くのドイツ国民の宿願であり、民族投票(ドイツ語版)[注 25]では95.1%がこの措置に賛意を示した。ダッハウ強制収容所に収容されていた2242名中、2145名も賛成票を投じている[86]。
一方で、ナチ党組織や行政組織による投票行動への監視は厳しいものであり、投票場への組織的な駆り出しが行われた[87]。11月12日にはナチ党のみを対象とする国会議員選挙が行われた。この選挙では投票率が100%、ナチ党支持率が100%となる地域がいくつか存在している。投票内容自体も監視の対象であり、誰が反対票を投じたかを明らかにすることができた[87]。
12月1日には「党と国家の統一を保障するための法律」が制定され、党は国家と一体であると発表された。党の組織はほぼ公的な組織となり、また、ナチ党の地域区分である大管区の指導者が事実上の地方支配者となった。
長いナイフの夜[編集]
ヒトラーとレーム
詳細は「長いナイフの夜」を参照
こうした動きの中で、不満を強めていったのが突撃隊の幹部達であった。彼らはこの国民革命が生温いと考えており、第二革命である「褐色革命」[注 26]を求めていた。彼らは政策に不満感を持っていたものの、ヒトラー個人に対する忠誠心は持ち続けた。また幕僚長レームらは、国軍にかわって突撃隊が新たな軍となることを目指していた。国軍首脳は突撃隊を押さえることを要求し、ヒトラーはレームを無任所大臣にして懐柔しようとする一方、「新しい軍は褐色ではなく灰色になる」[88]として突撃隊を牽制した。
一方、親衛隊の長である親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは各州の警察権力を徐々に手に入れていった。1934年4月22日にはプロイセン州警察とゲシュタポの管理権限も与えられ、親衛隊は実質的な全土の警察権力を手に入れた。彼らとヒムラーに権限を譲ったゲーリングは、自分たちを「君側の奸」と見ているレームら突撃隊幹部排除の計画を建てた。
6月頃から突撃隊反乱のうわさが流れはじめ、情勢は不穏になった。6月17日、副首相パーペンがマールブルク大学で突撃隊と暗にナチ党に対する批判演説を行った。ゲッベルスは演説の放送禁止などの措置をとったものの、粗暴で同性愛者が多いなどという突撃隊に不信感を持っていた人々からは広く共感を得た。ヒンデンブルク大統領と国軍も突撃隊に対する何らかの措置を求め、もしもの場合は大統領権限で戒厳令を布告すると通告した。ここにいたってヒトラーも突撃隊粛清の意思を固め、親衛隊に準備を命じた。
6月30日、ヒトラーとの幹部会議の名目で突撃隊幹部達はミュンヘン郊外のホテルに集められていた。この日の早朝、ヒトラーは自ら幹部とともにレームらの逮捕を行った。またベルリンなどでも親衛隊が動き出し、次々に逮捕・処刑した。また前首相シュライヒャーやフェルディナント・フォン・ブレドウ将軍、元組織全国指導者グレゴール・シュトラッサー[34]、マールブルク大学の演説原稿を書いたパーペンの秘書エドガー・ユリウス・ユング(ドイツ語版)などの政敵も逮捕・暗殺された。パーペンも自宅に軟禁され、外部との連絡を絶たれた。ヒトラーはナチ党草創期からの同志レームを助命したいと考えていたが、ゲーリングらの説得に応じて7月1日に処刑命令を出した。
こうした「長いナイフの夜」と呼ばれる一連の粛清は7月2日まで続いた。7月3日には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」が制定され、この粛清は合法的なものであるとされた。突撃隊は素行が悪く評判も悪かったために、粛清は大方の国民から好感を持って受け入れられた。こうして党内の最大勢力突撃隊は骨抜きにされ、親衛隊の勢力が大きく拡大していくことになる。
国家社会主義革命の完了[編集]
一方、すでに高齢であり衰弱していたヒンデンブルク大統領は死を迎えつつあった。パーペンはヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言書を書かせ、それを公表することでナチ党を押さえようとした。しかしヒンデンブルクはヒトラーへの私信の形で帝政復活の希望を述べたものの、公式な遺言書にはそれを書かなかった。
1934年8月1日、緊急閣議が行われ、「国家元首に関する法律」[89]が制定された。これはヒンデンブルクが死んだ後に大統領の職を首相と統合し、権限を「指導者兼首相であるアドルフ・ヒトラー」個人に委譲するというものであった[90]。翌日ヒンデンブルクは死去し、法律が発効してヒトラーは国家元首の権限を手に入れた。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と称する。8月19日にはこの措置の正統性を問う民族投票が行われ、投票率95.7%のうち89.9%が賛成票を投じた(ドイツ国国家元首に関する国民投票(ドイツ語版))。すでにヒトラーに対する個人崇拝も高まっており、ヒトラーをキリストと同一視する風潮も存在した[91]。
国民投票終了の翌日、ヒトラーは肩書き無しの「アドルフ・ヒトラー」として次のような布告を行った。「国家社会主義革命は、権力事態としては終了した。これから1000年間、ドイツにおいてはいかなる革命も起こらないであろう」[92]。
その後[編集]
この後、ドイツ国内に残ったナチ党以外の勢力としては国防軍の存在があるが、ナチ党の教育を受けた若い世代の台頭、そしてブロンベルク罷免事件などにより、軍の権限もヒトラーに掌握されることになる。
1935年9月15日、国旗法、ドイツ人の血と名誉を守る法、公民法(帝国市民法)の三法案(ニュルンベルク法)を可決するようヒトラーは求めた[93]。国会演説でヒトラーは首相就任以来初めて「ユダヤ人問題」に触れた[93]。ドイツで反ユダヤボイコットが行われる責任は国外のユダヤ人にあるとし、ボルシエヴィキの扇動も、ニューヨークで港湾労働者が汽船ブレーメン号からドイツ国旗を引き下ろしたのも、すべてユダヤ分子の責任である[93]。こうした国際的混乱が、ドイツ国内のユダヤ人を扇動して組織的な挑発行動をとっており、(突撃隊などのナチ急進派の)「怒れる人々」による統御不能な「防衛行動」の問題なども解決させるには、法的に規制するしかない[93]。政府は一度にすべてを解決するためにドイツ国民とユダヤ人とが相互に許容できる関係を築き上げる基盤としてこの法を提案する[93]。しかし、それでもなお、国際的扇動が続くようであれば、最終的解決の段階に移ると弁じた[93]。同時にヒトラーはユダヤ人への野蛮な攻撃である「個別行動」を抑制するよう命じた[93]。
年表[編集]
10月14日 ヒトラーとヒンデンブルク大統領の初会見
3月~4月 大統領選挙。ヒトラーは次点となり、ヒンデンブルクが再選される。
6月1日 フランツ・フォン・パーペン内閣成立
8月5日 ヒトラーとシュライヒャーが会談。シュライヒャーはパーペン内閣協力の見返りとして副首相の地位を提示するが、ヒトラーは首相の地位と全権委任法の成立を要求する。
8月13日 ヒンデンブルク大統領とヒトラーの会談。ヒトラーの首相就任は拒絶され、ヒトラーも内閣への協力を拒否。
11月19日 ヒャルマル・シャハト、フリッツ・ティッセンらのグループが連名でヒトラーを首相にするよう大統領に書簡を出す。(Industrielleneingabe)
12月1日 パーペン内閣崩壊
12月3日 クルト・フォン・シュライヒャー内閣成立、シュライヒャーはナチス左派のグレゴール・シュトラッサーを切り崩すことで政権運営を図ろうとする。
12月8日 シュトラッサーが組織全国指導者を辞任、党内で失脚する。(翌年1月16日に正式に除名)
1月4日 ヒトラーと前首相パーペンが銀行家シュレーダーの邸宅で会見。シュライヒャー内閣の倒閣とヒトラー内閣成立への動きが始まる。(ケルン会談(ドイツ語版))
1月15日 リッペ自由州議会選挙(ドイツ語版)。ナチ党はこの選挙に力をいれて勝利し、党が上り調子である事をアピールする。
1月18日 ヒトラーとパーペンがリッベントロップ邸で会談。
1月22日 ヒトラーとオスカー・フォン・ヒンデンブルク、オットー・マイスナーがリッベントロップ邸で会談。オスカーは父ヒンデンブルクの説得を承諾。
1月26日 パーペン、国家人民党と鉄兜団の協力をとりつけヒトラー支持に引き込む。
1月28日 シュライヒャー首相辞任
ヒトラー内閣
1月30日 ヒトラー内閣成立。
2月2日 国会解散。ヒトラー、ハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長宅で国軍首脳と会談。再軍備と東方征服、突撃隊の抑制について語る。
2月4日 ドイツ民族保護のための大統領令。政府による集会・デモ・政党機関紙の制限が可能となる。
2月6日 大統領令により、プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡されることとなる。この措置は2月中旬までにほとんどの州で行われ、地方行政が国家の監督を強く受けることとなる。強制的同一化(Gleichschaltung)の開始。
ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチ党が掌握。
2月20日 ヒトラー、ゲーリングとドイツ経済界首脳の会合。ナチ党は300万マルクの献金を得る(1933年2月20日の秘密会談(ドイツ語版))。
2月24日 プロイセン州警察が共産党本部カール・リープクネヒト館(ドイツ語版)を襲撃。「武力革命の計画書」を発見したと公表。
2月27日 国会議事堂放火事件発生。
2月28日 「民族と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」(Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe) の二つの緊急大統領令が布告される。後の政府が行う非常手段の大半の根拠となった。
3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチ党は43.9%の票を獲得、288議席を得た。
3月8日 ドイツ共産党が正式に禁止される。
3月10日 バイエルン州の国家弁務官にフランツ・フォン・エップが就任し、州政府を解体。すべての州が国家弁務官の支配を受けることになる。
3月12日 新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
3月20日 ダッハウ強制収容所設立。
3月21日 新国会の開会式。ヒトラーはヴァイマル共和国の伝統を否定し、ドイツ帝国からの権威継承を表明する。国民高揚の日と名付けられ祝日となる。(ポツダムの日)
全権委任法成立
3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立された。
3月31日 ラントとライヒの均制化(Gleichschaltung)に関する暫定法律公布。各州議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになり、地方自治権はほぼ停止する。4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布。国家弁務官に代わって州総督(または国家代理官、Reichsstatthalter)が中央政府から各州政府に派遣される。
4月4日 ヒトラー、ブロンベルク国防相が提議した再軍備計画を極秘承認
5月2日 突撃隊と親衛隊が全国の労働組合支部を襲撃。ドイツ国内の労働組合が消滅
5月26日 「共産主義者の財産没収に関する法律(ドイツ語版)」が成立。
6月27日 ドイツ国家人民党が自主解散。党首アルフレート・フーゲンベルクは経済相・食糧農業相を辞任。
12月1日「党と国家の統一を保障するための法律(ドイツ語版)」公布。ナチ党と国家の一体化が定められる。
1月30日 「ドイツ国再建に関する法(ドイツ語版)」成立。各州の主権がドイツ国に移譲され、州議会が解散される。すべての州公務員が国家の支配を受けることになる。
2月5日 州ごとの国籍が廃止となり、ドイツ国籍に統一される。
2月14日 参議院(ライヒスラート)が廃止。
2月16日 司法権の政府への委譲が定められる。
8月1日 「国家元首に関する法律」(Gesetz über das Staatsoberhaupt des Deutschen Reichs) が閣議で定められる。
8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。「国家元首に関する法律」が発効し、首相職に大統領職が統合されるとともに、「指導者およびドイツ国首相(Führer und Reichskanzler)アドルフ・ヒトラー」個人に大統領の権能が委譲される。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と称する。
8月19日 国家元首に関する法律の措置に対する民族投票(ドイツ語版)。投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じる。
3月16日 ヒトラーが再軍備開始を宣言(ドイツ再軍備宣言)。
4月1日 司法全体が政府に継承され、各州すべての司法官が国家公務員となる。(司法権吸収の完了)
脚注[編集]
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注釈[編集]
^ ただし、ナチ党の権力掌握の合法性については議論が存在する。カール・ディートリヒ・ブラッハー(ドイツ語版)は、全権委任法の成立過程において、ナチ党が行った欺瞞や恐喝による同意の取り付け、左翼政党議員の逮捕や、各州政府の一方的な改編は明らかな違法行為であったと指摘している[1]。
^ このヒトラーが三権を掌握した状態を、ハンブルク州の行政裁判所は「三つの権利が指導者の手中にある民族指導の手段として」、「一つの有機体の異なる機能」として存在すると表現している[2]。
^ Ludwig Muller Von Hausen
^ カーショー上巻,p.182.訳では「2兆2600億マルク」とあるが、ドイツ史 3,p.140では「2260億マルク」とあり、ここでは後者を正とする。
^ この時、ヒンデンブルクは大統領官房長マイスナーに「ヒトラーがかつてペンキぬりの仕事をしていたことがあるという噂は本当か」と質問している。ドイツ語において画家と塗装工は同じ『Maler』と表記される。
^ ただし、この時点においても政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点での党財政の大半は党費収入によるものであったとヘンリー・アシュベイ・ターナー(英語版)は指摘している[32]。
^ エルンスト・ハンフシュテングル『失われた歳月』よりの引用。
^ ゲッベルスの日記の記述。
^ オットー・マイスナーの証言。
^ この会談を極秘にするためオスカーは手の込んだ偽装工作を何度も行っていた。しかしシュライヒャーの情報収集力は高く、翌日マイスナーに「昨日の一皿夕食の味はいかがでしたか?」と電話している。
^ クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトの覚書。
^ 左より、ヴィルヘルム・クーベ、ハンス・ケルル、ヨーゼフ・ゲッベルス、アドルフ・ヒトラー、エルンスト・レーム、ヘルマン・ゲーリング、リヒャルト・ヴァルター・ダレ、ハインリヒ・ヒムラー、ルドルフ・ヘス、ヴィルヘルム・フリック(着席の人物)
^ 当時のニューヨーク・タイムスは内閣の構成が「ヒトラー氏の独裁志望に祝福の余地を残していない」と論評し、東京朝日新聞1933年1月31日号の「惑星ヒトラー氏 遂に政權を掌握す」という記事でも「実権はパーペン氏の掌中」であるとしている。また国内紙のフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙は「首相ではなくフーゲンベルク氏を中心に回転する」と論評した[45]。
^ エヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィン(ドイツ語版)「Die letzte Möglichkeit」よりの引用。
^ (Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe
^ 4月22日のゲッベルス日記。
^ 1933年7月14日に制定された「民族投票法」による。議会や国民の一定数の支持があれば行えたヴァイマル時代の国民投票とは異なり、投票の発議権は政府のみに存在していた。また民族投票は決定を行う手段ではなく、政府が行った決定を承認する性格しか持たなかった[85]。
^ 褐色は突撃隊、灰色は国軍の制服の色を指す。
出典[編集]
^ (German) Geheimnisse der Weisen von Zion, Auf Vorposten, (1919).
^ a b c Mein Kampf, la traduction français intégrale,Nouvelles Editions Latines,pp.289-295,301-325,#ポリアコフ1985,p.3-5.
^ “ドイツ=オーストリア関税同盟”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2019年11月17日閲覧。
^ トーランド 1990, pp. 58–59.
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u vカーショー上巻,pp.386-99.
^ トーランド 1990, p. 62.
^ トーランド 1990, p. 95.
^ トーランド 1990, p. 97.
^ トーランド 1990, p. 100.
^ トーランド 1990, p. 102.
^ トーランド 1990, p. 111.
^ Thilo Vogelsang「Staat und NSDAP」490~491pに引かれた無署名の覚書より
^ トーランド 1990, p. 114.
^ トーランド 1990, p. 124.
^ 黒田礼二『総統ヒットラア』、新潮社、1941年、210-211頁
^ Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutze des Deutschen Volkes
^ 「プロイセン州における秩序ある政府状態を確立するための大統領令 (Verordnung des Reichspräsidenten zur Herstellung geordneter Regierungsverhältnisse in Preußen)」
^ トーランド 1990, p. 135.
^ トーランド 1990, p. 137.
^ トーランド 1990, pp. 142–143.
^ Deutsches Volk, gib uns vier Jahre Zeit, dann richte und urteile über uns! 1933年2月10日のヒトラー演説。
^ 「グライヒシャルトゥング」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
^ ウィリアム・アレン「The Nazi Seizure of Power」よりの翻訳引用、南、民族共同体と法(1)、42-43p。
^ William Sheridan Allen,『The Nazi Seizure of Power』(ナチ党の権力掌握),南利明による引用。
^ トーランド 1990, p. 171.
^ トーランド 1990, p. 193.
^ Gesetz über das Staatsoberhaupt des Deutschen Reichs
^ トーランド 1990, p. 247.
参考文献[編集]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年3月)
イアン・カーショー『ヒトラー(上)1889-1936 傲慢』石田勇治監修、川喜田敦子訳、白水社、2016年1月20日。ISBN 978-4560084489。
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芝健介、井上茂子、木畑和子、矢野久、永岑三千輝「国家保安部の成立」『1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』同文舘出版、1989年。ISBN 978-4495853914。
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レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第5巻 現代の反ユダヤ主義』菅野賢治・合田正人監訳、小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳、筑摩書房、2007年3月1日。ISBN 978-4480861252。[原著1994年]
レオン・ポリアコフ『アーリア神話―ヨーロッパにおける人種主義と民主主義の源泉』アーリア主義研究会訳、法政大学出版局、1985年8月。ISBN 978-4588001581。[原著1971年]
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南利明「民族共同体と法(九) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制」『静岡大学法経研究』第40巻第2号、静岡大学法経学会、1991年9月、55-72頁。
南利明「民族共同体と法(10) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制」『静岡大学法経研究』第40巻第3-4号、静岡大学法経学会、1992年2月、265-320頁。
村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」出現の歴史的背景』(中公新書) ISBN 978-4121004789
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、Machtergreifungに関連するカテゴリがあります。
・山本美月はなぜ三流モデルなのか?が詰まった動画
https://i.imgur.com/y9J9BsC.jpg
アビスパの経営 修士論文
https://www.waseda.jp/tokorozawa/kg/doc/50_ronbun/2020/5020A307.pdf
スタバ二子玉川店。
トヨタイムズより。追悼豊田章一郎。凄い葬儀の模様。
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トゥーマッチ。