1145 司馬遼太郎『坂の上の雲』に見る「パーパス」と「合理的判断」
司馬遼太郎『坂の上の雲』に見る「パーパス」と「合理的判断」
2024.6.17
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現役の企業の役員であり、第15回日経小説大賞を『 紅珊瑚(べにさんご)の島に浜茄子(はまなす)が咲く 』で受賞した山本貴之氏は、時代小説の名作には企業経営に通じる「気づき」があると言う。今回、取り上げるのは司馬遼太郎の『坂の上の雲』。企業人として気づかされる「パーパス」と「イノベーション」の意義、企業経営において必要となる「周到な準備」と「合理的判断」について紹介する。
時代の躍動を克明に映す
前回は、藤沢周平の『漆の実のみのる国』と『用心棒日月抄』の2作品から、企業人ならではの「気づき」として、企業の経営改革における「リーダーシップ」と「人材登用」の重要性について取り上げた。
今回は、司馬遼太郎の『 坂の上の雲 』(文春文庫/新装版は1999年刊)を例にとって、藤沢作品とは一味違う司馬史観に裏打ちされたダイナミズムを味わいながら、企業人として気づかされる「パーパス」と「イノベーション」の意義、企業経営において必要となる「周到な準備」と「合理的判断」について紹介したい。
『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)。松山出身の秋山好古、秋山真之兄弟と、真之の親友で俳人の正岡子規の3人を主人公とし、明治維新後の近代国家としての草創期から日清・日露戦争までを描いた全8巻の長編小説
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『坂の上の雲』は、松山出身の秋山好古(よしふる)、秋山真之(さねゆき)兄弟と、真之の親友で俳人の正岡子規の3人を主人公とする。明治維新後の近代国家としての草創期から日清・日露戦争までを描いているが、そのクライマックスは秋山兄弟が陸海軍の第一線で活躍する日露戦争である。司馬遼太郎は「坂の上の天に輝く雲」を目指すがごとく国造りを進めようとする国民の高揚した雰囲気と、それを支える主人公らの生きざまを重ね合わせて時代の躍動を克明に映し出している。
パーパスを軸に価値向上を持続できるか
現代の企業でもスタートアップからベンチャーを経てさらなる成長発展へと歩んでいる時は、経営層も管理職も現場のスタッフも高揚感を胸に抱いて業容拡大に邁進(まいしん)することが多い。この情熱をいかに持続させ、役職員一丸となって「パーパス」を軸に価値向上を目指すことができるかは大変重要なテーマである。この普遍的な命題は、実は前回紹介した『漆の実のみのる国』の経営改革に向かう際の藩主と藩士や領民の心構えとも共通する。むしろ厳しい経営環境にある時こそ、存在意義や使命感を社員全体で分かち合うことが肝要となる。
さて、秋山好古は陸軍の騎馬隊の機動力を生かし新兵器の機関銃を自在に操ることで大きな戦果を挙げた。また、秋山真之はバルチック艦隊との日本海海戦で日本の艦船の高速力を活用し巧みな戦形を用いてこれを勝利に導いた。日露戦争でも、他の戦争と同じように、技術革新によって戦いの姿が大きく変わっている。海底ケーブルや無線機、測距儀などは、海戦を有利に進めるのに大いに役立った。一方で、司馬遼太郎が描く秋山好古、秋山真之兄弟の貢献は、技術そのものではなく、その運用に着目しているところが興味深い。
筆者が強く感銘を受けたのは、秋山兄弟のほかに、難航した旅順港の攻略戦で、児玉源太郎総参謀長の発案により日本の本土防衛用に用意された二十八センチりゅう弾砲をはるばる満州の港に臨む高台に据え付けて、湾内のロシア艦隊を無力化させる場面である。発想の転換で困難な事態を打開した好例と言えよう。
「運」を引き寄せるのは
企業の発展には、その企業の製品やサービスが社会に大きな影響をもたらす「イノベーション」が飛躍の転機となる。半導体の進歩はスマートフォンを普及させて世界中の生活様式を根本から変えた。先端技術が連鎖的に社会の変革を促した例である。新技術の開発はもちろん大切であるが、より身近でソフトな発想の転換も企業活動には大きな意味を持つ。かつて携帯電話にカメラを搭載したように、AI(人工知能)など利用可能な技術を用いてどんなサービスを提供できるか、その発想力と事業化の技量が問われている。
今話題となっているDX(デジタルトランスフォーメーション)、GX(グリーントランスフォーメーション)もこれに連なる。明治の軍隊と現代の会社組織とは単純に比べようもないが、斬新な発想を積極的に生み出す人材やチームを活用し、オープンな議論の末に事業化に結び付けるエコシステムや企業風土の醸成は今も強く求められている。
もう一つ終盤の見せ場で、企業人の立場から見て非常に参考になるのは、バルチック艦隊が日本海を北上するとの報を受けた後の東郷平八郎提督の「判断」である。ウラジオストクに向かう敵艦隊を捕捉して撃滅する絶対的な任務を負う東郷提督らは、どこで敵を待ち受けるべきか迷う。レーダーも無人機もない当時は人の目撃情報に頼るしかなく、これは断片的で信頼性も十分ではない。
また、「天気晴朗なれども浪高し」である。敵の移動に伴い、時々刻々変化する天候や海況に合った戦術の選択が必要不可欠となる。東郷は種々の情報を分析し、極めて合理的に艦隊を進め、その結果勝利する。これを「運が良かった」で片付けることは簡単だが、その「運」を引き寄せた要因を探ってみたい。
「周到な準備」と「合理的な判断」
企業人として経営判断をする際に迷うことは多い。例えば経営環境が悪化する中で自力での再建が難しく、やむを得ず他社との統合・合併に活路を見いだすことを選んだとする。この成功が会社存続の絶対的な条件となるが、何をどうすべきか経営者は迷う。調査や分析を重ね、短中長期の事業計画を精緻に練り上げたとしても想定外の事は起こる。経済情勢や市場環境の変化、従業員組合の反発、さらには地震やコロナ禍といった天災疫病まで起こり得る時代である。
その場合の決め手は、『坂の上の雲』に描かれた東郷提督の指示や行動を見ると、まず十分過ぎるほどの「周到な準備」である。さまざまな状況変化への対応策を前もって綿密に練り上げて乗組員らに周知徹底し訓練を重ねている。
例えば、経営統合といった大きなイベントの前に事前の準備を怠る企業人はいないと思うが、大事なのはリスクマネジメントである。予想外に悪い事は起きるもの。その事象を想定内と受け止めて適切な対応により悪影響を最小限にとどめる周到な準備が必要である。「備えあれば憂いなし」といわれるが、これが満足にできないのが世の常であるところ、東郷とその部下のチームはZ旗を掲げる前に「備え」を着実に実践していた。それに加えて、東郷は戦闘中も限られた情報と時間の中で可能な限り「合理的な判断」を繰り返し下している。
「ブレない」だけでなく「機を見て敏に」
行動経済学を紐解(ひもと)くまでもなく、人は少なからず直感や感情によって判断し、その結果が及ぼす影響は大きい。卑近な例だが、「期間限定」やセールの赤札に踊らされて衝動的に購入してしまう消費者が意外に多いのはよく知られている。
さて、敵艦隊の前に旗艦三笠が横腹を見せて大回頭する場面は、本作品最大の見せ場であるが、これも風向き、波の高さや彼我の距離と当時の砲術レベルを勘案しリスクを最小限に抑え得ると判断した結果の行動である。さらに海戦中も状況の変化に応じて臨機応変に艦隊を動かしている。「ブレない」だけでなく、「機を見て敏に」対応することも同様に必須である。最重要局面にあって根拠に乏しい直感や一時の感情に惑わされずに「合理的な判断」を貫いたリーダーシップはメンタルな面も含めて賞賛に値する。
思うに東郷は単に「運が良かった」のではなく「勝つべくして勝った」のである。言い換えれば「運も実力のうち」ということになる。勝てるであろう相手に対して勝ち切ることは難しいことだが、それを成し遂げた東郷はやはり超一流の指導者であったのだと思う。
第8巻で、ロシアの敵艦隊の前に旗艦三笠が横腹を見せて大回頭する場面は、本作品最大の見せ場。最重要局面にあって直感や一時の感情に惑わされずに「合理的な判断」を貫いた東郷平八郎のリーダーシップはメンタルな面も含めて賞賛に値する
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現代を生きる企業人の指針に
司馬遼太郎は、大きな時代の流れの中で個々の人の生きざまを活写するところに圧倒的な凄(すご)みを感じさせる作家である。戦国、幕末、明治などの激動期において、時代の息吹を作品中に再現しつつ、人々がその時代をいかに懸命に生き抜き変革させていったのかを鮮明に描き切っている。それは、まさに変化の絶え間ない現代に活動する企業人の生き方の指針にもなり得るものである。
私も、時代小説の書き手として、ある時代のありのままの姿と人物像を生き生きと丁寧に描くことによって、現代を生きる企業人を含む多くの読み手の心の糧となり支えとなるような、そんな物語を紡いでいければと日々願っている。
写真/スタジオキャスパー
第15回日経小説大賞受賞作
辻原登、髙樹のぶ子、角田光代の選考委員3氏の全会一致で選出された第15回日経小説大賞受賞作は、江戸時代後期の奥州を舞台に繰り広げられる極上の歴史ミステリー。
山本貴之著/日本経済新聞出版/1870円(税込み)
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