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小嶋千鶴子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こじま ちづこ
小嶋 千鶴子
生誕おかだ ちづこ
岡田 千鶴子
1916年3月3日
日本・三重県四日市市死没2022年5月20日(106歳没)国籍
日本出身校四日市高等女学校職業実業家活動期間1939年 - 2022年著名な実績ジャスコテンプレートを表示
小嶋 千鶴子(こじま ちづこ、出生時の戸籍名は岡田 千鶴子(おかだ ちづこ)、1916年〈大正5年〉3月3日 - 2022年〈令和4年〉5月20日)は、日本の実業家。 イオンの前身であるジャスコの創設者で、イオングループの共同創業者。イオン株式会社名誉顧問などを歴任した[1]。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1916年(大正5年)3月3日に三重県四日市市に生まれる。父は岡田惣一郎で母は岡田(旧姓・美濃部)田鶴。夫妻の第二子で、5人きょうだい(一男四女)の二女であった。千鶴子の後にも2人続けて女子が誕生したことから、5人目も女子なら家系を絶やさぬよう婿養子を迎えることを検討していたが、5人目で男子の卓也が誕生した。千鶴子が誕生した時は血縁関係の父方の祖父の岡田惣七(婿養子に入る前の旧姓が前田末吉)と四日市岡田家の家系の祖父の岡田惣右衛門の2人の四日市岡田家の祖父が存命中であり、2人の祖父からかわいがられて教育された。祖父の影響で日本の植民地統治下であった朝鮮半島や満州などの外地に興味関心があった。老舗呉服店の岡田屋ではあったが、店内に呉服以外に洋服部もあり、千鶴子は5歳の時から洋服を着ていた[2]。
岡田屋の改革 [編集]
岡田惣一郎夫妻は呉服店から株式会社化して企業組織を創設した。1927年に父の惣一郎は死去した。経営を引き継いた母の田鶴は惣一郎の理念を踏襲して、従来の座売り方式から立ち売り陳列方式に変更する革新的な経営方針をとった[1][2]。夏には四日市市民のためにコンサートを開催した[1]。
経営者への就任[編集]
千鶴子は1933年に四日市高等女学校(現在の三重県立四日市高等学校)を卒業した。女学校時代は陸上競技の短距離選手であり、小林多喜二や宮本百合子のプロレタリア文学に没頭していた[2]。東京の大学への入学が決まっていたが、世界恐慌で四日市市内の銀行が倒産して親への教育依存ができず進学を断念した[2]。
1935年に母の田鶴が死去した。千鶴子や岡田家の姉弟に株式会社の岡田屋呉服店が残された。家業的商店経営から株式会社化した岡田屋の従業員の生活を千鶴子が支える形となる。
日中戦争中に千鶴子は津市の全寮制の愛国家庭寮に入学した。愛国婦人会幹部候補生を育成する機関で三重県知事夫人が寮長であった[2]。
1939年(昭和14年)に株式会社岡田屋呉服店の代表取締役に23歳で就任する。これはそれまで経営の陣頭にいた姉が死去したためだった[3]。料理・生け花教師の弟で、8歳年上の画家の小嶋三郎一と婚約したが、民法をはじめとした当時の日本の法律では有夫の婦人は夫の承諾がないと契約できないことや、夫や弟が戦死する可能性から、結婚を先延ばしした。その後、弟の卓也が早稲田大学を卒業して四日市岡田家の当主となったため、30歳で千鶴子は結婚した。また社長も卓也に交代している[3]。その直前の1946年1月、千鶴子は第一次世界大戦後のドイツで起きたハイパーインフレの知識から大量の衣料品や日用品を仕入れ、新円切替後にそれを売りさばいて(通用可能な)新円を確保し、資産の目減りを防いだ[3]。
1954年に岡田屋の監査役に就任した。30歳代の頃にアメリカ合衆国のショッピングセンターを見たいという思いを抱き、45歳となった1961年に若手経済学者とともに1か月間のアメリカ小売業の視察旅行を実現させる[2]。
1969年(昭和44年)に本格的なスーパーマーケットのジャスコを設立すると、その取締役に就任した。1971年には、ヨーロッパの新しい労働時間制度を研究するためのツアーで、ドイツにおけるフレックスタイム制の母と呼ばれるケメラーと会い、労働組合の反対を押し切って、女性が勤務時間を選べるパートタイム制度を導入した[4]。また、業界初となる企業内大学のジャスコ大学を創設して、労働法・賃金論・国際情勢の権威を学長・教授として迎え、高等学校卒業の社員に対して心理学から文学までの幅広いビジネス教育を行った[1]。また3社合併で誕生したジャスコに出身企業の違いによる人事の摩擦がほとんど生じなかったのは、千鶴子が実施した社内教育の功績であるという評価がイオン関係者からなされている[3]。
千鶴子は著書『あしあと』において、「感激は資産になる」と記している[要文献特定詳細情報]。
1976年(昭和51年)に60歳の定年制度を実践し、ジャスコ株式会社の経営から離れた[5]。
退任後[編集]
2001年(平成13年)にイオン株式会社の名誉顧問に就任。
2003年に個人美術館のパラミタミュージアムを開館した。パラミタは般若心経の『波羅蜜多』に由来している[6]。
2005年3月、パラミタミュージアムを岡田文化財団に寄贈する。
2007年1月、個展をパラミタミュージアムにて開催した。
2016年(平成28年)に満100歳の誕生日を迎えた。同年8月25日に、居住する菰野町長が訪問して「一番の思い出は」と質問した際には「20歳で仕事を継いで60歳まで働いて」と述べた[7]。
2022年(令和4年)5月20日、老衰のため死去。106歳没[8][9]。
死去から約2か月後の7月26日、四日市市内のホテルで「小嶋千鶴子さんを偲ぶ会」が開かれ、実弟の岡田卓也をはじめ約1000人が参列した[10]。
人物[編集]
千鶴子の読書歴は長く、戦前から『エコノミスト』を購読して『販売改革』・『経営情報』・『アジアと日本』・『経済論壇』・『ドラッカーの経営学説の研究』など新しい著作が出版される度に必ず読んでいた[6]。元岡田文化財団事務局長の東海友和によると、誰に対しても「あんた、今何の勉強してるの?」「何の本読んでるのや?」「今年の目標、何なん?」と話しかける癖があり、相手が読んでいる本によっては「そんなつまらん本読んどったらあかんわ」と、自分の持っている「面白い本」を「読んでみ」と渡すこともあったという[11]。また、日頃財布を持参せず、金銭は服のポケットに入れていたという[11]。社内の人事に精通していた千鶴子は、従業員の仕事の「手抜き」を許さず、「あんた、会社を潰す気か!」と叱りつけた[3]。しかし指摘は的確だったため、従業員からは親しみを込めて「チーちゃん」「小嶋さん」と呼ばれていた[3]。
ファーストリテイリング創業者の柳井正は大学卒業後に(合併で)発足したばかりのジャスコに入社し、当初は千鶴子に「うるさい人」という印象を抱きながらも、9か月後に自発的に退社する際千鶴子にだけ理由を書いた手紙を出した[3]。後年千鶴子の著書などを読んでその考え方に共感し、訃報に接して「本当にすごい人だった」と評した[3]。またセブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文は、ヨーカ堂(イトーヨーカドーの前身)に入社後、ジャスコから多店舗展開での組織のあり方を学ぼうとした際に千鶴子から指南を受け、「当時、同業他社の中で私が一番、小嶋さんと会っていた」と述べている[3]。
地域活動では「四日市婦人ロータリー」「くぬぎの会」や「フォーラム四日市」など、四日市市内の女性経営者の勉強会や読書会を実施した[4]。
退職後に73歳から始めた陶芸は3000個を作る目標を85歳で達成した。作品の写真集の『ゆびあと』も出版している。
親族[編集]
父は四日市岡田家6代目当主の惣一郎。弟はイオン創業者の卓也。甥にイオン社長の元也と衆議院議員の克也と新聞記者の高田昌也がいる。甥の克也の息子に科学者がいる。
夫は1997年(平成9年)に死去した[11]。
著書[編集]
小嶋千鶴子『あしあと(社内文書)』求龍堂、1977年7月1日。
http://www.kojinkaratani.com/jp/pdf/20171207_jp.pdf
1960-2000年代
ファミコンの開発者が語る日本の家庭用ゲーム産業の幕開け
上村 雅之(Masayuki Uemura)
立命館大学 映像学部 客員教授
1943年、東京都生まれ。幼少時より高校卒業まで京都在住。1967年千葉工業大学工学部電子工学科卒業、早川電機工業株式会社(現・シャープ株式会社)入社。光半導体の光検出器販売部門で製品の開発および営業活動を行う。1971年任天堂に移籍。開発第2部部長として1983年に「ファミリーコンピュータ」を発表。大ヒット商品を世に送り出す。2003年、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授に就任。2015年度末まで任天堂株式会社では開発アドバイザーを務め、現在は立命館大学映像学部客員教授。
第1回シャープで始まった技術者人生、任天堂との出会い
2016年7月15日掲載
私はテレビの技術者になりたくて大学で電子回路を学び、1967(昭和42)年に大学卒業後、早川電機工業(現・シャープ/以下、シャープで統一)に入社しました。ところが、その頃のシャープは、開発の主軸をテレビからコンピューターと半導体に移しており、私は最初、コンピューターの開発部門に行くよう言われてしまったのでした。
しかも私は関西で働きたいと思っていたのに、その部署は東京にありました。実は私は就職にあたって、大学の先生から在京の会社を紹介されていたのですが、それを断って関西のシャープに入ったものですから、今さら手を翻して東京に戻るわけにはいきません。そこで、人事課長に掛け合ったところ、東京で働きたかったのに関西に配属されたという、私とちょうど反対の立場の人がいたので、その人と配属先を入れ替われることになりました。その配属先とは、光半導体の光検出器販売部門でした。
もっとも、私が半導体部門に配属された理由は、今考えるとそれだけではなかったようです。創業者の早川徳次さんが健在だった当時は、常に危機感を持って、松下電器産業(現・パナソニック)や東芝との熾烈な競争に挑んでいました。研究開発部門もそうです。一般の会社では「研究開発員は研究所で研究を行い、研究成果が出たら、また別の新しい研究を行う」というのが普通ですが、シャープで私の配属された部署では「研究成果の開発者が必ず自ら現場へ営業に出て、市場を開拓し事業化すべし」という方針を採っていました。ところが、半導体に関しては、半導体の研究者は物理学を専攻した人が多いのに対し、実際に半導体を製品として必要とする取引先の担当者は、電子回路の技術者であることがほとんどで、コミュニケーションをとるのに苦労した部分があります。そこで、半導体の商談をするにあたっては、電子回路を学んだ私への期待が大きかったということのようでした。
とはいえ、半導体それ自体、大学で一通り習ってはいたものの、実は現物を見るのは初めてでしたし、そのうえ、現場への営業回りなど知らないことばかりです。手形の扱い方や新規取引先の信用調査なども含めて、仕事の中で一から必死で勉強していきました。それでも2年ほど経つとすっかり任されるようになり、担当地域も九州から東は静岡県まで広がりました。製鉄業の工程で光半導体が急速に普及し、当時の八幡製鐵、富士製鐵(両社合併し現在「新日鐵住金」)などと取引をさせていただきました。愛知の豊田自動織機や、その下請け工場の数々とは、縦糸の糸切れを検出するセンサーを共同で開発しました。ヤマハや河合楽器といった楽器メーカーとのご縁もありました。
最も多くの取引があったのは神戸工業(現・富士通)だったでしょうか。当時、紙に穴を開けて情報を記録するパンチカードというメディアがありましたが、その読み取り装置に光半導体が使われていたのでした。また、三菱重工業など三菱グループとの取引も大きいものでした。特に親しくお付き合いさせていただいたのは三菱電機です。新しい技術についていろいろなことを教えていただきましたし、それらが具体的なビジネスに発展して一緒に開発をおこなったことも多々ありました。当時の担当課長のみなさんの名刺もいまだに持っていますが、これらの方々は軒並み役員になっておられます。まさにシャープ時代に私が得た大きな財産の一つといえると思います。
こうした多くの素晴らしい出会いの一つに、任天堂とのそれもありました。あるとき、京都シャープの社長に「京都に『任天堂』という会社があるのだが、1回行ってみたらどうか」と薦められたのです。私は社名を知っていた程度で、てっきり東京の会社だと思っていたのですが、京阪電車沿線の東福寺の近くにあると聞き、見覚えある社屋に思い当たったのでした。
そうして、1968年5月に初めて任天堂に訪問することになり、山内溥社長(当時)や、開発担当の横井軍平さんにお会いしました。すると、同行した上司がまず山内社長の面白さを大いに気に入ったようで、何も決まっていないうちから、「さっそく何か仕事を取ってこい」と命じられました。急いで任天堂の信用調査を行い、主力製品であるトランプの売上は順調、花札もシェアが高く、資産状況に問題はないことを確かめた覚えがあります。
シャープの光半導体製品を紹介していく中で、横井さんは太陽電池に興味を持たれたようでした。「光線銃に使えるのではないか」というのです。光線銃は、銃口から放たれた光をセンサーで検知するわけですが、当時、光センサーとして一般的に使われていたCdS(硫化カドミウム)は、応答速度が遅くしばしば誤動作を起こすため、光線銃のセンサーとしては不十分でした。そこで、応答速度が早いシャープの太陽電池が目に止まったというわけです。
そこでさっそく、同年7月から、横井さんと光線銃の設計に関する技術打ち合わせを開始しました。光線銃用のセンサーは、室内の蛍光灯の雑音対策や、コスト面など、問題も数多くありましたが、互いに苦労して工夫を重ね、製品化に向けて一つ一つ解決していきました。同年12月には試作機が完成、山内社長へのデモを行い、翌1969年5月、ついに任天堂とシャープが正式な売買契約の締結に至ったのでした。
同年11月には、光線銃に使用する特注の光電素子量産試作品がシャープの郡山工場で完成し、製品の発売開始が1970年5月に決定、ついに生産開始までこぎつけます。良好な信用調査の結果を頼りに大量発注にも応じ、初回から50万個もの生産数となりましたが、おかげさまであっという間に完納となりました。私自身も製品部品をシャープの工場で車に積み込み、自分で運転して任天堂へ運んで納品していました。国道24号線を何度往復したことでしょうか(笑)。
部品供給者としては、光線銃の売れ行きが気になるわけで、私も自宅に友人を集めて商品を紹介したところ、みんな気に入って買ってくれました。またある同僚は、阪急百貨店の玩具売り場を毎日覗いて、その売れ行きを目の当たりにしていました。「ライフルや的などすべて一式揃えると3万円くらいする高額商品なのに、ちゃんと買ってくれる人がいること」「子どもよりも大人が買ってくれる分野の玩具があるということ」など、さまざまな発見がありました。そうして結局、光線銃はシリーズ累計で約160万丁が売れたのでした。
光線銃センサーの実績が社内で認められ、私たちの半導体部署は、1970年9月に初めて早川社長から表彰を受けました。そしてこれを一区切りとして、私は光半導体を使った応用製品の開発部署に異動することになりました。以前より私は、「光半導体とは別の、新しい分野での研究開発をしたい」と上司に要望を出しており、今回、一定の成果が出たことで、光半導体の卒業が認められたのでした。新しい開発部署では、かねてより光線銃に興味を持ってくれていた上司の理解のもと、晴海の国際見本市でのエレクトロニクスショーで光半導体を使った鉄道模型を作らせてもらうなど、かなり自由に開発活動をさせてもらいました。
そんな中、会社から海外赴任の打診がありました。新しい部署に異動させてもらったのは、こういった含みがあったからなのかもしれません。ところが私は当時、結婚したばかりであり、いきなり単身赴任になることにかなり抵抗がありました。
するとちょうど同時期に、任天堂から転職の誘いがあったのです。光線銃の実績が買われたからにほかありません。任天堂で長く番頭格であった沢井末造専務(当時)が「任天堂もこれから変わらないといけない。(横井)軍平君が言うように、今までとは違うことをやっていかないといけない」と力説されました。「軍平君も君が来るのを望んでいる。彼を助けてやってほしい」と言われ、転職を決断しました。
上司や同僚からは「なんでお前、おもちゃを作ってるような会社に行くんや」とずいぶん引き止められました(「いや、あんた 現に光線銃を気に入って買うてくれたやないか」と内心で思いましたが)。結局、退職は認められるのですが、実はシャープとしても、「彼が任天堂にいれば、シャープと組んで再びビジネスをすることが可能だろう」という目論見もあったようです。そして実際、それは後に「ゲーム&ウオッチ」で実現することになります。
ともかく私自身は、エレクトロニクス化されたおもちゃの開発というものができるのか、しかも京都というローカルな場所からそれが可能なのか、ただただ純粋に自分の力を試してみたいと思ったのです。「光線銃の柳の下にどじょうは何匹いるのか」私の新しいチャレンジの始まりです。
ファミコンの開発者が語る日本の家庭用ゲーム産業の幕開け
https://www.fastretailing.com/jp/ir/library/pdf/20211014_tanaka.pdf
半導体露光機で日系メーカーはなぜASMLに敗れたのかモノづくり最前線レポート(1/2 ページ)
法政大学イノベーション・マネジメント研究センターのシンポジウム「海外のジャイアントに学ぶビジネス・エコシステム」では、日本における電子半導体産業の未来を考えるシンポジウム「海外のジャイアントに学ぶビジネス・エコシステム」を開催。半導体露光機業界で日系企業がオランダのASMLに敗れた背景や理由について解説した。
2018年03月02日 11時00分 公開
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法政大学イノベーション・マネジメント研究センターでは、日本における電子半導体産業の未来を考えるシンポジウム「海外のジャイアントに学ぶビジネス・エコシステム」を、2018年2月2日に市ケ谷キャンパス(東京都千代田区)で開催した。講演で登壇した法政大学 経営学部教授 イノベーション・マネジメント研究センター所長の田路則子氏は「露光機業界におけるプラットフォーム戦略」をテーマに、オランダのメーカーASMLが、日系メーカーのニコン、キヤノンに競り勝ち、シェア拡大を実現した背景について紹介した。
ASMLに逆転されたニコン
半導体露光機は大きなガラス板に複雑で微細な電子回路のパターンを描いたフォトマスクを、極めて高性能なレンズで縮小して、シリコンウエハーと呼ばれるシリコンの板の上に塗布した材料(フォトレジスト)に強いレーザー光を照射して感光させる装置だ。内部は光学、機械、化学、ソフトウェアなどのハイテク要素技術が統合され「半導体製造の工程で最も重要な部分を担っている」(田路氏)ともいわれ、2トントラック程度の大きさがある。
法政大学 経営学部教授 イノベーション・マネジメント研究センター所長の田路則子氏
現在は、先端の微細化プロセスに用いられるDUV(深紫外光)タイプの装置で、年間200~300ユニットが限られた市場に出荷されている。価格は最新機種で60億円程度であることから、デバイスメーカーにとっても購入に関しては慎重な意思決定がなされる場合が多い。製品開発競争も激しく2年ごとに新しいモデルが開発されており「新興企業が市場に参入するのは、巨額な設備投資が必要なこともあり大変難しい製品でもある」(田路氏)という。
現在、半導体露光機メーカーとして残っているのは、日系企業であるニコンとキヤノン、そしてオランダのASMLの3社である。ニコンとキヤノンは世界的にも有名なカメラメーカーであり、一方のASMLは、1984年にオランダのフィリップス(Philips)の1部門とASM International(ASMI)がそれぞれ出資する合弁会社として設立された。「ASMIが商社だったこともあり、調達力が優れている点が特徴だ」と田路氏は述べる。その特徴の違いが結果として、現在の状況を生み出しているといえる。
2000年以前、先端微細化プロセス向けの半導体露光機市場におけるシェアは、ニコンがASMLを上回っていた。しかし、徐々にASMLが拡大し2010年頃にはASMLがシェア約8割、ニコンは約2割と立場が大きく逆転した(キヤノンは早い時期に先端微細化プロセス向け市場から撤退している)。半導体露光機は究極のすり合わせ型製品であり、それは、日本企業が得意とする分野である。しかし、ASMLのモジュラー(アーキテクチャ)は、ニコンのインテグラル(アーキテクチャ)を凌駕(りょうが)することとなった。
その後、半導体露光機のアーキテクチャは大きな節目であるアーキテクチュラルイノベーションを迎えた。カギとなったのは、同時に2つのウエハーステージを扱うツインスキャン技術だ。さらに、解像度を向上させる液浸の技術も課題となった。
その際にASMLはスムーズにアーキテクチャを変更した。ニコンも同じアーキテクチャを指向したが停滞したという。この差については、企業の成り立ちや体質、また顧客層などにあったと田路氏は分析している。
モノづくり最前線レポート(2/2 ページ)
2018年03月02日 11時00分 公開
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なぜASMLとニコンに違いが生まれたのか
ASMLとニコンの顧客(納入先)についてみると(2005~10年)、ニコンは米国のインテルが半数近くを占め、次に東芝(2割程度)の順となっていた。一方、ASMLは韓国のサムスン電子(Samsung)が最も多く、ハイニックス(現SK Hynix)、TSMCが続く状況だった。
ニコンがメイン顧客とするインテルは、マイクロプロセッサを生産しているが、その製品は複雑なデザインとなっている。最終的に構成要素を合わせるチューニング能力を、インテル自身で持っているが、スペックが狭いことから、それに合わせて精密に作らなければならない。それだけに個別の要求に合わせた多様なパフォーマンスが必要だった。それに比べて、サムスン電子やTSMCはDRAM、ASICなどのより汎用的な製品を生産しており、差別化よりも使いやすさや、統一されたパフォーマンス(どの工場でも同じ製品をつくれなければならない)が重要となった。
露光機の各構成要素を見ると、ニコンの製品は投影レンズ系、照明系、制御ステージ、ボディー、アライメント、ソフトウェアまで、光源以外は自社で調達している。ASMLは投影レンズ、照明系はZeiss(カールツァイス)で、制御ステージはフィリップスなど、コンポーネントの全てを外注しソフトウェアだけ自社で担当した。
この結果、ニコンはコンポーネントの知識は豊富だが、調整能力を持つ顧客に力を注いだため、アーキテクチュラルナレッジ(コンポーネント間をつなぐ知識)が弱く、知識が蓄積されないという皮肉な結果となった。これに対して、ASMLは、顧客が後発組でもあったことから、製品の納品時に調整まで行うようになり、学習の機会が増え、アーキテクチュラルナレッジが蓄積していったといえる。
共同研究が多いASML、自前主義のニコン
さらに、20年分の学会論文の著者分類を行ったところ、ASMLは共同論文が多く、外部のサプライヤーだけの論文が多数みられる。ASMLに関する論文を外部企業が発表することは、自律的に開発分担したことを示している。一方、ニコンは単独論文が多く、共同論文、外部だけの論文はASMLと比べて大幅に少なかった。
これらの情報からも、ASMLはコンソーシアム、コンポーネント提供企業、露光機以外の製造企業との密接な連携により、個別の顧客対応よりも汎用品プラットフォーム作りを進めたことが見える。
このASML共著論文を詳しく見ると、特にベルギーの研究開発機関IMEC(Interuniversity Microelectronics Centre)との件数が多く、良好なパートナーシップを結んでいることが分かる。IMECはASMLと同じ1984年に設立された。現在、従業員数は2000人で、うち400人弱はコンソーシアムを構成する企業から派遣されている。日系メーカーからの派遣員もいる。年間予算は約3億3000万ユーロ(約430億円)で、基本的にCMOS、ヘルスケアとライフサイエンス向けのエレクトロニクス、ワイヤレスコミュニケーション、イメージセンサーなどテーマごとにR&Dを行っている。メンバーにはこうしたテーマ別のゼネラルメンバー制度を設けている。
田路氏によると、数十年前の主要デバイスメーカーは、ビジネスの優位性を保つために、他社よりも早く新しい製造装置を導入しようと買い求め始めた。そこでIMECは二番手クラスのデバイスメーカーと手を組んでオープンイノベーションとすることに狙いを定め(当時のTSMC)、この段階で露光機としては隣国のASMLを活用するケースが増えてきたという。やがて、デバイスメーカーがIMECの存在価値を認識し、オープンイノベーションのプログラムに参画するようになった。これにより、IMECの会員企業に占めるASMLが納品しているシェアは7割(2008~2010年)を占めるようになった。IMECの非会員の同シェアは同4割弱であるだけに、この両者の関係は深く結びついていることが分かる。
日系企業も日本で半導体のコンソーシアムを作ったが、国際的な組織にはできずに、運営もうまくいかなかったという点もネガティブに働いた。
プラットフォーム化に負けたニコン
以上のことをまとめて、ASMLがなぜ成功したかについて、田路氏は以下の3つを挙げる。
構成要素を内製せずにシステムインテグレーターの役割に集中してきたため、サプライヤーへの仕様指示と性能評価か客観的であったこと
コンソーシアムのプログラムを介して顧客や関係する企業と連携したこと
顧客が後発組で最終調整と顧客サポートをせざるを得なく、そこで知識、技術が蓄積されたこと
さらに、新しいアーキテクチャが浸透した(2008年以降)理由については「納品時の不具合に対し、改善する機会が多く、アーキテクチュラルナレッジを強化させたことや、多くの顧客が使いやすい汎用的なプラットフォームを確立できたことなどがある」と田路氏は述べている。
ニコンの停滞については「ほとんどの部品を内製化しているために、過去のアーキテクチャにこだわりやすく、唯一外注している光源と内製レンズの擦り合わせの際にも、同社の象徴的製品であるレンズの性能を引き出すことを優先させてしまった」と自前主義の課題を指摘する。さらに外部との連携がうまく進まなかったり、顧客が先発組で最終的調整やサポートの必要性がなかったりしたことで内部に知識が残らなかった。さらにカスタマイズにこだわり、汎用プラットフォームを確立できなかったことなども「理由としては大きかった」(田路氏)としている。
SAP (企業)
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SAP SE
種類公開会社(欧州会社)市場情報FWB: SAP
NYSE: SAP本社所在地
ドイツ バーデン=ヴュルテンベルク州ヴァルドルフ設立1972年(創業地ヴァインハイム)業種情報・通信業事業内容企業アプリケーション代表者Hasso Plattner(英語版) (Chairman)
Christian Klein(英語版) (CEO)売上高
27.553 Billion € (2019)[1]純利益
3.387 Billion € (2019)[1]総資産
60.229 Billion € (2019)[1]従業員数101,150人 (2019年)[2]関係する人物Dietmar Hopp
Hans-Werner Hector
Hasso Plattner(英語版)
Klaus Tschira
Claus Wellenreuther外部リンクSAP.comテンプレートを表示
SAP SE(ドイツ語: SAP SE 英語読み:エスエイピー・エスイー ドイツ語読み:エス・アーペー・エスエー)は、ドイツ中西部バーデン=ヴュルテンベルク州にあるヴァルドルフに本社を置くヨーロッパ最大のソフトウェア会社である。
フランクフルト証券取引所、ニューヨーク証券取引所上場企業 (FWB: SAP, NYSE: SAP)。
概要[編集]
SAPは主にビジネス向けソフトウェアの開発を手掛ける大手ソフトウェア企業で、売上高はマイクロソフト、オラクル、IBMに続いて世界第4位である[3][4]。特に大企業向けのエンタープライズソフトウェア市場で圧倒的なシェアを有し、企業の基幹システムであるERP分野で世界一である[4][5]。クラウドコンピューティングの分野にも注力し、SaaS分野の売上高で世界4位(2019年時点)[6]、クラウド分野総合の売上高(SaaS及びPaaS/IaaSの合計)が世界5位に位置している(2020年現在)[7]。
2019年末時点に世界全体で、売上高が約3兆3,000億円[8]、従業員が約100,000人の規模である。日本法人のSAPジャパンは1992年に設立され、従業員は約1,500人である。
第二次世界大戦後に創業したドイツ企業の中で最も成功した企業の一つで、時価総額は2019年時点で約18兆円でドイツ最大の企業である[9]。2019年時点、世界190ヶ国で440,000社の顧客を抱え、経済誌フォーブズが毎年選出するフォーブズ・グローバル2000にランクインする企業のうち92%がSAPの顧客である[10][11]。
SAPは「システム分析とプログラム開発」を意味するドイツ語Systemanalyse und Programmentwicklungから採った社名で、1972年にIBMドイツ法人を退社した5人のエンジニアによって創業された。この名前は後にSysteme, Anwendungen und Produkte in der Datenverarbeitung (資料処理における系、応用および製品) と変更されたが、2005年に会社の正式名称は単に"SAP AG" と変更された。また、2014年7月からは企業形態を欧州会社(羅: Societas Europaea)に変更し、社名を"SAP SE"と変更した[12]。俗に「サップ」と呼ばれることもあるが、正しくは「エスエイピー」または「エスアーペー」である。
広告などのキャッチコピーは「Run Simple」[13]。
主要製品・サービス[編集]
基幹システムパッケージ[編集]
SAPの主な製品は、基幹システムパッケージに代表されるビジネスアプリケーション群である。SAPのシステムは、企業における会計システム、物流システム、販売システム、人事システムなどからなり、それぞれがデータ的に一元化されているためにリアルタイムな分析が可能となる。
最も有名な製品は「SAP R/3(エスエイピー・アール・スリー)」という基幹システムパッケージ製品であり、「R」はリアルタイムを意味し、「3」は三層アーキテクチャを採用していることを表している。SAP R/3以前はメインフレームSAP R/2(英語版)上で動作するソフトウェアが開発・販売されていた。後継製品として、2004年7月に出荷されたmySAP 基幹システムパッケージ2004, 2006年5月に出荷されたmySAP 基幹システムパッケージ2005があり、2006年6月にSAP 基幹システムパッケージ 6.0 (SAP ERP(英語版)) が出荷され、R/3という名前の製品は既に出荷されていない。また、2015年2月からは同社のインメモリーデータベースSAP HANAをプラットフォームに採用した次世代基幹システムパッケージであるSAP S/4HANAが提供開始されている[14]。「S」はSimpleを意味する。
機能要件に合わせてアドオン開発する場合は、SAP独自言語であるABAPを利用し開発環境であるABAPワークベンチ上で開発を行う。また、OpenSQLと呼ばれるデータベース非依存のSQL文を利用することでさまざまなデータベースに対応させるとともに、テーブルバッファによるデータのキャッシュの機能を持たせて性能を向上させている。
中小企業向けの基幹システムパッケージとして「ビジネス・ワン (Business One)」、中堅企業向けに「ビジネス・オールインワン (Business All-in-One)」が提供されている[15][16]。2007年9月19日にオンデマンド型の基幹システムパッケージソフトウェアサービス「ビジネス・バイデザイン (Business ByDesign)」を発表した[17]。
業務パッケージソフト/SaaS[編集]
SAPは基幹システム以外にもCRMやSCM, PLMといった幅広い分野でソリューションを提供し、大企業向けから中堅中小企業向けまで幅広くソリューションを提供している。また、オンプレミス製品依存からの脱却を目指し、クラウドサービスも積極的に展開しており、2020年にSaaS分野で売上世界3位にまで拡大した[18][19]。主要なSaaSは経費精算の「コンカー」、人材管理の「サクセスファクター」、調達管理の「アリバ」、労務管理の「フィールドグラス」、スポーツ・エンターテインメント業界向けクラウドソリューション「スポーツ・ワン」、コネクテッドカー向け分析クラウドソリューション「ヴィエクル・インサイツ」などがある[20][21][22]。
CRM分野ではオンプレミス型の「SAP CRM」やSaaS型の「クラウド・フォー・カスタマー」を提供しており、2015年時点のCRM分野の売上高は、首位の米セールスフォースに続き世界2位である[23]。2018年6月にインメモリデータプラットフォームを採用した次世代CRMとして「SAP C/4HANA」を発表した。2020年にIDCによって世界小売コマースプラットフォームソフトウェアプロバイダー部門でリーダー格の一社として選出された[24]。
金融機関固有業務向けのパッケージも手掛けており、銀行向けの「コア・バンキング」や「オムニチャネル・バンキング」、保険業界向けの「エスエイピー・フォー・インシュランス」なども提供している[25][26][27]。
アプリケーションサーバー/SOA[編集]
当初の戦略はあまねく業務ソフトウェアを提供し、SAP製品同士であればシステム間のデータなどの整合性を担保することによって他社との競争優位を引き出していたが、昨今のサービス指向アーキテクチャ (SOA) の流行による戦略の転換を図り、2003年からはSOAに対応した「SAP NetWeaver(ネットウィーバー)」という製品を販売している。SAPはSOAをenterprise SOA(SAP NetWeaver; 登場当時はEnterprise Service Architecture (ESA) と呼ばれた)と呼称している。
DB/BI/DWH[編集]
2008年1月にビジネスインテリジェンス(BI)最大手のBusinessObjects(ビジネスオブジェクツ)社を買収し、情報分析・活用分野も強化している[28]。計画、予測、BIなどのアナリティクス機能を1つにまとめたSaaS型のソリューション「SAP Analytics Cloud(アナリティクス・クラウド)」(旧称:SAP BusinessObjects Cloud)も提供している[22] 。
2010年にデータベース大手Sybase(サイベース)社を買収し、リレーショナルデータベース製品「SAP Sybase Adaptive Server Enterprise(ASE)」(旧称:Sybase Adaptive Server Enterprise)や「SAP IQ」(旧称:Sybase IQ)を販売しているが[29][30][31]、2010年よりインメモリーデータベース(DB)「SAP HANA(ハナ)」をリリースした。SAP HANAのリリース以降、SAPはSAP HANAを専用データベースとして採用した製品を次々とリリースしており、2015年に次世代ERP「SAP S/4HANA(エス・フォー・ハナ)」の提供を開始、2016年にデータウェアハウス(DWH)製品の「SAP BW/4HANA」をリリースした[32][14][33]。2019年にSAPはガートナー社によるマジック・クアドラントのオペレーショナルデータベース管理部門でリーダー企業の1社に選出され、総合評価で4位につけている[34]。
PaaS[編集]
2013年にクラウドネイティブのWebアプリケーションやモバイルアプリケーションを開発できるクラウドベースのアプリケーション開発プラットフォーム「SAP Cloud Platform」(旧称:SAP HANA Cloud Platform)の提供を開始した[35][36]。Appleとの提携に基づいた「SAP Cloud Platform SDK for iOS」やIoT活用の基盤となる「SAP Cloud Platform IoTサービス」なども提供している[37]。
SAP Business Suite製品群を運用するために特化されたプライベートマネージドクラウドサービスとして「SAP HANA Enterprise Cloud」(HEC)も提供されている[38]。
AI / RPA[編集]
人工知能(Artificial Intelligence)やRobotic Process Automation(RPA)を活用したアプリケーションの開発も行っている[39][40]。機械学習ソリューションを開発するためのプラットフォームとして「SAP Leonardo Machine Learning」やチャットボットアプリを開発するための「SAP Conversational AI」を提供しているほか、在庫などの予測分析のための「SAP Predictive Analytics」、支払請求書と入金消込のマッチングを自動的に行う「SAP Cash Application」、ブランドマーケティングの効果を測定するための「SAP Brand Impact」などの業務アプリケーションがリリースされている[41][42]。
2018年にフランスのContextor社を買収し[43]、2019年にSAP Cloud Platform上で利用できるサービスとして「SAP Intelligent Robotic Process Automation(RPA)」を発表してRPA市場への参入を果たした[44] 。
IoT[編集]
2017年1月にIoT関連のサービスポートフォリオとして「SAP Leonardo」(現SAP Leonardo IoT)をリリースし、企業のIoT導入を支援するソフトウェア群とコンサルティングサービスの提供を開始した[45][46]。2017年5月に自動車の挙動情報を収集し分析するアプリケーション「Connected Transportation Safety(CTS)」も公開された[22]。
ブロックチェーン[編集]
SAP Leonardoの一部として「SAP Leonardo Blockchain」パッケージでブロックチェーン技術を利用可能であったが、2018年6月にブロックチェーン・アズ・ア・サービス (Blockchain as a service) として「SAP Cloud Platform Blockchain」の提供開始を発表した[47]。SAPはこれまでに製造、流通、食品、医薬品等の多数の分野でブロックチェーンの利用事例を作り、65社の企業と提携している[47][48]。更にSAPグループ開発技術の利用資格を持つメンバーのブロックチェーンコンソーシアムを結成しており、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ、インテル、UPS等の大手企業が参加を表明している[48]。
量子コンピューティング[編集]
ドイツ企業10社で結成した量子コンピューティング活用のためのコンソーシアムにSAPも参画しており、フォルクスワーゲンやボッシュ、シーメンス、メルク、BASF等の企業と協力して電気自動車用電池の開発や創薬で活用に取り組んでいる。[49]
業務提携[編集]
近年では異業種を含めた他社との協業を強化し、新たな領域での事業の創出に注力している。2015年12月時点では新事業が売上高の6割を占め、ERPを中心とする既存事業からの依存脱却を図っている[50]。提携先は、米Apple、米Google、米IBM、米マイクロソフトなどのIT企業のほか、異業種では独シーメンス、米アンダーアーマー、米UPS、独アディダス、伊トレニタリア(鉄道大手)、伊ピレリ(タイヤ大手)、独サッカー代表チーム、韓国政府、中国政府などの企業や組織が挙げられる[51][50][52][53]。
米Appleとは法人向けAI(人工知能)を活用した対話アプリや法人向けクラウドサービスの開発を行っている[54][55]。
IoT(モノのインターネット)分野では、ドイツが官民一体で進める「インダストリー4.0」と呼ばれる次世代の産業創出のための国家プロジェクトに参画し、独シーメンスや独ボッシュと協力して世界標準策定に携わっている[50][56]。2016年に米ゼネラル・エレクトリック(GE)グループとも提携し、IoT分野での影響力拡大を図っている。
医療分野では癌研究をリードする米国臨床腫瘍学会 (ASCO) が2015年に開始したプロジェクトに参画し、治療履歴を活用して治療方法を研究するソフトウェアを開発した[50]。金融では2016年7月には米リップル・ラボやカナダのATBフィナンシャル銀行と協力して、ブロックチェーン技術を採用したカナダからドイツへの国際支払送金に成功した[57]。
日系企業とも協業を広めて2015年10月17日に日産横浜F・マリノスと提携し、クラブチーム運営業務の効率化やファン満足度向上のためのマーケティング活動に取り組むことを発表した。2016年9月15日にNTTとIoTを活用した安全運航管理サービスを開始した[58]。2018年3月にコニカミノルタと提携してRPA(Robotic Process Automation)を活用したクラウド型データ入力サービスも提供している[59]。
歴史[編集]
略歴[編集]
1972年 - ドイツにSystemanalyse and Programmentwicklungを設立。
1976年 - 社名をSAPに変更。
1992年10月16日 - 日本法人としてSAPジャパン株式会社を設立。
2008年1月15日 - ビジネスインテリジェンスソフトウェアベンダー Business Objects社を買収完了 [61]。
2011年12月3日 - クラウド人事管理系のソフトウェアベンダー SuccessFactors(英語版)の買収合意を発表 [63]。
2013年8月 - カスタマーエクスペリエンスのhybrisを買収。
2014年9月 - SaaSベンダー2位でクラウド経費精算ソリューションを展開するコンカー・テクノロジーズを買収[64]。
2014年7月 - ドイツ企業から欧州会社への転換に伴い、社名をSAP SEに変更。
2017年3月 - IoT関連ソフトウェア群「SAP Leonardo」と同ソフトウェア群の導入を支援する「ジャンプスタートイネーブルメントプログラム」を発表[45][46]。
2017年3月 - Appleと共同でSAP Cloud Platform SDK for iOSのリリースを発表[65]。
2017年3月 - Googleとクラウド分野での協業を発表[53]。
2018年1月 - 米Recast.AIを買収し、SAP Leonardo Machine Learningの機能強化を発表[66]。
2018年1月 - クラウドネイティブCRMの米カリダスの買収を発表[67]。
2018年6月 - Microsoftとの提携拡大を発表。MicrosoftがSAP S/4HANAを採用し、SAPは同社のクラウドサービスをMicrosoft Azure上で稼働させるなど、両社の製品/サービスの相互利用範囲を拡大させた[68]。
2018年6月 - ブロックチェーン・アズ・ア・サービス(BaaS)として「SAP Cloud Platform Blockchain」の提供を開始[47]。ブロックチェーンコンソーシアムの結成を発表[48]。
2019年10月 - 2010年からCEOに就任していたビル・マクダーモット(Bill McDermott)が退任し、ジェニファー・モーガン(Jennifer Morgan)とクリスチャン・クライン(Christian Klein)が共同CEOに就任した[69][70]。ジェニファー・モーガンは同年のフォーブス誌の「世界で最も影響力の高い女性」のテクノロジー部門上位10名にも選出された[71]。
2020年2月 - 経済誌フォーブスによる「多様性施策に優れた米国の職場ランキング2020」でSAPが1位を獲得した[72]。
2022年4月、ロシアからの事業撤退を表明[73]。
企業買収[編集]
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買収時期企業名主要事業領域1996年Dacos小売ソリューション1997年Kiefer & Veittinger営業支援アプリケーション1998年OFEK-Tech倉庫および流通センター向けソフトウェア1998年AMC Developmentコールセンター向け電話統合ソフト1999年Campbell Software人材管理ソフト2000年In-Q-My Technologies GmbHJ2EE Server2001年2月Prescient Consultingコンサルティングサービス2001年3月Toptier企業情報ポータルおよび統合インフラ2001年5月Infinite Data Structures取引管理、CRM2001年11月COPA GmbH飲料業界向けコンサルティングサービス2001年12月Paynet International AG請求管理2002年2月TopmanageSAP BusinessOne Suite2002年5月Expressionリアルタイムファイル共有サービス2002年5月IMHC統合医療管理システム2002年12月GuimachineNetWeaver Visual Composer toolkit2003年6月DCW SoftwareOS/400 Applications2003年12月SPM TechnologiesITアーキテクチャコンサルティングサービス2004年6月A2iマスタデータ管理システム2005年1月ilytixSAP BusinessOne Business Intelligence2005年1月TomorrowNow非公式市場支援システム2005年2月DCS Quantum自動取引管理システム2005年6月Lighthammer製造インテリジェンスおよびコラボレーティブ製造システム2005年9月TriversityPOSシステム2005年11月Khimetrics小売りソフト2005年11月Callixa企業統合情報システム2005年12月SAP Systems Integrationコンサルティングサービス2006年4月Virsa Systemsコンプライアンスソリューション2006年5月Frictionless CommerceSRMソフト2006年6月Praxis Software SolutionsWebベースCRM、Eコマース2006年12月Factory Logic生産スケジューリングシステム、サプライ同期システム2007年2月Pilot Software戦略管理ソフト2007年5月Outlooksoftプランニングおよび統合2007年5月MaXwareアイデンティティソフト2007年5月Wicom Communicationsインターネットコミュニケーションソフト2007年10月Yasu Technologies Pvt. Ltd.ビジネスルール管理ソフト2007年10月Business Objectsビジネスインテリジェンス2008年6月Visiprise生産実行システム2009年5月Highdeal大規模請求管理2009年9月SAF在庫システム2010年5月TechniData環境、医療、安全2010年5月Sybaseデータベース、ミドルウェア、モバイル2010年12月Cundusディスクロージャー管理ソフト2011年3月Secude(セキュリティ部門)セキュリティソフト2011年9月CrossgateB2Bコマース2011年9月Right Hemisphere3Dビジュアライゼーション2011年12月SuccessFactorsクラウドベース人材管理ソフト2012年1月datango電子パフォーマンス支援技術2012年6月Sycloモバイル資産管理2012年10月アリバ電子購買サプライヤーネットワーク2013年2月Ticket-Webスポーツおよびエンターテインメント業界向けCRM2013年2月SmartOps在庫最適化ソリューション2013年3月Camilion保険ソリューション2013年5月hybrisカスタマーエクスペリエンス、Eコマース向けソリューション2013年10月KXEN予測分析サービス2014年3月Fieldglass臨時雇用人材管理サービス2014年5月SeeWhy行動ターゲットマーケティング分析2014年9月コンカー・テクノロジーズクラウドベース旅行および経費精算サービス2014年10月Saicon INCリクルートメントサービス2016年2月MeLLmo Inc. (Roambi)モバイル向けビジネスインテリジェンス2016年6月Fedem TechnologyIoT2016年8月Altiscaleビッグデータ&Hadoopホスティングサービス2016年10月Plat.OneIoT2016年12月Abakusマーケティングアトリビューション2017年9月[74]Gigyaカスタマーアイデンティティ管理2018年1月[66]Recast.ai会話型ユーザーエクスペリエンスAIサービス2018年1月[75]カリダスSaaS型CRM2018年6月[76]Coresystemsフィールドサービス管理プラットフォーム2018年11月[77]ContextorRobotics Process Automation(RPA)2019年1月[78]クアルトリクスカスタマーエクスペリエンスマネジメント2020年10月[79]Emarsysオムニチャネル・カスタマー・エンゲージメント・プラットフォーム2021年1月[80]Signavio GmbHビジネスプロセスインテリジェンス2021年2月[81]AppGyverノーコード開発プラットフォーム
創業者[編集]
SAPは1972年にIBMドイツ法人出身の下記の5名のエンジニアによって創設された[82]。
Hasso Plattner(ハッソ・プラットナー)[82]
Klaus Tschira[82]
Claus Wellenreuther[82]
Dietmar Hopp(ディートマー・ホップ)[82]
Hans-Werner Hector[82]
脚注[編集]
[脚注の使い方]
出典[編集]
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^ “SAPの第4四半期決算、売上高が80億ユーロ超--クラウド受注など好調”. ZDNet Japan (2020年1月29日). 2020年5月7日閲覧。
^ 10.SAPは主力のデータベース製品や企業向けソフトウェアにより、エンタープライズIT業界で支配的な地位を築いた。最近ではアマゾンやマイクロソフトなどの企業と提携し、クラウド・コンピューティングへの移行を進めている
^ a b SAPの新基幹システムパッケージ「S/4HANA」、データベースはHANAのみ。HTML5ベースのUI、クラウドとオンプレ両対応
^ 日経クロステック(xTECH). “IT大手16社のQ2決算 コロナ禍でクラウド以外は減収”. 日経クロステック(xTECH). 2020年8月17日閲覧。
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^ SAP、「SAP Cloud Platform」にクラウドの名称変更。iOS用SDK、IoT対応、仮想マシン、API群など汎用PaaS型クラウドサービスとして訴求へ
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^ a b [速報]GoogleとSAPがクラウドで協業。SAP Cloud PlatformをGoogle Cloud上で展開可能に
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^ “SAP to Acquire Business Process Intelligence Company Signavio | Signavio” (英語). Signavio | The Only All-in-One Business Process Software. 2021年1月28日閲覧。
^ “SAPがノーコード開発環境を強化へ AppGyverを買収”. ITmedia エンタープライズ. 2021年2月17日閲覧。
関連項目[編集]
TSG1899ホッフェンハイム - SAP社がスポンサー。創業者の一人ディートマー・ホップが在籍していた。
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、SAP (企業)に関連するカテゴリがあります。
SAP Software Solutions(英語)(ドイツ語)
SAPジャパン - 日本法人
「内部昇進+傍流」だから巨大企業を変革できた
『Hit Refresh』から読み解く、マイクロソフトのしたたかな復活戦略(第1回)
By 根来 龍之
2018.1.9
後で読む
Windows OSの圧倒的シェアを背景に、IT業界の頂点に君臨していた米マイクロソフトだったが、モバイルやクラウドなど新規事業への対応の遅れという高シェア企業が陥りがちのパターンにはまり、社内には停滞感があった。そんな中、2014年2月にCEOに就任したサティア・ナデラは、組織文化の再構築を最優先事項に掲げ、数々の改革に取り組んだ。その結果、マイクロソフトは再び輝きを取り戻しつつある。そこで、企業戦略分析の専門家でIT業界に詳しい早稲田大学ビジネススクールの根来龍之教授に、ナデラの近著『Hit Refresh』を通じて、ナデラの経営手腕とマイクロソフト復活戦略を分析してもらった。根来教授によると、日本の企業経営者にも、参考になる点がたくさんあるという。
マイクロソフトのCEO、サティア・ナデラの近著『Hit Refresh』からは、これまであまり知られていなかったナデラというインド人経営者の人となりや経営哲学、Windows中心からクラウドファーストに舵を切ったマイクロソフトの戦略転換の様子が、リアルによくわかる。
経営者、戦略、企業文化という3つの視点から、『Hit Refresh』に描かれているナデラとマイクロソフトを私なりに分析したいと思う。
ナデラは「サラリーマン経営者の星」
本を読んで最初に感じたのは、ナデラは日本企業の社長にも多い「サラリーマン経営者」であるということだ。インドで生まれ育った彼は、米国の大学院を出てサン・マイクロシステムズに技術者として入社した。その後、マイクロソフトに転職し、比較的若くしてWindows NTのエバンジェリストになり、検索エンジンのBing、クラウドの各責任者などを経て、CEOに昇進した。新卒ではないけれど、若手技術者として入社して、同じ会社の中で内部昇進していった点が、日本の大企業の多くの経営者と共通している。
前任者で2代目CEOのスティーブ・バルマーが突然、辞意を表明し、マイクロソフトでは新CEOの選考が始まった。その過程では、ナデラなどの内部にいた幹部のほか、外部の有名企業で活躍した「プロ経営者」の名も候補に挙がっていたという。
次期CEOの選考には時間がかかった。スティーブが辞任の意向を表明して世間を驚かせたのは、2013年8月。会社の大規模な再編を主導した直後、フィンランドのスマートフォン・メーカー、ノキアの携帯電話事業を72億ドルで買収すると発表する直前のことだった。その年の秋、新聞記者たちは後継指名される人物を推測し、さまざまな名前が飛び交った。フォード・モーターのCEOだったアラン・ムラーリーのような社外の人間なのか、スカイプのトニー・ベイツやノキアのスティーブン・エロップなど、マイクロソフトが買収した企業の幹部なのか。選考対象になった私たちマイクロソフトの一部の社員はその頃、取締役に向けて自分の考えを書面で表明するよう求められた。(『Hit Refresh』chapter 3より)
その頃のマイクロソフトは、モバイルやクラウドでグーグルやアマゾンの後塵を拝し、業績自体は悪くなかったものの、成長という面ではライバルよりも明らかに劣っていた。社内では組織間の権力闘争でギクシャクし、WindowsやOfficeなど高シェアの分野があるがゆえに、新しい分野、技術への取り組みがおろそかになっていた面があった。
つまり、大きな変革が求められる時期だったわけだ。そんな時に、取締役会が内部昇進のナデラを新CEOに選んだのは興味深い。
組織や経営に変革が必要な時期には、外から「プロ経営者」をつれてきて、過去のしがらみにとらわれずに大胆に大なたを振るってもらうほうがいい、という考え方が根強くある。
しかし、ナデラの話を読んでいると(彼の改革を成功と言いきってしまうのは時期尚早かもしれないが)、改革には内部出身経営者も悪くない、いやそちらのほうがむしろ望ましいとも思えてくる。少なくとも、内部昇進主義がそんなに悪いものではないという一つの反証になっていて、内部昇進の経営者が多い日本企業には、勇気づけられる事例と言えると思う。
傍流ならではの客観的かつ批判的な視点
ただし、改革者であるためには、どのルートで内部昇進を果たしてきたがとても重要であり、そのルートで得られた経験が変革を成功させる原動力になりうる。それを簡潔に言うと、「改革したいなら本流出身者ではなく傍流出身者を選べ」ということである。
ナデラがCEOになるまでの経歴を見ると、マイクロソフトの稼ぎ頭である本流のWindowsやサーバー事業を横目に見ながら、傍流の部署を中心に歩んできた。
Windows NTのエバンジェリストは本流のように見えるかもしれないが、ナデラがその任にあった頃はNTの立ち上げ時期で、業績面での貢献は低かった。その後、検索エンジン事業のBingでも立ち上げに関わり、その次のクラウド事業の責任者だった時も、まさにこれから事業を拡大させようとしている時だった。つまり、利益に大きく貢献する部署ではなく、将来の収益源のために、主に新規事業の立ち上げに携わってきた。
実は、この「内部昇進」と「傍流」という2つのキーワードは、変革が必要な企業に求められる経営者の重要な要件になり得る。
必ずしもすぐには儲からない新しい事業の立ち上げをやらされている人は、会社の経営全体に対して、冷静かつ、どちらかというと批判的な目を持っている。同時に、本流の部門に対して、あこがれを抱き、本流は大事だという気持ちと、本流部門は変わろうとしないという不満の両方を持ち合わせている。
ナデラの経営者としての能力を大きく成長させたのは、傍流のBing部門から本流であるサーバー&ツール事業部(STB)の責任者への抜擢だったと思う。STBは、Windows サーバーやSQLサーバーなどの製品を考案・開発してきた、法人部門の中心であり、会社全体では、この時点で3番目に収益の高い事業部だった。
私が引き継いだチームは、チームというより個々の人間の集まりでしかなかった。詩人のジョン・ダンは「人はひとりでは生きていけない」と述べているが、ダンがこのチームの会合に参加していたら、そうは思わなかったかもしれない。チームを構成する各グループのリーダーは、一国一城の主のようで、それぞれが自分の城にこもって仕事をしている。そんな状態がずいぶん前から続いていた。私にはそれをまとめる求心力もなく、さらに悪いことに多くのリーダーが、自分こそが私の役職に就くべきだと思っていた。彼らは不満をあらわにした。おれたちはこれだけの金を稼いでいる。クラウドが多少評判になったからといって、そんなものにわずらわされたくはない。
この手詰まり状態を打開するため、私はSTBの管理者チームのメンバー全員と個別に会い、意向を探り、質問しては耳を傾けた。私たちが目指すべきはクラウド中心の戦略だという点で一致する必要があった。(『Hit Refresh』chapter 2より)
社内とはいえ、よその部門(しかも傍流)から来た人が、本流のサーバー関連事業の責任者に就く。そこではクラウド事業も手がけていたが、ナデラが来た頃は大きな収益が見込めず、部署の誰もがその可能性を本気で信じてはいなかった。しかも、ナデラの責任者就任に対しては、「多くのリーダーが、自分こそが私の役職に就くべきだと思っていた」と記されている。
Bing事業からクラウド事業拡大の使命を負って本流のサーバー&ツール部門に行かされたナデラは、逆風を感じつつもひたすら部下の話に耳を傾け、ITインフラを自社購入・運用するオンプレミスとクラウドが両立する道を探り、共感を獲得していった。
内部昇進者は、会社全体のことを考えた経験がないという問題点があると批判されがちだが、ナデラは周囲の話をとことん聞いて、「よそ者」としてコンセプトを練り上げるという経験を積んだ。これは正攻法のやり方ではあるが、こうした経験が、内部昇進であるにもかかわらず、企業全体を担う人材になるキャリアパスになった。だからこそ、外部のプロ経営者を押しのけて、新CEOに指名されたのだと思う。
日立やソニーを変革したのも「傍流」
日本企業でも内部昇進で変革に成功した人にはそうした特徴がある。たとえば日立製作所の元会長で東京電力ホールディングス会長に転身した川村隆氏やDOWAホールディングス元会長の吉川廣和氏は、傍流から経営者になった。
ソニーCEOの平井一夫氏も、その例に当たると思う。CBSソニー(現ソニーミュージック・エンタテインメント)に入社後、米ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEA)でPlayStationの北米市場開拓に取り組み、SCEA社長を務めた後に帰国し、ソニー本体のエグゼクティブバイスプレジデントに就任したのは2009年だった。それまで、ソニーの本流はテレビやウォークマン事業だったので、この経歴は傍流と言える。しかも、ナデラと同様に40代の若さでCEOに就いた。ソニーも時間はかかったが、再生しつつある。
傍流とされる部門の出身者が経営者として必ず優れているかというと、そこまでの法則性はないかもしれない。しかし、文化の変革の担い手としては、傍流部門の出身者は適している。本流にいた人は、既存事業の限界や文化を冷静に見渡すことができず、現状の収益構造にとらわれてしまい、少し前までのマイクロソフトのように、現在の基幹事業と利益相反を起こすような新規事業に関しては、なかなか大胆には取り組めないからだ。
(次回に続く)
サティア・ナデラ Satya Nadella
マイクロソフトの最高経営責任者(CEO)。40年あまりの歴史を持つ同社の第3代CEO。情報科学の修士号取得のため、21歳の誕生日にインドのハイデラバードから渡米。アメリカ中西部やシリコンバレーでの経験を経て、1992年にマイクロソフトに入社。以後、同社のコンシューマー、エンタープライズ両部門で、さまざまな製品やイノベーションを主導する。マイクロソフトでの役職に加え、フレッド・ハッチンソンがん研究センターの評議員、スターバックスの取締役も務めている。また、妻のアヌとともに、シアトル小児病院や、シアトルにある障害者ら向け施設を個人的に支援している。Photo©Microsoft
新幹線
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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サンリオによる男児向けキャラクターについては「しんかんせん」をご覧ください。
新幹線基本情報国
国鉄時代の開業路線、ミニ新幹線
整備新幹線
運営者JR各社(詳細は路線節を参照)詳細情報総延長距離フル規格: 2,956 km
ミニ新幹線 :276 km
在来線扱い: 10 km路線数フル規格: 8路線
ミニ新幹線: 2路線
在来線扱い: 2路線駅数114(ミニ新幹線、在来線扱いを含む)軌間1,435 mm電化方式交流25,000 V 架空電車線方式(東北、上越、北海道は50 Hz。東海道、山陽、九州は60 Hz。北陸は50 Hzと60 Hzの区間が混在)
交流20,000 V 50 Hz 架空電車線方式(山形、秋田)最高速度320 km/h(東北新幹線の一部区間。詳細は定義節を参照)通行方向左側通行路線図
全国新幹線路線図(2024年4月時点)。ミニ新幹線や建設中・計画中の整備新幹線および中央新幹線を含むテンプレートを表示
新幹線(しんかんせん、英: Shinkansen)は、主たる区間を列車が時速200キロメートル (km/h) 以上の高速度で走行できる日本の幹線鉄道[1]。
「高速鉄道」のコンセプトを世界に広めた存在であり、速度・輸送力(座席数)・安全性において世界の高速鉄道の先駆けとなる存在である[2]。
概要[編集]
日本国有鉄道(国鉄)が1964年(昭和39年)10月1日に東海道本線の線路容量逼迫(ひっぱく)対策として、東京駅 - 新大阪駅間の線増区間として開業した東海道新幹線を端緒とする。その後国鉄時代には山陽本線の線増区間として建設された山陽新幹線の開業を経て、全国新幹線鉄道整備法に基づく基本計画を根拠として東北・上越の各新幹線が開業した。国鉄分割民営化により国鉄の事業がJRに移行した後は、北陸[注 2]・九州(鹿児島ルート)・北海道・西九州(九州〈西九州ルート〉の一部)の4路線が開業し、加えて従来のJR線(在来線)と新幹線とで直通運転を行うミニ新幹線(法令上は標準軌の在来線。詳細後述)として山形・秋田の2路線が開業しており、新幹線網の拡大は半世紀にわたって続けられている。2024年(令和6年)時点でも北海道・北陸・中央の各新幹線が建設中である。
2023年(令和5年)の時点で、フル規格8路線(合計2,830 km)とミニ新幹線2路線(合計276 km)が営業中で、2015年度(平成27年度)の年間利用者数は3億6000万人に上る[3]。
高速度での都市間輸送を前提としており、在来線と異なる規格(軌間・線形・架線電圧など)を採用するなど、様々な技術的特徴がある(#主要技術参照)。走行する車両も空力や低騒音に配慮した、流線形の外形を採用し高出力のモーターを搭載した専用の電車(新幹線車両)が用いられている。こうした技術投入の結果、定時性が極めて高く、年間13万本以上の列車が運転される東海道新幹線でも平均遅延時間は24秒に留まる(2016年度)。また50年以上にわたる新幹線の歴史の中で、車両や線路の施設や設備の異常、運行側の不手際などに起因する乗客などの死亡事故は一度も発生していない(#安全性参照)。
建設[編集]
新幹線建設の計画(建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画)は全国新幹線鉄道整備法第4条の規定に基づき国土交通大臣が決定するものと定められている[4][5]。
全国新幹線鉄道整備法施行以前の新幹線路線の建設工事については、東海道新幹線・山陽新幹線は事業主体である日本国有鉄道(国鉄)が建設主体でもあった。全国新幹線鉄道整備法施行後は同法第6条の規定に基づき国土交通大臣が営業主体および建設主体を指名することになっており、東北新幹線は国鉄が建設主体であった[6]が、上越新幹線は日本鉄道建設公団が建設主体となった[6]。国鉄分割民営化後の東北・上越新幹線東京延伸の際は、当時新幹線の地上設備を一括して所有していた[7]新幹線鉄道保有機構が建設主体であった[8]。さらにその後に建設された北陸新幹線や九州新幹線などのいわゆる整備新幹線については、日本鉄道建設公団および新幹線鉄道保有機構の権利を継承した鉄道建設・運輸施設整備支援機構が建設主体となっている。なお、超電導リニア方式を採用する中央新幹線については東海旅客鉄道(JR東海)が建設主体に指名された。
運営[編集]
運営は1964年(昭和39年)の開業から1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化までは国鉄が行っており、国鉄の事業がJR各社に譲渡された際から、東北・上越新幹線は東日本旅客鉄道(JR東日本)が、東海道新幹線は東海旅客鉄道(JR東海)が、山陽新幹線は西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営を行っている。
JR移行後に開業した整備新幹線では、北陸新幹線をJR東日本とJR西日本が、九州・西九州新幹線を九州旅客鉄道(JR九州)が、北海道新幹線を北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営を行っている。なお、三島会社はJR発足当時いずれも新幹線を運営していなかったが、整備新幹線の開業に伴い、JR九州は2004年(平成16年)以降、JR北海道は2016年(平成28年)以降、新幹線を運営している。JR旅客6社のうち四国旅客鉄道(JR四国)は新幹線の運営に携わったことがない。
法的な位置づけ[編集]
冒頭で述べたとおり、全国新幹線鉄道整備法では、新幹線鉄道を「その主たる区間を列車が200キロメートル毎時(以降km/hと記す)以上の高速度で走行できる幹線鉄道」(第2条)と定義している[9]。「その主たる区間」であるから、局所的に200 km/h未満の速度でしか走行できない区間が存在しても新幹線鉄道である。新幹線を法律で定義しているのは、在来線とは異なる運転規則や構造規則(いずれも省令)が必要なためである。
列車の運行を妨げる行為に対しては、一般の鉄道でも鉄道営業法や刑法などに規定があるが[10]、それに加えて、新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法(新幹線特例法)などによって、より厳しい法的措置が定められている[10]。
なお、一般にミニ新幹線として称され、時刻表にも新幹線(の一部)として記載されている山形新幹線・秋田新幹線は、在来線を改軌して対応する一部の新幹線列車が走行できるようにしたものであり、目視による安全確認を要する信号機とATSの組み合わせによる列車防護、踏切道の存在など、新幹線鉄道構造規則に準じた構造(後述の「路線・軌道設備」を参照)とはなっておらず[5]、全国新幹線鉄道整備法上の新幹線鉄道には含まず、在来線の扱いとなっている(後述の「在来線への直通」並びに両路線の記事を参照)。
最高速度[編集]
これまでに建設された新幹線は、ミニ新幹線を除いて、1964年(昭和39年)に開業した東海道新幹線から全て設計最高速度260 km/hで建設されている[11]が、開業時から260 km/h運転を実施するようになったのは1997年(平成9年)10月1日開業の北陸新幹線(当時の通称は長野新幹線)からである。
現在の最高速度は320km/hとなっている。
日本の新幹線の営業最高速度開業年月日路線全幹法
の分類通称最高速度開業時2023年現在1964年(昭和39年)10月1日東海道新幹線新幹線新幹線210 km/h285 km/h1972年(昭和47年)3月15日山陽新幹線(岡山駅以東)300 km/h1975年(昭和50年)3月10日山陽新幹線(岡山駅以西)1982年(昭和57年)6月23日東北新幹線(盛岡駅以南)320 km/h(宇都宮駅 - 盛岡駅間)1982年(昭和57年)11月15日上越新幹線275 km/h1992年(平成4年)7月1日山形新幹線在来線ミニ新幹線130 km/h130 km/h1997年(平成9年)3月22日秋田新幹線1997年(平成9年)10月1日北陸新幹線(長野駅以南)[注 2]新幹線整備新幹線260 km/h260 km/h2002年(平成14年)12月1日東北新幹線(盛岡駅以北)2004年(平成16年)3月13日九州新幹線2015年(平成27年)3月14日北陸新幹線(長野駅以北)2016年(平成28年)3月26日北海道新幹線2022年(令和4年)9月23日西九州新幹線2024年(令和6年)3月16日北陸新幹線(金沢駅以西)2027年(令和9年)予定中央新幹線リニア新幹線(建設中)505 km/h[12]
詳細な路線一覧は「路線」節を参照
呼称[編集]
「新幹線」という呼称は、かつての鉄道省が東京と下関を結ぶ高速鉄道計画に対して、遅くとも1939年(昭和14年)の時点で用いていた用語である[13](ただし、この計画については当時の世相を踏まえて「弾丸列車」と呼ばれることの方が多かった)。さらに以前の大正期には「新しい幹線交通」を指す用語として「新幹線」の用語が用いられていたという[13]。
法律上、最初に「新幹線鉄道」の語が現れるのは、昭和39年6月22日法律第111号「東海道新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法」(現「新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法」)である。東海道新幹線は在来線である東海道本線の線増として建設されたために「東海道新幹線鉄道」とされた。
『新幹線』という名称は、東海旅客鉄道・東日本旅客鉄道・西日本旅客鉄道の3社名義にて、複数の分野で商標登録されている。例えば「鉄道による輸送」では第3066558号である。
日本国内の駅内の案内板等の英語表記では、路線を指す場合は「しんかんせん」のローマ字表記である Shinkansen を使用し、列車名(便名)を表す場合は、各駅に停車する列車も含め、かつて「ひかり」の種別として用いられていた「超特急」の直訳である Superexpress を愛称名の後ろに付けて「NOZOMI Superexpress」などと表現している。これは特急(特別急行列車、Limited express)と急行列車(Express)を異なる種別として認識し、さらに新幹線を(通常の)特急とも区別しようとする日本独特の表現とも考えられる[14]。
日本国外において新幹線について言及する際は「Shinkansen」と表記される一方で、戦前からの計画名称である「弾丸列車」の直訳である「Bullet train」の表現を用いることがある。例えば、1975年(昭和50年)に日本で公開され、翌年アメリカで公開された映画『新幹線大爆破』の英題の1つも "The Bullet Train" であり、2022年公開の新幹線を舞台にしたブラッド・ピット主演の映画タイトルも「ブレット・トレイン」(Bullet Train) である)。
主要技術[編集]
新幹線鉄道は、その大部分の区間において200 km/hを超える速度で運行するため、在来線鉄道とは異なったさまざまな技術が用いられている。速度のみならず、乗り心地や安全面でも世界的に見ても非常に高い水準が確保されている。
路線・軌道設備[編集]
路線は、在来線と別ルートで新規に建設した線路設備を用いる。設備の構造については省令の「新幹線鉄道構造規則」に規定されている。在来線を改良したミニ新幹線と区別するため、「フル規格」とも呼ばれる。
軌間は標準軌 (1,435 mm) を用いている。ただし標準軌が「新幹線」の法的な条件というわけではなく[15]、軌間に狭軌 (1,067 mm) を用いつつ高速走行を可能とした「新幹線」もありえる[15]、こうした方式の新幹線を新幹線鉄道規格新線(スーパー特急)し、この方式で建設に着手された路線もある(ただしいずれも建設途中で標準軌規格に変更されており、スーパー特急方式で開業した新幹線路線は存在しない)。
カーブにおける曲率半径を大きくし、できる限り直線を確保する。本線区間における最小曲率半径は東海道新幹線が2,500 m[16][17]、山陽新幹線以降に建設された各線は4,000 m[16][17]となっている。ただし、用地や地形の関係から急曲線とならざるを得ない区間では、その区間の列車速度により曲率半径400 mまで許容されている。さらに推定脱線係数比が一定以上か、脱線防止ガードを設置することで200 m以上の曲率半径をとることもできる。東海道新幹線の東京 - 新横浜間や東北新幹線の東京 - 大宮間のような都心部区間は、曲率半径が400 mから2,000 m程度の急曲線が含まれている。
勾配は高速走行の妨げになることから最急勾配を15 ‰までとするが、延長2.5 km以内に限り18 ‰・2.0 km以内に限り20 ‰とする。用地や地形の関係から規定以上の勾配を必要とする区間では特別認可の形で設置されており、東北新幹線東京 - 大宮間では25 ‰、北陸新幹線では30 ‰、九州新幹線鹿児島ルートでは35 ‰の勾配が含まれている。
事故防止のため以下の設計を行う。
自動車との衝突事故を防ぐため、踏切を一切設けない。
線路内に一般の人が立ち入れないようにする。前項も含めた対策として全線立体交差とする。また、列車の運行妨害等に対しては法律面でも「新幹線特例法」によって在来線より厳しい罰則を定めている。
通過列車との接触など人身事故を防ぐため、プラットホームに可動ゲート付きの安全柵(以下、ホームドア)を設ける(例:新横浜駅や新神戸駅など)か、通過線と待避線を分ける(例:静岡駅、福島駅など)。ただし、通過列車の通過速度が低い駅(例: 上野駅)には安全柵のみ設けられているか、安全柵が設けられていない場合もある。また、東海道新幹線・山陽新幹線の東京駅や名古屋駅、京都駅、新大阪駅、岡山駅、広島駅、小倉駅、博多駅など、全列車が停車する駅には当初柵などは設けられてはいなかったが、後に安全柵ならびに一部の駅でホームドアが設けられた。また、東海道新幹線では、静岡駅や浜松駅など、通過線と待避線が分かれていながら安全柵が設置されている駅もある。九州新幹線鹿児島ルートでは全列車が停車する熊本駅、鹿児島中央駅や通過列車が使用しない副本線のホームも含め、開業当初から全ての駅の全てのホームにホームドアが設置されている。東北新幹線の新青森駅でも全てのホームにホームドアが設置されている。
東北新幹線の盛岡駅以南では、ミニ新幹線で使われている在来線規格の車両とフル規格対応のホームとの間に隙間が生じるため、駅停車時にホーム側へ張り出すステップを車両に設置したり、ホームにドア付近以外での転落を防止するための安全柵を設けたりする対策がなされている。
新幹線の駅間距離は、中距離・長距離輸送を主とすることから、原則として在来線より長く取られている(30 - 40 km程度)。
高速運転で駅間距離が長く、より迅速で的確に情報伝達を行うため、列車無線を開業当初から採用している。
信号システム[編集]
地上装置と車上装置からなる自動列車制御装置 (ATC) と列車集中制御装置 (CTC) を備えている[18]。ATCは、地上装置に沿線の20-30kmの間隔に信号機器室を設けて、そこから信号ケーブルを介して軌道回路に信号電流を流し、車上装置にそれを受電器で受信して運転室内に運行指示(許容速度)が表示され[注 3][18]、その速度を超えれば自動的にブレーキが作用するもので[18]。自動ブレーキが作動するのは営業最高速度やカーブなどの速度制限を超えようとした時、先行列車に接近した時、駅に停車するために減速する時などである。駅停車時は15 - 75 km/h以下の低速時になると手動でブレーキ弁を操作して列車を停止位置目標に停止させるが、目標の少し先で停止するようなパターンが作成されるか(TASCではない)、または目標の先方50 mで強制的に非常ブレーキが掛かる区間になっており、過走を防止している。これは地上の信号機を車上から目視確認して運転することは(気象状況によっては)困難となる[18]ほどの高速運転を行うためである。また故障による影響を最小限とするため、同じ機能を持つシステムを3系統備えており、そのうち1系統が故障しても3者の多数決の原理で残った2系統で正常に作動し運転を続行できるようになっている[19]。
CTCは、列車の位置と列車番号の表示や各駅の分岐器を運転指令所で一括管理と制御を行うもので、これですべての列車の運行状況を一括管理している。現在では列車運行管理システム (PTC) も導入されており、通常の分岐器操作や信号制御、駅自動放送から車両の管理整備、輸送障害時の復旧ダイヤの作成に至るまで、あらゆる業務がコンピュータによって高度にシステム化されている。
電源方式[編集]
単相交流25,000 Vで電力を供給する。饋電(きでん)方式については、東海道新幹線開業当初はBT方式であったが、現在では他の新幹線と共にAT方式に統一された。電源周波数は以下の通り。
東海道新幹線では60 Hzに統一して給電している。静岡県の富士川を境に50 Hz(東側)と60 Hz(西側)の電源周波数区分が異なるが、50/60 Hz を共用とした場合 約 2.7t の車体重量増加が見込まれ将来的な経済性なども考慮し[20]、当初から山陽方面への延長を構想していたため全線で60 Hzに統一し、車両側の特高圧機器の簡素化を図っている。なお、電源周波数区分50 Hzの地域では周波数変換所が設けられ、新幹線電源用に60Hzに変換している。
北陸新幹線は軽井沢駅 - 佐久平駅、上越妙高駅 - 糸魚川駅と糸魚川駅 - 黒部宇奈月温泉駅の計3か所に50/60 Hzの切り替えセクションが存在[21]し、車両側も50/60 Hzの双方に対応している。
上記以外の各新幹線は沿線地域と同じ電源周波数で、山陽・九州は60 Hz、東北・上越・北海道は50 Hz。
いずれの電気方式においても、変電所間での位相(北陸新幹線においては周波数)の相違を解決する必要があるが、高速を維持するため連続力行運転を行うことから、変電所の饋電区間の境界は、在来線のようにデッドセクション(アーク発生防止のため惰行で通過する)ではなく、地上切替方式を採用している。切替区間はエアーセクションで区分され、その前後の変電所の双方から饋電でき、最初は進入側の変電所から饋電し、列車が切替区間に入ったことを検知すると進出側の変電所からの饋電に切り替える。この間はおよそ0.5秒程度であり、乗客が切替を感知することはほとんどない。
送電側の系統障害を避ける必要から[注 4]、スコット結線変圧器や変形ウッドブリッジ結線変圧器、ルーフ・デルタ結線変圧器を用いて三相交流から90度位相の異なる2組の単相交流が作られ[20]、それぞれ上り線と下り線に給電されている[22][23]。変電所の設置間隔は約 20 km 毎である[20]。
車両技術[編集]
詳細は「新幹線車両」を参照
新幹線では、動力を編成各車両に分散させる「動力分散方式」が採用されている。動力分散方式を採用することにより、電車方式と同様の、加減速性能の向上・軽量化・軌道への負荷軽減といった利点が追求されている。 また高速走行を行うため、列車編成内における電動車(動力車)の比率(MT比)が極力大きくされている。ブレーキは主電動機の発電抵抗を利用する電気ブレーキと、空気圧動作の摩擦による基礎ブレーキを併用するが、高速域からの減速には主に電気ブレーキが使用される。こうすることによって制輪子の磨耗を抑え、交換周期を延ばすことができる。
また、車両には気密構造が採用されている。高速運転時にトンネルに進入するなどの気圧変動による居住性の低下を防ぐためである。また、0系や100系など国鉄時代の東海道・山陽新幹線車両では車体の素材に普通鋼が使われていたためやや重かったが、東北・上越新幹線用の200系からは耐雪装備による重量増加を抑えるためアルミニウムが用いられて軽量化が図られた。国鉄民営化後に開発された新幹線車両はアルミニウム車体が一般化、さらにアルミ材の加工手法の発達により、製作費のコストダウンとさらなる軽量化の両立が図られた。この結果、国鉄時代に開発された初期新幹線車両より著しく軽量化されている。
一方で、JR発足以降積極的に行われた高速化に伴い、走行中のパンタグラフと架線の接触や風切り音による騒音の発生や、接触部の著しい消耗などが問題とされた。このため、0系では2両おきに付いていたパンタグラフが300系では8両毎に1つに減ったほか、500系では翼型と呼ばれるT字型の特殊な集電装置が設置されるなど改良され、騒音を抑えながら集電効率を向上させた。また、パンタグラフに流線型の突起物を取り付けるなどの改良も加えられた。その他、高速でのトンネルの突入時のトンネル内部の急激な気圧変化による騒音(トンネル微気圧波)の発生を抑えるための、走行時の空気の流動性やトンネル進入時の面積変化率を考えた先端車両の開発などが行われているため、初期の0系に比べ先頭車先端部が長く伸ばされるとともに、通常の電車とは著しく異なった形態(鋭い流線型やカモノハシのような形)を呈する傾向にある。
列車防護装置[編集]
高速走行を行うため、在来線と同じ信号炎管や軌道短絡器による列車防護(他の列車を停止させること)では他の列車が停止しきれない可能性が高まる。そのため、緊急時に他の列車を迅速に停止させられるように在来線とは異なる列車防護の方式が採られている。
車両側には保護接地スイッチ (EGS) が装備され、緊急時には乗務員が運転台の「保護接地入スイッチ」を押すことにより、他の列車を自動的に停止させることができる。
線路側には列車防護スイッチが、本線上には250 m間隔、ホーム上には50 m間隔で設置され、これを押すことでATC回路を停止信号にすることができる。
列車防護無線装置は車両には受信機のみが装備され、発信器は保線作業中に線路を支障させた場合、保安方式変更などでATCを使用していない列車を停止するため保線係員が携帯している。
在来線との直通[編集]
前述のとおり、新幹線は軌間や電圧、運行管理システムなど在来線と異なる技術基準が多く採用されており、基本的には他国の高速鉄道で行われているような在来線との直通運転はできない。しかし、新幹線列車を在来線に直通運転させる、あるいは在来線列車を新幹線規格の路線に走行させて利便性を確保しようとする研究が行われている。
現在唯一実用化されている技術で、全国新幹線鉄道整備法附則第6項第2号に定めるところの「新幹線鉄道直通線」、すなわち既存の鉄道路線に敷設された線路が新幹線と接続し、かつ新幹線の列車が省令で定める速度で走行できる構造を有する路線であり、在来線の線路を新幹線のものと同じ標準軌に改軌改良し、在来線の車両限界に合わせ、在来線の安全基準にも合致した車両で新幹線との直通運転を行う方式。山形新幹線の福島駅以北並びに秋田新幹線の盛岡駅以西がこれに該当する。
新幹線区間と標準軌在来線を直通する特急列車を新幹線直行特急という。
この方式で標準軌に改軌改良された在来線区間は、以下のような特徴がある。
法律や設備などの上では新幹線ではなく在来線である。ただし、営業上・案内上では「山形新幹線」「秋田新幹線」といった「新幹線」の呼称が用いられる。営業戦略上と地元への誘致効果がその理由である[24]。
最高速度は130 km/hに制限されている[25]。
完全立体交差化は行わず、踏切数を削減すると共に保安設備を強化している。
ミニ新幹線化された区間の全区間が改軌前より50 Hz・20,000 V交流電化された区間であったため、改軌後もこれをそのまま採用し、電圧は20,000 Vのままである。直通車両は複数電源対応としている。この場合の異電圧区間の接続はデッドセクションとなっている。
車両側の台車を1067 mm軌間と1435 mm軌間の両方に対応させる方式。
鉄道総合技術研究所(JR総研)により開発が進められているが、高速運転を前提とした導入には技術的障壁が多いことが明らかになっており(当該記事参照)、導入に至っていない。
新幹線鉄道規格新線(スーパー特急)
全国新幹線鉄道整備法附則第6項第1号に定められた方式で、新幹線規格の路盤上に在来線と同じ狭軌(1067mm軌間)の軌道を敷設する方式。200 km/hでの走行が可能とされ、在来線との直通が容易と考えられる。
これまでいくつかの整備新幹線がこの方式で着工されたが、建設途中ですべて標準軌(フル規格)に変更されて建設されたため、現段階においてはこの方式を採用した路線は存在しない。
なお、北海道新幹線のうち青函トンネルとその前後区間は、フル規格の新幹線路線に狭軌を併設した三線軌条とした上で、新幹線規格の電圧・信号システムに対応した在来線車両(EH800形機関車など)が走行できる「在来線(海峡線)との共用区間」として取り扱っている。
路線[編集]
まず1964年に東海道新幹線が開業し、これを延長する形で山陽新幹線の工事も始まり、1975年に博多駅まで全線開業した。
そして1970年には全国新幹線鉄道整備法が定められた。これによりまず東北・上越・成田の各新幹線の整備計画が決定し、続いて北海道新幹線、東北新幹線( 盛岡市- 青森市間)、北陸新幹線、九州新幹線鹿児島ルート、同長崎ルート(西九州ルート)の5線の整備計画も決定された(整備新幹線)。
整備新幹線以前に計画された路線は、計画が失効した成田新幹線を除き開業しており、整備新幹線の一部も開業している。しかしその一方で、基本計画が定められたまま着工の目処が全く立っていない路線も存在する。
東海道新幹線と山陽新幹線を併せて「東海道・山陽新幹線」、東北新幹線と上越新幹線を併せて「東北・上越新幹線」と呼ぶことがある。東海道・山陽新幹線は国鉄時代は一体的な運用がなされており、民営化後も多くの列車の相互直通運転が行われているため一括して扱われることが多い。1982年に東北・上越新幹線が開業するまでは単に「新幹線」と呼ばれることもあった。東北・上越新幹線は1982年に相前後して開業した東側のフル規格新幹線で、東海道・山陽新幹線のような一体的な運用はないが、一部の区間を共用するほか、車両やATCなどの運行システムが共通である。
このほか、東海道・山陽新幹線にならって相互直通運転がなされている新幹線同士を総称し、「東海道・山陽・九州新幹線」、「山陽・九州新幹線」、「東北・北海道新幹線」、「北海道・東北新幹線[26]」と呼ぶことがある。
営業中の路線[編集]
標準軌新線(フル規格)[編集]
以下の8路線が開業している。北陸新幹線・北海道新幹線・西九州新幹線は一部分のみの開業である。
名称起点終点営業キロ実キロ駅数開業年月日運営会社北海道新幹線[* 1]新青森駅新函館北斗駅148.8 km148.8 km42016年3月26日:新青森駅 ‐ 新函館北斗駅
北海道旅客鉄道(JR北海道)東北新幹線東京駅新青森駅713.7 km674.9 km23
東日本旅客鉄道(JR東日本)上越新幹線大宮駅新潟駅303.6 km269.5 km101982年11月15日
東日本旅客鉄道(JR東日本)北陸新幹線高崎駅上越妙高駅176.9 km176.9 km8
東日本旅客鉄道(JR東日本)上越妙高駅敦賀駅293.8 km293.8 km12
西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道新幹線東京駅新大阪駅552.6 km515.4 km171964年10月1日
東海旅客鉄道(JR東海)山陽新幹線新大阪駅博多駅644.0 km[* 2]553.7 km19
西日本旅客鉄道(JR西日本)九州新幹線[* 3]博多駅鹿児島中央駅288.9 km256.8 km12
九州旅客鉄道(JR九州)西九州新幹線[* 4]武雄温泉駅長崎駅69.6 km66.0 km52022年9月23日:武雄温泉駅 ‐ 長崎駅
九州旅客鉄道(JR九州)計3,066.7 km2,830.6 km975社
^ 北海道新幹線の新中小国信号場 - 木古内駅間(82.0 km)は海峡線と共用。
^ 山陽新幹線については、乗車券の有効期間の計算に使う岩徳線経由の営業キロでは618.5 km、運賃・料金計算に使われる同線経由の運賃計算キロは622.3 km。
^ 整備新幹線としては九州新幹線(鹿児島ルート)と称されていたが、開業後は単に「九州新幹線」として営業しており、時刻表や駅などに「鹿児島ルート」とは表記されない。
^ 整備新幹線としては九州新幹線(西九州ルート)や九州新幹線(長崎ルート)と称されていたが、開業後は「西九州新幹線」として営業しており、時刻表や駅などに「西九州ルート」や「長崎ルート」とは表記されない。
JR東日本とJR北海道は東北新幹線と北海道新幹線で、JR東日本とJR西日本は北陸新幹線で、JR東海とJR西日本は東海道新幹線と山陽新幹線で、JR西日本とJR九州は山陽新幹線と九州新幹線で、それぞれ相互直通運転を行っている。以前、山形新幹線用・秋田新幹線用の車両の一部は保有会社からの貸出であったが、現在はすべてJR東日本の所有する車両で運行されている。
東京駅では東海道新幹線と東北新幹線の線路が接続されていないため、博多や新大阪から新函館北斗まで(その逆も)直通列車で行くことはできず、東京駅での乗り換えが必要となる。国鉄時代の利用状況の調査で東京都内を通過する需要が非常に小さいということは判明していたが、当時博多・札幌開業の際には夜行列車の運転も計画されていた。そのため、全列車が東京駅での折り返すのであれば、ホームの容量は大幅に不足するとみられていた。そこで、両線を直通運転として東海道の列車は田端基地、東北・上越の列車は品川基地での折り返しとすることとして建設計画が立てられた。あわせて、田端以北に異周波デッドセクションを設けることが計画され、直通運転の試験車両として961形も製造された。実際に、東京駅の東海道新幹線14・15番線ホームは直通を想定して作られたため、ホームが東北新幹線側にカーブしている。それでも、東京駅のホーム容量が不足する状態となったときは、上越新幹線を大宮駅から新宿駅へ分岐させる構想としていた[27]。しかし、ダイヤの乱れが相互に波及し運転管理面に多くの問題が予想されること、周波数が、東海道・山陽新幹線:60 Hz・東北・上越新幹線:50 Hzと異なることや、東北・上越新幹線用のものには降雪対策が施された車体設計にしなければならない点などから、1996年に計画の中止が発表された[28]。計画については、「東北新幹線#東海道・山陽新幹線との直通運転」も参照。
新幹線直行特急(ミニ新幹線)[編集]
以下の2路線が開業している。過去には東北新幹線の盛岡以北および北陸新幹線の軽井沢以西もミニ新幹線として建設することが検討されたが、前者は地元の積極的な運動[29]、後者は長野オリンピックとの兼ね合いがあり最終的にはフル規格で建設された。
名称起点終点営業キロ駅数開業年月日正式路線名運営会社山形新幹線福島駅新庄駅148.6 km111992年7月1日:福島駅 - 山形駅
1999年12月4日:山形駅 - 新庄駅奥羽本線(山形線)
東日本旅客鉄道(JR東日本)秋田新幹線盛岡駅秋田駅127.3 km61997年3月22日田沢湖線:盛岡駅 - 大曲駅
奥羽本線:大曲駅 - 秋田駅
東日本旅客鉄道(JR東日本)
新幹線規格在来線[編集]
新幹線の回送線で旅客扱いを行う区間。距離が短く高速運転を行わないなどといった理由で在来線扱いとされているが、車両や設備は新幹線のものであるため、これらの路線を走る列車は一般の「特急列車」扱いとされ、乗車の際には乗車券のほかに特急券を要する。
名称起点終点営業キロ駅数開業年月日運営会社上越線(支線)[* 1]越後湯沢駅ガーラ湯沢駅1.8 km21990年12月20日
東日本旅客鉄道(JR東日本)博多南線[* 2]博多駅博多南駅8.5 km21990年4月1日
西日本旅客鉄道(JR西日本)
^ 上越線支線は保守用の引き込み線を旅客線化したもの。通称・ガーラ湯沢支線。時刻表には運行上の形態にあわせ「上越新幹線」で掲載されており、「上越線」では掲載されていない。
^ 博多南線は車両基地(博多総合車両所)への回送線を旅客線化したもので、路線の大半が九州新幹線鹿児島ルートとの共用。全列車が、JRでは唯一列車愛称がない特急列車。
新幹線では通常、東京駅 - 上野駅間や東京駅 - 品川駅間などの短距離区間であっても、自由席特定特急料金として870円が必要となる。しかし上記の区間は在来線特急扱いであるため、特定特急料金がJRの特急料金では最低の100円となる。
新幹線鉄道規格新線[編集]
北陸新幹線と九州新幹線鹿児島ルート・西九州ルートのそれぞれ一部区間は、当初この方式で着工されたが、後に標準軌新線(フル規格)に変更されたため、この方式で開業した新幹線路線は存在しない。
以下の路線は通常の在来線として開業したが、将来の新幹線路線の敷設を考慮し、車両限界等が新幹線規格で建設されている。なお、海峡線の新中小国信号場 - 木古内駅間 (85.5 km) は2016年(平成28年)3月26日から北海道新幹線と共用されている。
名称起点終点営業キロ開業年月日運営会社海峡線中小国駅[* 1]木古内駅87.8 km1988年3月13日
北海道旅客鉄道(JR北海道)本四備讃線茶屋町駅児島駅12.9 km1988年3月20日
西日本旅客鉄道(JR西日本)児島駅宇多津駅18.1 km1988年4月10日
四国旅客鉄道(JR四国)
計画路線[編集]
1970年(昭和45年)5月18日に公布された全国新幹線鉄道整備法に基づき基本計画線が挙げられたが、オイルショックや国鉄の経営悪化などの影響を受けて、以下の新幹線の着工は見送られた。このうち整備新幹線は平成に入って着工したが、基本計画のまま着工の目処が全く立っていない路線も存在する。この区間については建設を望む声が根強く残っている区間や、フリーゲージトレインによる新幹線との直通運転が提案されている区間も存在する。
整備計画路線[編集]
1973年(昭和48年)11月13日に整備計画が決定したいわゆる「整備新幹線」と、2011年(平成23年)5月26日に整備計画が決定した中央新幹線がある。
整備新幹線名称起点終点線路延長開業予定状況営業主体北海道新幹線新函館北斗駅札幌駅211.5 km2030年度建設中
北海道旅客鉄道(JR北海道)北陸新幹線敦賀駅新大阪駅131.0 km2046年頃未着工
西日本旅客鉄道(JR西日本)九州新幹線
(西九州ルート)新鳥栖駅武雄温泉駅未着工
九州旅客鉄道(JR九州)
名称起点終点線路延長開業予定状況営業主体中央新幹線[* 1]品川駅名古屋駅285.6 km2027年以降建設中
東海旅客鉄道(JR東海)名古屋駅新大阪駅約152 km2037年〜2045年未着工
基本計画路線[編集]
名称起点終点線路延長北海道新幹線北海道札幌市北海道旭川市約130 km北海道南回り新幹線北海道山越郡長万部町北海道札幌市約180 km羽越新幹線富山県富山市青森県青森市約560 km奥羽新幹線福島県福島市秋田県秋田市約270 km北陸・中京新幹線福井県敦賀市愛知県名古屋市約50 km山陰新幹線大阪府大阪市山口県下関市約550 km中国横断新幹線岡山県岡山市島根県松江市約150 km四国新幹線大阪府大阪市大分県大分市約480 km四国横断新幹線岡山県岡山市高知県高知市約150 km東九州新幹線福岡県福岡市鹿児島県鹿児島市約390 km九州横断新幹線大分県大分市熊本県熊本市約120 km
未成線[編集]
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1971年(昭和46年)1月18日、昭和46年告示第17号により基本計画が公示された。1974年(昭和49年)に着工したが、オイルショックの影響や、用地取得の困難、沿線自治体の建設反対運動が激しかったこともあり、1983年(昭和58年)に工事は中止され、その後1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に伴い、基本計画が失効した。建設済みの施設は成田空港高速鉄道線(成田線空港支線)に転用され、新幹線の東京駅が建設される予定であったスペースには京葉線東京駅が後に建設された。なお、元神奈川県知事の松沢成文や、公約に「羽田・成田リニア新線構想」を掲げて当選した千葉県知事の森田健作がリニア検討委員会の発足を検討している[30]。
リニアモーターカーで建設される計画であったが、前述した中央新幹線の計画(山梨リニア実験線の活用)と統合された。
上越新幹線は線路容量とターミナル容量から、当面新宿駅 - 大宮駅間の工事実施計画申請は行わない[31]こととし、東北新幹線に乗り入れとなったが、新宿駅地下にもスペースが確保されていた[注 5]。1973年(昭和48年)7月12日、参議院運輸委員会において内田隆滋国鉄理事は、「大宮と東京の間は新幹線が二本要る、それを施行する場合、地元の御要望もございまして、いわゆる現在の計画している新幹線と通勤線とを併設いたしまして、現在の貨物線にもう一本の新幹線を通すという計画をいたしたわけでございます。」と答弁している。また1973年(昭和48年)9月4日、参議院運輸委員会において磯崎叡国鉄総裁は「東北、上越あるいは北陸を東京都内に入れる際に、東京都から、東京駅に集中しないでほしいという強い御要請がございました。その際に、私どももそれを受けまして、東北、上越の認可を大臣からいただきます際には、将来そのターミナルを東京駅以外のところに持っていきたいということをつけ加えて大臣の御承諾を得ております。その際に、やはりその第一候補となるのは新宿でございます。」と答弁している。なお、1971年(昭和46年)9月15日付け読売新聞では、「国鉄、鉄建公団では、51年の開通当初は東北、上越両線を東京駅から大宮駅付近まで併用とし、新宿駅完成後に東北新幹線は東京駅、上越新幹線は新宿駅に分離したい考え。東京駅を出た列車は、高架から秋葉原付近でいったん地下にもぐり、田端付近でカオを出すが、分離後の上越新幹線は、この田端を分岐点に、山手貨物線あとをたどり新宿駅と結ばれる。さらに新宿から山手貨物線あとを延長し大崎付近で東海道新幹線と直通させる計画も出ている。 」とし、1973年(昭和48年)3月11日付け毎日新聞においては、「来年10月の武蔵野線全面開通に伴い不要化する東北本線の貨物線と山手貨物線の敷地を使い、大宮-赤羽(以上東北本線)赤羽-池袋-新宿(以上山手貨物線)というコースをとる」とされている。整備新幹線開業後の大宮 - 東京間および東京駅の容量逼迫に備えてこの区間の建設を再開すべきだという意見がある。ただし、埼京線高架沿いの空き地は「都市施設用地」と呼ばれる都市施設(道路、公園等)を計画したものであり、延伸のために確保された用地ではなく、国鉄が先行取得し、いずれ、戸田、浦和、与野、大宮の4市(浦和市、与野市、大宮市は現・さいたま市)に売却することとされている[32][33]。また、前記の「不要化する貨物線」とされている線路については現在東北・上越新幹線と並行する東北本線(宇都宮線)・高崎線の一部列車(湘南新宿ライン)が、更に池袋駅以南は埼京線も乗り入れ、重要な通勤路線として再活用されており、上越新幹線への転用は困難となっている。他方、2017年(平成29年)1月12日付け信濃毎日新聞では「JR東日本は、巨額の投資が必要な大宮以南の線路増強について慎重だ。「現有の新幹線設備を有効活用することで、利用状況を踏まえた列車本数を確保できると考えている」(広報部)とする。今後、需要が増える場合には「大宮発着の列車の運行などを必要に応じて検討していくことになる」との立場だ。」としている。鉄道総合技術研究所の小野田滋は「このルートは工事費が巨額となることから現実的ではないと判断され打ち切られ」[34]たとしている。
列車名[編集]
新幹線の列車名(列車愛称)は、東海道・山陽・九州新幹線では速度別につけられている。JR東日本の山形・秋田新幹線およびJR九州の西九州新幹線は列車名が単一である。JR東日本の北陸新幹線とJR九州の九州新幹線も部分開業時は列車名が単一であった。JR東日本の新幹線では、E1系・E4系「Max」を使用する場合は列車名の前に「Max」が付いていた。
現行の列車名[編集]
東海道・山陽新幹線
「のぞみ」
現行の東海道・山陽新幹線の最速列車で、「ひかり」「こだま」とは異なる料金体系である。1992年3月14日に運行開始された。N700系、N700S系が使用される。過去には300系、500系、700系も使用されていた。
「ひかり」
主要駅停車の列車。各駅停車ではないが、「のぞみ」に比べ停車駅が多く、料金体系も異なる。東海道新幹線開業当初から運行されており、当初は大都市駅のみに停車し、各駅停車の「こだま」に対して超特急の代名詞であった。その後、運行本数の増加に伴い、主要駅のみ停車する速達タイプ、乗降客数の少ない駅にも停車するタイプ、一部の区間で各駅に停車するタイプなど停車駅が多様化し、「のぞみ」が加わった以降では「のぞみ」でも「こだま」(各駅停車)でもない列車という位置づけになっている。山陽新幹線では"ひかりレールスター"と呼ばれる、顧客ニーズに応える形で登場した列車も運行されている。過去には"ウエストひかり"や"グランドひかり"などもあった。「のぞみ」と違い、一部区間が各駅停車となる列車もある。N700系・N700S系・700系(山陽新幹線のみ)が使用される。過去には0系、100系、300系、500系も使用されていた。
「こだま」
各駅停車の列車で、「ひかり」と同様、東海道新幹線開業当初から運行されている。全区間にわたって運行されているが、東海道区間と山陽区間(新大阪駅)を跨ぐ列車はない。早朝や深夜には普通車が全車自由席の列車や、グリーン車なしで全車自由席の列車も運行される。N700系、N700S系が使われるほか、山陽新幹線では500系(8両編成)、700系、N700系7000番台・8000番台を使用する列車がある。2008年11月30日までは0系、2012年3月までは100系・300系も使用されていた。
山陽・九州新幹線
「みずほ」
新大阪駅 - 鹿児島中央駅を結ぶ最速列車。九州新幹線内では久留米駅(一部列車のみ)・熊本駅・川内駅(一部列車のみ)・鹿児島中央駅に停車する。朝夕を中心に運転される。新大阪駅 - 鹿児島中央駅間を最速3時間41分で結ぶ。山陽新幹線内では「のぞみ」並みの所要時間で、料金体系も「のぞみ」と同一である。N700系7000番台・8000番台を使用。
「さくら」
主要駅停車の列車。山陽・九州新幹線の直通列車と、九州新幹線内のみ運行する列車がある。山陽新幹線内では「ひかり」並みの所要時間で、料金体系も「ひかり」と同一である。九州新幹線内では熊本駅 - 鹿児島中央駅間(熊本駅発着の1往復は博多駅 - 熊本駅間)が各駅停車となる列車もある。N700系7000番台・8000番台と800系を使用する。なお、800系は九州新幹線内のみを運転する一部列車で使用される。
「つばめ」
各駅停車の列車。ほとんどが九州新幹線内のみの運行で、早朝・深夜を除いて博多駅 - 熊本駅間の運行であるが、朝に山陽新幹線直通の熊本発小倉行きが1本運行されている。主に800系を使用するが、一部列車はN700系7000番台・8000番台も使用する。
西九州新幹線
「かもめ」
運行区間・停車パターンに関係なく全ての列車に「かもめ」の愛称が使用される。武雄温泉駅で「リレーかもめ」[注 6]と同一ホーム対面乗り換えを行っている。N700S系8000番台を使用する。
東北・北海道新幹線
「はやぶさ」
東京駅 - 仙台駅・盛岡駅・新青森駅・新函館北斗駅間を結ぶ最速列車。2011年3月5日に運行開始した。E5系、H5系を使用する。東北新幹線の他の列車とは異なる料金体系をとる。早朝・夜間の一部を除き全車指定席で、グリーン車のほかに、グランクラスがある。ただし一部の「はやぶさ」のグランクラスはシートのみの営業となる。
「はやて」
盛岡駅・新青森駅 - 新函館北斗駅間を運行するが、臨時列車としては東京駅 - 新青森駅間で大宮駅 - 仙台駅間ノンストップの列車が運行される場合もある。2002年の八戸開業時に東京駅 - 八戸駅間を結ぶ列車として運行開始された。前述の「はやぶさ」の登場および運行本数拡大によって少数派となったが、2014年11月20日の発表では、北海道新幹線開業以降も存続することとなっている[35][36]。早朝・夜間の一部を除き全車指定席。E5系、E2系が使用されている。E5系を使用する列車にはグランクラスが連結されているが、一部列車のグランクラスは非営業となる。
「やまびこ」
盛岡駅以南を走る列車で、下記の「なすの」を除くもの。仙台駅以南では主要駅停車、以北では各駅停車が多い。全区間各駅停車の列車もある。東北新幹線開業当初から運行されており、当初は各駅停車の「あおば」に対して主要駅停車もしくは一部区間で各駅停車の列車という位置づけであった。E5系、E6系、E2系を使用。E5系を使用する列車にはグランクラスが連結されているが、一部列車のグランクラスはシートのみの営業または非営業となる。
「なすの」
東京駅 - 那須塩原駅・郡山駅間を走る各駅停車の列車。E5系、E6系、E2系が使用される。2010年までは増結用として400系も使用された。E5系を使用する列車のグランクラスはシートのみの営業となる。
山形新幹線
「つばさ」
山形新幹線開業時から運行されており、停車駅や使用車両に関係なく、山形新幹線内を通るすべての新幹線列車にこの愛称が付けられている。E3系1000番台および2000番台を使用し、福島以南は基本的にE2系「やまびこ」と併結(一部は単独運転する)。2010年までは400系も使用され、過去には200系「やまびこ」やE4系「Maxやまびこ」と併結していた。
秋田新幹線
「こまち」
秋田新幹線開業時から運行されており、停車駅や使用車両に関係なく、秋田新幹線内を通るすべての新幹線列車にこの愛称が付けられている。E6系を使用し、盛岡以南は基本的にE5系「はやぶさ」と併結。2014年3月まではE3系も使用され、過去には200系「やまびこ」やE2系「やまびこ」→「はやて」、E5系「はやて」と併結していた。全車指定席。
上越新幹線
「とき」
越後湯沢駅以北を運行する列車。ほとんどが東京駅 - 新潟駅間で運行されている。主要駅停車の列車と各駅停車の列車がある。E2系、E7系を使用。過去には200系、E1系、E4系も使用されていた。上越新幹線開業時から運行されており、開業当初は、主要駅停車の「あさひ」に対し、各駅停車の列車名として使用されていた。1997年10月1日に「たにがわ」「あさひ」への統合で消滅したが、東京駅から高崎駅まで同じ区間を運行する「あさま」との混同を防止するため、2002年12月1日のダイヤ改正で「あさひ」からの改称という形で復活した。
「たにがわ」
越後湯沢駅(スキーシーズンはガーラ湯沢駅)以南を走る列車。使用車両は「とき」と同じ。定期列車は一部列車以外は各駅停車で[注 7]、普通車全車自由席の列車もある。冬季には一部の途中駅を通過するガーラ湯沢駅発着の臨時列車も設定されている。
北陸新幹線
「かがやき」
東京駅 - 金沢駅・敦賀駅間直通列車のうち、主要駅に停車する速達タイプ。E7系、W7系を使用。グランクラスを設定。全車指定席。
「はくたか」
東京駅 - 金沢駅・敦賀駅間直通列車のうち、停車タイプ。北陸新幹線内のみ運行の金沢発長野行きが夜に1本運行されている。使用車両は「かがやき」と同じE7系、W7系を使用。グランクラスも設定されている。
「あさま」
東京駅 - 長野駅を結ぶ列車。E7系、W7系を使用し、グランクラスはシートのみの営業。過去にはE2系、臨時列車で200系、E4系が使用されたこともあり、E4系使用の場合「Maxあさま」の名前が付いた。
「つるぎ」
富山駅 - 敦賀駅間で運転されるシャトルタイプの列車。使用車両は「かがやき」「はくたか」と同じ。グランクラスはシートのみの営業。
かつて使用されていた列車名[編集]
東北新幹線
「あおば」
各駅停車の列車。1997年10月1日のダイヤ改正で「なすの」・「やまびこ」へ統合して消滅した。
上越新幹線
「あさひ」
速達型列車として設定されたが、長野新幹線開業後は越後湯沢駅以北の区間を走行する列車の統一名称となった。「あさま」と名称が紛らわしいため、2002年12月1日のダイヤ改正で「とき」と改称された。ただし、前述の「たにがわ」に該当する列車は、それ以前から改称されていた。
秋田新幹線
「スーパーこまち」
E3系0番台からE6系への置き換えの過渡期に設定された愛称。E6系で東北新幹線を300 km/hで運行する列車を区別するためのもので、E6系への置き換えが完了した2014年3月15日のダイヤ改正で全て「こまち」に戻された。
歴史[編集]
経緯・背景[編集]
戦前における高速鉄道[編集]
日本の鉄道は明治時代の草創期にコストの面から狭軌を採用したため、その規格の低さに加えて地形的な事情から勾配や曲線が多いなどの制約を受け、欧米の鉄道のような高速運転とは無縁であった。最高速度は1910年代から1950年代まで100 km/h以下に留まっていた。
そこで標準軌に改軌する提案も、明治から大正にかけて何度か出されていたが、政争や予算問題などから結局実現しなかった(日本の改軌論争も参照)。
また1910年代には、東京 - 大阪間に電車による高速新路線「日本電気鉄道」を敷設する計画が民間から出されたが、国の許可するところとならず、実現には至っていない。
日本における現実的な高速列車開発は、日本の勢力下にあった満洲(現在の中国東北部)を縦断する南満洲鉄道(満鉄)に始まる。同社は日本の資本と技術により運営されており、ほとんどの幹部・技術者が日本人で、実質的に日本の鉄道と言っても過言ではない。
当時の満鉄は電化以前の鉄道で蒸気機関車牽引であったが、1,435 mmの国際標準軌(日本では広軌と称した)を用いた高規格路線であり、保守的な日本内地の鉄道省とは一線を画した先進的な試みを早くから行っていた。
1934年(昭和9年/康徳元年)、満鉄は自社設計によって当時の欧米の潮流に互した流線形蒸気機関車「パシナ形」を開発、これに新開発の流線形客車編成を組み合わせ、大連 - 新京(現・長春)間701 kmに特急「あじあ」号を運転開始した。この列車は最高速度120 km/h以上を誇り、最高95 km/hに留まる鉄道省の列車をはるかに凌駕した。所要8時間30分、表定速度は82 km/hに達した。
とはいえ、当時の欧米の鉄道はさらに上を行っていた。例えばイギリスのロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)がロンドン- エディンバラ間に運転していた特急列車「フライング・スコッツマン」は、蒸気機関車牽引で最高速度160 km/h以上での営業運転を行っており、ドイツ国鉄では気動車列車「フリーゲンダー・ハンブルガー」が150 km/h 以上の高速で営業運転していた。さらにアメリカの私鉄各社には、定期運転列車を牽引して、最高速度は優に180 km/hに達する蒸気機関車さえ存在していたのである。
「あじあ」号は全客車冷暖房完備など世界の最先端を行っていた部分もあったが、120 km/h運転そのものは、当時の欧米の主要幹線での標準的な水準に達したものでしかなかった。
この技術が、日本本土の鉄道に直接生かされることはなかった。しかし満鉄関係者には鉄道技術者の島安次郎がおり、その長男の島秀雄と共に後述する「弾丸列車計画」を推し進めることになる。
なお、前述した日本電気鉄道のように、民間による大規模な都市間電車は実現しなかったが、中近距離の都市間電車に関しては、新京阪鉄道[注 8]や阪神急行電鉄、参宮急行電鉄、阪和電気鉄道のように、アメリカのインターアーバンの技術を取り入れるなどして実現させた所もあった。これら路線の多くは、既存の鉄道線と競合する形で敷設されたものとなっており、「(既存の並行線よりも)高規格な路線において、高速運転を行うこと」がその建設目的となっていた。「新しい高規格線を敷く」という意味では、新幹線に通じる所もある。
その中でも、参宮急行電鉄が転じた関西急行鉄道は途中に伊勢中川駅での乗り換えこそあるものの、大阪と名古屋という中距離の2大都市間(当時の営業キロで189.5 km)を電車で結ぶことに成功しており、また阪和電気鉄道は「あじあ」号の水準に匹敵する、表定速度81.6 km/hの「超特急」を狭軌路線で運転していた。
これらの私鉄で用いられた電車はハイレベルな仕様の車両が多く(新京阪P-6形、参急2200系、阪和モヨ100形など)、後述する国鉄における動力分散方式の開発にも、いくらか影響を与えている。
弾丸列車計画[編集]
詳細は「弾丸列車」を参照
1930年代に入ると、満洲事変や日中戦争の激化などにより、日本から中国や満洲国へ向かう各種物資輸送需要の激増で、東海道・山陽本線の輸送量も増大した。
このころ鉄道省内部に「鉄道幹線調査会」が設立され、主要幹線の輸送力強化についての検討が行われた。ここから抜本的な輸送力増強手段として1939年に発案されたのが「弾丸列車計画」であった。
これは、東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1,435 mm・標準軌)の新路線を建設し、最高速度200 km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、東京 - 大阪間を4時間、東京 - 下関間を9時間で結ぶことを計画したものであった。この計画は翌1940年(昭和15年)9月に承認され、建設工事が始められることになった。
すでにこの時点で、新しい幹線を敷設するということから「新幹線」や「広軌新線」という呼称を内部関係者は用いていた。「新幹線」の語はここが起源であるとされている。
また将来的には対馬海峡に海底トンネルを建設して、統治下である朝鮮半島へ直通、釜山から奉天(現:瀋陽)を通り満洲国の首都新京(現:長春)、さらには北京・昭南(現:シンガポール)に至る、という構想も一部では描かれていた。
当時の鉄道では、日本においてもまだ機関車が客車を牽引する方式が一般的であったうえ、完全電化したものの、発電所が敵国からの攻撃を受けた場合の対処について軍からクレームを受けたために、「弾丸列車」も電気機関車と蒸気機関車を併用する方式で計画された。
1941年12月の太平洋戦争勃発後も工事は続けられ、日本坂トンネルや新丹那トンネルが、1942年には東山トンネルの工事が着工したが、最終的には戦況の悪化で中断した(その後再開され新幹線に利用)。しかし、そのルートの相当部分が後の東海道新幹線建設で役立てられた。特に、土地買収が戦時中の時点で半ば強制的な形で相当な区間において終わっていたことは、新幹線建設をスムーズにした。
この弾丸列車計画の技師たちが居住した地として、静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が、東海道新幹線の開業前から存在した。
動力分散化への流れ[編集]
太平洋戦争終結後数年間、鉄道をも含めて混乱の極みにあった日本も、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争以降本格的に復興し、鉄道の都市間輸送需要も急激に伸張していった。
旧日本軍の研究部門や軍需企業、旧南満洲鉄道に所属し、戦後その職を失ったり技術を持て余していた優秀な人材を、昭和20年代の国鉄が多数獲得したことは見逃せない事実である。高速走行中の車両の振動や、空力特性の研究は、旧軍出身技術者の存在によって大きく進展した。
1955年(昭和30年)に国鉄総裁に就任した十河信二は、国鉄出身の卓越した技術者であるが一時民間にあった島秀雄を再度招聘し、国鉄技師長に就任させた。彼らを中心とする人々が、その後新幹線計画を推進することになる。
地盤が悪く山がちな日本において列車を高速運転するには、機関車が客車を牽引する「動力集中方式」よりも、電車・気動車のように編成の各車両に動力を持たせる「動力分散方式」の方が適している。カーブや勾配の多い条件でも加減速能力に優れ、また線路への負担が小さいため、脆弱な地盤に敷かれた線路でも高速を出せるからである。当時は蒸気機関車主流の時代であり、また国際的に見ても主流であることから、国鉄部内でも動力集中式に固執する者が多かったが、島秀雄は例外的に戦前から動力分散方式の特性を理解し、研究していた。
島は1951年(昭和26年)に事情によって国鉄を離れていたが、彼の指揮の下で1950年(昭和25年)に開発された東海道線普通列車用の80系電車は、短距離向けと見られていた電車が、長距離運転にも優れた特性を発揮するという事実を実証し、その後国鉄の在来線に電車・気動車の普及を進める原動力となった。島の復帰以降、国鉄の動力分散化の流れはさらに加速する。
1950年代の高性能電車の出現[編集]
日本では1953年(昭和28年)以降、欧米からの新技術移入や国内メーカーの技術開発に伴い、電車の高性能化の動きが始まった。
この過程で、振動を抑制し、乗り心地改善と高速運転に資する「カルダン駆動方式」と高速対応の新型台車、床面シャーシだけでなく側板や天井にも応力を分散させた「全金属製軽量車体」、全車両にモーターを搭載して加速力を高める「全電動車方式」、反応速度が速い上に取り扱いが容易な「電磁直通ブレーキ機構」、制御装置1台を2両の電動車で共用して軽量化やコストダウンを実現する「1C8M方式(MM'ユニット方式)」など、それ以前の電車とは一線を画する重要な革新的技術が、1953年(昭和28年)からわずか数年の間に実用化された。
この結果、高速性能・加減速性能に優れ、しかも居住性の良い高性能電車が、1954年(昭和29年)以降大手私鉄を中心に続々と出現して、大きな技術的成功を収めた。国鉄もこの潮流に乗って高性能電車の開発に取り組み、1957年(昭和32年)に新型通勤電車モハ90系(後の101系)を完成させる。
同年に小田急電鉄が完成させた低重心・連接構造の流線型特急電車3000形「SE車」は、鉄道技術研究所の技術指導を受けて設計された[38]車両で、最高速度145 km/hを目指した野心作であった。しかし、曲線の多い小田急の路線ではその高速性能は十分に発揮できなかった[39]ため、小田急から国鉄に対して、試験で収集されたデータを小田急と国鉄の双方で利用することを条件として[39]、軌道条件の優れている国鉄の路線上での走行試験について申し入れがあった[40]。
国鉄はこの申し入れに対して快諾[41]、小田急からSE車を借り入れ、1957年(昭和32年)9月に東海道本線で速度試験を行った。結果SE車は計画通りの145 km/hに到達し[42]、当時の狭軌鉄道における世界速度記録を達成した。続いて国鉄はモハ90系通勤電車をギア比変更などで高速化改造、空気抵抗の面で不利な形態ながら135 km/hの好記録を達成した。
これらの実績を踏まえて、1958年(昭和33年)にはモハ90系の技術を応用し、東海道本線特急「こだま号」用に国鉄初の特急形電車モハ20系(後の151系)が開発された。流線型の軽量・低重心な車体は冷暖房完備で、空気ばね台車も装備し、スピードと快適な乗り心地を両立させて、動力集中方式の客車列車を完全に凌駕した。翌1959年7月には、東海道本線での速度試験で通常編成(4M4Tの8両編成)からデッドウェイトとなる付随車2両を抜いた6両編成で最高速度163 km/hに達し、小田急SE車の速度記録を更新した。
これらの電車における顕著な成績は、動力分散方式の資質を実証し、ひいては新幹線車両に電車を用いることへの強力な裏付けとなった。
1955年(昭和30年)から国鉄は交流電化方式の実用化に独自に取り組む。同年国鉄代表団はフランスパリで、狭軌用交流機関車を買いつける算段をするが、日本側は技術研究のための5両程度の買い付け意欲しかみせず、交渉は決裂[43]。日本では同年中に独自開発による商用周波数の単相交流(20 kV 50 Hz)を使用する電気機関車2両(ED44 1(日立製作所製)・ED45 1(三菱電機・新三菱重工業製))の試作に成功する。
これらの試作車による研究成果を受けて、国鉄は1957年の北陸本線を皮切りに、地方線区での交流電化を開始した。これ自体は従来の直流電化に比べ、変電所間隔を長くできることから地上設備コストが低いと考えられたことによるものであったが、後に新幹線の電化システムに応用されることになる。超高速の電気鉄道においては大量の電力消費が生じ、これに伴って架線から効率よく集電するには、従来から用いられて来た1,500 Vの直流電源より、大電力を長距離送電できる高圧交流電源を用いる方が適していたのである(日本の鉄道の交流電化方式は在来線20 kV、新幹線25 kVで、電圧だけでも直流電化路線の10倍以上のレベルである)。
幹線調査会と鉄道技術研究所の活動と建設計画承認[編集]
戦後の復興と共に鉄道および道路輸送の需要が増大すると、当時の日本における最重要幹線であった東海道本線の貨客輸送能力は、ほぼ限界に達していた。1956年に東海道本線の全線電化が完成するが、需要の増加には焼け石に水であった。
1957年(昭和32年)、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道本線の輸送力飽和は早晩必至とし、現在線以外の線路増設が必要であると答申した。実際の手法としてさまざまな案が出されたが、基本的に以下の3案のいずれかが選択されることになった。
現在線に沿って線路を増設、複々線とする。
別ルートで狭軌新線を建設する。
別ルートで広軌新線を建設する。
東海道の線増計画は、従来の常道であれば複々線案が採られたところであった。しかし、十河ら国鉄幹部は将来の発展性を視野に入れ、あえて困難の多い広軌新線建設を決定したのである。それは戦前の弾丸列車計画を、戦後の技術革新の下で、改めて実現しようとする超高速列車計画であった。
同年5月30日には鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)の篠原武司所長らが、鉄道技術研究所創立50周年記念講演「東京 - 大阪間3時間への可能性」で、広軌新線ならば東京 - 大阪間の3時間運転は技術的に可能であるという報告を行った。十河はその話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて技術研究所員に詳細を話させたという。
当時欧米では、将来の大量輸送手段として航空機と高速道路網による高速輸送が有望視され、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れのものだという見解が広まっていた。日本でもこれを範としようとする向きが一般的であり、在来線とは別規格の高速新線を建設するという計画は、国鉄内部でさえも疑問視する者が多かった。
鉄道ファンでもある作家の阿川弘之ですら、戦艦大和(大和型戦艦)・万里の長城・ピラミッドが「世界三大馬鹿」であり、この時期に莫大な投資をして新幹線を造れば「第2の戦艦大和」となって世界の物笑いの種になると批判した[44](後に阿川は新幹線が世界の鉄道斜陽論を覆すに至るまでの成功を収めたのを見て、十河の後を継いで国鉄総裁を務めた石田禮助との対談において、自らの不明を悔やむ発言をしている)。
そのような厳しい状況下で、十河と島は東海道に新たな大規模高速輸送用の鉄道路線(新幹線)を実現すべく政治的活動(十河が担当)と、技術的プロジェクト(島らが担当)を続けた。
技術的裏付けの下、1958年(昭和33年)に建設計画が承認され、翌1959年(昭和34年)4月20日に起工式が行われた。総工費は当初予定から修正され、3800億円にまで膨らんだ。元々十河などが国会内での承認を得るために安く見積もっていたこと、地価高騰のあおり、さらには新幹線建設に集中するために地方路線建設の陳情を蹴り国会議員の不興を買っていたこともあって、後には国会で責任問題に発展した。新幹線開業前に責任を取る形で十河は国鉄総裁を退任し、島も十河に殉じて国鉄を退職する。
1961年(昭和36年)5月1日に国鉄はこのプロジェクトに対し、世界銀行から8000万ドル(当時は1ドル=360円の固定相場制)の融資を受けた(この融資は1981年〈昭和56年〉に返済が完了した)。この融資を受けたことで、新幹線プロジェクトは日本の国家的プロジェクトとなり、国内事情によって中断することは許されなくなった。
その建設に関しては前述の通り、戦前の「弾丸列車計画」の際に開削されたトンネルや、買収された用地の多くが活用された。5年という短期間で完成したのは、この時の用地買収および工事があったからだともいわれている。また大阪府・京都府内では、完成した新幹線の線路を高架工事中の仮線として用いて、暫定的に阪急京都本線の電車を走らせていたこともあった(→新幹線の線路を先に走った阪急電車)。
モデル線鴨宮基地整備[編集]
1962年(昭和37年)には神奈川県綾瀬付近 - 小田原付近の区間がモデル線として先行整備され、小田原市鴨宮(かものみや)に鴨宮基地とそれを統括するモデル線管理区が置かれた。小田原 - 綾瀬間が試験路線に選ばれた理由は以下の通りである。
戦前の弾丸列車構想に際してすでに用地を取得しており、早い時期に着工する事が可能である。
直線・カーブ・トンネル・鉄橋と、線形や地上設備のシチュエーションが一通り揃っており、データ収集が容易である。
鴨宮付近では東海道本線と隣接しており、車両・資材などの搬入に便利である。
国立にある鉄道技術研究所からも近く、問題が発生した時も対処が容易である。
ここで2編成の試作電車「1000形」を用いて車両と設備のテストを繰り返し、問題点をあぶり出しては改良を重ねていった[45][46]。1963年(昭和38年)3月30日の速度向上試験では、1000形B編成が256 km/hの国内速度記録を達成している。モデル線での研究は、初代量産形新幹線電車となる0系や、線路設備の開発に生かされることになった。また、ここに中央鉄道学園小田原分所を設けて、新幹線のための乗務員と保線要員の養成も同時に行った。
しかし、このモデル線には欠点があった。相模湾に近く、冬でも比較的温暖な鴨宮では、降雪時の高速運転を想定した試験データは十分に得られなかったのである。東海道新幹線の名古屋 - 新大阪間経路は、当初計画した鈴鹿山脈経由ルートが費用や技術・工期の制約から断念され、東海道本線同様に関ヶ原を経由するルートに変更されていた。関ヶ原周辺は谷間で標高も高く、さらに日本海側気候の影響で冬期には激しい降雪のある地域でもある。このような区間を冬期に高速列車で通過する状況の研究が、開業前には十分に行えなかった。このことは、1964年(昭和39年)の開業後初めての冬期に関ヶ原での着雪による車両故障を頻発させる原因となった。
このモデル線区は、設備が無駄にならないよう、建設中の路線の一部を先行完成させて利用する手法が採られ、東海道新幹線開業後は新横浜- 小田原間の一部に組み込まれている。この手法は後続の東北新幹線の小山実験線や、リニア山梨実験線にも踏襲されている。小山実験線には実際に駅施設も設けられ、後に小山駅となった。現在、鴨宮基地のあった場所は保線車輌の基地となっており、その一角には新幹線モデル線を示すモニュメントが設置されている。2009年(平成21年)5月には市民の手によって、0系新幹線の前頭部をモチーフとした「新幹線発祥の地」のモニュメントが建てられた。
またテストに使われた試作電車は、東海道新幹線開業後に改造を受けた。A編成は救援車941形に、B編成は電気軌道総合試験車922-0形となり、それぞれ役立てられることになる。941形はまったく活躍することなく廃車となったが、922-0はその後0系を元とした「ドクターイエロー」が登場するまで生き永らえた。
新幹線開業[編集]
日本国有鉄道(国鉄)時代の1964年(昭和39年)10月1日に開業した東海道新幹線が初の路線である[47][48]。開業に先立ち、東京駅の東海道新幹線8、9番ホームの間に「0キロメートル」の起点標(距離標)が設置された。開業を1964年にしたのは、1964年の東京オリンピックの開催時期に合わせたからである。
併せて専用の0系が開発され、営業に投入された(→1964年10月1日国鉄ダイヤ改正も参照)。なお、開通に先立つ同年4月22日からアメリカのニューヨーク市で開催されたニューヨーク万国博覧会の日本館に実物大モックアップが展示され、日本の技術力を誇示した。
10月1日の東京発の一番列車(ひかり1号、運転士・山本幸一、伊月正司の2名)は定員987名のところ乗客は730名ほどであり満席ではなかった。
開業当初の営業最高速度は200km/h(東京 - 新大阪間「ひかり」4時間[49][50]、「こだま」5時間[50])。路盤の安定を待って翌年に210km/h運転(同「ひかり」3時間10分[51]、「こだま」4時間[51])を開始した(→1965年10月1日・11月1日国鉄ダイヤ改正も参照)。
日本の二大都市である東京 - 大阪間は、1958年(昭和33年)から在来線の特急で日帰り可能になっていたものの、滞在時間がわずか2時間あまりしか取れなかった。しかし新幹線の開通により、日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、社会構造に著しい変化を及ぼした。ビジネスやレジャーの新しい需要を喚起し、東海道新幹線においては当初の12両編成が、1970年(昭和45年)の大阪万博の開幕を機に16両編成まで拡大され、高速大量輸送機関としての確固たる地位を確立した。
その一方で、新幹線の建設や特急・急行列車の増発、さらには都市部における通勤輸送増強(通勤五方面作戦など)などの設備投資に追われたことから、新幹線の開業した1964年(昭和39年)度から国鉄収支は赤字に転落し、以後それは拡大する一方となり、結果的に新幹線建設は国鉄破綻の1つの原因となったと言われる。これに対し、JR東海の葛西敬之会長は著書の中で「東海道新幹線はあくまで内部留保された資金と借金で建設資金をまかない、それらを運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、新幹線建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りだ」と指摘している。いずれにせよ、以後の国鉄において、新幹線は重要な収入源ともなっていく。
その後、東海道新幹線に続いて、同じように需要の増加していた山陽本線の抜本的輸送力改善と高速化を目的として、1967年(昭和42年)に東海道新幹線を延伸する形で山陽新幹線が着工され、1972年(昭和47年)3月15日に岡山まで、1975年(昭和50年)3月10日には博多まで開業した(→1972年3月15日国鉄ダイヤ改正・1975年3月10日国鉄ダイヤ改正も参照)。「ひかりは西へ」がそのキャッチコピーであった。
さらに東北方面への延伸も計画された。1971年(昭和46年)には東北新幹線と上越新幹線が着工され、キャッチコピーには「ひかりは北へ」が使用された(実際の開業にあたっては、「やまびこ」「あおば」「とき」「あさひ」等、東北・上越在来線特急のかつての名称を継承している)。1974年(昭和49年)には建設中の成田空港へのアクセス路線として成田新幹線も工事に入った。折しも田中角栄内閣総理大臣によって、国土開発を促進する「日本列島改造論」が提唱され、整備は順調に進むかに見えた。
だが、実際には反対運動による用地買収の難航やトンネル工事での異常出水などがあり、前者2つの新幹線は予定より工事が5年も遅れ、成田新幹線に至っては工事中止となってしまった(ただし、後にJR東日本と京成電鉄の成田空港乗り入れの際にこの新幹線建設で作られた設備が生かされることになる)。また、名古屋新幹線訴訟など、新幹線沿線での騒音・振動による公害問題がこの頃深刻化した。さらに国鉄財政の悪化に伴う運賃・料金値上げの繰り返し、労働紛争によるストライキの頻発化などから、既存新幹線の乗客が減少傾向に陥った。そして経営問題と労働紛争の影響から技術革新も見られなくなり、新幹線の発展・発達は一時停滞した。
東北新幹線と上越新幹線は1982年(昭和57年)に大宮発着という暫定的な形で開業し(→1982年11月15日国鉄ダイヤ改正・新幹線リレー号も参照)、1985年(昭和60年)には用地買収の関係で遅れていた都心(上野)乗り入れを果たした(→1985年3月14日国鉄ダイヤ改正も参照)。これにより東北・上越地方における鉄道シェアは大幅に拡大した。だが、それら新幹線の建設費負担も重なって、国鉄財政はついに破局的状態となり、中曽根内閣の下で断行された1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に至るのである。
JR発足後[編集]
国鉄の分割・民営化、つまりJR発足後、東北・上越新幹線はJR東日本、東海道新幹線はJR東海、山陽新幹線はJR西日本の運営とされたが、当初設備は第3種鉄道事業者の「新幹線保有機構」が保有し、各会社が第2種鉄道事業者として路線を借り受けて運営する形とした。新幹線の保守費用は各社が負担し、新幹線保有機構は設備の貸し代だけを受け取るもので、利益の出る新幹線事業によって赤字となる他地域JR会社への補填を行うのが目的であった。
しかし、前記JR3社の経営が安定化して、東京証券取引所などへの上場が視野に入ると、輸送量に応じて貸し賃が変わるこの制度のままでは会社の営業努力が反映されないことや、各社の資産・債務の額が確定できないことなどが問題視され、結局1991年(平成3年)に制度を変更し、各鉄道会社が新幹線資産を新幹線保有機構を改編した鉄道整備基金から60年賦で買い取ることにした。
分割・民営化後、技術・営業面で停滞していた新幹線も新型車両の登場、新形態など積極的な流れが見られるようになった。
後者の代表として、JR東日本は新幹線規格(フル規格)の線路を新規に建設することなく、既存の在来線を改良し、専用の車両を新造したうえで、新幹線と在来線が直通運転できるようにしたミニ新幹線を整備した。
1992年(平成4年)に400系を新造し、山形新幹線として奥羽本線の福島駅 - 山形駅が、1997年(平成9年)にE3系を新造し、秋田新幹線として田沢湖線・奥羽本線の盛岡駅 - 秋田駅が、1999年(平成11年)にE3系1000番台を増備し、山形新幹線の延伸として奥羽本線の山形駅 - 新庄駅が、それぞれ順次営業運転を開始した。
JR西日本は山陽新幹線博多総合車両所への車庫線を旅客線化し、1990年(平成2年)に博多南線として博多駅 - 博多南駅を、こだま号に使用される車両を用いる在来線特急という形態で営業運転を開始した。
また最高速度は210 km/hの時代が長く続いたが、国鉄末期頃(→1985年3月14日国鉄ダイヤ改正・1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照)から次第に向上されるようになり、21世紀初頭では東海道新幹線で270 km/h、山陽新幹線区間で300 km/h、東北新幹線区間で320 km/hに至っている。また時速アップ以外にも、停車駅での停車時間の短縮や、停車駅間の速度をできるだけ高速度で維持するなどして、わずかな分単位ながら、主要駅間の時間短縮を図る工夫もされている。
国鉄末期に建設が凍結されていた整備新幹線は工事が再開され、東北新幹線(2002年に八戸まで、2010年に新青森まで延伸)と九州新幹線鹿児島ルート(2004年に鹿児島中央 - 新八代間、2011年に新八代 - 博多間が開業)は既に全線開業、北陸新幹線(1997年に「長野新幹線」として長野まで開業、2015年に金沢まで延伸、2024年に敦賀まで延伸開業)と北海道新幹線(2016年に新函館北斗まで開業)と西九州新幹線(2022年に長崎 - 武雄温泉間が開業)が部分開業し、残った区間も工事が次第に進みつつある。
また20世紀末以降、新幹線による通勤・通学が増加した(「新幹線通勤」も参照)。これは、いわゆるバブル時代の大都市における地価の高騰で、新幹線で通勤・通学が可能な郊外(主に東京への通勤・通学を目的に栃木県、群馬県、静岡県東部が多い)の住宅に住む人が増えたためである。1983年(昭和58年)2月の新幹線定期乗車券販売開始をきっかけに、新幹線通勤定期券を支給する企業の増加、さらに企業が支給する通勤定期券代の所得税非課税限度額の引き上げがそれに輪をかけた。朝・夕の新幹線においては通勤客で混雑が激しくなり、通勤客向けのダイヤも設定されるようになった。これに対応してJR東日本ではMaxという多座席型の2階建車両を投入し、1列車あたりの定員を大幅に増やした時期もあった。首都圏以外でも、山陽新幹線の小倉 - 博多間などで通勤・通学に新幹線を利用する者が多くなった。
安全性[編集]
1964年(昭和39年)10月1日に最初の新幹線である東海道新幹線が開業して以来、事業者側の責任事故として確定した事故は、1995年(平成7年)に駆け込み乗車の乗客の手をドアに挟んで引きずり死亡させた三島駅乗客転落事故(旅客が死亡)と、2015年(平成27年)に発生した山陽新幹線部品脱落事故(旅客が負傷)の計2件である。
駅ホームでの事故(駅ホームから転落または故意に投身し車両に接触、あるいは架線に接触し感電など)や線路内立ち入り等による死亡例は多数発生しているものの、これらは鉄道事業者側の責任事故ではなく、またこれらは新幹線システムそのものの根本的欠陥に起因する事故ではないため、新幹線の安全性に関しては非常に高いものと捉えられている。この事実は新幹線の安全神話などと称されていた[52]。
2011年には「最も安全な高速鉄道ネットワーク」としてギネス世界記録に認定される[53]など、新幹線車両自体の脱線、転覆や衝突による旅客死亡事故は未だ発生していないが、重大な事故に至る一歩手前の事態は過去に何度か発生している。
事故の事例[編集]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年6月)
以下の各事例は、新幹線の安全を脅かす事故例と考えられ、重大視されてきた。
1973年(昭和48年):東海道新幹線大阪運転所脱線事故
1974年(昭和49年):東京運転所(品川基地)分岐線と新大阪駅構内で相次いで発生したATC異常信号事故
1991年(平成3年):ひかり291号(100系X編成)が、三島駅まで車輪を固着させたまま走行した事例
1999年(平成11年):山陽新幹線福岡トンネルコンクリート塊落下事故
2010年(平成22年):山陽新幹線広島-新神戸間において、「のぞみ56号」の台車のギヤボックスカバーが破損、漏れた油が過熱し車内に白煙が充満、乗客1名が負傷した事故[55]
2015年(平成27年):山陽新幹線小倉 - 博多間において、「さくら561号」のカバーが脱落、脱落したカバーが車体を損傷させ、乗客1名が負傷した事故
2017年(平成29年):のぞみ34号(N700系K5編成)が、名古屋駅まで台車に亀裂が入った状態で走行した事例(新幹線の事故で初めて国交省運輸安全委員会から「重大インシデント」認定)
他にも1990年代末期から多発したトンネルのコンクリート剥落事故に対しては、JR各社には設備保全を徹底させる対策が求められている。
また在来線と直通運転を行うミニ新幹線(山形新幹線・秋田新幹線)では在来線区間に踏切もあるため、踏切事故がしばしば発生している。
地震に伴う安全への脅威[編集]
地震に伴う障害は、高速鉄道の安全性にとって脅威となりうる。このため、地震が多発する日本において運営される新幹線にとっても課題となっている。1990年代以降、日本国内における大きな地震災害の多発により、高速鉄道の地震に対する脆弱性が指摘されるようになった。
大井川河口を震央とする地震の事例[編集]
1965年(昭和40年)4月20日、静岡県の大井川河口を震央とするマグニチュード6.1の地震が発生し、開業後約半年経過していた東海道新幹線にも静岡市周辺の盛り土が崩れる被害が生じた。当時はまだ運転本数が1時間に片道2本しかなく、発生直後にすべての列車の運行が停止されたこともあり、走行中の車両や旅客には大きな被害は発生しなかった。しかし、当時の運行責任者であった斎藤雅男(元国鉄新幹線支社運転車両部長-新幹線支社次長、鉄道工学の専門家)によると、「当時は雨の影響で地盤が弱くなっており、大きく陥没していたところもあった。仮に崩れた路盤上に列車が来ていたら間違いなく脱線して大惨事になっていた」という。なお、山陽新幹線の一部区間と東北新幹線以後の新幹線にはスラブ軌道が採用されている[56]。
兵庫県南部地震の事例[編集]
1995年(平成7年)1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では、被災地域において山陽新幹線の高架橋が破損・一部落下し、新大阪駅 - 姫路駅間が81日間にわたり不通となった。地震発生は午前5時46分で、始発列車は新大阪駅に停車していたがこの日の営業運転が始まる前であったため、落下した高架橋に列車が突っ込むなどの最悪の事態は免れた。これを機に高架橋の補強などの耐震対策が進められた。また比較的被害の少なかった京都駅 - 新大阪駅間、姫路駅- 岡山駅間は1週間程度で復旧した。
新潟県中越地震の事例[編集]
詳細は「上越新幹線脱線事故」を参照
さらに、2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震においては、上越新幹線が甚大な被害を受けた。高架やトンネルなどの構造物に損傷が発生したほか、上越新幹線列車の「とき325号」(10両編成、200系=K25編成)が長岡駅の手前付近を約200 km/hで走行中に脱線した。これはまた新幹線史上初の営業運転中、しかも高速走行中の脱線事故となった。この脱線の衝撃で、レールの道床の締定が多数外れ、一部のレールはねじ曲がるなどの大きな被害を受けた。
通常、列車がこの規模の地震に震源地付近で直撃された場合、たとえ停車していたとしても脱線は免れ得ないと考えられる。「とき325号」の事例では約200 km/hで脱線したとはいえ、奇跡的に、死者・重傷者などは生じなかった。これは、編成全体の横転などには至らなかったこと、および、数分の差で対向列車との衝突も免れるという幸運も重なったことによる。なお、横転が生じなかった理由には、事故現場が積雪の多い地帯であるため、レール脇に雪を融かして流すための溝があり、そこに脱線後の車体の一部がはまり込んだことも関係していたとされる。
なお、地震に対する脅威に対し、上越新幹線にも地震感知システム「ユレダス」をカスタマイズした「コンパクトユレダス」が採用されている。実際、この「とき325号」のケースにおいても初期微動(P波)の検知後にブレーキが動作した。しかし、このケースでは、「とき325号」の通過地点からみて直下型の地震であったため、「とき325号」の停止前に地震が到達したことにより被害が生じてしまった。
この事故により、新幹線を運営するJR各社は、新幹線における地震対策の重要性を強く認識することとなった。
東北地方太平洋沖地震での事例[編集]
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、東北新幹線が甚大な被害を受けた。運転中の列車はすべて強制停止したが、大宮駅 - いわて沼宮内駅間の広範囲にわたって、高架橋の損傷や架線柱の倒壊などが発生した。仙台駅では試運転中のE2系の一部車両が脱線したほか、ホームの天井板が剥がれ落ちるなど前記の中越地震以上の被害を受け、全線復旧まで約1か月半を要した。
熊本地震での事例[編集]
2016年(平成28年)4月14日に発生した熊本地震では、九州新幹線が被害を受けた。下りの800系6両編成の回送列車が熊本駅から熊本総合車両所へ向かう途中に脱線したほか、防音壁の落下や高架橋の亀裂などが見つかったが、13日後の4月27日午後には全線で運転を再開した。
福島県沖地震での事例[編集]
詳細は「東北新幹線脱線事故」を参照
2022年(令和4年)3月16日に宮城県牡鹿半島沖南南東60kmを震源とする最大震度6強の地震(福島県沖地震)のため東北新幹線「やまびこ223号」が福島駅 - 白石蔵王駅間の宮城県白石市内で営業運転中に脱線した。現場付近及び新幹線の車両には脱線を防ぐ装置が設置されていたものの17両編成のうち16両が脱線し、合わせて68の車輪の軸のうち60基がレールから外れていた[57]。また、脱線した列車には「レール転倒防止装置」や「逸脱防止ガイド」が設置されていたが一部の車両はレールから大幅にずれて傾くなどの被害が確認された。
「やまびこ223号」が脱線した福島駅 - 白石蔵王駅の間は、最高速度が320 km/hとなっていたが、地震が起きた際列車は白石蔵王駅での停車に向け減速していた際に発生し、地震を検知して非常ブレーキがかかる過程で脱線したと見られている[58]。初期微動(P波)を検知して自動でブレーキを掛けさせる装置は正常に作動していたという[59]。
営業運転中の新幹線が地震による脱線事故を起こしたのは新潟県中越地震での上越新幹線脱線事故以来2例目である[59]。
災害・テロへの対策不足[編集]
新幹線では、航空機や船舶と異なり、通常の運行では乗客名簿などは整備されない。万一、転覆事故などで多数の死傷者が生じた時には、死傷者の身元特定に支障をきたすのではないか、との指摘もある。もしそうなった場合、家族への連絡や事故の補償などで大きな問題となることが予想されるが、新幹線を運営する各鉄道会社はこの課題について踏み込んだ対策を採るまでには至っていない。
20世紀末から世界的に増加しているテロリズムに対しても新幹線は脆弱ではないかとの指摘もされている。現状では航空機のような搭乗時の手荷物検査がなく、その気になれば車内やプラットホームに、可燃物や爆発物、刃物を容易に持ち込むことができるのも事実[注 9]である。また高架橋などの軌道設備には周囲から容易に接近できる箇所が多く、この面でもたやすくテロの対象となりうる。
なお、N700系では全てのドア上部と乗務員室出入口に、E5系・H5系やE6系、E7系・W7系ではそれらに加えてグランクラスを除く客室内にも監視カメラを取り付けている。東海道新幹線車内での放火事件以降、JR東海はN700系でも客室内とデッキ通路部にも増設することとし[60]、2016年2月23日より増設が完了した編成が運行を開始した(1編成あたりのカメラは60台から105台に増加)[61]。なお、客室内の映像については、N700系は常時録画だが、その他のE5系・H5系などはプライバシー保護の観点から非常ボタンが押されてから録画を開始する方式としている。JR東日本ではこれらの車両についても今後は同様に常時録画とする方針である[61]。
JR東日本の各新幹線では、テロ対策のため、車内のゴミ箱を一切利用停止にしていた時期があったが、乗客からの不便という声が高まり、現在は利用を再開している。ただし要人来日時(特に主要国首脳会議開催時やアメリカ合衆国大統領来日時)は、利用を停止する場合がある。また、JR東海ではアメリカ同時多発テロ事件以降、系列の警備会社と連携し、沿線を24時間体制で巡察しているほか、全ての列車に警備員を警乗させている。
救命対策[編集]
2008年(平成20年)7月28日に東海道・山陽新幹線では、2008年12月より全編成において自動体外式除細動器 (AED) を配備すると発表した[62]。
世界への影響[編集]
世界の高速鉄道の最高速度[編集]
「高速鉄道」も参照
世界初の210 km/h運転を達成した新幹線の成功は、欧米各国に影響を及ぼした。鉄道先進国を自負していたフランスは、1967年5月28日よりパリ - トゥールーズ間の列車「ル・キャピトール」を欧州において初めて[注 10]一部区間で200 km/hで運転し、その後も複数の列車を200 km/hで運行していた。新幹線の開業後、1981年に本格的な超高速列車TGVを開発し、営業最高速度260 km/hというスピード世界一を達成し、新幹線の記録を凌駕した。
その他、ドイツ (ICE) やイタリア(ディレッティシマ)でも高速列車が計画され、実現に移された。イタリアのディレッティシマは欧州初の高速新線であり、1970年に工事が始まり、1978年に部分開業を迎え、1983年に250 km/h運転を開始したものの、その後の整備で仏独に遅れを取り、全線が開業したのは1992年である。
スペインでは、当初はイベリア軌間の在来線を高速化させる計画で進めていたが、1986年に同国が欧州諸共同体 (EC) へ加盟したのちに標準軌の高速新線を導入する計画へ方針転換。この一連の流れにおいては日本企業が車両の導入に大きな努力をしており、技術面において非常に高い評価を得ていたが、同国の欧州諸共同体への加盟や同国への投資額、同国内の経営不振企業の救済計画などに代表される政治的な問題からフランスのTGV方式の高速列車を採用することとなり、この時点での日本の新幹線方式の車両の導入は幻となった。
ロシアの高速列車ソコルは1997年、ドイツ鉄道の技術支援を受け、モスクワ - サンクトペテルブルク間654 kmを営業最高速度250 km/hで結んだことにより、所要時間が、4時間20分から2時間30分に短縮された。
なお、すでに標準軌の鉄道網が整備されているこれらの国では、駅周辺は従来の路線をそのまま使用し、郊外区間では諸条件によって高速新線建設と在来線改良を使い分けることが多く、全線を新線として建設する新幹線とは異なっている。
走行試験を除く営業運転速度は、2019年4月現在、中国高速鉄道のCR400系(京滬高速鉄道と京津都市間鉄道)の 350 km/hが世界最速である。新幹線E5系やフランスTGV (320 km/h) などがそれに続く。大韓民国(韓国)では2004年にフランスのTGV方式の韓国高速鉄道(KTX) が300 km/hで開業し、台湾では2007年に日本の新幹線方式(一部仏独の技術を導入)の台湾高速鉄道が300 km/hで開業した。
TGVは360 km/hへの速度向上を計画している。2007年後半からフランスのTGV方式を採用したスペインのAVEは、マドリード - バルセロナ間630 kmの新線で、ドイツのICEの技術に使われているシーメンス製の Velaro E という列車を使い350 km/hで運転する計画がある。実現すれば、マドリード - バルセロナ間は2時間30分に短縮される。 さらにロシアやベトナムでも新幹線をモデルにした最高速度350 km/hの高速鉄道建設が計画されている。
浮上式鉄道を含めた2015年4月時点における世界最速の旅客営業鉄道路線は、2003年にドイツの技術によって開業した、中国・上海浦東国際空港へのアクセス路線である上海トランスラピッドで、その最高速度は430 km/hである。 走行試験も含めた鉄道における最高速度の世界一は、日本のL0系が2015年4月に山梨リニア実験線で記録した603 km/h[63]。浮上式鉄道を除くとフランスTGVの高速試験車V150編成が記録した574.8 km/hである(日本の非浮上式鉄道の最高記録はJR東海の300Xによって達成された443 km/hで世界第3位)。
東海道新幹線は建設時期が古く、カーブなどの線路状況が200 km/h台の設計になっている。より新しい山陽新幹線・東北新幹線などもフランスやドイツなどと比較すると山岳区間が多く、路線の起伏やカーブの設計などにおいて高速化を妨げる点が多い。特に後者は上越新幹線とともに寒冷地の耐寒・耐雪装備が不可欠であり、重量的に不利である。また沿線に住宅地が多いため、騒音への対策も必要となるなど、300 km/h以上の運転には課題が多い。
しかし、JR東海・JR西日本は2007年より山陽新幹線で500系と同じ最高速度300 km/h、東海道新幹線でも従来の車両では255 km/hまで減速する必要のあった半径2,500 mのカーブを、車体傾斜装置を搭載することで270 km/hで通過できるN700系の導入を開始した。さらに改良型となるN700系1000番台(通称「N700A」)の製造及びN700系からの同仕様への改造により、東海道新幹線で285 km/hでの営業運転を2015年3月14日より開始した。これにより、半径2,500mのカーブを、275 km/hで通過するようになった。また、JR東日本は2004年から360 km/h走行を前提とした試験車両(E954・E955形)を開発し、2009年からはE954形をベースとして320 km/hでの走行を前提にしたE5系を製造、新青森延伸後の2011年3月5日に300 km/hで営業を開始し、2013年3月16日より320 km/hでの営業運転を開始した。
かつて、JR東海は東海道新幹線の一部区間で、当時の営業最高速度270 km/hから330 km/hに引き上げることを検討していた。330 km/hでの走行は京都 - 米原間の直線が長い一部区間を対象に、N700系を使用し、前方に待機列車がなく性能を存分に発揮できる「のぞみ」の始発、終発に限定して行う計画であった。
また近年、速度向上の動きが顕著である。JR東日本はE954形-E5系の開発時に断念した360km/hでの営業運転について再度挑戦すべく、試験車両E956形を用いて走行試験を開始した。また、JR北海道は建設中の新函館北斗駅 - 札幌駅間について、整備新幹線としては初となる320km/hで営業運転するための追加工事を行うことを発表した。さらに、JR東海はN700Sにて営業用車両としては国内最速である363km/hを記録した(この速度で営業運転するためではなく、国内外に高い走行性能を示す目的)。
浮上式鉄道を除く、営業運転での最高速度記録[編集]
新幹線以外の高速鉄道の詳細な記録は「高速鉄道の最高速度記録の歴史」を参照
また、東海道・山陽新幹線と東北・上越・北陸新幹線では「最高速度」の考え方に差異があることに注意。「自動列車制御装置」のATC-1型、ATC-2型を参照
各路線での記録である。
1986年11月1日:東海道・山陽新幹線で220 km/h。
1988年3月13日:上越新幹線で240 km/h。
1992年3月14日:東海道新幹線で270 km/h。
3月22日:東北新幹線で275 km/h。山陽新幹線で300 km/h。
10月1日:北陸新幹線開業。260 km/h。
2002年8月1日:ドイツでケルン-ライン=マイン高速線が開業。ICE 3で300 km/h。
6月10日:フランスでTGV・LGV東ヨーロッパ線が開業。320 km/h。
新幹線の輸出[編集]
台湾[編集]
詳細は「台湾高速鉄道」を参照
中華民国(台湾)の台北 - 高雄間のうち、台北 - 左営の約340 kmで運行されることになった高速鉄道路線(台湾高速鉄道)は、独仏連合が先行する形で日本連合との間で熾烈な受注競争が行われたが、1999年に台湾で大地震が起き[64]、地震時のリスクを台湾側は懸念するようになり、その結果新幹線は地震時に安全性が高いことに焦点が当たり、日本連合が最終的に逆転、車両や運行管理システムなど根幹部分の受注に成功した[64](ただし、台湾高速鉄道の全体を完全に日本連合だけが受注したわけではない ※)。車両には700系をベースとした700T型が用いられ、運行管理システムも新幹線のもの、乗務員のトレーニングも日本式のものが採用された。台湾高速鉄道の顧問には、日本における新幹線計画の実現に大きく貢献した島秀雄の次男である島隆が就いた。一方、鉄路部分の施工に関しては、競争で先行した欧州連合がすでに契約締結済で関与し、韓国も関与した。
当初は2005年10月の開業を目指して建設が進められたが、台湾高速鉄道のコンサルタント業務を欧州連合が先に受注していたため、施工方法やスケジュールの調整が難航。また建設工事の一部区間を受注していた韓国の現代建設による路盤の手抜き工事が発覚するなど、各国企業の思惑が入り乱れたため、開業時期が徐々に遅れ、結局2007年1月5日に板橋 - 左営間で仮開業し、全線は2007年3月に正式開業した。2016年に、台北 - 南港間が開業しているが、左営 - 高雄間の着工は未定である。
アメリカ合衆国[編集]
アメリカ合衆国・テキサス州ヒューストン - ダラス間を90分で結ぶテキサス・セントラル・レイルウェイの建設計画が日本の新幹線方式を導入することが決まり、早ければ2021年に建設を開始し、2026年の開業を予定している[65][66]。なお既に日本の新幹線方式で建設し、N700系の改良版を導入することを明言している。JR東海が技術支援に加え、少額の出資を検討している[67][68]。
イギリス[編集]
日立製作所は、2009年からロンドン - ケント州間の高速新線「High Speed 1(HS1、旧名CTRL: Channel Tunnel Rail Link)」で運行される高速列車サービス「オリンピックジャベリン」の専用車両「クラス395」29編成計174両を受注し、2007年8月から引き渡しが始まった。車両はHSBC Rail UKが保有し、サウスイースタンが列車の運行を担当する。UIC規格路線を走る初めての日本製高速鉄道車両であり、HS1上においてTGVベースのユーロスターと混在して運行されることとなる。営業最高速度は、HS1上で140 mph (225 km/h)、在来線では70 mph (112 km/h) で、将来的には170 mph (275 km/h) を目指す。
日立はさらなる高速鉄道事業の受注を目指して、都市間高速鉄道計画における受注も目指して活動を展開し、2009年2月に、イースト・コースト本線(ロンドン - エディンバラ間、距離700 km)やグレート・ウェスタン本線(距離300 km)を走行する高速鉄道車両の製造の優先交渉権を得た。そしてキャメロン政権の歳出削減政策による一時の交渉凍結を経て、2012年7月にシーメンス、アルストム、ボンバルディアの鉄道ビッグ3との受注競争に打ち勝って、596両の高速鉄道車両の製造と2017年から27年間にわたる車両のリースと保守事業を、45億ポンド(受注時の為替レートで約5,500億円)で一括受注した。さらに2013年7月には、追加で「クラス800」270両の製造と27年間にわたる車両のリースと保守事業を12億ポンド(受注時の為替レートで約1,800億円)で一括受注した[69][70]。受注した車両は最高速度200 km/hで、5両編成(定員約300人)と9両編成(定員約600人)で運行される。これを受けて日立は8000万ポンド(96億円)を投じて英北部ダラム州のニュートン・エイクリフに車両生産工場を建設し、2016年から月産35両のペースで車両を生産する。車両のリース事業は日立の子会社などが出資する特別目的会社アジリティトレインズによって行われる。
中華人民共和国[編集]
詳細は「中華人民共和国の高速鉄道」および「中国高速鉄道CRH2型電車」を参照
中華人民共和国は京滬高速鉄道など8路線、計7,000 kmの旅客専用線(最高速度350 km/h)のほか、中国全土に高速鉄道網の建設(最高速度200 - 350 km/h)を進めているが、国産高速車両「中華之星」の開発で多くのトラブルに見舞われたこともあって、日本の新幹線の技術導入と同時にフランス・ドイツ・カナダなどからも技術導入を図っている。
2007年には、主要都市間の在来線高速化 (200 – 250 km/h) に向け、JR東日本のE2系(川崎重工業製)をベースにしたCRH2型「子弾頭」を導入している。日本以外ではスウェーデンのRegina(カナダ・ボンバルディア製)をベースにしたCRH1型(CRHは“China Railway High-Speed”の略)、イタリアのペンドリーノETR600(フランス・アルストム製)をベースにしたCRH5型も導入された。
2008年の夏季オリンピックに合わせて開業した北京 - 天津間の京津都市間鉄道にはCRH2型の旅客専用線仕様も導入されたが、設計速度を超過し運転していたため、日本側からの抗議を受けて他線区に転配し、武広線では250 km/hで運転している。同年12月からは、北京 - 上海・杭州間にCRH2E型の16両編成中13両を寝台車「軟臥車(B寝台相当)」とした夜行列車が運転されている。「夜行新幹線」はかつて日本でも試作車両が作られたが、営業運転は実現していない。
2009年に開業した武漢 - 広州間の武広旅客専用線 (350 km/h) にはドイツのICE 3(シーメンス製)をベースにしたCRH3型が導入されている。どの国からも、一部は完成車で納入され、残りは現地組み立てまたは技術供与による現地生産となっている。
なおJR各社では、JR東日本が受注に積極的なのに対し、台湾への技術供与を行ったJR東海会長の葛西敬之は、法整備が不十分な中国においてトラブルが発生した場合の責任問題や、中華人民共和国側の車両購入条件である「中華人民共和国へのブラックボックスのない完全な技術供与」では技術流出の危惧から反対の意見を表明している。また、2010年4月に葛西が「中国の高速鉄道は安全性を軽視することで、限界まで速度を出している。技術も『外国企業から盗用』」と主張したことに対し、中国の何総工程師は「我々が求めている技術は、日本のような島国向けの技術とは異なる」と主張し、「安全性が保証されている中国の高速鉄道技術は既に世界をリードする地位を獲得した」などと反論した[71]。
しかし、中国鉄道部科学技術局長などを務めた周翊民は、中国紙『21世紀経済報道』に対し「世界一にこだわり、設計上の安全速度を無視し、日独が試験走行で達成していた速度に近い速度での営業を命じただけで、中国独自の技術によるものではない」と暴露し、「自分の技術でないので問題が起きても解決できない。結果の甚大さは想像もできない」と指摘した[72]。またアメリカ議会の超党派諮問機関である「米中経済安保調査委員会」は2011年10月26日、日本の新幹線技術の中国側の取得について「中国企業が外国技術を盗用した最もひどい実例」と明記し、中国の政府や国家の意思によるものだと結論付けた[73]。なお、2011年7月23日に浙江省温州市で、死者43人・負傷者190人以上を出す追突脱線事故が発生し、鉄道局長ら幹部3人が更迭されている[74]。
輸出候補地[編集]
ハノイ - ホーチミン間 (1,630 km) を最高速度350 km/hで結ぶベトナム高速鉄道計画があり、完成すれば現在30時間以上かかっている所要時間が10時間弱に短縮されると期待されている。資金は日本の政府開発援助(円借款)を充てる予定で、新幹線方式の導入が検討されていたが、2010年6月19日のベトナム国会でこれらの政府案は否決され、暗礁に乗り上げた格好となった。
ロサンゼルス - サンフランシスコ間などを結ぶカリフォルニア高速鉄道の建設計画がある。州の予算や採算性の問題もあり建設時期は未定のままだが、具体的に進行し始めている。JR東海が積極的に新幹線を売り込んでいる。アメリカ西部は地震も多く、開業以来地震に対する対策を採ってきた新幹線はその点で各国の高速鉄道よりもアドバンテージがあるのでは、とする声もある。建設プロジェクトを紹介するインターネットのウェブサイトには、700系新幹線をイエローとブルーのツートンカラーにした車両のCG動画が公開されている。また、JR東日本も新幹線を売り込んでいる見込みである。
リオデジャネイロ - サンパウロ - カンピーナス間にブラジル高速鉄道計画(路線距離550 km、最高速度320 km/h)がある。当初は2014年にブラジルで開催されるワールドカップに合わせて開通させたい意向で、日本は国土交通省と三井物産、三菱重工業、川崎重工業、東芝が官民共同で売り込んでいたが[82][83]、提示条件の厳しさなどから入札の不調や延期を繰り返している。リオデジャネイロ - カンピーナス間は標高差が700メートル近くあり、長野新幹線の高崎駅 - 軽井沢駅間などの大きい標高差における建設、運行のノウハウを蓄積している新幹線は、その点で各国の高速鉄道よりも優位ではないかと評価する声もある。
インドネシアでは経済開発を加速する目的で、2008年に「経済開発加速化・拡充マスタープラン2010 - 2025(MP3EI)」を策定[84]。このプランの一部として、ジャカルタから西部に約700 kmにあるスラバヤまでのジャワ島東西を結ぶ路線と南東に約150 kmあるバンドンまでのインドネシア高速鉄道計画がある[84]。2011年には「国家鉄道整備総合計画」が策定され、ジャカルタ - スラバヤ間の高速鉄道が位置付けられている[84]。2030年をめどに開業を目指すとしている[84]。
日本はインドネシアのインフラ整備として、高速道路や発電所建設とともに、新幹線を売り込んでいる。しかし、インドネシアは高速道路や発電所と比べると高速鉄道は優先度が低いとして、新幹線の導入については慎重な姿勢である[85]。2015年9月3日、インドネシア政府は高速鉄道計画の撤回を発表して入札を白紙化したが、9月29日に財政負担を伴わない中華人民共和国国案の採用を決定した[86][87]。2023年10月開業した。[88]
その他[編集]
アメリカ合衆国・北東回廊[編集]
アメリカ合衆国の北東部には、ワシントンD.C.、フィラデルフィア、ニューヨークシティ、ボストンなど名だたる大都市が連なり、メガロポリスと呼ばれる。それらの都市は1800年代に建設された北東回廊と呼ばれる幹線鉄道が結んでおり、その特性から同国で最も利用者の多い幹線鉄道路線となっている。この北東回廊のうち、ワシントンD.C.とニューヘイヴン間は1900年代前半に電化が完了、電気動力による高速運転が実現しており、1960年代後半には東海道新幹線の成功に影響された電車高速列車メトロライナーが登場。しかし、度重なる運営事業者の経営不振と再編により軌道保守へ十分な投資ができず、せっかくの高速列車の乗り心地を悪くさせ、速度を制限させる原因となっていた。その状況を打破すべく、1971年に民営企業より列車運行および線路保有権を引き継いだ全米旅客鉄道公社 (Amtrak) は北東回廊の軌道を強化させ、同時にメトロライナー電車よりも高速な列車の導入を決定。この一連の流れで、新幹線の成功を経験していた日本はこの計画に参加することとなり、軌道強化計画のほか、新幹線0系を基礎としつつもアメリカ合衆国の基準に適応させた専用車両の設計を行った。
この時期、二度にわたる石油危機などの影響で、折しも鉄道利用者が増加していたという背景も追い風となり、北東回廊の更新計画は北東回廊改良計画として1980年代に実を結んだ。しかし、最も重要な課題であった軌道強化には日本の技術が大いに活かされたものの、初の新幹線仕様車両の国外輸出として期待されていた専用車両の導入が実現することはなかった。
アメリカ合衆国・オハイオ州[編集]
1970年代後半のアメリカ合衆国。同国の中西部に位置するオハイオ州では、州内の各都市を高速で結ぶ新たな鉄道を建設する話が盛り上がった。この当時、ほかに例を見ない高速鉄道として有名であった日本の新幹線はこの計画の恰好のモデルとなり、日本国鉄およびその関連機関はこの計画に対して様々な支援を行ったが、実現していない。
大韓民国[編集]
大韓民国の高速鉄道・"KTX"計画において、日本は新幹線方式(車両は300系電車を基礎としたもの)で入札に参加した。しかし、「反日感情」などの政治的な理由により、最終的にフランスのTGV方式の導入となった。
スペイン[編集]
三菱グループを筆頭とした日本連合がスペインの高速鉄道、AVEの第一期区間(マドリード=セビージャ高速線)で運行される車両の入札に参加し、日本の新幹線100系を基礎とした車両を提案[90][91]。ヨーロッパ各国の名だたるメーカーとの競争に勝ち、フランスのTGV、ドイツのICEとともに最終選考に進み、その中でも価格・経験の面でもっとも高い評価を得たが、スペインの欧州諸共同体(EC)への加盟などが影響し、フランスのTGVに敗れる結果となった[90][91]。
イラン[編集]
1970年代、イラン政府は日本政府に対し、同国の首都テヘランと同国第二の規模を誇るマシュハドの間に新幹線の建設を行うように要請。実際に路線経路の計画や車両設計の準備などが行われたものの、1979年の革命で新幹線を要求していた政府が打倒されたことにより、計画ごと消滅した。
他国との競合点[編集]
2009年現在、世界における高速鉄道の技術入札においては、事実上、日本の新幹線技術とフランスのTGV技術の二大勢力が競合している[92]。
世界的に見ると、高速鉄道を必要とする国には、日本のように地理的条件や騒音対策・輸送量の面で過酷な条件に置かれている例はさほど多くはないため、新幹線方式よりもコスト面でより有利な、TGVに代表される半動力集中式[要出典]を採用する場合が多い。
競合点のひとつである輸送量については、新幹線は同じ標準軌のTGVなどより車両の幅が広く高頻度運行が可能であるため、単位時間あたりの最大輸送量も大きい。
アメリカにおける高速鉄道入札でのプレゼンテーションにおいては、日本側は安全性その他の優位性を主張しつつ、線路・システムなどとの一括での契約を要求したのに対し、フランスのTGVは車体のみでの契約も可能とするなどより柔軟な交渉をしている[92]。
貨物輸送[編集]
新幹線による貨物輸送は、最高速度や制動距離などの違いからダイヤグラム上で旅客列車と混在させることは現状では困難である。貨客混載での実証実験では積み替えの手間や輸送コストなどの問題が指摘されている[93]。なお、約40年の時を経て同様のコンセプトを持つ列車が在来線でJR貨物M250系電車(スーパーレールカーゴ)として登場した[94]。
東海道新幹線建設時における「貨物新幹線」計画[編集]
「貨物新幹線」は、東海道新幹線の建設時から東京-大阪間を5時間半で結ぶ夜行貨物列車の運行構想があった[95][注 11][96]。1958年(昭和33年)に国鉄幹線調査会が答申し、国鉄の新幹線総局計画審議室などが検討をおこなった[97]。
計画を担当していた石井幸孝によると、国鉄では5トンコンテナの規格を新幹線の車両限界に合わせたサイズ(8×8×12フィート)とし[97]、貨物取扱駅の用地買収を進め工事も開始したが、東海道新幹線の建設費がインフレの影響で当初の計画より二倍近くに膨れ上がったため計画を断念した[97]。その後、貨物新幹線用地は東京貨物ターミナル駅や車両基地などに転用された。大阪貨物ターミナル駅の近くには未完成の高架施設が残っていたが[97]、2013年から順次撤去工事が進められている[98]。
東海道新幹線建設時の計画については、世界銀行から新幹線建設の資金を調達する際、貨物が鉄道輸送の主力となっていたアメリカの理解を得るためのダミー構想であったとの見方があるが、石井はこれを否定している[97]。また、国鉄在籍時に東海道新幹線建設に従事した長尚は、高橋団吉著『新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語』の「じつは、貨物新幹線を走らせる気は、最初からなかったのである。」という記述に対して「東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない」としている[99]。
東海道新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)は、N標準活荷重(貨物列車荷重)とP標準活荷重(旅客列車荷重)とからなっていて、平成14年(2002年)に改正されるまで、この基準は生きていた。
貨物駅のための用地買収が各地でなされていた。
貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収など無駄なことはしなかったはずである。
東海道新幹線開業後の昭和40年3月15日の国会の法務委員会で、国鉄常務理事が「国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております」と答弁している。
JTBキャンブックス『幻の国鉄車両』 pp. 46 – 52 には、コンテナ電車他各種車両のメトリクスや編成図が掲載されている。
石井は将来的には人口減少により旅客輸送の需要が減りダイヤに余裕が出来るため、最高速度を200km/h程度に抑えた夜行貨物列車が可能となると主張し、新型の導入で余剰となった旧型車両を改造してヤマト運輸のロールボックスパレットを搭載出来るようにした図面を公開している[100]。
山陽新幹線における検討[編集]
山陽新幹線建設の際に「路線の有効長は、将来の貨物運行を考慮して500mとしている。」[101]また、仁杉巌は「いずれ新幹線による貨物輸送をもとめる声も高くなってくるだろうと思いますが、そのときは、おそらく新幹線が関西よりももっとさきへのびたときではないかと考えられます。つまり、現在建設中の山陽新幹線が下関までのびたときとか、博多までのびたときとかです。」[102]と記している。なお、泉幸夫貨物局長は、博多開業前に「東海道新幹線を作りましたときに、将来は貨物もコンテナ輸送をやるという前提がありました。昭和34年に登場した5トンコンテナも、今縦積みにすれば、新幹線で使えるようにできているわけです。しかし、その後、100キロ貨車が開発され、東京 - 大阪間は、8時間で走るようになりましたから新幹線の貨物輸送は将来博多まで延びたときに、検討するという感じだったのです。その博多開業時期も大体きまってきたわけですが、貨物局を中心に勉強しまして、100キロ程度を出せるコキ車を使うと、博多から東京までといっても、そう時間に大きな差があるわけでもないことと、新幹線で5トンコンテナを運んでみたところでフリークェンシーに富んだ輸送は必ずしも期待できないこと等から、現時点では新幹線による貨物輸送は原則として考えていないのです。」[103]と述べている。
東北・上越新幹線における検討[編集]
東北・上越新幹線建設の際にも貨物輸送の可能性が検討されたが、迅速性を優先されるという物資の輸送では航空貨物との競合が避けられずしかも貨物シェア自体が小さいこともあって、基本規格は東海道・山陽新幹線に準じることとして将来の可能性を残す形で見送られた[注 12][104]。
レールゴーサービスの拡大案[編集]
1981年から、東海道新幹線で「レールゴーサービス」という小荷物などの運送がおこなわれていた。1982年には郵政省からの提案で、1985年頃には国鉄内から、これを拡大した郵便・貨物輸送が計画され、車両の設計図面まで存在していたが、いずれも実現しなかった[105]。
北海道新幹線における検討[編集]
2005年(平成17年)から建設が始まった北海道新幹線は、青函トンネルとその前後の区間を在来線の貨物列車と共用するため、同区間では片道あたり新幹線・貨物それぞれ2本/時しか走らせることができないと予想されている。JR北海道ではこのボトルネックを緩和する方法の一つとして、在来線の貨車をそのまま搭載する専用列車(トレイン・オン・トレイン)の研究を行っていた[106][107]が重量の問題から、E5系やH5系をベースにした貨物専用の新幹線車両の開発を検討している[108]。
JR旅客各社による貨客混載の事業化[編集]
「貨客混載」も参照
2020年以降、新型コロナウイルス感染症の社会・経済的影響で、新幹線の利用が大幅に減少し減収が続いているため、JR旅客各社では新幹線による荷物輸送の事業化に乗り出している[109][110]。これらは台車に乗せた荷物を使われていない座席と座席の間に置くなど、既存の客車をそのまま利用しているため大型の貨物には対応できず[109]、常温輸送となるため梱包に手間がかかり、青森から大宮までホタテを輸送した例ではトラックの4 - 5倍のコストがかかるなど不利な点も多い[93]。しかし高速ながら事故率の低さと定時性の高さがあるため、水産物や電子部品など特性にあった小荷物の高速輸送に使われている[111][93]。
JR東日本は、2017年から不定期で地域の特産品などを新幹線で運び駅ナカの見本市などで販売する取り組みを行ってきた[112]。2018年には、日本郵便と共同で、宮城県で収穫された農産物を東北新幹線で東京駅まで輸送して、東京駅でのイベントで販売したり[113]、2019年には、新潟県で水揚げされた海産物を上越新幹線で輸送し、品川駅の鮮魚店で販売したりする[114]試みや、2020年には、弘前市で収穫されたトウモロコシを朝に新青森駅で積み込み、当日に東京駅で販売するなど小口の高速輸送の手段[注 13]として検証が行われている[115][116]。2020年10月からは仙台駅 - 東京駅間の輸送を定期化した[112]。現在では駅ホームで積み込みが行われているが、作業スペースが狭く時間の制限もあるため、車両基地へ貨物を搬入し積み込みを行うなど効率化の試みもなされている[93]。
JR西日本も、JR東日本と連携して、北陸エリアの特産品などを北陸新幹線で首都圏に輸送する事業を拡大することを表明した[112]。JR西日本は、JR九州とも連携して、山陽・九州新幹線を活用して九州の特産品などを関西へ輸送する実証実験を2021年2月から開始する[112]。新大阪駅で荷物を降ろした後、在来線に積み替えて大阪や京都に輸送する貨物輸送の事業化を目指と発表した[112]。2022年11月4日には客車による即日配送を行う特産品ブランドを「FRESH WEST」と命名し[117]、19日から朝に鳥取県の境港市で水揚げされたズワイガニなどを米子駅から特急に乗せ、途中で新幹線に積み替えて新大阪駅へ輸送し駅ナカで販売する事業を開始した[111]。
JR北海道とJR九州も、それぞれ佐川急便と提携して宅配荷物を新幹線で輸送する事業を構想している[112]。JR北海道では、北海道・本州間(新函館北斗駅 - 新青森駅)で客室内に宅配荷物を収納した専用ボックスを積載して輸送する方式で、早ければ2020年度内にも正式に事業化する予定[112]。JR九州も、九州新幹線の博多駅 - 鹿児島中央駅間の上下で車内の余剰スペースに佐川急便の宅配便荷物を収納した専用ボックスを積載して輸送する貨客混載事業を2021年5月18日から開始し[118]、また旧車販準備室を使用する荷物輸送サービス「はやっ!便」を同日に開始した[119]。
国、JR貨物とJR旅客各社による貨物新幹線の検討[編集]
2021年1月8日、日本貨物鉄道(JR貨物)は、現在進行中の「JR貨物グループ中期経営計画2023」に続く長期計画として「JR貨物グループ長期ビジョン2030」を発表した[120][112]。JR旅客各社と連携して「貨物新幹線」の検討を進め、期間中に実現したい考えを示した[120][112]。「物流イノベーションや既存鉄道インフラの有効活用(人流・物流の一体化による鉄道事業の持続性向上)として貨物新幹線の検討を推進」という文言で、貨物新幹線の事業化に言及している[121]。
2022年、国土交通省は、深刻なトラックドライバー不足(2024年問題)や2050年までのカーボンニュートラル実現に向けた対応の必要性など、物流における諸課題の解決を図るため、「今後の鉄道物流のあり方に関する検討会」を設置した[122]。7月28日に開かれた第5回の会合では、鉄道貨物の輸送量拡大やJR貨物の経営自立支援に向けた提言の中間とりまとめを行った[123]。提言では「貨物鉄道の輸送モードとしての競争力強化」「貨物鉄道と他モードとの連携」「社会・荷主の意識改革」の3つの視点から14の課題を抽出した[123]。貨物鉄道は、航空機やトラックと比べて、ドアツードアではリードタイムや輸送品質の面で十分に競争力がある輸送サービスを提供できていないが、新幹線の貨物輸送の拡大によって競争力を強化することを課題の1つに挙げている[123]。新幹線は旅客輸送に特化する前提で整備されてきたが、近年は一部で貨客混載輸送が行われ、宅配便、鮮魚・鮮果、半導体といった付加価値の高い品目の輸送において、新たな市場を開拓しつつある[111][124]。将来的に、新幹線の貨物専用車両による高頻度の大量高速輸送を実現できれば、日本の物流においてイノベーションを引き起こす可能性があり、新たな輸送ニーズや市場の開拓を通じた日本経済・地域経済の成長への貢献、航空機やトラックからのモーダルシフトによる地球環境への貢献の可能性も出てくる[124]。一方で、大量輸送と高速走行を兼ね備えた車両の新規開発、積み替え技術の開発と必要な施設の整備、乗入れ区間、旅客列車とのダイヤ調整、安全確保のための方策、運行主体や費用負担など、多くの課題があることが指摘されている[124]。国、JR貨物、JR旅客会社等の関係者による調査を行って課題を整理した上で、まずはJR貨物が中心となって、線路容量に余裕がある路線における走行を念頭に置いた、高速走行と大量輸送の両立が可能な貨物専用車両の導入の可能性を検討する必要があるとしている[124]。
運賃・特急料金[編集]
運賃[編集]
新幹線の運賃は、並行在来線の営業キロを元に決められる。これは元来新幹線が並行在来線の別線増設として建設されたという歴史的経緯や、運賃計算の繁雑化を避けたことによるものである。詳しくは以下の通り。
注:この節での(運賃・料金計算のための)「並行在来線」とは、東海道新幹線では東海道本線、山陽新幹線では東海道本線・山陽本線・鹿児島本線、東北新幹線の東京駅 - 盛岡駅間では東北本線、上越新幹線では(東北本線)・高崎線・上越線・信越本線、九州新幹線の博多駅 - 新八代駅間、川内駅 - 鹿児島中央駅間では鹿児島本線、西九州新幹線の諫早駅 - 長崎線間では長崎本線のこと。
新幹線と並行在来線は原則として同一路線とみなされる(「幹在同一視」)。そのため、新幹線を利用した場合と在来線を利用した場合とで基本的に運賃は変わらない(後述するように例外もある)ので、在来線用の乗車券に特急券を買い足すことで、新幹線を利用できるようになる。
並行在来線と接しない新幹線駅については、それに最も近い(もしくは対応する)並行在来線の駅に相当するものとして営業キロを定める(例:新花巻駅は花巻駅の営業キロを用いる)。
並行在来線(の一部)が廃止されたり第三セクター鉄道に転換されたりして「並行するJR線」が消滅した区間(北陸新幹線の高崎駅 - 敦賀駅間・東北新幹線の盛岡駅 - 新青森駅間・九州新幹線の新八代駅 - 川内駅間)については、実際のキロ数を営業キロとする。
幹在同一視の原則により、片道乗車券の経路に新幹線とそれに対応する区間の並行在来線の両方を含むことはできない。
一方、新幹線と並行在来線とを完全に同一視すると旅客にとって不利になる場合を考慮して、以下のような例外がある。
並行在来線と接しない新幹線駅を含む区間(例:品川 - 新横浜 - 小田原)については別の路線として扱う。ただし、乗車券の発駅・着駅・他線との接続駅のいずれかが当該区間内(両端を除く)の駅である場合に限る。
また山陽新幹線の新下関駅 - 小倉駅 - 博多駅間については、新幹線(JR西日本)と在来線(JR九州)とで管理する会社が異なることから、他の区間とは扱いが異なっている。
基本的には同一の路線として扱うにもかかわらず、運賃が異なる。
JR九州管内となる下関以西の在来線では乗車距離に応じた加算額が課されるのに対し、JR西日本管轄の新幹線ではそれがないため。
運賃が異なることに起因して、片道乗車券の発売条件の判定がかなり煩雑である。規則を厳密に解釈すると、条件によっては片道乗車券でも連続乗車券でも発売できない経路が存在する。
詳しくは、旅客営業規則第16条の2、第16条の3および第16条の4を参照。
JRグループ旅客営業規則 - JR東日本
特急料金[編集]
新幹線(山形・秋田新幹線を除く)の特急料金は、乗車券や在来線の特急列車のような対キロ制ではなく、各駅の区間ごとに決められた、いわゆる三角表方式となっている。
新幹線と在来線の乗り継ぎについては、一定の条件で在来線の特急・急行料金を半額に割り引く制度がある(乗継割引)。これは、新幹線が開業する前は1本の(特急等の)列車で済んでいたものが、開業したことによって複数の(新幹線と特急等の)列車に分割されることによる合計後の特急料金等の負担増を軽減することをそもそもの目的として設けられたものである。
なお山形新幹線と秋田新幹線については、新在直通運転を行うため特殊な特急料金を設定している(「山形新幹線#運賃と特急料金」および「秋田新幹線#運賃と特急料金」を参照)。
営業上の競合など[編集]
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年10月)
飛行機との競合[編集]
長距離輸送においては、従来から国内線との競合が続いていたが、航空会社の規制緩和による各種割引運賃の導入(早割、特割、激割など)や旅行業者と連携しての宿泊料金込みの格安プランの販売、および格安航空会社の参入等により、競争は一層激化している。
また、航空会社によるマイレージサービスの存在も大きく影響している。これは高頻度の利用客に対し通常より多いボーナスマイルや専用ラウンジの用意、渡航先宿泊の割引などの高いサービスを与えて優遇する制度であり、利用者の大きな支持を得ている。鉄道側でも、例えばエクスプレスカードの場合、会員に対しポイントシステムを開始しているが、そのサービス内容や、高頻度利用客への優遇サービスは格段に異なっている。
航空会社との対抗については、航空路線と競合する区間を中心に割引率の大きい特別企画乗車券の発売や、ビジネス客の多い東海道・山陽新幹線ではJR東海エクスプレス・カードとJ-WESTカード(エクスプレス)による「エクスプレス予約」、東北・山形・秋田・北海道・上越・北陸新幹線では「えきねっと」といった、運行会社自身の会員制インターネット予約による割引特急券の発売が行われている。とりわけ2006年(平成18年)の神戸空港や北九州空港の開港は、競合する東海道・山陽新幹線への影響が大きく、「エクスプレス予約」の山陽新幹線への拡大、N700系車両の共同開発など、それまで対立の多かったJR東海とJR西日本両社は連携を強化する体制に転換しつつある。一方、航空会社も東京 - 大阪間でのみ使える予約変更自由、航空会社選択自由のシャトル便往復割引を導入して迎え撃っているほか、羽田空港の滑走路増設による発着能力増強や、横田空域の一部返還により、更なる所要時間短縮による競争力強化が見込まれている。また、京浜急行電鉄や名古屋鉄道といった空港連絡鉄道路線を持つ鉄道各社との連携も行っている。
山陽新幹線においては、終点である博多駅と福岡空港がほぼ隣接している(地下鉄で2駅、5分前後)という特徴もあり、福岡 - 名古屋間では新幹線と航空会社との競争が非常に激化している。福岡 - 大阪間は従来競争が激しかったが、「ひかりレールスター」の登場などにより、鉄道側が優位に立っている。さらに2011年の山陽新幹線と九州新幹線の直通運転開始により、従来は航空側が優位であった大阪 - 熊本・鹿児島間でも、新幹線と航空会社との競争が激化し始めている。
また、2015年の北陸新幹線金沢延伸後は東京 - 金沢間でも新幹線と航空会社(小松空港発着)との競合が激化し始めている。
このように競合している一方で、新幹線が災害や事故などで運転を見合わせた場合などには、航空路は新幹線の代替交通機関としての機能も果たしている。
他の鉄道との競合[編集]
私鉄特急との競合[編集]
東海道新幹線の開業以来、新幹線と競合した私鉄特急としては、近畿日本鉄道(近鉄)、小田急電鉄、名古屋鉄道(名鉄)の特急があった。
私鉄特急はいずれの場合も、所要時間では新幹線と比較して大きく不利なので、割安な運賃・料金、駅の立地、車内の居住性などで対抗することになった。
近鉄特急との競合
直接の競合は、名古屋 - 大阪間で見られる。大阪側では、新大阪駅から離れたミナミに対して、乗換を必要としないエリア(難波、鶴橋など)があることなどから、近鉄特急にも優位性がある。
競合は1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業時に始まる。当初は運賃・料金でも差が小さかったことや、所要時間の大幅な差などから利用客を新幹線に次々と奪われた。大阪万博のあった1970年(昭和45年)を除き、1970年代前半までは低迷が続き、近鉄の名阪ノンストップ特急(甲特急)は汎用車両の2両編成による運行を余儀なくされた。一時は単行車両の導入も検討されたといわれている[注 14]。
しかし、1970年代後半以降は、国鉄の頻発する運賃・料金の値上げとストライキに対する嫌気から、名古屋 - 大阪間においては、特に急がない個人客を中心に、新幹線から近鉄特急への乗客移行が多く見られた。その結果、1980年代に入ると同区間の近鉄特急も3両編成、後には6両編成にまで復調したが、運用される車両は汎用車両のままであった。
その後、100系車両の投入(1985年)とJR東海の発足(1987年)による東海道新幹線の競争力強化を受けて、1988年(昭和63年)に近鉄特急も新型車両「アーバンライナー」を投入し、2000年代には更なる新型車両「アーバンライナーnext」投入や「アーバンライナー」の「アーバンライナーplus」へのリニューアルを実施、運賃面でも割引乗車券の名阪まる得きっぷを導入するなどして、主に運賃面と快適性をアピールした。
なお、伊勢志摩・奈良方面など新幹線と競合しない区間では、むしろ東海道新幹線と近鉄特急は補完関係となっている。1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業で、近鉄は自社特急網を新幹線の培養ルートとして育成し、新幹線で大阪・京都・名古屋に到達した旅客を自社沿線の観光地へ誘致する戦略を採った。伊勢志摩方面では在来線列車「みえ」との競合も多少見られるが、JR東海の特別企画乗車券の中には、新幹線と接続する京都駅から奈良方面への移動にJR西日本の奈良線ではなく、近鉄線を指定しているものも存在する。
なお、上述した歴史的経緯の詳細は、近鉄特急史に詳しい。
小田急特急との競合
東京 - 小田原において、「はこね」などとの競合が見られる。ただ、運賃格差の大きさと箱根方面への輸送を含むというその性質の差、それに東京側ターミナルの違い(新幹線・東京駅、小田急・新宿駅[注 15])などが作用して、棲み分けがされている。
東海道新幹線を運営するJR東海とは、国鉄時代から継続して小田急から御殿場線に乗り入れて新宿 - 御殿場間を運行する「ふじさん」(2018年までは「あさぎり」。一時は運行区間を新宿 - 沼津間に拡大し、専用車両として371系・20000形RSEを開発して共同運行を行っていた)を設定するなどしており、対立関係は見られない。
名鉄特急との競合
愛知県の名古屋 - 豊橋について競合が見られるが、JR東海は並行する東海道本線において新快速などを運行しており、むしろこちらが名鉄特急との直接の競合関係にある。なお、この区間の新幹線利用を促進するために、在来線用の「名古屋-豊橋カルテットきっぷ」と併せて使うと新幹線に乗れる「カルテットきっぷ専用新幹線変更券」が販売されている。
JR(国鉄)同士 の競合[編集]
国鉄時代、新幹線に並行する在来線特急と競合したものの、同一事業者よる運用として一般的には「競合」とはみなされていなかった。しかしながら、国鉄民営化後は新幹線と在来線特急が別会社によって運用されるケースが発生し、営業的にも競合関係となった。具体的な例は以下の通りである。
山陽新幹線の小倉 - 博多間がそのひとつである。JR西日本(山陽新幹線)は博多駅発着の「のぞみ」などを増発し、朝晩の通勤時間帯を中心に小倉 - 博多間のみの「こだま」も設定している(詳細は山陽新幹線#福岡県内を参照)。また、土休日には新幹線よかよかきっぷを販売しており、在来線特急の2枚きっぷと大差ない運賃で利用できる。一方、JR九州(鹿児島本線)では特急「ソニック」「きらめき」の増発、特急料金の値下げや885系・883系・787系の投入などで対抗していたが、2010年代に入り日中の「きらめき」の廃止や在来線普通・快速と大差ない運賃で利用できる「10枚きっぷ」の廃止などが行われ、新幹線に対する優位性が低下している。2018年には鹿児島本線の快速の減便(博多駅近郊のみの区間快速化)も行われており、小倉 - 博多通しの需要ではなく、新幹線の利用が不便な途中駅からの需要を担う路線にシフトしつつある。なお、鹿児島本線の小倉 - 博多間は輸送密度(平均通過人員)がJR九州内で最大の区間となっている(2016年度)[125]。そのほか、この区間には西鉄バスによる低廉(片道1,130円)な予約不要の高速都市間バス「ひきの号」「なかたに号」「いとうづ号」も運行されているが、こちらも新幹線との競合により減便に追い込まれている。
東京・品川 - 熱海において、JR東日本・東海道線との競合が見られる。平日早朝に上り、夜間に下り特急「湘南」、を運行し、特に東京発 18 - 20時台では特急「湘南」が 00分・30分発と2本体制になっている。ただ、平日かつ早朝・夜間帯のみの運行であるため、競合の主な対象が通勤者に置かれており、日中の時間帯や休日では棲み分けがされている。また、快速・普通列車のほぼ全ての列車には2階建てグリーン車も連結されていて、小田原・熱海方面からの在来線利用の遠距離通勤者に配慮している。
他には、東京方面からの富士箱根伊豆国立公園方面へのアクセスにおける、東京・品川 - 熱海間(JR東海・東海道新幹線とJR東日本・東海道本線)の競合があげられる。両社はこの区間において在来線同士の直通運転を除き、新幹線と在来線の相互連携は特に見られず(国鉄時代から発売されている特別企画乗車券「伊豆フリーQきっぷ」で、東京 - 熱海 - 三島間で東海道新幹線あるいは在来線特急(踊り子号)自由席の利用が可能である程度)、JR東日本側では在来線特急を伊豆急行線や伊豆箱根鉄道駿豆線と東京を直通させている。
なおJR東海は熱海駅、小田原駅から東京都区内までは新幹線を利用し、東京都区内JR在来線・りんかい線が乗り降り自由となる「こだま都区内・りんかいフリーきっぷ」を2013年7月31日まで発売していた[126]。
近畿圏
米原 - 新大阪・大阪間についてJR東海が運行する東海道新幹線とJR西日本が琵琶湖線・JR京都線にて設定している新快速で競合しているが、新幹線の停車駅が米原・京都・新大阪しかなく、新幹線の利用が不便な地域が多いため競合範囲は限られている。新幹線は長距離輸送が主体で、都市圏輸送を担う新快速と棲み分けがなされている。
奥津軽いまべつ駅と津軽二股駅が隣接するJR北海道の北海道新幹線とJR東日本の津軽線については青森市側の起点が新青森駅と青森駅で異なることもあり、棲み分けられている。また、この区間は並行在来線ではないという公式見解があるほか、出発または到着駅を同一駅とした場合でも選択乗車はできない。
高速バスとの競合[編集]
高速バスは「定時性・速度では劣るが、時間・経路・発着地の柔軟性と価格で優れている」という性質がある。 そのため、長距離区間では不利となるが、中距離区間や、大都市間を初めとする区間では、夜行バスで格安で移動できることから、高速道路の整備が進んだ1980年代ごろから人気となっている。また、都心部(東京の新宿や渋谷、名古屋の栄、大阪の梅田や難波、広島の紙屋町、福岡の天神など)やテーマパーク(TDRやUSJなど)に直接乗り入れており、新幹線駅間以外でも競合している。 しかし、上述のように性質が大きく異なるため、「速さを取るか、安さを取るか」という直接的な競合というよりは、発着地、所要時間といった利用者のニーズで使い分けられている。例えば、目的地が遠く、早朝に到着する必要がある場合は、より早い時間に到着する高速バスが有利となる。早朝から(あるいは夜間の)在来線特急との乗り継ぎを要する場合はさらに高速バスが有利となる[注 16]。
その一方、在来線特急との乗り継ぎが現実的でない地域では、新幹線駅との接続に高速バスが用いられる場合もあり(B&Sみやざき等)、高速バスが競合ではなく補完の役割を担う場合もある。
その他[編集]
政治の影響[編集]
詳細は「鉄道と政治#新幹線と政治」を参照
新幹線の建設に関しては、その開業効果が大きいことから、沿線の利害に関係することとして建設時よりさまざまな政治介入がなされてきたといわれる。
最も古い話では、東海道新幹線の建設時に起こった京都駅の設置是非をめぐる問題や、大野伴睦の介入による岐阜羽島駅の設置騒動がある。ただし岐阜羽島駅の設置には、関ヶ原の降雪対策という政治的な影響力とは別の理由もあり、政治力のみで設置されたわけではないと言われている。
また逆に、一度は着工された駅新設が、その新設を争点とした選挙での県知事交代によって凍結に追い込まれた、滋賀県の南びわ湖駅の例もある。
世界の高速鉄道の呼称[編集]
日本では、新幹線という単語がすでに高速鉄道そのものを意味する普通名詞と化しているため、報道などでは日本国外の高速鉄道についても国名を付けて「○○新幹線」「○○版新幹線」「○○の新幹線」と広く呼ばれている(例:TGVはフランス新幹線、ICEはドイツ新幹線、KTXは韓国新幹線、ロシア高速鉄道はロシア新幹線、台湾高速鉄道は台湾新幹線など)。
しかし、日本の新幹線は車両・軌道・架線・信号 (ATC) などを総合した独自のシステムであり、ミニ新幹線を除けばヨーロッパのように在来線と相互乗り入れしているわけではなく、他の高速鉄道システムとは区別することがある。英語では、日本の新幹線は Shinkansen と表記されるように、新幹線とは日本の高速鉄道システムの固有の名称として取り扱っている。技術的には、他国の高速鉄道と異なり在来線とは独立したシステムとなっているのが特徴で、動力分散方式など独自性が強いのも特徴である。もっとも、車両が新幹線とほぼ同一であるなど仕様が近い台湾高速鉄道に関しては、現地でも高雄捷運の日本語アナウンスなどで「台湾新幹線」と呼称している例も存在し、同鉄道の建設の際に機電システムを請け負った日本連合7社が設立した合弁会社は「台湾新幹線株式会社」と名乗っていた[127]。
夜行新幹線計画[編集]
山陽新幹線開通前に「夜行新幹線」も計画され、山陽新幹線技術基準調査委員会報告(1966年)では、東京から博多の間を一晩に計24本で運行した場合、片道平均5,000から7,000人の需要があると見込んでいた。新幹線の夜間運行は片側1路線を運用し、もう片側の路線は保守点検して運行するという計画であった。また当時は四国新幹線や中国横断新幹線の計画も含め衝突を避けて夜間運行を実現させるために姫路駅の新幹線13番ホームを待避線に、待避駅として西明石駅・相生駅が建設された[128]。しかし名古屋新幹線訴訟などの新幹線の騒音問題が浮き彫りになったことや国鉄分割民営化で夜行新幹線の計画は実現しなかった。
大規模なイベントにあわせて、臨時列車として夜行新幹線が運転されたことはある。2002 FIFAワールドカップの際には東海道新幹線・上越新幹線で深夜帯に臨時列車が運転された[129]。2020年東京オリンピックでは、宮城スタジアムで行われるサッカー競技の試合に合わせ、東北新幹線の仙台駅 - 盛岡駅間、仙台駅 - 東京駅間で臨時の夜行新幹線を走らせる予定があったが[130]、新型コロナウイルス感染症の流行拡大に伴い、宮城では有観客の開催となったものの、感染拡大防止の観点から夜行新幹線の運転は中止され幻となった[131]。
大阪産業大学工学部の波床正敏・井上喜裕らのように、新幹線の夜行運行の適用可能性を環境負荷と発着時間帯の観点から検討し、発着時間帯の設定自由度が従来の夜行列車より高く有望であるとする考えもある[132]。
駅での新幹線案内サイン・駅名標[編集]
新幹線が乗り入れる駅において、駅構内の表示では、ピクトグラムとして国鉄時代は0系・200系を元にした絵(丸型の先頭車両)が描かれていた。JR東日本の東北・上越新幹線の駅、および東京駅での東海道新幹線乗り場案内サイン(JR東日本構内)は現在もこれを踏襲している。しかし、JR東海と西日本では、その後登場した車両の絵を用いている。
地下鉄など国鉄・JR以外の駅では、乗り換え表示に「JR線」と表示するのではなく「JR線・新幹線」と新幹線を在来線と分けて記載する例がみられる。
新幹線の英語表記の案内表示では、表記が統一されていないものがある。たとえば、「新横浜」をShin-Yokohamaと表記しているところもあれば、Shin-yokohamaと表記しているところもある。この点は専門家の間でもまとまった意見は出ていないのが現状である。
開業当初より1970年代中頃までの東海道新幹線では、在来線と異なり同線の独自仕様の駅名標を採用した。様式としては在来線の駅名標と比較して横長となり、また漢字と全大文字のローマ字表記のみとして、平仮名表記を省略し、さらに在来線の駅では下部に書かれている前駅と次駅の表示も廃止した[注 17]。同じく開業当初の山陽新幹線でも独自仕様の駅名標が採用されたが、こちらは東海道新幹線とは異なり、漢字と全大文字のローマ字表記の自駅表示に前駅と次駅の表示を追加したものであった。しかし東北・上越新幹線以降の新幹線では新幹線独自の駅名標は採用されず、東海道新幹線では1970年代後半頃から、山陽新幹線では国鉄末期からそれぞれ急速に在来線や東北・上越新幹線以降で採用された国鉄標準の様式の駅名標に順次交換され、JR発足当初にはこの駅名標は既に現存しなくなっていた。なお、JR化後はJR各社が独自の様式の駅名標を採用し、全駅それに取り換えられているため、2015年現在では新幹線では国鉄型の駅名標は皆無となっている。
警笛・走行音など[編集]
新幹線の「音」は「ビュワーン」という擬音表現が古くからよく知られ、メディアなどでも取り上げられることが多かった。新幹線を用いた旅行という設定のCM、童謡『はしれちょうとっきゅう』(作曲:湯浅譲二、歌・作詞:山中恒)の歌詞などである。これを新幹線の走行音と思う人も多かったが、実際は走行中の主に高速走行時の警笛音である。なお、この音で新幹線がイメージされることは1980年代以降薄れ、100系以降の東海道・山陽新幹線車両や東海道・山陽新幹線以外の新幹線についても、この音がメディアなどで取り上げられることは少なくなった。
実際の新幹線の走行音は、低速運転時(少なくとも110 km/h以下)の場合は在来線の走行音より静かである。これはロングレールの多用によりレールの継ぎ目が少ないことや、在来線車両よりも歯数比が低く、同じ速度であれば電動機がより低速で回転することなどに起因している[注 18]。
走行音の発生源としては車輪や架線、車体前面や側面・上面の突起物による風切り音(空力音)がある[注 19]が、300 km/h近くなると空力音がその大半を占めるようになる。そのため高速走行には「新幹線車両」で述べたような空力音対策が必要とされる。
トンネル突入の際、圧縮された空気により、退出側の坑口周辺ですさまじい騒音が発生する。トンネル微気圧波による騒音であり、圧縮波とも呼ばれている(通称「トンネルドン」)。上記に同じく、対策が必要とされる。
列車ダイヤ[編集]
新幹線については、異常時を除き午前0時から午前6時までの列車の運転を営業・非営業列車を問わず実施しておらず[注 20]、保線作業のための時間に充てられている。このため、始発列車に使われる車両は、前日の深夜に整備済みの編成を車両基地から駅に回送し、そのまま夜間滞泊させる場合が多い。ただし、北海道新幹線の青函トンネル界隈の区間では、在来線と共用しており、在来線の貨物列車は午前0時から午前6時までの間にも運転されている。また、在来線に直通する山形新幹線及び秋田新幹線の在来線区間(福島駅 - 新庄駅間、盛岡駅 - 秋田駅間)では運行時間帯の制約がなく、この時間帯にも運転される列車がある。
営業主体の根拠[編集]
法律面では新幹線の営業主体を特定していないが、運営がJRグループに継承されている理由としては、
新幹線の経営には莫大な費用がかかり、それを負担できる資本力があるのは旧国鉄の業務を継承したJR各社しか存在しない。
旧国鉄には、東海道新幹線、山陽新幹線、東北新幹線、上越新幹線を経営してきた実績があり、それがJR各社に分割民営化されたことで、運営を知る人材を持つJR各社に引き継がれた。
ということが挙げられる。
地名における「新幹線」[編集]
静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が存在する。これは昭和30年代の新幹線計画にちなむものではなく、戦前の弾丸列車計画時代のものである。弾丸列車計画時代に新丹那トンネルの工事を行うための従業員宿舎が置かれた場所で、工事終了後に宿舎は撤去されたが、その後同地に住宅団地が建てられ「新幹線」という地区が生まれることとなった。この地区には新幹線公民館や「幹線下」という名のバス停も存在している。
東京都国分寺市の鉄道総合技術研究所のある場所の地名は「光町」である。国分寺市が1966年に町名整理を行った際、同研究所での新幹線開発と1964年の東海道新幹線開業を記念し、列車愛称「ひかり」にちなんで旧地名の平兵衛新田から改称したものである。由緒ある旧地名のため研究所は地元市民との交流の機会にもなっている一般公開を「平兵衛まつり」と名付けている。
送電線名における「新幹線」[編集]
鉄道路線ではなく、送電線の名称に「新幹線」と付けられたものがある。例として、猪苗代新幹線・飛騨新幹線等があり、いずれも東海道新幹線が開通する1964年(昭和39年)よりはるか以前の大正末期から昭和初期に開通しており、「新幹線」の語を最初に使ったのは旧国鉄ではなく電力会社である。
イベント列車[編集]
新幹線が走っていない四国旅客鉄道(JR四国)では、2014年より予土線でキハ32形気動車を改造した“新幹線風の”車両「鉄道ホビートレイン」が走っている。非電化区間を走行するために、モーターではなく、ディーゼルエンジンを動力にしている。車内には0系風の転換座席を2脚設置したほか鉄道模型も展示されている。また、汽笛は新幹線のものと同じ音が鳴る。
新幹線を題材にした曲[編集]
この節の加筆が望まれています。
「東海道新幹線#開業記念歌」も参照
『ヤッホー!しんかんせん』(作詞:伊藤アキラ、作曲:SHIKAMON、歌:おがわみと) - フジテレビ「ひらけ!ポンキッキ」
『新幹線でゴー!ゴ・ゴー!』(作詞:青島利幸、作曲:赤坂東児、歌:横山だいすけ・三谷たくみ) - NHK教育「おかあさんといっしょ」2011年6月の今月の歌
『GO SHINKANSEN!』(CHERRY & LUKE) - 日本では「SUPER EUROBEAT VOL.202」に収録されている。
『ひかり』(作詞:百田夏菜子(ももいろクローバーZ)、作曲:岡田実音・百田夏菜子、歌:百田夏菜子) - 東海道新幹線に乗車中の心情を表現しており、歌詞の中に「ひかり」「のぞみ」「こだま」が登場する[134]
キャンペーン[編集]
東北新幹線の八戸駅 - 新青森駅間開通(2010年12月4日)、および九州新幹線の博多駅 - 新八代駅間開通(2011年3月12日)に合わせて、北海道旅客鉄道(JR北海道)・四国旅客鉄道(JR四国)も含むJRグループ旅客6社共同企画として、2010年12月15日より2011年3月31日まで『THE 新幹線』キャンペーンが行われた。キャッチフレーズは「日本とともに、走り続ける夢がある」。期間中は、新幹線の駅などをチェックポイントとし、携帯電話のGPS機能を活用したモバイルラリー「“THE 新幹線”ポイントラリー『日本列島縦断 チャレンジ新幹線!』」や、JRグループの鉄道・旅行情報サイト「トレたび」でのスペシャルサイトの開設などが行われた。
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
^ ただし山形新幹線の施設の一部は山形ジェイアール直行特急保有が所有していた。
^ a b 1997年(平成9年)10月1日の開業当初は東京駅 - 長野駅間の開業であり北陸には到達していなかったため、駅や時刻表などでの案内上は「長野行新幹線」、のちに「長野新幹線」の呼称が用いられた。2015年(平成27年)3月14日に金沢駅まで延伸されたため、案内上も正式名称の「北陸新幹線」となった。
^ 軌道回路には1000Hzの高周波を搬送波として流している、地上装置は開業当初のものである。
^ 三相交流式の電源系統から単純に2線を引き出して単相の大電力を利用すると、三相交流側に不平衡な電圧が生じ逆相電流によって過熱などの障害が発生する危険性がある。
^ 『新宿駅線群の下を抜く 地下鉄10号線シールド』「トンネルと地下」1978年3月号には都営新宿線と京王新線の建設にあたり、「国鉄横断部分(延長125m)については、新幹線新宿乗り入れなどの将来構想を考慮して32/1,000の急勾配で下り、貨物線の下に至る」と記載されている。また、1976年(昭和51年)12月に行われた国鉄の第27回停車場技術講演会で発表された『新宿駅将来計画』には山手貨物線下の地下3階に3面6線の平面図が掲載されている。
^ 新京阪鉄道は、最終的な目標として名古屋までの延伸も視野に入れて建設され、名阪間を最高速度120 km/h、所要時間2時間で結ぶ構想も持っていたが、疑獄事件や不況などの影響もあって名古屋延伸構想は挫折した(名古屋急行電鉄の記事も参照)。
^ 過去、実際に東海道新幹線の車内において、1993年には覚醒剤中毒者が刃物で別の乗客を殺害した事件が、2015年には乗客が車内に持ち込んだガソリンによって焼身自殺を図るという東海道新幹線火災事件が、2018年には鉈を持った乗客が別の乗客ら3人を切りつけ、1人が死亡する事件が、それぞれ生じている。他にも、1967年には高校生によって「ひかり21号」の一等車座席下に爆弾が仕掛けられる事件が起きたが、この時は爆弾は車掌によって発見されたため事件は未遂に終わっている。
^ 前年に西ドイツ国鉄がアウクスブルク - ミュンヘン間で200 km/h運転を行ったが、短期間で中止しており、長期間にわたって行なわれたものとしては「ル・キャピトール」がヨーロッパ初である。
^ 現在九州新幹線に使用されている800番台の形式番号は、元々は貨物用新幹線車両の形式に予定されていたものである。
^ 雪害対策等で軸重が増加したことから、貨物輸送の有無での建設費用の差を考慮する程ではなくなったこともある。
^ かつて農作物を消費地へ迅速に輸送する手段として、農道離着陸場を利用した小口の航空輸送事業が行われたが採算が合わずに終了している。
^ ただし、1974年 - 1982年に行われた東海道新幹線の総点検および若返り工事に伴う半日運休日の午前中や、1975年のスト権ストで国鉄が全面運休に追い込まれた日には、名阪甲特急が4 - 6両に増結されて運転されたこともあった。
^ この性質を指摘した例…BizStyle 〜ビジネスマンの高速バス活用術〜:琴平バスの比較広告。「夜間に移動するため、現地で早朝から遅い時間まで行動できる」と言う点で新幹線や飛行機に対する優位性が示されている。
^ この様式の駅名標は、東海道新幹線50周年記念で発行された各書籍の開業当時の駅構内の写真や1960年代中頃から1970年代中頃にかけて発行されていた鉄道雑誌の一部の頁で確認することが可能である。
^ 特に埼京線では、平行する東北新幹線よりも騒音が大きいと苦情が多数寄せられ、開業からわずか5年で新型車両(205系)に入れ替えなければならない事態となった。なお、新幹線側は当初から走っている200系が20年以上経った2013年まで同区間を走行していた。
^ 初期の0系時代にはパンタグラフの摺動音と電気火花による音もした。
^ ただし、車両基地と最寄り駅間の短距離区間については、この前後の時間に運行されることがある。例えば、2011年3月12日改正(九州新幹線全線開業)時の東海道・山陽・九州新幹線では、5時42分に熊本総合車両所を発車する回送が最も早く、0時18分に博多総合車両所及び熊本総合車両所に到着する回送が最も遅くなる[133]。
出典[編集]
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外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、新幹線に関連するメディアおよびカテゴリがあります。
JR東日本
JR東海
東海道新幹線 開業50周年記念サイト - ウェイバックマシン(2015年3月14日アーカイブ分)
JR西日本
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キャラクター
60の言語版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「キャラクター」のその他の用法については「キャラクター (曖昧さ回避)」をご覧ください。
キャラクター(語源:character)は、小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲーム、 広告などのフィクションに登場する人物や動物など(登場人物)、あるいはそれらの性格や性質のこと。また、その特徴を通じて、読者、視聴者、消費者に一定のイメージを与え、かつ、商品や企業などに対する誘引効果を高めるものの総体[1]。
概説[編集]
人間や動物のような生物や、生物を模したロボットに限らず、さまざまな道具、時には生物の器官、星や元素、さらには感情や自然、国家など、ありとあらゆる概念は擬人化とデフォルメを介することでキャラクター化されうる。略してキャラとも言われる。
「キャラクター」の語源である英語の「character」という語の本来の意味は、「特徴」「性質」などであり、元の語源はギリシャ語で「刻まれた印、記号」。その意味での用例として、似た性質を持つ人物が社会集団に複数いる状態を『キャラがかぶる』と表現することがある。また、人物を意味する場合も本来は架空の登場人物とは限らず、日本語でもCMキャラクターなどは実在の人物をさす用例も多い。
日本語において、架空の登場人物を指す「キャラクター」という言葉は、1950年代にディズニーのアニメーション映画の契約書にあった「fanciful character」を「空想的キャラクター」と訳した際に誕生したとされている[2]。
登場人物としてのキャラクター[編集]
通常は物語を構成するために位置づけされる登場人物のことを指す。物語に関与しない群集(モブキャラクター)や通行人などがキャラクターと呼ばれることは少ない。キャラクターには必要に応じて外見的特徴や内面的特徴(具体的には体格、服装、職業、経歴、特技、欠点、口癖など)が設定される。
広く大衆性を獲得した場合、そのキャラクターは帰属する集団の一般的イメージを再定義する[3]。シャーロック・ホームズなどのいわゆる名探偵から連想される探偵像は、現実の21世紀初頭における探偵とは乖離したキャラクター像となる。また、実在した人物を題材にして作品が作られた場合も、実際とは程度の差こそあれ、かけ離れた人物像が広く認識されることもある。たとえば宮本武蔵または坂本龍馬の一般的イメージは、吉川英治や司馬遼太郎の小説作品による影響を色濃く受けている。 また、企業などの放送コマーシャルやポスター媒体の広告モデルとして起用されるタレント・俳優・モデルらのことを「(商品名・または企業名)イメージキャラクター」として紹介される事例も多い。
キャラとキャラクター[編集]
漫画評論家の伊藤剛は、その著書『テヅカ・イズ・デッド』にて、図像として描かれて「人格のようなもの」を想起させ、作品を離れて自律化しうるキャラと、それをベースとしてテクストの背後に人生や生活を感じさせるものとしてのキャラクターを使い分けている。そして、例えば「『NANA』はキャラクターは立っているがキャラは弱い」というように、キャラクターとしての強度とキャラとしての強度は一致しないとしている(『NANA』の例でいえば、登場人物の一人であるハチがあたかも現実に存在するかのように思えるという意味でキャラクターは立っているが、二次創作などを通じて原作と異なる環境でも存在感を発揮するという意味でのキャラの強度は低いと考えられる)。[4]
この「キャラクター」と「キャラ」の使い分けは、しばしば批評家の東浩紀が提示したデータベース消費と絡めて言及される。円堂都司昭によれば、データベース消費論でいうところの物語の水準が「キャラクター」でデータベースの水準が「キャラ」となる[5]。さらに、現実世界における擬似的な仮想人格としてのキャラについて論じるときも、伊藤の「キャラ/キャラクター」の使い分けが援用されることがある[注 1]。
キャラクターの商品展開[編集]
優れたキャラクターは高い人気を持ち、ぬいぐるみやフィギュアなどの玩具や置物、キャラクターの印刷された衣類や日用品、文房具などの商品によって、キャラクターの出自である作品以上の売上がもたらされることも稀ではない。
漫画やテレビなどのキャラクターを商品に印刷したり、企業のイメージアップに広告などテレビCMに使うなどすると、ライセンス料を払わねばならないためコストは上がるが企業のイメージアップや販促に有効な手段であるので、キャラクターの作成と著作権保有に力を入れている企業、団体も多い。
そのほか、公共交通機関を運営する会社に於いても、会社の所有する乗り物でキャラクターを作ったり、擬人化された動物等に会社の制服を着せる等して、それを、関係施設や切符などにプリントしたりして、イメージアップを進めていたりする。首都高の場合は『Mr.ETC』、東京急行電鉄(東急)の場合は『のるるん』福岡市交通局(福岡市地下鉄)の場合は『ちかまるくん』、京阪電鉄の場合は『おけいはん』と呼ばれるイメージキャラクターが存在する。
「ミッキーマウス」は商業的かつ世界的にも成功したキャラクターのひとつであり、多くのキャラクター商品が販売されている。ゲームの隠しキャラクターだった「うみにん」のように出自の作品の知名度は大して無かったものの、商品化によって人気を獲得する例もある。また、「ハローキティ」「バービー」「モンチッチ」のように商品であることを目的としたキャラクターも多く考案されていて、それらの中には元々背景となる物語が存在しない物もある。
対象[編集]
70年代以前はキャラクターを使った商品展開の対象は主に子供たちであったが、東京ディズニーランドのオープン以降は大人達へも広がっていき、80年代にはロボットアニメブームにより大人も対象とした商品展開が増え始めた。 近年ではアニメなどの流行により、その対象は広い世代に拡大しつつある。
例えば銀行で既存キャラクターを統一的に使用し、預金者に対しグッズをプレゼントしたりキャッシュカードや通帳に描くことでそのキャラクターのファンに顧客になってもらおうとする広い意味での広告手法は広く取られている(三菱UFJ銀行におけるディズニーキャラクター、横浜銀行におけるトムとジェリーなど)。また、近年ではアニメファンなどを対象とし、キャラクターを用いた商品展開も挙げられる(埼玉県久喜市(旧・鷲宮町)・幸手市におけるらき☆すたを起用した町おこし、秋田県羽後町における西又葵キャラ起用商品など)。
各分野のキャラクターグッズ[編集]
プロ野球
プロ野球でのキャラクターグッズの第1号はプロ野球選手のサインボールという説がある[6]。朝日新聞夕刊1985年4月12日付で「応援バット」を取り上げた記事の中で「キャラクター商品のはしりは昭和30年代前半。後楽園不動産の渡辺正吾事業部長(59)が、販売部員のとき、サインボールを手がけたのが最初という。『相撲を観に行くと、力士の手形などを土産にくれる。あれがヒントです。長嶋、王の入団で人気が出たのでいけると思った。ただ球団は嫌がるし、ベンチじゃ頼めない。百個ぐらいまとめて選手の家に持ち込み、奥さんに頼んだものです。手土産さげてね。サイン代?一個百円だったかな。飛ぶように売れて、にせものまで出る騒ぎでした」と書かれている[6]。
問題点[編集]
日本においてキャラクターを使った商品展開は深く浸透しているが、一方で以下のような批判や問題もある。
本来子供向けに展開されているウルトラマンや仮面ライダーなどの特撮、聖闘士星矢や緋弾のアリアなどの少年漫画、並びにそれらを原作としたアニメ作品などをパチンコ・パチスロにまで起用している[注 2]。一方で、パチンコやアダルトゲームなどの成人向けサービスに由来するキャラクターを子供を含む一般向けにメディアミックス展開するといったケースも多く見られ、節操のない展開が著作権の乱用ではないか、と指摘する者もいる(これらの成人向けサービスは保護者同伴でも利用不可能なため、不公平なものになる)[要出典]。
キャラクターが古い、子供っぽい、時代に合わないなどで嗜好に合わなくなったという理由で、商品自体の寿命に関わらず捨てられてゴミと化することがある。[7]『スーパー戦隊シリーズ』や『プリキュアシリーズ』などの子供向けアニメ・特撮の一部の玩具・文具・衣料・食品商品や深夜アニメの文具商品のように、商品の販促を目的とし、供給側(製作者、著作権者、メーカー(スポンサー))の都合で1クール(=3ヶ月)〜1年単位の短期間で頻繁に入れ替わるキャラクター商品で顕著に見られる。またメーカー・問屋・販売店が抱えた在庫商品についても、それらを整理するため安価での販売を余儀なくされることもある。売れ残る場合、値段が下げられない場合、食品など消費期限が短い商品が売れ残った場合は一般廃棄物や産業廃棄物となる可能性がある[8]。
市場規模・実態[編集]
キャラクター商品の小売市場規模推移(日本国内。単位:億円)[9]
1995:
17500
1996:
16500
1997:
18500
1998:
19300
1999:
20700
2000:
16800
2001:
16300
2002:
16000
2003:
17000
2004:
16420
2005:
16100
2006:
16018
2007:
15936
2008:
15406
2009:
15770
2010:
16170
2011:
16060
2012:
15340
2013:
15700
2014:
16900
2015:
16300
2016:
16000
キャラクター・データバンク [1]の調べによると、1995年以後の日本のキャラクターの小売市場(推定)の過去最高は1999年の2兆700億円であり、過去最低は2012年の1兆5340億円である。
バンダイキャラクター研究所(現:キャラ研 [2])が2000年に行った調査によると、小学生から60歳代までの日本人のうち、何らかのキャラクター商品を所有している人の割合は83.9%[10]、また好きなキャラクターがあると回答した人の割合は87.0%に達する[11]。
法律上の取り扱い[編集]
日本の著作権法上、キャラクター(の性格)には著作権を認めていない[12]。キャラクターは漫画・アニメ・小説等の具体的表現から昇華した登場人物の人格ともいうべき抽象的概念であり、具体的表現そのものではなく、著作物ではないとの判断による。
漫画に登場するキャラクターの場合、「絵」が著作物として保護される場合があるが、キャラクター(の性格)自体は保護されない。最高裁はポパイ・ネクタイ事件判決[13]でこの立場に従い、『ポパイ』のキャラクターはポパイの登場する連載漫画から独立した著作物ではない(第1回公表漫画の著作権の保護期間が満了したためポパイの絵の著作権も消滅)と判示した。
マスコット・キャラクター[編集]
団体、商品、催事などの認知度を高める手段として、マスコットキャラクターがよく用いられる。略してキャラクターとも呼ばれる。詳細はマスコットの項を参照のこと。
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
^ 権利者によっては、パチンコ・ギャンブルのように児童や青少年に不適切なものや、青少年に提供できないサービスなどに対してはライセンスを許可しないケースもある。藤子プロが管理する藤子・F・不二雄作品など。なお、キャプテン翼はアニメや原作の展開時にはパチンコ等の使用を認めていなかったが、当時のファン層が成長した2010年代になってパチンコ化を容認している。
出典[編集]
^ 穂積保『コンテンツ商品化の法律と実務』学陽書房 2009
^ 宮下真(著)、星野克美(監修)『キャラクタービジネス 知られざる戦略』青春出版社、2001年、64-65頁。ISBN 4413018273
^ 水野由多加 (2014-8). “「くまモンは広告か? : ゆるキャラ現象から見た広告と人間観の検討」”. 『日経広告研究所報』 (216): 10-17 2020年12月5日閲覧. "したがって、キャラクター自体がその広告効果により「広告」となるという認識がある。"
^ 伊藤剛 『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』 NTT出版、2005年、54頁・95-108頁。ISBN 978-4757141292。
^ 円堂都司昭 『ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー』 ソフトバンククリエイティブ、2011年、143頁。ISBN 978-4797362145。
^ a b 遠藤彰 (1985年4月12日). “(らうんじ) もう一つの戦い 商魂をかけた『応援バット』”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 3
^ 玩具以外では、布製品や文房具の廃棄率が特に高い。
^ 『たまごっち』を製造・販売するバンダイは1996年からの第1次ブームが沈静化した1999年にメーカー在庫250万個を廃棄処分した。ゲーム業界.com ゲームメーカーの失敗例
^ キャラクター・データバンク調べによる。1995年〜2003年の数字は『CharaBiz Data』2004、キャラクター・データバンク、2004年、7頁。2001年〜2010年の数字は『CharaBiz Data』2011(10)、キャラクター・データバンク、2011年、37頁。2006年〜2013年の数字は『情報メディア白書 2015』電通総研(編)、ダイヤモンド社、114頁(大元の出典は『CharaBiz Data』2014(13))、2014年の数字は2014年の市場規模は昨対比7.6%の1兆6,900億円に!『CharaBiz DATA 2015(14)』5月末発刊!好評発売中!! CharaBiz News、キャラクター・データバンク、2015年5月13日。2015年の数字は売り上げ1兆6,300億円のキャラクター市場 人気2位はアンパンマン 1位は? 『CharaBiz DATA 2016⑮』で掲載。2016年の数字は2016年の市場規模は前年比1.8%減の1兆6,000億円!『CharaBiz DATA 2017(16)』5月末発刊!好評発売中!今年で16冊目となるキャラビズ資料集の決定版
^ バンダイキャラクター研究所 時代レポート Vol.1「キャラクターに癒しを求める現代人」4頁。
^ バンダイキャラクター研究所 時代レポート Vol.1「キャラクターに癒しを求める現代人」17頁。
^ “著作権なるほど質問箱”. 文化庁. 2020年12月6日閲覧。
参考文献[編集]
バンダイキャラクター研究所 時代レポート Vol.1「キャラクターに癒しを求める現代人」「第1回キャラクターと癒し調査」結果報告書 (PDF) 、バンダイキャラクター研究所、2000年10月15日。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)
キャラクター考第15回文化資源学フォーラム報告書、東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究室、2016年2月13日
関連項目[編集]
ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。
キャラ (コミュニケーション) - 対人コミュニケーションにおけるキャラ(性格・人格)。
ギミック (プロレス) - プロレスにおいて、興行を盛り上げるためにヒールキャラなどの設定を盛ること。
アザーキン - 自らを人間以外と規定するサブカルチャー
登場しないキャラクター(英語版) ‐ 『刑事コロンボ』のかみさん。『グレーテルのかまど』のグレーテル。
外部リンク[編集]
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キャラクター
サイドキック(助手)
時制
関連項目
ユニクロが掲げたビジョン「情報製造小売業」を実現させた5つの要素
『シン・製造業』より一部抜粋
Brand Channelクロスメディア・パブリッシング
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(画像=skaman306/stock.adobe.com)
(本記事は、寺嶋 高光氏の著書『シン・製造業 製造業が迎える6つのパラダイムシフト』=クロスメディア・パブリッシング、2022年11月28日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
日本で起こり始めた「シン・製造業」の狼煙
本章では、ディスクローズされている情報をもとに、第3章でお話した❶~❹のことを実践しているであろうと思われる日本の製造業を筆者が勝手に選ばせて頂き、紹介します。
1. ファーストリテイリングの企業変革
ユニクロは、現在では国内外で高い競争力とブランド力を手にしていますが、2000 年当初はまだここまでのブランドは獲得できておりませんでした。同時期に、海外ブランドである「Z A R A 」や「H &M 」、「G A P 」などが続々と日本に進出し、着々とユニクロ包囲網を形成しておりました。
ところがこれらの海外ブランドの店舗は2015年をピークに続々と閉店し、現在は半減状態にあります。日本は長期的なデフレ経済により、海外企業から「利益率が低い」、「将来性がない」というレッテルが貼られてしまったこともあるかと思います。
しかし、満足のいく利益率を確保しつつ商品を正価で売ることが本当に難しいのか、あるいは、本当に将来性がないのかということに関しては、ユニクロの成功をみると、一概にこの通りではないと考えています。
ユニクロは、2003年に東レと共同開発をした「ヒートテック」を世に出します。その後2007年に「エアリズム」、2009年に「ウルトラライトダウン」など機能性を追求した商品を展開します。
加えて世界的ファッションブランドであるジル・サンダーとのコラボにより、定番ブランドでありながら、斬新さを感じさせる新商品の展開を行ってきました。
このようにして、製造小売業の地位を固めていき、2017年には、デジタル技術を活用した「情報製造小売業」というビジョンを掲げ、売上は右肩上がりの状態が続きました。ユニクロの成長を見ていると、2015年をピークに日本の店舗を半減させた海外ブランドの衰退は、ユニクロのビジネス、商品品質や価格に敵わなかった可能性があります。
おそらく、より多様な側面を持つ日本市場への適合がうまくできなかったのではないかと推測します。
ここからはユニクロがビジョンとして掲げた「情報製造小売業」に向けて、具体的にどのような施策を実施してきたのかに触れていきたいと思います。
「情報製造小売業」がどのようなものであるかを読み解く際、会長兼C E O の柳井正氏が、デジタル変革は「C E O アジェンダ」だと明確に宣言されたことが重要な点です。
つまり、デジタル変革を会社の未来を決する最重要経営課題と捉えたということを意味します。デジタル変革を実施するためには、社内カルチャーの変革、ビジネスモデルの変革、組織変革、人事変革など多方面の変革をリードせねばならないことが分かっていたからです。
D X の出発点として、トップ自身による、この思い、位置づけは極めて重要なものになります。
その上で、「製造小売業」から「情報製造小売業」への変革を宣言しました。ユニクロが目指す「情報製造小売業」とは、「作ったものを売るのでなく、消費者が求めるものを作る」ことです。
当たり前の様に聞こえるかも知れませんが、従来、消費者が求めているものを作ろうとすると、店頭に並ぶまで2年間を要していました。なぜ2年もかかるのかというと、消費者ニーズを押さえてから、商品企画、デザイン、素材調達、サンプル制作、量産などの工程を経るためです。
この時間軸で製品開発した場合、製品を市場に投入した時点では消費者の指向との間にズレが生じ「作ったものを売る」という形態になってしまいます。
では、消費者が求めているものを作るとは、どのようなことでしょうか。
企画や生産の流れを1日単位へと進化させ、消費者ニーズを押さえてから服が店頭に並ぶまで2週間という時間軸が設定されました。究極的には、この2週間をさらに短縮し、リアルタイムを目指そうということになります。まさに「情報製造小売業」の姿であり、真のD X を目指す企業の在り方です。
では、どのような仕組みで「情報製造小売業」を実現させたのかを、5つの要素で見ていきます。
①お客様とダイレクトに繋がる顧客基盤
ユニクロの顧客基盤の中には3つの柱があります。一つ目は「お客様とダイレクトにつながるE C・アプリ会員基盤」です。これは日本ではG U も合わせて5700万人のお客様がアプリ会員となっており、海外ブランドと比較するとユニクロだけが突出して桁違いの会員数を獲得しています。
二つ目は、お客様・店舗からの声をプラットフォームに収集、蓄積している点です。これは年間約2700万件のデータが集まっており、商品・サービス開発の起点となっています。
三つ目が一人ひとりのお客様に対するダイレクトな情報発信で、これは個々のお客様に寄り添ったものとなっています。
②お客様の声を起点にした情報の商品化、商品の情報化
情報の商品化とは、毎日収集されるお客様の声をリアルタイムに分析し、新しい商品アイデアを創出することを意味します。
そのようにして創出された商品アイデアをすぐに企画する業務プロセスも含まれており、年間50品番以上の商品開発を実現しています。スフレヤーンのセーターやウルトラライトダウンのリラックスコートもお客様の声を起点に開発された商品です。
その一方で、商品の情報化とは、ユニクロの有明本部に日本最大級の撮影スタジオを新設して、リアルタイムに新商品を情報化するための基盤を構築していることを指しています。ここで撮影された商品は、Lifewearマガジン、カタログ、E C サイトなど様々なチャネルを通じて即時展開されていきます。
③求められているものを必要なタイミングで必要な分だけ作り・運び・販売
ユニクロでは3つのサプライチェーン変革を実施しています。
一つ目はA I を活用した生販物連動です。
Googleと共同で開発した需要予測モデルA I で世の中のビッグデータを元に需要予測を精緻化し、同時に生産最適化アルゴリズム、在庫の最適配分アルゴリズムを用いて、必要なタイミングで必要なだけ、作り・運び・販売することを実現しました。
二つ目は、S C M 全体のリードタイム短縮です。
生産進捗のリアルタイム把握、素材の備蓄、空輸の活用により柔軟な生産対応を実現し、R F I D 導入によりリアルタイムに精度の高い在庫可視化も実現しています。
三つ目は、自動倉庫による最適なS K U オペレーションと配送ルート管理により、適時・適品・適量の商品店舗投入を実現しています。
④いつでもどこでも便利で楽しい購買体験
「いつでもどこでも便利で楽しい購買体験」にも3つの要素があります。
一つ目は世界最高レベルのE C です。 E C 事業は、全社売上の18%まで拡大しており、エンジニアの内製化も含め、新システムなど、新規サービス開発のスピードが飛躍的に向上しています。
二つ目はE C で注文して店舗で受け取るなどのオンラインとオフラインが融合した購買体験の進化です。そして、三つ目はセルフレジやユニクロペイを導入した新型店舗の出店です。国内だけでなく、グローバルに出店を加速しています。
⑤一元化された情報をもとに、お客様のために、全社員が連動する働き方
「情報製造小売業」実現のための最後の要素です。
全社の計画、実績などの情報を一元化することで、全社員が同じ情報を見て日々の業務オペレーションを実行しています。
たとえて言うなら、情報が部門や人をバケツリレーの様に流れて行くのではなく、全部門の屋根からシャワーの様にしたたり落ちるイメージで、これこそがお客様のために情報がリアルタイムに連動すると言われている根幹の仕組みなのです。
ユニクロは「製造小売業」から「情報製造小売業」へと変革していますが、2021年にさらにこれを深化、拡大させるビジョンを掲げました。
それは、「サステナブルな情報製造小売業」への変革です。このビジョンにおいて3つの要素が追加されました。
一つ目は、C O 2削減・廃棄物Z E R O を徹底的に目指した事業の実現、二つ目は、安心・安全に配慮した事業の実現ということで、ユニクロのビジネスに関わる全ての人にとって、働く環境・人権を尊重し、全てが透明性ある形で可視化されることを目指します。
三つ目は、循環型経済の実現で、お客様の求める商品を作って売るだけでなく、少しでも長く着て頂き、着終わった服を回収し循環させるとしています。これは大変時流に合った宣言だといえるでしょう。
ユニクロは、経営陣がリーダーシップを取り、事業環境を睨みながらパーパスやビジョンの見直しを絶えず行っています。
パーパスやビジョンというのは、顧客を起点としたコーポレート戦略、バリューチェーン戦略の立案と実践、そして様々な企業と共同での新たなる技術革新といった内容です。この様な企業活動を実行する日本の製造業が増えることを期待しています。
寺嶋 高光(てらしま・たかみつ)
株式会社ISIDビジネスコンサルティング代表取締役社長
国内大手SIer、外資コンサルティングファームを経て、2002年に電通国際情報サービスに転職。2013年にISIDビジネスコンサルティング創業メンバーとなり、同社経営戦略コンサルティング本部長、取締役を歴任し、2021年に代表取締役社長に就任。自動車メーカーを中心に、製造業へのコンサルティング業務を行う。特にIoTやデジタルテクノロジーを用いた、製造業の事業戦略及びコーポレート戦略立案、バリューチェーン革新等によって業績を改善させた数々の実績を持つ。
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DeNA南場会長が語る、断り続けた経団連副会長に就任した理由
By 南場 智子
Read time:5min
2021.8.23
後で読む
今年6月から日本経済団体連合会(経団連)の副会長に就任しました。副会長は19人もいるので、大それたこととは想像していなかったのですが、「初めての女性副会長」と大きく取り上げられ、驚きました。女性というラベルが貼られて、もう南場智子というよりも「女性」になってしまったようです。
1962年、新潟市生まれ。86年津田塾大を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。90年、ハーバード大にてMBA(経営学修士)取得。96年マッキンゼーにてパートナー就任。99年にディー・エヌ・エー(DeNA)を設立。2011年に社長兼CEO(最高経営責任者)を退任、現在会長に。2015年から横浜DeNAベイスターズオーナー。内閣府の成長戦略会議に有識者として参加。21年6月からは経団連副会長に就任。(写真:的野弘路)
これまでも経団連からお誘いはありましたが、何だかエスタブリッシュメントになってしまうような印象で気乗りがしなかったのと、ディー・エヌ・エー(DeNA)の仕事で手いっぱいでしたのでお引き受けしませんでした。代表取締役会長でありつつ、執行役員として事業運営を担う立場でもありましたので。しかし今年の4月にDeNAの社長が10年ぶりに交代し、私は執行役員から外れて会長職に専念することになり、状況が変化している中で経団連前会長の中西(宏明・日立製作所前会長)さんから再度お声がけをいただきました。
実はもう一つ、以前から経団連への参加をお断りしていた理由があります。就活の解禁ルールです。日本の新卒一括採用制度は大いに疑問で、諸悪の根源とさえ思っており、経団連のルールは、一括採用制度の問題を助長するものとして大反対でした。ただ、その就活ルールを中西さんはご自身が会長に就任された直後に取りやめました。各方面のハレーションが大きい決断をあっさりなさった中西経団連に変化を感じていたことが、今回お引き受けした背景にあります。
その中西さんとは、「副会長を頼む」というお電話を病床からいただいた時が最後の会話になってしまいました。とても残念で、寂しく感じます。
大事なのはラベルではなく、何をするか
「女性枠」というのは事実だと思います。他の副会長の皆さんとの顔合わせでも、「女性枠でお邪魔します!」とご挨拶しています。名刺にそう印字しておいた方がよいですね。今までジェンダー議論はなるべく避けて来たので少し複雑な気持ちですが、ここでしっかり仕事をして後輩女性の道を塞いでしまわないようにしなくては、という責任は認識しています。
ただ、私の立ち位置のユニークさはほかにもあると思います。会長や副会長企業の中でDeNAは唯一の新興IT企業であり、また私は会長、副会長19人の中で唯一の創業者、起業家です。そういった立場から新しい視点を持ち込ませていただくこともできるのではないかと考えています。当たり前ですが、そもそも人は、どういったラベルを貼られるかよりも何をするかが全てです。せっかくいただいた機会ですので、一つでも二つでも、世の中を良い方向に変える貢献をしたいと思っています。また引き受けたからには、そのプロセスも含め「面白がりたい」「面白い仕事にしたい」、これはDeNAでも大事にしている姿勢ですが、そんなふうに考えています。
ここ数年、内閣府の「成長戦略会議」にも参加し、日本の様々な課題について考え、議論する機会をいただいています。そうした中で、私自身のバックグラウンドから、とりわけ強く問題意識を持ち、変えていきたいと考えていることが二つあります。一つはスタートアップ(起業)のエコシステム(生態系)の強化、もう一つは大企業人材の徹底的な流動化です。
よく失われた30年といわれますが、1989年には世界の企業価値トップ50のランキングに日本企業は32社も入っていました。今は1社です。100位までを捉えても1社です。日本企業の生産性の低さもよく語られており、G7(主要7カ国)の労働生産性比較では最下位が指定席になっています。
日本企業はとことん競争し、勝つべし
このような状況の中で、今や企業としての成長や利益だけでなく「社会性」こそ重要だという発言をよく聞きますが、利益や成長と社会性を対立概念のように誤解されやすい言い方をするのは危険です。短期的な成長や一時的な利益は分かりませんが、社会性のない会社が中長期的に利益を出し成長することなどできないわけです。社会や顧客の圧倒的な支持を得るために、とことん競争し、日本の企業はもっと勝たなければなりません。
過去20年を振り返って、皆さんが一番感謝している企業はどこの会社ですか? 私はそう聞かれたらやはりスマートフォンやPCを見つめてしまいます。米グーグルやアマゾン・ドット・コムなどのGAFAMは情報の取り方、仕事の仕方、人とのつながり方、商品の売り方、買い方、コンテンツの生産や消費の仕方を根本から変えました。もちろん弊害も議論されていますが、個人的には多大な恩恵を得ています。
コロナ禍で「YouTube」や「Instagram」「Zoom」にどれだけ助けられたか。インターネット禁止と外出禁止のどっちを取るかと聞かれたら、私はインターネット禁止の方が耐えられないかもしれません。インターネットやスマートフォンはスペイン風邪の時代にはなかった新しい社会の常識的インフラです。そしてその常識的インフラの担い手は皆、ベンチャーキャピタル(VC)によって支援され巨大な企業となり世界経済をけん引しました。今は次の新しい常識の担い手が企業価値ランキングの上位に食い込みつつあります。事実、世界の企業価値トップ10の半分以上が1990年以降に誕生した企業です。一方日本のトップ10を見ると、持ち株会社としての設立で社歴が浅いものがあるにしろ、設立30年以内の企業は実質ゼロです。歴史ある企業がずらりと並び、新たに誕生した企業が上位に食い込んではいません。
[画像のクリックで拡大表示]
先ほど日本企業の世界経済における位置付けの凋落について語りましたが、日本企業は同じ会社と競争して負けたのではなく、新しいプレーヤーに負けているのです。他国の伝統的な企業と同様に、です。ただ、世界では新しい主役が現れ、けん引している。その人たちほど世界中の人々のライフスタイルに影響を与え、喜びを届ける企業が日本から出ていないことを、やはり経済界は、私も含めちゃんと反省するべきです。
いつの時代もイノベーションの担い手は既得権益から距離のあるハングリーで新しい企業たちです。日本経済の活力を取り戻すためには、次代の担い手、成長のけん引役が次から次へと生まれてくるような土壌、エコシステムをしっかりつくっていかなければならない。そして大企業もそのエコシステムに貢献し、またそこから成長の活力を得る。そのためにはどこをどう変えていくべきか、次回以降テーマを分けて考えていきたいと思います。
「Copilot+ PC」とはなにか マイクロソフトが狙うUX変化とWindowsの再設計
西田 宗千佳
2024年5月21日 14:07
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マイクロソフトのサティア・ナデラCEO
「30年前、(マイクロソフト本社内の)同じ場所でWindows 95の話をしました。そして今、AIの新時代について話すためにここにいます」
マイクロソフトのサティア・ナデラCEOは、壇上からそう語りかけた。
記事を要約する(AI)3行まとめ
5月20日午前(アメリカ太平洋時間)、マイクロソフト本社では世界中から記者を集めてイベントを開催した。目的は、オンデバイスAI前提のWindows 11搭載PCである「Copilot+ PC」と、その対応デバイスを発表するためだ。
発表会の主役は新ブランドである「Copilot+ PC」
速報はすでに掲載しているが、発表会で語られた内容について改めてお伝えする。なお、同時に発表された新「Surface Pro」「Surface Laptop」については、担当者へのインタビューも含め、別途記事の掲載を予定している。
PCの新時代 マイクロソフトが新ブランド「Copilot+ PC」 新型Surfaceも
2024年5月21日 08:53
目次
オンデバイスAIで再設計されるWindows 11
「新しいユニバーサル・インターフェースについて考えてみましょう。それはテキスト・画像・ビデオ・音声をサポートする『マルチモーダル』なものであり、重要なコンテクスト(文脈理解)を保持し、アプリケーションやデバイスなどのすべてにわたって、個人的な知識やデータを記憶しているでしょう」
ナデラCEOはイベントをそんな言葉からスタートした。
これがなにを示しているかは明らかだろう。
現在のAI技術はマルチモーダル化し、これまでのやり取りも記憶するようになっている。
その結果として、一方的にテキストのプロンプトを投げかける形だった初期のAIチャットボットから、より「PCのユーザーインターフェースとしてふさわしい機能」を持ったものへとシフトしていく、ということだ。
マルチモーダルなCopilotという意味では、現在のクラウドベースのCopilotにも、先日発表されたばかりの「GPT-4o」を使ったバージョンも近日中に公開される。
OpenAIとのコラボレーションももちろん健在
だがここでマイクロソフトが言及したいのは、「PCで質問できる生成AI」のことではなく、「生成AIで機能・操作性を大きく変えていく」ことだ。
これまでAIは、賢さを競うためにクラウド上でスケールさせていくことが重要だった。今後もそれは続くだろう。
しかし個人が使うPC上のインターフェースでAIの力をフルに使うには、クラウドから「エッジ(ネットを使わないデバイス内で完結する動作)」への分散が必須になり、そのための新しいPCカテゴリーが定義された……ということなのだ。
その新しいカテゴリーが「Copilot+ PC」である。
デバイス内での生成AI動作を想定した「Copilot+ PC」カテゴリーを新設
Windows PCでは昨年より「AI PC」という呼称が使われているが、これとCopilot+ PCはイコールではない。
AI PCは画像認識や音声ノイズ除去といった、比較的低い性能でもオンデバイスで実装できるAI処理を中心としたものであり、本格的な生成AIなどはクラウドで処理されていた。Copilot+ PCでもWindows上のAI機能ブランドである「Copilot」の名称が使われているが、クラウド処理が中心だった従来のCopilot機能とは趣が異なる。
OSの上に追加アプリのように搭載される機能ではなく、オンデバイスでAIを動かす「Windows Copilot Runtime」というレイヤーができて、それをOSやアプリが活かしていくという形になっていく、というイメージに近い。マイクロソフトはこれを「Rearchitected Windows 11」(再設計されたWindows 11)と呼んでいる。
Copilot+ PCで動くWindows 11には「Windows Copilot Runtime」というレイヤーができて、これをプロセッサー内のNPUで動かす
OSに生成AIのレイヤーを組み込んでいくため、マイクロソフトは「Rearchitected Windows 11」(再設計されたWindows 11)と呼んでいる
Windows 11上での新機能についてはこの後解説するが、Windows Copilot Runtimeはアプリケーション開発者も活用可能なものになる。OSに組み込まれた機能の1つとして開発者が利用可能になることで、オンデバイスAIを使ったアプリの増加と、それによるPCの価値向上を目指しているわけだ。
5月21日からスタートする「Build 2024」の主役は開発者。ここでCopilot+ PCが発表されたのも、単にWindowsの新施策であるだけでなく、開発者を巻き込んだ「新しいWindows上のエコシステム」になっていくことを狙ってのものである。
「Build 2024」は5月21日(すなわち発表翌日)からスタートする
OSがAIで快適に 「あれなんだっけ」をカバーする「Recall」機能
では、Copilot+ PCでは具体的になにができるのか?
いままでどおり、Copilotを呼び出して使うことはできる。ただそれにとどまらず、OSの利用を快適にする機能を加えていくことが重要だ。
例えばファイルからCopilotを呼び出し、メニューから簡単に「背景を消す」「同じような画像を作る」といった機能も呼び出せるようになっているし、前述のようにGTP-4oと連携し、「音声で、今進行中のゲームについてアドバイスを聞く」といったこともできる。
ファイルを選ぶと、そのファイルで使うことが想定されるCopilotを使った機能がメニュー内に出てくる
ゲームについては、進行中のゲームのヒントを声で訊ねる、といったことも可能に
送られてきたメッセージを要約してもらうのも便利だろうし、自分で描いた絵をベースとして、生成AIがさらに加工してくれる「Cocreator」機能も便利だろう。Xboxプラットフォームとしての連携として、声で「次にどこへ行けばいいの?」といった質問も可能になる。
生成AIが得意な「要約」も
自分の絵を生成AIに仕上げてもらう「Cocreator」
だがそれ以上に大きく、わかりやすい機能は「Recall」だ。
Copilot+ PCの目玉となるのが「Recall」
Recallは簡単にいえば「この間のあれ、どこにやったっけ」という質問を投げて、その情報やファイルを見つけられるようにするものだ。
Recallが有効になったCopilot+ PCでは、作業している裏で画面のスクリーンショットを撮る。そして、そこからNPUが「画面に映っている内容」を把握して内容のインデックスを作り、作業内容や映っている情報などへアクセス可能な履歴を作成する。
PC内でスクリーンショットを作り、それをNPUによって内容を把握してインデックスを作る
「Recall」デモビデオ
あとは、テキストとして探したい情報を入力すれば見つかる。「Aという案件に関する文書」のようなカッチリした内容である必要はなく、「赤い自動車」のような情報でいい。AIは画像から内容を把握するから、その情報が画面上に文字で示されている必要はない。文章による検索だけでなく、日時を遡る形で情報を見つけ出すこともできて、かなり便利そうだ。
Recallの実機デモ。「赤い車」というキーワードで、過去に行った「赤い車を描いた作業」を呼び出すこともできる
日付を遡る形でファイルの使用履歴が出てくるという機能は、過去にWindowsが「タイムライン」という名前で実装していた。単にファイルが出てくるだけではイマイチ使いづらかったためか、タイムライン機能は実装が停止され、利用できなくなっている。Recallは同じような発想を「オンデバイスAIの時代に蘇らせたもの」というイメージを受ける。
時間をさかのぼって作業に関する記憶を辿るという意味では、「タイムライン」機能のリバイバルというイメージも
こうしたインデックスは背後で作られるため、利用者が意識する必要はない。記憶しておける期間はデータ量で決まり、OS側の設定を変えれば自分で調整できる。説明員の話によれば、「25GBで3ヶ月分くらい」とのことだ。
インデックス化は自由に止めることもできるし、消すこともできる。NPUを使いデバイス内で処理されるので、クラウドにインデックスなどのデータがアップロードされることもない。情報がマイクロソフトによってAIの学習に使われることもない。
現状、Recallを含む機能がNPU搭載PC以外でも使えるかどうか、詳細は定かでなない。しかし少なくともこれから、Recallを含むオンデバイスAIを使う機能が「Windows 11の基本的な要素の1つ」になっていくのは間違いない。
AI PCとCopilot+ PCは異なる存在 NPU性能がより重要に
オンデバイスでAIを活用するにはよりパフォーマンスの高いPCが必要になる。
前述のように、昨年より「AI PC」としてAIが実行可能な性能のプロセッサーを備えたPCの存在がアピールされてきたが、GPUの演算速度を除外すると、生成AIが必要とするパフォーマンスを満たしていたわけではない。
今回マイクロソフトは、Copilot+ PCでオンデバイスAI動作に必要なパフォーマンスを「40TOPS(Tera Operations Per Second)以上のNPUを搭載」と定めている。さらに、メインメモリーは16GB(DDR5またはLPDDR5)以上、ストレージは256GB以上のSSDとした。
メモリーとストレージについては、今の水準で言えば「低くはないが無理な値でもない」感じである一方、NPUの性能要求については高めと言っていい。
Copilot+ PCでは16GBのメモリーと256GBのSSD、さらに40TOPS以上の性能を持つNPUを内蔵したプロセッサーが必須
先日発表されたアップルの「iPad Pro」に搭載された「M4」は、AI用のNPU(Neural Engine)の処理性能が「38TOPS」だとされている。
40TOPSを超えるNPUを搭載したWindows PC用プロセッサーは過去になく、これから市場に出てくことになる。
Copilot+ PC向けのプロセッサーとしてはインテル・AMD・クアルコムの3社が供給を表明しており、発表会にも3社のトップが揃ってビデオメッセージを寄せた。
インテルのパット・ゲルシンガーにクアルコムのクリスティアーノ・アモン、AMDのリサ・スーと、プロセッサー3社のCEOが揃い踏み
だが、今日の段階で条件を満たすプロセッサーはクアルコムの「Snapdragon Xシリーズ」だけである。インテルやAMDの対応プロセッサーを搭載した製品は後日の発表となる。
今日の段階で条件を満たすプロセッサーは「Snapdragon Xシリーズ」だけ
そのため、マイクロソフトの新Surfaceシリーズをはじめ、今日壇上で発表されたCopilot+ PCは、すべてがSnapdragon X PlusもしくはSnapdragon X Eliteを採用した製品となっている。
マイクロソフトの新SurfaceシリーズはどれもSnapdragon Xシリーズを搭載
マイクロソフトは以前よりARM版Windowsの採用を推進していたし、SurfaceでもSnapdragonの改良版を搭載してきた。しかし今回は完全に「x86よりもARM」を優先し、強くアピールした。
Windowsはx86が主流のアーキテクチャであり、ARM版Windows 11を使うのはこれまでリスクが存在した。x86版のアプリケーションをARMで動かすための互換レイヤーはあったものの、動作速度が落ちる可能性があり、さらに、互換性も100%というわけではなかったからだ。今も互換性の問題が存在すること自体に変化はなく、ARM版Windows 11が動作する製品を選ぶリスクとなっている。
しかし今回マイクロソフトは、アドビを含め多くのソフトウエアベンダーに「ARMネイティブ」なアプリの開発を促し、さらに、「Prism」と呼ばれる新しい互換レイヤーも用意した。新しいSurface上でPrismを使ってx86版アプリケーションを使った場合、Surface Pro 9のARM版でアプリケーションを動かすのに比べ、倍の速度で動作するという。
パフォーマンスを上げた「Prism」という互換レイヤーの力で、x86版アプリ動作時のパフォーマンスをアップ
Appleシリコン版Macを意識、PCがAIで新しい競争の時代に
今回の発表では、Windows 11のオンデバイスAI機能が、「Snapdragon XシリーズをはじめとしたNPU搭載プロセッサー採用PCで活用される」ことがフォーカスされていた。
互換レイヤーであるPrismはSurface以外でも同じように実装されると思われるが、パフォーマンス向上の度合いについては、Snapdragon Xシリーズの採用による性能向上の影響も大きいと考えられる。だから、その点は留意されたい。
しかし、マイクロソフトとしてはQualcomm Snapdragon Xシリーズでも「プロダクティビティ向けのPC」であれば大半の用途で問題はなく、むしろオンデバイスAI搭載PCとしては快適である……と主張したいのだろう。
Snapdragon Xシリーズを採用したCopilot+ PCは、マイクロソフトの「Surface」だけでなく、ACER・ASUS・DELL・HP・Lenovo・Samsungからも発売になる。会場には各社のCopilot+ PCが並び、この変化がWindows PC業界全体を巻き込んだ大きなものである、というアピールが行なわれた。
ACER・ASUS・DELL・HP・Lenovo・SamsungといったPCメーカーからも製品が出ることをアピール。Surfaceと同時の発表となるのは珍しい
一方で、マイクロソフトのエグゼクティブ・バイスプレジデント兼コンシューマー・チーフ・マーケティングオフィサーであるユスフ・メディ氏は、「今後12カ月以内に5,000万台のPCがCopilot+ PCになる」と予測する。ここでプロセッサーのアーキテクチャ自体は限定されていない、という点に留意が必要だ。
5,000万台のPCがCopilot+ PCへ移行するとマイクロソフトは予測
Copilot+ PCはSnapdragon Xシリーズからのスタートとなるものの、決して同製品を採用したものだけの話をしているわけではない。
だが、今回同じARMベースのプロセッサーである「Appleシリコン」を搭載したMacBook Airを意識したプレゼンテーションが行なわれたことからも、「ARMベースのプロセッサーによる価値向上」が1つの目標であったことは想像できる。
ライバルとしてはアップルのMacBook Airを意識した説明が目立った
詳細はSurfaceに関する記事で述べるが、マイクロソフト自体が「Appleシリコンを採用したMacBook Air」を1つのベンチマークとし、モードを切り替えつつ製品開発に取り組んだ、というのは事実であるようだ。当然、消費電力やパフォーマンスに関する競争で、インテルやAMDが黙っているはずはない。
そういう意味では、Windows PCにおいて新しい競争の時代が、オンデバイスAI搭載PCとともにやってきた……という話でもあるのだ。
嶋正利
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嶋 正利
(しま まさとし)
静岡県静岡市教育東北大学理学部卒業業績専門分野コンピュータ科学勤務先日本計算機販売
静岡県警察
リコー
インテル
ザイログ
会津大学
AOIテクノロジープロジェクトIntel 4004の開発
Intel 8080の開発
Z80の開発
Z8000の開発受賞歴京都賞先端技術部門(1997年)[1]
コンピュータ歴史博物館フェロー(2009)[2]
嶋 正利(しま まさとし、1943年8月22日 - )は、日本のマイクロプロセッサアーキテクト。
会津大学教授、AOIテクノロジー株式会社代表取締役社長などを歴任した。
概要[編集]
最初期のマイクロプロセッサの一つである[注 1]「Intel 4004」の設計開発者の一人である。Intel 4004のほかにも、「Intel 8080」、「Z80」、「Z8000」などのマイクロプロセッサの開発に携わっており、世界のマイクロプロセッサの歴史に多大な影響を与えた。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
1943年、静岡県静岡市に生まれた。静岡県立静岡高等学校を卒業後、東北大学理学部化学第二学科に進学した。化学を専攻していたが、同じ研究室の先輩から「嶋、世の中には、電子で動く、電子計算機があるんだ。いろんな物質の構造式を見つけ出すソフトもある」といった話を聞いていた[3]。
日本計算機販売[編集]
1967年、日本計算機販売(株)(後のビジコン。以下ではビジコンと書く)に入社した[注 2]。
入社後、事務ソフト部門に配属された。そういったアプリケーションの開発には興味がわかず、上司に開発部門に異動させるよう直訴し、1967年の秋に日本計算機製造(株)茨木工場に出向となり、待望の電卓開発の仕事につくことになった[4]。
その後、相次いで開発されるICに対応するため、担当した電卓の開発チームが渡米してしまい、他の事情もあり嶋はいったんビジコンを離れる[5]。静岡県警察に転職し科学鑑識課に勤めるも、3ヶ月後に開発の仕事ということで電卓の世界に復帰した[注 3]。
そして1970年、「Intel 4004」を開発することとなる[6]。
4004[編集]
4004は、ビジコンの、プログラム制御方式の高級電卓のために必要なチップとしてインテルと共同開発したものであり、嶋はビジコンの社員として開発に関わった。インテル社史では当初、4004の設計開発者はフェデリコ・ファジン、マーシャン・ホフ(テッド・ホフ)、スタンレー・メイザーであるとされ、顧客会社の出張社員である嶋の名はなかったが、1984年に設計を行った一人であると追認された。
1969年。この年、シャープがLSIを採用した電卓「QT-8D」を発表・発売し、電卓業界は急速にLSI化への道を進んでいた。日本計算器製造(1970年に「ビジコン」に社名変更。以下ビジコンと表記)は、ランダム論理制御(ワイヤードロジック)により電卓のタイプ毎に異なるカスタムLSIを使用する[注 4]のではなく、LSIは複数のタイプの電卓間で共通化し、ROMの内容を書き換えることで各タイプに対応するプログラム論理制御[注 5]の電卓を企画した。さらに、同じLSIを、似たような計算が必要な伝票発行機などに流用することも意図していた[7]。
前年の1968年に、ビジコンの電卓の開発製造を担当していた電子技研工業(1971年にビジコンに合併)から開発の仕事の打診を受け、嶋は、静岡での科学鑑識の仕事から電卓の世界に戻っており[8]、1968年の秋に、LSIは未使用であるがプログラム論理制御の「ビジコン162P」を完成させ[9][10]、新方式への理解を深めていた。
1969年に入り、前述のようにLSIを使用した電卓を開発する機運が高まった。提携先としてインテルが選ばれ(日本電気の中央研究所勤務から、支配人を経て、顧問を務めた長船廣衛がロバート・ノイスへの紹介状をビジコンの社長から依頼されて書いている[11])、6月に渡米の予定となった[12]。余裕があった嶋が、システムの構成を渡米までに考えることになった。162Pの経験をLSI化に応用したような構成を考えた。渡米は6月20日発、ボーイング747の就航前年であり、旧型機[注 6]でのフライトであった。嶋らをサンフランシスコ空港まで迎えに来ていたのは、後にマイクロコンピュータの基となるアイディアを出したテッド・ホフであった[13]。
1969年の初夏のサンフランシスコでおこなわれた、ビジコン側からの電卓の構想についての説明に対し、インテル側はほとんど興味を示さなかった。要求仕様についてインテルに伝えれば、LSIについては論理設計(詳細設計)から製造までインテル側で行われると思っていたビジコンの技術者は、日々戸惑いを増していたが、これには大きな誤解があった。実は本契約はまだ交わされておらず[注 7]、インテル側は単にコンサルティングとしてつきあっている、という状態だったのだ、と後になってわかったという[14]。この意識のズレは後々も姿を見せる。
この時、ビジコン側(嶋)が提案したのは、次のような構成であった。電卓全体の方式としてはプログラム論理制御とし、電卓の用途に応じてメモリに書き込むプログラムを替え、様々なタイプの電卓に対応させる。周辺機器などの制御にはそれぞれ専用のLSIを用意し、プリンタの制御はランダム論理制御としていた[15]。新規設計のLSIを10種類前後[注 8]使用する。この提案には、数の問題ばかりでなく、LSIのパッケージングの問題もあった。この構成では、40ピンなどの比較的大きなパッケージを必要としたが、インテル側にはそのようなパッケージの用意がなく、当時メモリなどに使っていた16乃至18ピンのパッケージを利用したがっていたのだが、ビジコンにはそれは知らされていなかった[16]。テッド・ホフは、このビジコン案に対し、そのプログラム論理制御という点に興味を示していた[17]。
8月21日、インテル社からビジコン社に送られた手紙には、ビジコンが望む規模と価格でのLSIの生産は不可能、と読める内容が記され、開発はほとんど暗礁に乗り上げていた[18]。
1969年8月下旬のある日、嶋らの所へテッド・ホフがやってきて、口癖である「My idea is」を発しながら、いっそ4ビットで汎用の、コンピュータのCPUのようなLSIを作れば良いではないか、というアイディアを説明した[19]。
ビジコン案では、たとえば電卓の加算であれば、2個のレジスタの指数を揃えた後、一個の加算命令で全桁の加算がいっぺんにおこなわれるという「マクロな命令」によるプログラム制御であった[注 9]。これに対し、ホフのアイディアは、4ビットの汎用のコンピュータのCPUのようなものを作り、たとえば加算命令は4ビットで十進一桁の計算をするのみという「マイクロな命令」とし[注 10]、プログラムで電卓の機能を実現する、というものであった[20](命令は単純にし、プログラム(ソフトウェア)側が複雑さを受け持つ、という方向転換は、むしろ後年のCISC→RISCに似ているとも言える)。
ホフが最初に示したスケッチでは、電卓における計算以外の機能(キーや表示の入出力制御など)をどう実現するかは示されておらず、前述のピン数の問題も考えられていなかった[21]。
当初案ベースの仕様検討と並列して、ホフのアイディアを元にしたチップについても、電卓向けに必要な修正や他の部分を含む詳細な仕様を検討し、後者を進める方針がほぼ固まったが、契約がまとまらず、1969年12月20日に嶋は帰国した[22]。
翌1970年の4月7日、単なる打ち合わせをする予定で、再度の渡米をする[23]。本契約は同年の2月6日に結ばれており(この時、元の文面にあった「電子計算機」が「卓上計算機」に変わっていて、ビジコンの独占範囲が限定されていた[24])、設計はインテル側が進めているものと思っていたが、結局嶋がほとんどの論理設計をすることになった。『マイクロコンピュータの誕生』には特に書かれていないが、文藝春秋に寄せた文章によれば「莫大な開発費を支払ったのに、何もやっていないとは何ごとかッ!」と激怒したという[3]。4月に渡米して進捗をチェックした嶋が激怒(enraged)したことは、別文献にも掲載されている[25]。
インテルの説明するところでは、プロセッサの論理設計のできる技術者を雇おうとしたが、アーキテクチャが4ビットだということがわかると、みんな辞退してしまったのだという[26]。当時既にメインフレームは32ビット、ミニコンピュータでも8ビット~16ビットで、そういったコンピュータの設計者から見れば、4ビットでは「おもちゃ」と思われたためであった。
しかし、2010年代から振り返って見た時(この段落の記述は2014年の書籍の邦訳版『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』をベースとする)、おそらく最も単純かつ主だった理由は「その時のIntel社は、それどころではなかった」ということであろう。創業からそう長い時間がたっておらず、まだ決定的な商品を送り出すことができていなかったIntel社は、この4004の誕生と同じその頃、その「決定的な商品」となるべきDRAMチップ「1103」についてもまた、開発中であった。そしてそのために、4004シリーズ(4001〜4004)の開発が「スカンクワークス」の仕事であったのに対し、「大多数の社員は会社存亡の対処に追われていた」[27]のである。単に、画期的な新製品の開発の難しい時期にさしかかっていた、というだけではなく、1103は実はその安定性に不安があった[28]。結果的には、「コアメモリは新しいチップに価格競争で負けました」(cores lose price war to new chip)という挑戦的な広告[注 11]とともに、成功したチップとして歴史に残ることとなったが、これはいくつかの幸運のおかげだった[28]。
渡米した嶋らに、パターン(論理ベースの回路図を元に、具体的にLSI上の配置を決定する仕事)設計者でプロジェクト・リーダーとなるフェデリコ・ファジンが紹介された。パターン設計者がいるということから論理設計は進んでいるものと思われたが[23]、実はファジンは前日に雇われたばかりで、引き継ぎすらもされていなかった。つまり、論理設計はまだ全く進んでおらず、誰もやるものがいないという状態であったため、嶋が論理設計をおこなうことになった(ファジンは、論理設計も自分がやり、嶋はその補佐であったと主張している)[注 12]。
CPU自身の論理設計の方式はワイヤードロジックとした(プロセッサの制御方式にはワイヤードロジックとマイクロプログラム方式とがある)。2~3か月でCPUの論理設計が完成し、周辺のチップの設計も進めた。9月からCPUのパターン設計に入り、嶋はファジンから学びながらパターンの設計やチェックの仕事にも参加した。目途が付いたため、10月中旬に市場調査のため東海岸とヨーロッパを視察してから帰国した。
明けて1971年、いわゆるマイコン開発支援システムと後に呼ばれるようになるようなものを作り、完成に備えた。4月、通関で一悶着あったものの、なんとかCPUを輸入でき、動作を確認した。世界初のマイクロプロセッサの誕生であった。なお、一般に4004の「誕生日」とされているのは、同年11月のインテルによる一般発表の日である。また、インテルの資料では、CPUの4004の他、周辺のチップをセットとして「MCS-4」としており、MCSとはマイクロコンピュータシステムの略である。
当時は国内産業(この場合半導体メーカ)育成のために、LSIの輸入に際しては手続きが厳しかったにもかかわらず、通関審査を通す時に、送り状に「CPU」とあるがこれはなんだ、となった際に『誇らしい気持ちもあって「これが世界で初めてのワンチップ・コンピュータなんだ」とやっちゃった。だから事態が紛糾しちゃったってところがある』という(コンピュータといえば小さくてもミニコンピュータというのが常識だった当時のことである)。4日間日参して説明し、通関審査をパスしたという[29](ただし、これは嶋ではなく、当時のビジコン別社員[30])。
4004に関しての特許は特に取らなかったが、後に、十進補正命令(電卓では特に重要であるため、ビジコン側の主張で4004に入った命令。電卓以外でも便利なことが多く、以後の多くのマイクロプロセッサに採用された)だけでも特許を取っておけば、莫大な収入になっただろう、と書いている[31]。
8080・Z80[編集]
嶋は4004の開発後、ビジコンを退職しリコーに転職。インテル社は次期製品として8008を開発。その性能向上にあたり特許戦略および他社による競合製品開発阻止のために、当時インテルのCEOだったロバート・ノイスが嶋をスカウトし、1972年にインテルに転職。8080では当初より主任設計者を務めて4004の時と同様にほとんど一人でロジックを組み上げ、8080のパターンの隅には嶋家の家紋が刻まれている[注 13]。その後ファジンらCPU開発チームの主力メンバーと共にスピンアウトしザイログ設立に加わり、Z80やZ8000を設計した。Z80は8ビットマイクロプロセッサのベストセラーのひとつである。
以後、ブイ・エム・テクノロジー、AOIテクノロジー、会津大学での教職などを歴任した。
受賞[編集]
主な論文・著書[編集]
1972年 "The MCS-4 An LSI Microcomputer System" with others, IEEE
1974年 "An N-Channel 8-Bit Single Chip Microprocessor" with others, IEEE, ISSCC
1976年 "Z-80 Chip Set Heralds Third Microprocessor Generation" with others, Electronics
1979年 "Demysitfying Microprocessor Design" IEEE
1996年 "The History of the 4004" with Hoff, M. E., Faggin, F. and Mazor, S., IEEE Micro
1987年8月 「マイクロコンピュータの誕生:わが青春の4004」岩波書店 ISBN 978-4000060219
1995年2月 「次世代マイクロプロセッサ」日本経済新聞社 ISBN 978-4532400668
1999年10月01日 「マイクロプロセッサの25年 電子情報通信学会誌Vol.82 No.10」電子情報通信学会 pp.997-1017
注[編集]
^ 詳細は マイクロプロセッサ#最初のマイクロプロセッサ を参照。
^ 『マイクロコンピュータの誕生』には「進路を変えざるをえなくなった」「特定の専門分野を持っていなかった私は(略)自由に物事を考えることが可能であった.(略)たいていは知識なり経験に頼ろうとし,人間の考える能力を知らぬ間に殺してしまう.」等とある。一方、「直訴と独学で作った世界初のCPU」には「しだいにコンピュータのプログラミングをやりたいと考えるようになり、一九六七年、日本計算器販売に就職。」とある。
^ 『マイクロコンピュータの誕生』には、1968年4月に静岡での仕事に就き、8月に電子技研に移った、とある。しかし、同年秋に完成させた電卓について「半年後」という表現がある。『計算機屋かく戦えり』には、「3ヶ月後の68年春」(にビジコンに再び入社)とある。
^ そういった制御方式については『電卓技術教科書』に詳解がある。
^ プロセッサの内部制御方式ではマイクロプログラム方式と呼んでいるものと同様の考え方によるもの。『電子立国』ではプログラム内蔵方式、ストアード・プログラムといった語で説明している。
^ 『マイクロコンピュータの誕生』には「ボーイング808」とあるが、そのような機はない。707と、コンベア880の取違か?
^ 1969年4月28日に仮契約(『電子立国日本の自叙伝 (完結)』 p. 106)
^ 『電子立国日本の自叙伝 (完結)』 p. 94 によれば、インテル側のホフは12種類、ムーアは13種類だったとしているという。『マイクロコンピュータの誕生』によれば、検討過程で数は上下しているので、この数字にはあまりこだわる意味はない。同書p. 39によれば、最終的にはプリンタ付きで8個、表示のみの電卓で6個まで削減したという。
^ 安藤壽茂による解説や、嶋による一般向けの説明(「直訴と独学で作った世界初のCPU」)ではこれを十進法のコンピュータと表現している。また『次世代マイクロプロセッサ』p. 59では、IBM 1401と同様な方式、としている
^ 「直訴と独学で作った世界初のCPU」では二進法のコンピュータと表現している。
^ http://www.computerhistory.org/revolution/digital-logic/12/280/1466
^ ここでは嶋の書籍などによる表現に従って書いているが、コンピュータ・アーキテクチャ#プロセッサのアーキテクチャと実装の分類では、嶋の作業は「論理設計及び回路設計」、ファジンの作業は「物理設計」に相当する。
^ 8080のパターンの画像でも、バージョンによるか、複数枚あるうちの別のフォトマスクの画像であったり別のパターンが重なっていたりなどで、確認できなかったり確認が難しいものもある。8080Aの、フォトマスクではなくチップの写真にわかりやすく確認できるものがあり、「Intel 8080A」のロゴと同じ短いほうの辺の反対側。
出典[編集]
^ a b c “Masatoshi Shima,Computer History Museum”. 2020年3月20日閲覧。
^ 『マイクロコンピュータの誕生』 p. 12、なお同書で「県庁の科学鑑識の仕事」とあるのは静岡県警本部が静岡県庁舎と隣接しているためと思われる。また戻った時期については、資料により記述が異なる。
^ 型番は 『計算機屋かく戦えり』 p. 430 より
^ 『マイクロコンピュータの誕生』 p. 16 で「マクロ命令」という表現が使われている。
^ Cass, Stephan (2021). “Intel'4004 Turns 50”. IEEE Spectrum 85 (11): 9-10.
^ 『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』 p. 190
^ NHKスペシャル DVD 電子立国 日本の自叙伝 第5回 8ミリ角のコンピューター
^ 『次世代マイクロプロセッサ』p. 67
参考文献[編集]
^嶋正利『マイクロコンピュータの誕生 ―― わが青春の4004』ISBN 4-00-006021-X
嶋正利『次世代マイクロプロセッサ』ISBN 4-532-40066-X
^遠藤諭『計算機屋かく戦えり』ISBN 4-7561-0607-2
^嶋正利「直訴と独学で作った世界初のCPU」『文藝春秋』88巻11号(2010年9月号)、2010年8月10日発売、2010年9月1日発行、pp. 337-339
長船 廣衛『半導体のあゆみ』C&C文庫、1987年6月30日。ISBN 4-930916-27-5。関連項目[編集]
アキバ――秋葉原電気街のはじまりについて
山本長蔵氏こそ、電気の街秋葉原誕生のカギを握る人物のひとりである。
遠藤 諭
角川アスキー総研主席研究員。ネットデジタル時代を読み解きます
2018年08月27日 12時10分 JST
|更新 2018年08月27日 JST
Satoshi Endo
私は、東京生まれではないので秋葉原に行くようになったのは、1970年代の終わり頃からだ。しかも、ラジオ少年だったわけではないので興味を持つようになったのは1980年代の前半である。その後、友人が『日刊アルバイトニュース』(現在のan)の編集をしていて、その文字ページで秋葉原の取材記事を3回ほどやった。
当時、参考になったのは日経産業新聞の連載をまとめた『The秋葉原―電子産業の縮図』(日経産業新聞編集部、日本経済新聞出版社刊)である。とても貴重な本で、いまアマゾンで見たら29,800円で出ている。それを、自分の足でトレースして話を聞いて回って、はなはだ稚拙ながら「アキバの構造図」のようなものを描いてみた。
秋葉原駅前と中央通りを中心に、当時は昭和通り側、ラジオガァデンのあった神田川を渡ったあたりまで。あまり見せたくない内容だが、編集部によるとそのあとで記事に登場した著名な建築家がその図を褒めていたそうだ。
1985年に月刊アスキー編集部に入ってからは、仕事で出かけるようになるが、秋葉原の歴史に関して『The秋葉原』の内容を検証できたのは、1993年にやったインタビュー記事でだった。
ラジオ少年でもAVマニアでもない私が、秋葉原に興味を持ったのは、この街のアナーキーさとダイナミズムである。東京MXTVの『鼎談』という番組に桃井はるこさん(当時大学1年?)と出演したとき、彼女は、「アキバ」と「新宿」の山手線と総武線に対するトポロジー的同一性を指摘して(そんな言葉ではなかったが)、どちらも「欲望の街だ」と言った。
とにかく、この街にはただの「電気の街」という言葉では片づけられない深い懐と歩き回る人々の心のエネルギーのもたらすなにかがある。
それではいまの秋葉原はどうなのか? 9月6日(木)に、「東京文化資源会議シンポジウム」というものが開催されて、その中で「グレーターアキバ : 情報・知識の交差路」というのがテーマになっている(詳しくはコチラ)。私も、ラウンドテーブルに参加させてもらう。
そこで、参考資料というのではないが『月刊アスキー』1993年11月号に掲載した「秋葉原電気街のはじまりについて--山本博義」を掲載させていただくことにした。インタビューさせていただいた山本博義氏は、戦後の闇市からはじまった秋葉原電気街の発祥の立役者である山本長蔵氏を父に持ち、またその秘書をつとめたラジオセンターの社主である(当時)。
秋葉原電気街のはじまりについて--山本博義
今回、山本博義氏にインタビューをお願いしたところ、東横線中目黒駅の近くの「運命鑑定一易学者山本哲仙」の看板を目当てに来るようにと指定された。ラジオセンター社主と運命鑑定の関係は? 駅の脇の路地を入り階段を上がった3階の部屋におじゃますると、「いや、社主なんて椅子に座ってるだけで退屈だからさ。ここで、父の跡を継いで人の運命を見ているんだ」と、山本氏はにこやかに迎えてくれた。「哲仙という私の号は、もともと父の山本長蔵の号なんだよ」。山本長蔵(1908~1973年)氏こそ、電気の街秋葉原誕生のカギを握る人物のひとりである。この人の存在がなければ、現在のような秋葉原はなかったかもしれない。
YAMAMOTO HIROYUKI
山本博義氏。
戦後の露店街とラジオ
-- 秋葉原は、いつごろどのようにして電気街になったのでしょう?
「それは、終戦後だよ。1949年8月のGHQの露店撤廃令がそもそもの発端なんだ。当時の露店は、警察に許可をとって運営されていたんだけど、GHQは、快く思ってはいなかったんだな」
終戦直後、神田一帯は空襲により焼け野原と化していた。そこにいち早く進出したのが、盗品なども売るヤミ市を含む露天商たちである。
「私の父も、学生時代から学資や生活費のために易の露店で商売をしていたんだ。そのころには、須田町から小川町あたりまでの神田靖国通り沿いに栄えていた電気露店街を束ねるリーダーだった」
-- ええ。
「なにせ、警察にほとんど権威がない時代だからね。もめごとがあっても、逆に素人に殴られちゃうんだから。誰かが秩序を作らなきゃならなかった。そこで、父は神田警察署や関東の大親分たちにまで話を通して、治安のいい露店街を作ったわけなんだ」
YAMAMOTO HIROYUKI
当時、よく人が集まる場所と言えば国電の駅前であった。神田、秋葉原、御茶の水付近は、中央線、総武線京浜東北線、山の手線が交差しており、とくににぎわっていた。そこで、神田駅と学生でにぎわう神田駿河台のあたりをつなぐ靖国通り沿いに切れ目のない露店街を作れば繁盛するのではないか、というのが長蔵氏の着想だったらしい。
「父は借金をして、靖国通りの南沿いによしず張りの露店を150軒作って、そこに入る露天商を募集した。でも、ヤミ市や、酒、賭博の店なんかは禁止だったから、50~60軒しか集まらなくてさ。客も少なかった。そこで人を呼ぶためにまた借金して、歌舞伎新派の大女優市川紅梅を呼んだりして、近くの空き地で無料大演芸大会を催していたんだ。それで、客も増え、出店希望者もどんどん増えた。当時最大規模の露店街になったんだ」
一一 その中に、電気部品を売る店はどれぐらいあつたのですか?
「最初は1軒もなかったんだ。1946年の後半になって、菊池さんの露店(現・山菊ポータブル)で、たまたま4球スーパーなどの真空管やラジオ部品なんかを置いたらバカ売れしたのがきっかけだ。なぜそんなものが売れるのか調べてみたら、近くの電機学園(現・東京電機大学)の学生が来て買って行くらしいんだな。それで父は、これは商売になる、と考えたんだ」
-- 当時は、ラジオが貴重な娯楽だったんでしょうね。
「笠置シヅ子や東海林太郎なんかが大ヒットしてね。みんながラジオを欲しがっていた。素人が自分で組んだラジオを農家に持って行くと、米一俵とか、野菜の山などと交換できたんだ。ラジオ製作雑誌も次々と創刊されていたな」
このラジオ製作ブームは、大手メーカーが壊滅状態から立ち直り、高品質で低価格のラジオを発売する1950年ごろまで続く。
「日本は、電波やエレクトロニクスの技術力の弱さで戦争に負けたのだと、父はよく言っていた。そんな気持ちもあって、露店街の中でも電気部品やラジオの店を重視して1カ所に集めたらしいんだ。結果として物資も店も多く集まるようになった。全国から学生やマニア、ラジオ屋などが"電気部品なら、あそこに行けば何でも揃う"と集まってくるようになったんだ」
-- ええ。
「鉱石ラジオを組んで、音が聞えると本当に感動したもんなんだ」
-- そうした感動が、後に活躍する多くのエンジニアや電気・電子分野のオーソリティーたちの原点になっているのでしょうね。"日本初のコンピュータ・FUJIC"の岡崎文次氏もその露店街に通っていたそうですよ。
「最初は、自分が売っているものの価値がよく分からない露店商も多かった。でも、露店商には、元将校、学者、大会社の元役員など、インテリが多かったし、だんだん知識をつけていったんだ。しかし、父は、これからは露店という時代ではなくなるな、とも考えていた。GHQによる露店撤廃令が発せられたのはその矢先だったんだ」
SATOSHI ENDO
GHQとアメ玉真空管
「ところが、その撤廃令というのが、いきなり"翌年の3月までに撤廃せよ"というものでね。これでは、焼け野原から露店で食ってきた人たちが失業してしまう。そこで、単身、 GHQのマッカーサーに直談判に行ったんだよ」
-- なるぼど。
「日本の礼装である羽織袴を身に付け、さらしを巻いてね。交渉がうまくいかなかったら切腹するつもりで、一尺のドスも仕込んでいったんだよ」
-- 交渉は成立したのでしょうか?
「毎日、門前払いだったそうだ。でも、あんまりしつこく行くもんだから、フィリップ中佐という人が見て"あいつは誰だ、連れてこい"、となった」
-- どのように交渉されたのでしょう?
「GHQに全面的に協力すると言ったんだ。露店を街から一掃する。露店街をしきる親分衆にも気に入られているから説得できるとね。だから、場所を追われた露店商の人たちが集まれる、屋根付きの代替地を用意してくれと。そして露店の人たちの移転費用を政府から借りられるようにしてくれと要求した。父は、中央大学の法科にいて政治を学んでいたし、弁論部の主将もしていたからその辺はうまかったんだ。フィリップ中佐は話を聞いて、あっさり全部OKだと言う。それで、移転用にいくら貸し付ければいいかと聞いてきたそうだ」
-- なるほど。
「父は、少しふっかけてやろうと、3000万円、と言ったんだ。そうしたら、それっぽっちなら出せると言う。父があとで、億単位の額を言っとくんだったと悔やんでいたよ。結局、移転先は秋葉原になったんだが、費用には3000万円以上かかって、父が借金に奔走していたのを覚えているよ」
秋葉原電気街の成立
-- 代替地を秋葉原にしようと言ったのは、フィリップ中佐ですか?
「いや、当時の安井都知事や、秋葉原の駅前露店街をしきっていた野村誠一さん(現・ラジオ会館副社長)と話をして、父が決めたんだ。野村と父は、ともに両親を幼いころに失い、上京した後は露店で生活費を稼ぐなど、境遇もポリシーもよく似ていたんだ」
-- それまでの秋葉原は、どんな状況だったのでしょう?
「ラジオや電気関連の問屋がポツポツとあったんだ。広瀬無線(現・ヒロセムセン)、山際電気商会(現・ヤマギワ)、高岡商会(現・クラリオン)とかね。それと、"人入れ稼業"という、いわゆる就職斡旋業社が多かったんだ」
-- そこに、露店だった電気店がやってきたというわけですね。
「それで、電気店の繁盛ぶりを見て、もともと問屋だった店も後になって小売りを始めるようになった。問屋として仕入れたものを売るわけだから激安で売れるわけだよ。小さな店も負けずにメーカーから直に仕入れて来たりして、安く売るようになった」
-- それが現在の秋葉原までつながってくるわけですね。
「競争が激しいから潰れる小売りも出てね。そういう店の商品なんかは、バッタ屋が回収して、格安で売ったりするようにもなった」
-- 最初に露店が秋葉原に移ったのはいつですか?
「1949年10月のラジオストアだね。父の右腕だった森田雅雄さんなどが秋葉原駅西口のガード下に作ったんだ。父は1950年にそのとなりのガード下にラジオガァデンを、秋葉原西口から少しのところに東京ラジオデパートを作り、多くの露店商を移転させた。そして総武線ガード下にラジオセンターを作ったのが1951年だ。その名前は、秋葉原をラジオの中心地にしようという願いをこめたものなんだよ。秋葉原ラジオ会館のほうは、野村誠一さんが父の協力を得て、1953年に建設したんだ」
-- ラジオセンター、ラジオストア、ラジオ会館がそろったわけですね。
「露店をひとつの建物に集めて、デパート式にしたらどうだろうという案はもともとあったんだ。でも、小さい品物をデパート式で売ったら万引きが多くて困るだろうと言われていた。だけど、万引きできるような手にとりやすいところにものをおかなきゃだめなんだよ。それが商売の原則なんだ。そういうノウハウをすべて集めたのがラジオセンターだったんだ。ここにくれば、アメ玉(アメリカ軍放出の真空管)から、コイルから、シャーシから、すべてが揃う。仕入れるときは大量だからタダ同然に安いのに、店では真空管が、1本1000円とか2000円で売れたりした。だから、一坪足らずの店で、マンションを建てたり、金の時計をしたりする人もいたし、電気店の数もどんどん集まってきたんだ」
秋葉原駅前の電気街の繁栄の要因には、当時のラジオ人気もあるが、広瀬無線などの問屋に仕入れにきた業者が商売相手になったこともあるようだ。また、芝や上野などに戦前からあった電気問屋の秋葉原進出も忘れることはできない。結果として、秋葉原へ進出した志村無線、朝日無線(現ラオックス)などは今も残り、進出しなかった問屋の多くはその後、姿を消すこととなる。
Satoshi Endo
-- ジャンク屋というのはそのころからあったわけですか?
「1950~51年くらいからかな。ジャンク品から部品を取って商売してたんだが、たまたまジャンク製品自体を置いたら、詳しいアマチュアが飛びついたんだ。アメリカの放出品などには、飛行機用の部品など最先端のものが多く含まれていたからね」
アメリカ軍の横流し品が、当時のジャンク製品の大きな部分を占めていた。アメリカ兵の中には、軍の倉庫から真空管の箱を丸ごと盗み出し、証拠隠滅のために倉庫に火をかけるものもいたという。
政治家の夢と秋葉原
「父は、元総理大臣の三木武夫さんや、海部俊樹さんとも親交が深かったんだよ。三木武夫さんは移転当時は運輸大臣でね、秋葉原の国鉄用地を借りるときにもいろいろ協力してくれたんだ。明治大学弁論部にいた三木さんと父は古くからのつきいあいで、ともに協同主義に惚れこんでいた。選挙の折には三木さんの応援演説、代理演説なんかもよくやった。本当は自分も政治家になって、天下国家を論じたかった。それはもう学生時代からの悲願だった。ただ、父は人の世話ばかりやいていて、3度立候補したが、ついに政治家にはなれなかったんだ」
-- 協同主義というのは?
「近代的な組合組織による中産階級の育成を目指していてね。ひとつの果実をみんなで分け合おうというものなんだ」
-- その協同主義の考え方が秋葉原電気露店街にも生きていたんですね。
「あれは父なりの協同主義の実践だったと思うよ。それから、父は、友達を宝にした人だったんだ。とにかく人を信じ切れというのが信念だった」
しかし、その長蔵氏は、1953年、膵臓癌で倒れる。65歳だった。
「駅を秋葉原デパートにつなげたいというのが、父の最後の計画だった。でも、役所の人間も様変わりしていて、影響力をもてなかった。父は最後まで秋葉原に思いをはせて死んだんだ」
1960年ごろになると、テレビ、冷蔵庫、洗濯機を中心とする家電ブームが起こり、一般客が秋葉原を訪れるようになる。秋葉原は、急速に発展することになるが、一方で多くの一般小売り店が消えた時期でもある。
「現在の秋葉原をリードしている人々の中にも、露店商で学び、育った人間が多いんだよ」
Chiyodaku
JR秋葉原駅の「電気街口」という標識にしたがって、改札を出るとすぐ目の前がラジオ会館である。駅に続いた右側にラジオセンターやラジオストアがある。日曜日には、駅前で、ミニスカート姿のキャンペーンガールが売り出し中の家電製品のビラを手渡していたりする。中央通りは歩行者天国になり、いま買ったばかりの段ボールや紙袋をぶらさげた人たちでにぎわっている。
ここ数年、家電、AV機器の不振もささやかれているが、パソコンや電子部品など成長ざかりのジャンルも多い。マイコン関係のショップができはじめたのは、1970年代の中頃からのことである。1976年には、ラジオ会館にBit・INNがオープンするなど、それまで、むしろ新宿や渋谷にあったマイコンショップも秋葉原が中心となった。現在では、パソコンショップと名前を変え、秋葉原の地図を塗り変えるほどの広がりを見せているのは、ご存じのとおりだ。
アメ玉真空管から、テレビや白モノと呼ばれる電気洗濯機や電気冷蔵庫などの家電ブーム、オーディオブーム、パーソナルOA、そして、最新のマイクロプロセッサやファミコンブームまで、秋葉原は時代とともに変化してきた。
このきわめて個性的な街の秘密が、今回の山本博義氏のインタビューを終えて、少し分かったような気がする。現在も大手家電店から小さなパーツショップまでが、さまざまな形でこの秋葉原を盛り立てている。そして千代田区では、21世紀に向けて、秋葉原第2開発プロジェクトが動いているという。それは、現在の秋葉原の良さを生かしつつ、交通の便や街の構造を大改造しようという計画である。電気露店の大移転から40数年。今後も秋葉原からは目が離せなそうである。
Satoshi Endo
※本記事は、山本博義氏が亡くなられているため山本電機株式会社の山本博之氏に確認のうえ掲載させていただいた。また、『月刊アスキー』掲載時の写真の一部が割愛されている。
※インタビューは『月刊アスキー』200号記念連載の第7回として掲載したものだが、単行本化(『計算機屋かく戦えり』)の際には収録しなかったものだ(コンピューター関連のものを中心に収録したため)。
Satoshi Endo
ラジオセンター。
山本博義氏にインタビューした1993年は25年も前のことなので、前提としている「秋葉原電気街」が、現在とは少し違うと思う。コミックとらのあなの創業が1996年だからだ。ちょうどDOSパラなどができてアキバに通う気分が大きく変化しはじめた頃だが、むしろ、いまのほうが活気があるかもしれない。
自作パーツでもゲームでも同人誌でも商品を買って帰れる。誰も予想していなかった電子工作の復活。ジャンク店、あきばお~や上海問屋などアジアの品々を売る店、DMM.makeや心の底はかなりマニアなヨドバシが秋葉原に出来たのも偶然ではない。テクノロジー関連の同人誌即売会の技術書典もアキハバラの名物になりつつある。アキバのビルの2階以上にはニッチなテーマのお店も増えている。
こうしたいまアキバを楽しくしてくれているお店たちは、戦後の闇市でみんなが娯楽を渇望していて、アメ玉真空管でラジオをくみ上げた遺伝子の正当な継承者なのだと思う。
それぞれの時代とともに主役となる商品は入れ替わってきたが、そのアナーキーで人間の本性に触れるようとするところはあまり変わっていないのは不思議としか言いようがない。
なお、インタビュー中で秋葉原のもとになった露店街で真空管やラジオを最初に売りだした山菊ポータブルは、7年ほど前に閉店している。
(2018年8月24日「遠藤諭のプログラミング+日記 」を一部修正して転載)
13回答
仕事用でknotの腕時計購入を検討しておりましたが、友人に話したらもっとちゃんとした時計を買うように勧められたので、世間的にどのようなイメージか気になります。 なお、私の立場などは以下です。
仕事用でknotの腕時計購入を検討しておりましたが、友人に話したらもっとちゃんとした時計を買うように勧められたので、世間的にどのようなイメージか気になります。 なお、私の立場などは以下です。 ・33歳建設コンサル業の営業職(係長) ・部下5人程度の地方支店に勤務 ・年収900万円くらい ・仕事相手は主に官公庁職員(議員なども含む) 仕事はスーツやジャケパンスタイルが基本ですが、職場の服装規定は緩いです。普段は大体10万円前後のスーツ数着と5万円程度の革靴数足をローテしています。現在所有しているのがティソのシュマンデトゥレルやオリエントスターなどですが、トノー型の腕時計を持っていなかったので、手頃な値段で探していたところ、シチズンやノットにたどり着きました。ベルトのカスタマイズが可能などの点からノットのトノー型腕時計を購入しようと考えていますが、仕事相手などからどういう印象を持たれるか気になるので質問させて頂きます。何卒宜しくお願いします。
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ノットの場合、まあ悪い時計ではないけれど…時計をあまり好きではないのかなぁとおもっちゃいますね。結局いいのは見た目だけです。めためも言葉は悪いですが、軽いです。20代が、ファッションでつけるいゆしよまうがあります。 ノットは悪いメーカではないですが、ムーブメント(エンジンに当たる)をシチズンとかセイコーから仕入れて載せて、外装のみ作ってそれにはめ込んでます。 では何故、セイコーやシチズン、カシオ、オリエントが良いか、というと、結局最初の入口をた出しく入れば二本目につながるからです。最初時計で一本使えばそのメーカーのことがわかって、信頼できるできない、という、判断が付きます。大手メーカーを使えば必ず買ったときは使っていくうちに気づかない良さがわかりじゃあ次もこのメーカーでとなります。 ノット悪くないかもしれませんが、その次に…と思った時に元々選択肢(値段の幅や機種)が少ないので、次のステップに行きにくいです。 その点シチズンなら次の選択肢日広がります。 うオリエンタルスターもです。 時計専門メーカーはやはりそれなりもストーリーを用意してくれてます。
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ありがとうございます。2本目に繋がるかどうかの観点など、大変参考になりました。
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よく耳にするのはAppleWatchで、これがもっとも値踏みされず誰に対しても悪い印象を与えない実用ツールとして使い勝手が良いのだとか。 たしかに私も他人の時計をみたときにAppleWatchだと悪印象も好印象もどちらも残らないなと、そこが魅力ではあるなと感じています。
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正直言って、何でも良いと思う。ネットで見ると年収の1〜2割程度の腕時計を選ぶのが妥当とも書かれてたので900万だったら90〜180万ぐらいですかね、、、
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900万の収入があって、聞こえは賢そうで調整能力とマネジメントが得意そうなお仕事してるのに、10万以下の時計買うのに質問なんかする訳ないじゃん。 牛の糞にも段々がある様に、質問を聞くと「人となり」や社会人としてのレベルと言うか人間力が見えるものなんだ、この質問は内容がチグハグすぎる。。 おそらく、この質問の真意は、「knotの腕時計」を身に付けてると、 ・33歳建設コンサル業の営業職(係長) ・部下5人程度の地方支店に勤務 ・年収900万円くらい ・仕事相手は主に官公庁職員(議員なども含む) 上記の収入や仕事をしてる人間に見えますか?って事なのかな? 答えは見えませんよ。
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平均年収より収入がおありなら、中堅ブランドの時計をされてはいかがでしょうか?営業相手はロレックス着用率高めそうですね。チューダーやオメガをお勧めします。
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私が仕事相手なら、コンサルが高級すぎる時計してたら何かイヤだな。 5万くらいまでの質実剛健な時計とかしてたら信頼できそう。 まあ仕事の場で時計を気にする人なんてそう居ませんから、悪目立ちしなければ何の時計付けても大丈夫だと思いますけどね。
中内㓛
7の言語版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかうち いさお
中内 㓛
日本 大阪府西成郡伝法町(現 大阪市此花区伝法)死没2005年9月19日(83歳没)
日本出身校兵庫県立神戸高等商業学校(現兵庫県立大学)職業実業家配偶者妹尾萬亀子子供長男 中内潤
次男 中内正
長女 中内綾受賞勲一等瑞宝章
食品産業功労賞テンプレートを表示
中内 㓛(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は、日本の実業家。ダイエー創業者。
戦後の日本におけるスーパーマーケット (GMS) の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。
ダイエー会長・社長・グループCEOを歴任したほか、日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長を務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長・理事長、財団法人中内育英会の理事長も務め、教育者としての一面もあった。
名前の正式な用字は「功」ではなく「㓛」(「工+刀」、㓛:U+34DB)。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
大阪府西成郡伝法町(現 大阪市此花区伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家[注 1]に生まれ、大阪医学校(現・大阪大学医学部)卒業後、神戸で眼科医を務めた。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。
中内は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年に兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身。現・兵庫県立大学)を卒業。戦時中のため繰り上げ卒業であった。ゲーテ『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す[2]。勉強は苦手で、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く、神戸商業大学(現・神戸大学)などの大学受験に失敗。
戦争体験と奇跡の生還[編集]
受験に失敗した中内は、1942年、日本綿花(ニチメン→双日)に就職するも、翌1943年1月に応召。広島にて訓練の後、幹部生として扱われる仲間を尻目に、満州国とソビエト連邦の国境にある綏南に駐屯する。
中内が一兵卒として召集された理由は、神戸高商時代の配属将校に嫌われ(自身は「下駄をはいて殴打された」と述べている[3])、「兵適」という最低の評価しか下されなかったからとされている。身体検査で「心臓が右にあるという『内臓逆位』であることが判明したため」とも述べている[4]。
1944年7月、フィリピンの混成五八旅団(盟兵団)の所属となり、ルソン島リンガエン湾の守備に就いた。七年式三十糎榴弾砲を運用するも、1945年1月7日に榴弾砲が破壊される。部隊は1月23日未明に玉砕命令が下された直後、一四方面司令官・山下奉文によるゲリラ戦の命令が下されたことで辛うじて生き延びた。
フィリピン戦線では虫を食べて生き延びる絶望的な食料状況の中[5]、ゲリラ戦で米軍基地を襲撃した時、米軍が石油発動機でアイスクリームを作っていたことに衝撃を受けた[6]。敵から手榴弾の攻撃を受け、瀕死の重傷を負い死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃ってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。第二次世界大戦での戦争体験は、人生観やダイエーの企業理念にも影響を与えた[5]。
「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との言葉は、この時に痛感した日本軍と米軍との物量の差と飢餓体験から出ている。また、中内は毛沢東の矛盾論の影響も受けていた[7]。
後年、中央公論社から対談の謝礼を聞かれたとき、「キミとこ、大岡昇平さんの全集出してんねやな。もしよかったら、その全集くれへんやろか」と頼んでいる。大岡は㓛と同時期にフィリピンで従軍した体験を持ち、『野火』『レイテ戦記』などの優れた戦記文学を残している[8]。
1945年11月にフィリピンから復員。神戸市兵庫区にあった実家のサカエ薬局が1948年、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。旧制神戸経済大学(現・神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、学費未納のため除籍[9]。6年後の1951年8月には、次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪市平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」で勤務[注 2]。
ダイエー設立・昇龍の頃[編集]
サカエ薬品を離れ、1957年4月10日に神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入したが、すぐに撤退。同年7月、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長・吉田日出男の要請を受けて、小倉に向かい開店の援助をしたことから、吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰う。[10]9月23日、大阪市旭区の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店した。当初は現代のドラッグストアに相当する薬局で、後に食料品へと進出した。
本人が著書やインタビューで明らかにしたところによると、当初は特殊浴場やパチンコ店をやろうとも考えたが、死んだ戦友に顔が立たないと思い、最も利益率の低いスーパーを選んだと述べている。
1958年には、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店。既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこした。特に価格破壊は、定価を維持しようとするメーカー勢力の圧力に屈せず、日本国民の大多数より喝采を浴びた。1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」とされたが、戦時中の国家統制がさまざまな規制として残っており、中内は「戦後はまだ終わっていない」とした。[11]
1962年、大手商社日商(後の日商岩井、現・双日)の協力の下、渡米。現地の流通業を研究する。当時の中内について、日商の入江義雄(のちダイエー副社長)は「とにかく、好奇心のかたまりでした」[12]と証言しており、入江は中内の姿勢に感服して後年ダイエーに入社した。
価格破壊[編集]
中内は「価格の決定権を製造メーカーから消費者に取り返す」ことを信念として、「いくらで売ろうとも、ダイエーの勝手で、製造メーカーには文句を言わせない」という姿勢を貫き、メーカーの協力が得られない場合は、「自らが工場を持たないメーカー」として、そのスーパーのオリジナルブランド「プライベートブランド」 (PB) の商品開発を推進した。同時に、既存大手メーカーとの対立を巻き起こした[13]。
そのきっかけが1960年発売の「ダイエーみかん」や1961年発売の「ダイエーインスタントコーヒー」などで[14]、これらは1970年代の「ノーブランドシリーズ」や「キャプテンクックシリーズ」を経て「セービングシリーズ」に発展し、ダイエーの旗艦ブランドに成長した[15]。
1964年、松下電器産業(現・パナソニック)とテレビの値引き販売をめぐって「ダイエー・松下戦争」が勃発した。ダイエーが松下電器の製品を希望小売価格からの値下げ許容範囲だった15%を上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけとなり、松下電器側は仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートを停止させて対抗した。あくまで松下独自の考えである「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に定価(希望小売価格)を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する」に対し、契約社会と法律を重視したダイエー側は、松下電器を相手取り、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)違反の疑いで裁判所に告訴した。
1965年3月、花王石鹸がダイエーへの出荷を停止したため、7月に花王を公正取引委員会に提訴。ダイエーは第一工業製薬と提携し、ナショナルブランドより2~4割安い洗剤「スパット」を販売した。最終的に「ダイエー・花王戦争」は住友銀行の斡旋で1975年に和解し、取引を再開した。
1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動を決議した。同年に、公正取引委員会が二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いあり」という結論を出している。同じ時期、ダイエーは13型カラーテレビを「BUBU」というブランド名で、当時としては破格の安さである59,800円で販売し、またしても松下との対立が激化した[13]。
松下幸之助は、1975年に中内を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭したが、中内は拒否した[13]。明治生まれの松下と、大正生まれの中内には約30歳の年齢差があるにもかかわらず、松下相手に、中内の精神力は相当タフである。この対立は、幸之助没後の1994年に松下電器が折れる形で和解した[注 3]となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。
ダイエーの企業テーマである「For the Customers よい品をどんどん安く消費者に提供する」の実現に向け、「既存価格を破壊することが、ダイエーの存在価値にある」と考えて実行に移し、100g当たり100円が平均だった牛肉を39円に思い切って値下げしたところ、牛肉コーナーには主婦らが殺到し売切店が続出するほどとなった。この欠品状態を補充すべく、生きた牛を買い取ってそれを枝肉に加工したり、日本本土復帰前のアメリカ施政権下の沖縄には輸入関税がかからないことを逆手に取り、オーストラリア産の子牛を沖縄に輸入・飼育したうえで日本国内に輸入するという発想を生み出した[13]。
グループ拡大に奔走[編集]
1971年3月、大阪証券取引所第2部に上場。スーパー業界では初となる上場企業になった[16]。1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高日本一を達成した。1980年2月16日に日本で初めて小売業界の売上げ高一兆円を達成した。
また、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ドムドムハンバーガー、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開していった。この時期と前後して、西友ストア(現・西友)やイトーヨーカ堂が地盤としている首都圏にも進出し、東京都赤羽や埼玉県所沢、神奈川県藤沢、千葉県津田沼などに出店。それぞれの地域一番店と衝突したため、両店において、苛烈な価格競争や消耗戦といった「戦争」を引き起こした[16]。
更にイチケンやリクルート(現・リクルートホールディングス)、忠実屋、ユニードなどを買収(その後1994年に忠実屋・ユニード・ダイナハを合併)、1981年には髙島屋の株式を10.7%取得した。グループ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携を求めるが、ダイエーによる乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。ミシンの割賦販売で実績のあったリッカーの再建を引き受け、その割賦販売のノウハウを子会社のダイエーファイナンス(現・セディナ)に導入した。
一兆円達成から3年後の1983年から三期連続で連結赤字を出したが、ヤマハの社長であった河島博を総指揮官とし、業績をV字に回復させる通称「V革」を行った。
絶頂期[編集]
1988年にはパシフィック・リーグの南海ホークスを南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入し、福岡ダイエーホークスを発足。さらに東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドームの建設に着手するなど、バブル景気に乗ってグループを急拡大させた。中内は、タッチアップなど野球の基本的なルールすら知らなかったが、ホークスについてよく知るためホークスを扱った漫画『あぶさん』の作者・水島新司と対談した。
1988年4月には神戸・学園都市に流通科学大学を開学。大学職員は全員当時のダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。同年9月には自らの故郷・神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・劇場・専門店街が一体となった商業施設新神戸オリエンタルシティを誕生させた。また、1991年には経団連副会長に抜擢。それまで財界においては重工業や銀行などに比べて格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。
凋落[編集]
1990年代後半にはバブル崩壊により地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営に翳りが見え始めた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、展開していたアメリカ型ディスカウントストアの「ハイパーマート」の経営に失敗。また当時の消費者の意識が「価格」から「品質」に変わり、更には家電量販店や衣料品店などの専門店が拡大し多店舗化を始めていったことなどから、業績は低迷。当時の世間からは「ダイエーに行けば何でも売っている。でも、欲しいものは何も売っていない」と揶揄させるようになった。中内自身も晩年、「消費者が見えんようになった」と嘆くこともあった。
阪神・淡路大震災[編集]
1995年1月17日5時46分に阪神・淡路大震災が発生。起床後に東京・田園調布の自宅で知った中内は、ただちに同じ敷地で寝ていた中内潤をたたき起こして浜松町のオフィスセンターに災害対策本部を設置。物資を被災地に送るよう陣頭指揮をとり、首都圏や九州などからフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したり、比較的被害の少ない兵庫県内の24店舗に店を開けるよう厳命したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した[16]。これらの決定は地震発生から約2時間後かつ政府が対策本部設置を決定する約2時間前の8時までに全て決定しており、11時には専務取締役の川一男を始めとする現地対策メンバーと救援物資が新木場のヘリポートから神戸のポートアイランドに急行している[16]。通常、大災害が起きた際には暴動や略奪が起こる例も世界中には少なくないが、ダイエーの根拠地であった神戸ではそうした騒ぎが起きなかった。一方で、神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊、コンビニのローソンを始めとするダイエー系列店約100店舗が被災するなど、ダイエーグループの金銭的被害は甚大で、ダイエーの凋落に拍車をかけることとなった。ダイエーの正社員も、この震災により判明しただけで30名以上が犠牲になった。
「スーパーはライフラインである」という哲学により、地震発生3日後には自らも被災地に乗り込み、自前のネットワークを駆使して必要な物資の輸送を行い、営業時間の延長や被災した店舗前での物販販売などを特例的に行政当局に認めさせ、被災地への迅速な物資の供給・販売を実施した。
「店の明かりをつければ、それだけで被災者たちは力が出る」「暗闇は人を絶望させる」「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り店を開け続けろ。流通業はライフラインや」の号令の元、電力供給が出来ているダイエーやローソンなどのダイエーグループ各店の照明を24時間点灯し続け、苦しむ被災者を勇気づけた[16]。この中内の哲学は、イオン傘下となって以降のダイエーにも例外なく引き継がれており、2011年に東日本大震災が発生した時も、東京のダイエー本社(東京都江東区)がただちに対策本部を設置、東北の被災地に所在するダイエー仙台店も迅速に営業を再開させ、復興に貢献した。
晩年[編集]
2001年、経営悪化の責任を取り、「時代が変わった」としてダイエーの代表取締役を退任。中内が退任表明を行った同年の株主総会では、厳しい質問が続き、2時間36分と長時間に渡って大荒れとなった。中内は過ちを認め株主に謝罪して、総会中に壇上を降りたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声があがって再登壇し、中内に満場の拍手が鳴り止まなかった。同日午後には、退任する中内と新経営陣の高木邦夫がそろって記者会見を開き、中内は完全に経営から退くことを表明。2002年にはプランタン銀座の最高顧問職、リクルートの名誉会長も辞し、実業家としての活動を終えた。
その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人中内学園の学園長として教育活動に専念。2000年に流通科学大学は、職員がダイエーからの出向から大学籍になった。新神戸オリエンタルシティも2004年に売却されダイエーの手から離れた。以降も、個人の資産管理会社などを含む中内家はダイエーグループの株式を保有し続け、ダイエーグループの主要株主であった。顧問弁護士だった河合弘之は、中内はオーナー社長であることにこだわり、自分の会社の株を最低5%持つのが経営哲学だったと証言している。
2004年12月、中内家の資産管理会社3社(マルナカ興産など)の特別清算を開始。芦屋と田園調布にあった邸宅や、所持する全株式を売却処分し、私財からダイエー関連資産を一掃したことで、名実ともにダイエーと決別した。
中内は1960年代に住友銀行から融資を受けた際、借り入れを個人保証にしていたため、グループで3兆円ほどにのぼる負債のすべてを個人で負う羽目になり、株式や不動産などすべての個人財産をゼロにしなければならない事態に陥ってしまった。しかし、当時三井住友銀行頭取だった西川善文は、すべてを取り上げるのはさすがに無慈悲として、マンションの一室を特別に残した。
2005年8月26日、流通科学大学を視察後、神戸市内の病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、療養中の9月19日午前9時30分、転院先の神戸市中央区の神戸市立中央市民病院において死去。83歳没[1]。
逝去した際、田園調布の自宅・芦屋の別宅が差押となっていたため、一度も中内の亡骸を自宅へ戻すことができず、大阪市此花区の中内家が眠る正蓮寺にそのまま搬送され、ごく近親者だけでの密葬となった。本葬儀は流通科学大学の学園葬として行われ、林文子会長ら当時のダイエー経営陣は参列したが、ダイエー本社としては、産業再生機構入りし経営再建中であることもあり、社葬を行わなかった。
しかし、日本の流通業に多大な貢献を残した中内に対し、社葬もお別れの会も行われないのはあまりに忍びないとして、イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊、イオン創業者の岡田卓也、日本におけるスーパーマーケットの育ての親でもあった渥美俊一、自身も立ち上げに携わった日本チェーンストア協会など、中内と共に戦後における流通業界の黎明期を築いた小売・流通業関係者らが発起人となって、同年12月5日にホテルニューオータニにて「お別れ会」が開かれ、約2,300人が献花に訪れた。安倍晋三、二階俊博、小池百合子、小沢一郎、冬柴鐵三、神崎武法などの政治家も参列した。
逝去7日後の9月27日には、ダイエーホークスの後身である福岡ソフトバンクホークスと、対戦相手であった東北楽天ゴールデンイーグルスの選手・関係者が福岡ドームでのプレー前にファン・観戦者と共に感謝と哀悼の意を込め、1分間の黙祷を行った。当日の試合ではホークスが勝利した。なお、中内の死去に関して福岡ドームの電光掲示板には「ありがとう!!中内功さん 福岡はあなたを忘れません 安らかにおやすみください」と追悼文が表示された。
評価[編集]
功績[編集]
欧米型のスーパーマーケットを中心とする大型商業施設・外食産業を戦後日本に普及させ、消費者主体の流通経営、神戸・福岡など日本各地の都市計画への尽力、災害時の迅速な支援体制(阪神・淡路大震災、東日本大震災)などで、多大な貢献をした点は現在でも高く評価されている。また家業であった町中の小さな薬局店から身を興し、一代でダイエーを創業し、一時はダイエーを連結売上高3兆円超、関連企業を含んで6万人以上の従業員を抱えた、小売業として売上日本一の巨大企業に育て上げたことについて、ライフコーポレーション創業者の清水信次や、衣料品に価格革命を起こしたユニクロ社長の柳井正等を筆頭に、現在でも中内の考えに影響を受け、中内を尊敬する経営者や実業家は多い。
1960年代に中内が大規模な流通システムを構築するまで「市場流通価格」はメーカーが完全に操作しており、価格はメーカーが決めるのが一般的で、現代では当たり前の「良い品を安く買えるお店がいつもそこにある」「良い品を安く売ってくれる店こそが消費者の味方」というような発想さえなかった。小売業や消費者の立場が下であった時代の1960年代から、中内は独自のやり方で良い品、高所得者でないと買えない高級品(テレビなど)や一般主流品を、消費者の為にメーカー製造品と同じレベルの品質で、通常の市場価格よりもかなりの低価格でプライベートブランドから販売した。今では当たり前になり種類も豊富になったプライベートブランドの生みの親でもある。ダイエーが1961年に日本で初めて製造・販売した。そして、「For the customers」(お客様のために)というダイエーのスローガンと共に、経営を退くまで消費者の権利、庶民への豊かさの提供、小売業の流通革命の存在意義と価値上昇に奔走し続けた。
1990年代後半から小売業の主役になっているコンビニエンスストア、ディスカウントストア、家電量販店、ドラッグストアなどの安売り店も、中内による流通革命や価格破壊が無ければ、日本には存在しなかったとする識者もいる[16]。
福岡ダイエーホークス発足に際し、福岡にホームグラウンドを移し、当時はプロ野球球団の空白地帯であり、話題性の薄かった九州、福岡市の都市開発にも大きく寄与した。日本初の開閉型ドーム球場を建設し、九州にホークスの人気を定着させた。チームの低迷期には「同好会は終わった」と書かれた横断幕を送った。福岡ドームには以前のダイエーのスローガンでもあった「For the customers」と書かれた中内直筆の色紙が今でも飾られている。
「流通王」「カリスマ」とも呼ばれ、1993年に流通業界出身初の勲一等瑞宝章を受章[17]。1984年にレジオンドヌール勲章を、2000年にイサベル女王勲章(英語版)を受章[18]した。
人物[編集]
人物像[編集]
神戸高等商業高校在学時は目立たない性格で、俳句の同好会に所属していた。戦後、商売を始め出してからは、同級生を捕まえては「ゼニ貸してくれるとこ知らんか」とすごい目つきで聞いてまわったので、友人たちは人間が変わったと驚いた。
新婚旅行先の宿から電話で薬の取引をするなど、家庭よりも仕事を優先した一方で、かなりの家族思いで、部下に愛娘のことを話した時「忙しいて全然構ってあげへんかったなあ」と涙を流した。
怒ると手がつけられないほどであったが、反面大変人情深い面も持ちあわせ、社長でありながら、自らも大晦日深夜まで売り場に立ち続けた。部下から早く帰るよう促された時に、売り場の女子店員を指差して「あの子たちは正月の用意もしないで頑張っているのにわしが帰れるもんか。」と断ったり、部下が億単位の損失をした時は叱るどころか、「そうか。お前、ええ勉強したなあ。これから気をつけろ。」とやさしく励まして相手を感激させた。
座右の銘は「ネアカ、のびのび、へこたれず」(元は三井物産社長であった八尋俊邦の言葉)。この座右の銘は、自身が設立した流通科学大学の校歌の歌詞にも「ネアカでのびのび、へこたれないよ」という歌詞で使用されている。
起床した直後にその日の売り上げに大きく影響する天気予報を朝一番にテレビのニュース番組で見るのを創業以来の日課としていた。そのため、前述の阪神・淡路大震災も、発災直後にこのことを報じたNHKニュースでいち早く接し、迅速に対応することが出来た[16]。
晩年は謙虚な好人物となり、林文子CEOによるダイエーの新方針を評価したり、堀江貴文を見て「若いもんは元気があってええなあ。」と漏らした。
亡くなる前年の2004年7月に、81歳で自動車の運転免許を取得したときは、いかにも得意気に知人に運転免許証を見せびらかし、いずれは北アメリカ大陸のハイウェイを走りたいと言っていた。ただ、高齢なのでなかなか運転させてもらえず、業を煮やした中内はタクシーを捕まえ「金払うさかい、かわりに運転させろ」と運転手に迫ったという。
現在も、新神戸オリエンタルシティの建物の一角に取り付けられている石板には、直筆で次の言葉が刻まれている。
右胸に心臓があるために戦争で最前線に送られることになった中内だが、のちに心臓だけでなく全ての内臓が逆になっている内臓逆位と判明している[4]。
ダイエー創業に至る中内の生涯は、静岡県の民宿「丸山」の創業者、丸山静江やヤオハンの創業者である和田カツとともに、連続テレビ小説「おしん」の主人公のモデルの1人となったと言われている[19]。
ダイエーホークスのオーナーであったことから、水島新司の野球漫画であるあぶさんやドカベン プロ野球編に中内正と共に登場している。背番号は130(名前の㓛から)
頼まれたら受け入れる性格で、浅草のおかみさん会に頼まれ、しょんべん横丁に出した店がビッグボーイである。また、江副浩正に頼まれリクルート株を引き受けた。
語録[編集]
「日用の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するために、商人が精魂を傾けて努力し、その努力の合理性が商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであらうか?」(1960年、当時のダイエー三宮店の事務所に掲出した、取引先に対するメッセージ/原文ままのため歴史的仮名遣である)[20]
「三つのどれをやっとっても、金は儲かったと思うね。パチンコ王とか、ソープランド王とか、サラ金王になっていただろう。しかし、僕はいちばん儲からんスーパーを選んだ。心がまったく動かなかったと言えばウソになるが、でも、それではあまりにロマンがないやろ。それと、死んだ戦友に対して、なにか後ろめたさがあってね。」(大塚英樹『流通王 中内功とは何者だったのか』 講談社 2007年より)
「この資源のない国で、世界一豊かな暮らしを提供するためには、もっと使命感に燃えた人が必要だ」
「我々はダイエーでしかできないことを、この国が本当に豊かさを実現するために、あえてリスクを冒しても実行していかなくてはならない」
「馬鹿と天才とは、この世に存在することはまれである。全てが我々凡人の世界である。その中で半歩前に踏み出すことのできる勇気を持つ事が大切である。」
「売り上げだけが日本一というのではあまり意味がない。それは手段であって本当の目的はそれを通して新しいシステムを作ることだ。」
「時代の流れから言って、かつてのような需要過剰、売り手市場の時代は二度と来ないと思います。景気は今、デフレ局面にあると言われていますが、これからは供給過剰、買い手市場が常態になる。そのような中で企業が存続していくには、買い手市場を前提とした新しいシステムを構築して、徹底的に消費者の理論に立って経営を推し進めていく以外にはありません。」
「もはや手本はない。いまこそ主体的に変革を実行していくときである。企業家精神を大いに発揮し、痛みを伴いながらも、創造的で活力のある新時代を切り開いていく。それが日本経済を再生し、透明度の高い経済社会を作ることになる。」
「こいつはなかなか眼力ある。刑期終えて娑婆に出たらうちに来てもらお。」(自宅が盗難に遭い、値の張る名画ばかり盗まれた時の言葉)
「消費者以外に頭を下げるのは嫌だ。」
「日本は全然豊かじゃないですよ。たしかに家庭用電気製品とかはいっぱい部屋にあるけれど、本当に生活をエンジョイするような時間的、空間的なゆとりがあるだろうか?日本人は何か後ろから追いかけられているような感じで、周囲が気になり自分自身を見失っています。」
「売上げはすべてを癒す」
「消費者のためなら、どんなことでもするつもりやが、死んだおやじに対しては親不孝な息子だったと思う」
「借金と元気だけはあるんやで。」
「松下(幸之助)さんを経営者として非常に尊敬している。しかし価格決定権に対する考え方や、お客様の利益についての考え方は、私とは根本的に違っている」
「国には絶望した。何でこんな国に高い税金を払いつづけていたんやろうかと思うと、あらためてむかっ腹がたった。」(阪神・淡路大震災時の政府の初期対応の遅さについて)
「あの頃は若かった。青雲の志や坂の上の雲はもうなくなってしまった。」(1998年、日本チェーンストア協会会長に31年ぶりに再就任した時の記者団の質問に対して)
「これまでの人生で楽しいことは何もありませんでした。」(1999年、1月、会長に退いた時に、人生を振り返っての問いに対して)
家族・親族[編集]
祖父・栄
高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部)に学び、神戸で眼科医となった。
父・秀雄
サカエ薬局創業者→ダイエー初代会長
ダイエーの前身ともなったサカエ薬局の創業者であり、ダイエー創業後は会長に就任した。
弟(次男)・傅
サカエ薬局社長
弟(三男)・守
ロベルト会長
弟(四男)・力
1931年 - 2012年12月15日、サカエ薬局社員→ダイエー専務取締役→シンエーフーヅ株式会社社長→神戸ポートピアホテル社長
㓛がダイエーを創業後に所属していたサカエ薬局から転籍しダイエー専務取締役に就いたが、㓛と経営方針で対立し1969年ダイエーを退社。後にシンエーフーヅ株式会社ならびに神戸ポートピアホテルを設立。
2012年12月15日に急性心不全の為に死去。81歳。
長男・潤
ダイエー副社長→ダイエーホールディングコーポレーション社長→学校法人中内学園理事長
孫・希
潤の長女。中内学園学園長
長女・綾
アライアンス・フォーラム財団常務理事として、ザンビアで栄養改善活動に従事
婿・浅野昌英
綾の夫。ダイエーグループであったイチケン元社長[21]。2002年04月15日、ダイエーがイチケン株を東洋テクノに譲渡したため6月末で退任。現在は浅野アソシエイツ代表。
次男・正
福岡ダイエーホークスオーナー→読売ジャイアンツオーナー顧問→財団法人中内育英会理事長
中内氏
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中内栄
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┃
中内秀雄
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┃ ┃ ┃ ┃
中内㓛 中内傅 中内守 中内力
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中内潤 綾 中内正
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┃
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中内希
主な著書[編集]
『わが安売り哲学』 日本経済新聞社→千倉書房、2007年9月
『中内功語録』 小学館文庫、1998年
類書に『中内功語録 21世紀への革命商人』 ソニー・マガジンズ、1995年
『仕事ほど面白いことはない 中内功200時間語り下ろし』(大塚英樹編著)、講談社、1996年
全3冊で他は『好奇心に勝るものなし』、『わが人生は未完なり』
主な評伝・評論[編集]
佐野眞一『カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」』 日経BP社、1998年→増補版 新潮文庫(上下)→完本 ちくま文庫(上下)
緒方知行『二人の流通革命 中内功と鈴木敏文』 日経BP社、1999年
大友達也『わがボス 中内功との一万日』 中経出版、2006年
著者はダイエー幹部の中で最も長く側近として仕え、亡くなる直前まで、ただ一人そばにいた部下。広報担当者としてもダイエー関連の記事・書籍に回答や応対している。
大塚英樹『流通王 中内功とは何者だったのか』 講談社、2007年
著者は「カリスマ」中内功に、約20年間密着したジャーナリスト
恩地祥光『昭和のカリスマと呼ばれた男 中内功のかばん持ち』 プレジデント社、2013年。最側近の一人による回想記
小榑雅章 『闘う商人 中内功 ダイエーは何を目指したのか』 岩波書店、2018年
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
^ 『阿陽旧蹟記』によると、「池田村(大西町ニ城跡有)、当城ハ長曽我部元親ノ家老中内善助籠城之処、天正十三酉年家政公御討入之砌責寄給フ処、城主善助ヲ始軍勢共降参シテ土州へ落行、是ニ依テ与州讃州ノ押トシテ牛田亦右衛門ニ御手勢三百騎ヲ御差添被成後ニ亦右衛門ハ掃部ト改ム」とある。中内氏は近江の中原氏の支流といわれ、中世後期に土佐に入り、長岡郡江村郷に居住した。中内藤左衛門。中内源兵衛尉。中内三安。中内三由。中内左近衛門尉がいる。
^ 会社としてのサカエ薬品株式会社はのちに「株式会社サカエ」に商号変更し、ダイエーと同じくスーパーマーケットに発展。2001年11月1日に会社分割にて同名の新設法人株式会社サカエに事業を承継するまで、「サカエ」の店名でスーパーマーケットを展開していた
^ 同年に合併した忠実屋が従前より松下電器との取引関係を有しており、その関係をダイエーが合併後も事実上引き継ぐことで取引が復活する形となった。詳細は忠実屋の項を参照。
出典[編集]
^ a b “ダイエー創業者の中内功氏にお別れ、流通科学大が学園葬”. 日本経済新聞. (2005年11月3日). オリジナルの2005年11月5日時点におけるアーカイブ。 2019年12月26日閲覧。
^ 佐野眞一、『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』(日経BP社、一九九八年)、九九頁。
^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・137
^ a b “朝刊5面『〈証言そのとき〉ボス、ときどき僕:2 すべて自己責任』”. 朝日新聞社 (2012年9月17日). 2013年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月18日閲覧。
^ a b “流通王・ダイエー「中内功」の罪と罰 V革作戦の立役者を追放、長男抜擢という悲劇”. 週刊新潮 (2021年12月21日). 2023年7月26日閲覧。
^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫 p・166
^ 中内功『わが安売り哲学』1969年
^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫 p・159
^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・238〜239
^ 佐野真一『完本カリスマ——中内㓛とダイエーの「戦後」』上巻、ちくま文庫版、筑摩書房、2009年、56頁
^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・337
^ “PB(プライベートブランド)がもたらした功罪(1):|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース”. データ・マックス (2009年11月17日). 2018年6月1日閲覧。
^ 崔相鐵(流通科学大学総合政策学部教授). “【マーケティング的思考のすすめ パート20】日本におけるPB商品ブームの歴史〜ダイエーの上場廃止に際して” (PDF). 一般社団法人 在日韓国商工会議所 兵庫. 2018年6月1日閲覧。
^ a b c d e f g “流通王・ダイエー「中内功」の罪と罰 V革作戦の立役者を追放、長男抜擢という悲劇”. 週刊新潮 (2021年12月21日). 2021年12月24日閲覧。
^ 「93年秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、外国人の受章者」『読売新聞』1993年11月3日朝刊
^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “中内㓛”. コトバンク. 2017年12月11日閲覧。
^ 雪国舞台 日本人の苦難体現(読売新聞 2011年11月9日配信 2013年3月7日閲覧)[リンク切れ]
^ ダイエーグループ35年の記録 p.30
^ ダイエーがイチケン株売却/中内氏女婿の浅野社長退任 四国新聞社、2002年04月15日。
関連項目[編集]
ウィキニュースに関連記事があります。
外部リンク[編集]
[ https://nakauchi.com 流通業界の革命児 中内功](学校法人中内学園による公式サイト)
先代
創業ダイエー社長
初代:1957年 - 1999年次代
鳥羽董先代
中内秀雄ダイエー会長
2代:? - 1999年次代
雨貝二郎先代
創設
小林敏峯
小林敏峯日本チェーンストア協会会長
初代:1967年 - 1976年
第10代:1993年 - 1994年
第14代:1998年 - 1999年次代
岡田卓也
鈴木敏文
鈴木敏文先代
創設中内学園理事長
初代:1988年 - 2003年次代
中内潤
気送管
28の言語版
ツール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2021年9月)
出典検索?: "気送管" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
気送管(きそうかん)は、筒状の容器を管の中に入れ、圧縮空気もしくは真空圧を利用して輸送する手段である[1]。
日本ではエアシューター、エアシュートとも呼称される。ともに和製英語であり、1953年に上野工業株式会社(現:株式会社日本シューター)が出願した商標「エアーシューター」(登録第441450号)が広まったとの説[要出典]がある。英語ではpneumatic tube(ニューマチック・チューブ)などと呼ばれる。基本技術はヨーロッパで開発され、当初は病院等で検体・書類の搬送用に一般に利用された、 現在では書類は電子化された為、鉄鋼・セメント及び銅精錬工場での分析用試料搬送に多く利用されている。日本では多くの「エアーシューター」が、ドイツ・ハルツォク社製が利用されている。
比較的小さな容器を用いるシステムは、工場、病院[2][3]、オフィスビル[2]、宿泊施設等で、書類[2]・現金・薬品等の実物を容器に詰め、高速に運ぶために使用される。このうち書類・現金の輸送ニーズは電子化のために減り[2]、大型工場・大病院などの大規模事業所での業務にかかわる物資の搬送システムとしての利用が主流である。大きく建造し、交通手段として用いるシステムも開発された。
歴史[編集]
空気圧を利用して管を通して輸送に用いる概念は、アレキサンドリアのヘロンの時代にまで遡る[要出典]。この形式の運搬法は1667年のドニ・パパンの論文が最初の文献とされている[要出典]。1806年、Phineas Balkによって空気圧を交通機関として使用する発明がされた[要出典]。1886年、ビクトリア時代に初めて電信の通信文や電報を電信局から近隣の建物に輸送する為に気送管が使用された[要出典]。
初期はおもに電報の運搬に用いられ、イギリスで1854年、ドイツで1872年[4]、フランスで1875年、アメリカ合衆国で1876年、実用化された。
日本では1909年(明治42年)12月25日、東京において江戸橋の東京郵便電信局と兜町の東京株式取引所の間および、東京郵便電信局と神田郵便局との間に2系統装置されたのが最初の例である[2][5]。
気送管ポスト[編集]
気送管ポスト または 気送手紙は圧縮空気管を使用して手紙を送るシステムである。スコットランドの技術者ウィリアム・マードックによって1800年代に発明され、後にロンドン空気輸送会社によって実用化された。気送管ポストシステムはいくつかの大都市で19世紀後半から始まったが、20世紀にはほとんど廃止された。
形式上、屋内運搬と屋外長距離運搬に分けられ、前者は比較的速度が速くなくてもよく、空気消費量が少ないが、後者は速度、空気消費量が経済的におおいに問題となり、種々の考案がなされた。
管の直径は最小1.25インチからで、2.25インチの標準寸法のものはおもに電報用である。大型では4インチ×7インチのものもあるが、日本では用いられなかった。ドイツでは容器を用いず、厚紙の一端を折り曲げてそのまま送る扁平管の気送管がある[要出典]。
フランスのパリでは1866年から気送管を用いた手紙の配送システムを構築し1934年には136か所のパリの全郵便局が気送管で結ばれ、数十分で手紙が目的地に到着していた。このシステムは1984年まで稼働していた[6]。
日本においては、東京、大阪、神戸の中央電信局と、市内局との間に設けられ、また、東京中央電信局の受付と通信室との間のような局内搬送用にも利用された。東京中央電信局の天井からは数十本の真鍮管が下り、市内22局と連絡し、1日1万数千通を取り扱った[要出典]。
第二次世界大戦までの巡洋艦以上の軍艦では無線電信室を容易に破壊されないよう艦橋構造物の下の艦内に設置するため、艦橋との間で電文や原稿をやり取りする目的で設置する場合があった[要出典]。
気送交通[編集]
1812年にはen:George Medhurstにより、気送管で人員を輸送する交通機関が考案され、後に大気圧鉄道として実現した。
1844-54: ダブリン アンド キングストン鉄道
1846-47: ロンドン アンド クロイドン鉄道
1847-48: イザムバード・キングダム・ブルネルによるサウス デボン 鉄道
1847-60: パリ–サン=ジェルマン 鉄道 Bois de Vésinetとサン=ジェルマン=アン=レー間, フランス
1870-73: en:Beach Pneumatic Transit
1960年代、ロッキードとマサチューセッツ工科大学が商務省の援助を得て、大気圧と振り子の力で減圧チューブ内を時速626kmで走行可能な交通機関の研究を行っていた[7]。
脚注[編集]
^ a b c d e “昭和の名残のマンホール 兜町の地下に眠る情報レースの歴史【けいざい百景】”. 時事通信 (2022年11月2日). 2022年12月9日閲覧。
^ 搬送設備 納入実績 岩手医科大学附属病院 S&Sエンジニアリング
^ 病院内搬送システムの歴史 S&Sエンジニアリング
^ 逓信省 編『逓信事業史』 3巻、逓信協会、1940年、355-358頁。NDLJP:1869671/191。
^ ギュンター・リアー『パリ地下都市の歴史』東洋書林、2009年9月。ISBN 978-4-88721-773-7。[要ページ番号]
参考文献[編集]
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Hadfield, Charles (1967). Atmospheric Railways. Newton Abbot: David & Charles. ISBN 0-7153-4107-3[要ページ番号]
関連項目[編集]
知ッテレビジョン(フジテレビ) - 解答者が答えを書いたものを筒に入れ、エアシューターで自席から司会者席まで送るスタイルの1982年のクイズ番組。
月曜から夜ふかし(日本テレビ) - 現在は設備を残しながらも使われていないが、開始から26回分の放送ではVTR内容が書かれたカードを筒に差し込み、エアシューターでLED表示板に送るスタイルを用いていた。
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、気送管に関連するメディアがあります。
Pneumatic Mail Smithonian National Postal Museum
The pneumatic dispatch... (1868) by Alfred Beach (scanned pages)
Inteli-Tube Pneumatic Transportation System (Lyle Zapato)
西郷隆盛
42の言語版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西郷さいごう 隆盛たかもり
西鄕 隆󠄁盛󠄁
《西郷隆盛》
渾名大西郷
南洲翁
西郷どん
新政大総督 征伐大元帥[注釈 1]生誕1828年1月23日
(文政10年12月7日)
日本・薩摩国鹿児島郡加治屋町
(現:鹿児島県鹿児島市加治屋町)死没1877年9月24日(49歳没)
日本・鹿児島県鹿児島府下山下町
(現:鹿児島県鹿児島市城山町[注釈 2])所属組織
陸軍大将
(元は階級としての陸軍元帥)除隊後教育者墓所南洲墓地
(鹿児島県鹿児島市上竜尾町)テンプレートを表示
西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西鄕 隆󠄁盛󠄁、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人[1]。
薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。西郷隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。
生涯[編集]
本項で、年月日は明治5年12月2日までは旧暦(太陰太陽暦)である天保暦、明治6年1月1日以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの()内にグレゴリオ暦を書く。
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職[2]。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した[3]。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し[4]、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野[5][6]、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動[7]から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。
死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位[8]。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる[9]。
幼少・青年時代[編集]
文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)の第1子として生まれる。西郷氏の家格は御小姓与であり、下から2番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原姓(系譜参照)を称するが明確ではない。先祖は肥後国の菊池氏の庶家とされ、その家臣であったと伝わる。江戸時代の元禄年間に島津氏が支配する薩摩藩士になる。
天保10年(1839年)、郷中(ごじゅう)仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しそうになり喧嘩の仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。刀が握れないなりに武術の部分に関しては相撲を習った[10]。
天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町(したかじやまち)郷中の二才組(にせこ)に昇進した。
郡方書役時代[編集]
弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(おこしょうあずかり 一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)[11]が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。
伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、近思録崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)、税所喜三左衛門(篤)、吉井幸輔(友実)、伊地知竜右衛門(正治)、有村俊斎(海江田信義)らとつくった[注釈 3]。
斉彬時代[編集]
嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀[注釈 4]と結婚したが、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。
安政元年(1854年)、上書が認められると斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓として御供するよう任ぜられ、江戸に赴いた。4月、「御庭方役」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・藤田東湖にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。
安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。7月、斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に持って行く。12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り[12]、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので[13]、西郷はその手足となって活動した。
安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物・津田山三郎と会い、国事を話し合った。5月、帰藩。次弟・吉二郎が御勘定所書役、三弟・信吾が表茶坊主に任ぜられた。10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた[注釈 5]。11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった[要出典]。12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主・松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。翌安政5年(1858年)1-2月、橋本左内、梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には篤姫から近衛忠煕への書簡[要出典]を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。
5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった。直弼は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始[要出典])。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練[注釈 6]を実施したが、7月16日、急逝した。7月19日、斉彬の弟の茂久が家督相続し、父の島津久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。
大島潜居前後[編集]
安政5年7月27日(1858年9月4日)、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて斉彬の遺志を継ぐことを決意した。8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った[要出典]。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七、有村俊斎、伊地知正治らと大老・井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようと謀った。しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。
9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵を図ったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に着くが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向国)へ追放するという名目で道中での斬り捨てを企図した。月照・平野、付き添いの足軽阪口周右衛門らとともに乗船したが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生し同志の税所喜三左衛門がその看病にあたったが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕・重助を連れて引き上げた。
12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。12月末日、菊池源吾[注釈 7]と変名して安政6年1月4日(1859年2月6日)、伊地知正治、大久保利通、堀仲左衛門(次郎)等に後事を託して山川港を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。当時、龍郷には屋入銅山があり、当地の有力者で薩摩藩から士族の身分を与えられた田畑氏(龍氏)が銅山を管理し、採掘した銅を船で鹿児島へ送る目付け役として薩摩藩士が二年交代で赴任・駐在していたが、隆盛がその役職に抜擢されて、奄美大島に派遣された。島では美玉新行の空家を借り、自炊した。間もなく重野安繹の慰問を受け、以後、大久保利通、税所篤、吉井友実、有村俊斎、堀仲左衛門らの書簡や慰問品が何度も届き、西郷も返書を出して情報入手に努めた。この間11月、龍家[注釈 8]の一族、佐栄志の娘・とま(愛加那)を紹介されて島妻とした。当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。また留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられた[要出典]。来島当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しんだ。しかし、島の子供3人の教育を依頼され、間切横目・藤長から親切を受け、島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活に馴染み、万延2年1月2日(1861年2月11日)には菊次郎が誕生した。文久元年(1861年)9月、三弟の竜庵が表茶坊主から還俗して信吾と名乗った。11月、見聞役・木場伝内(木場清生[注釈 9])と知り合った。
寺田屋騒動前後[編集]
「寺田屋事件」も参照
文久元年(1861年)10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保、堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。西郷は11月21日にこれを受け取ると、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのち、文久2年1月14日(1862年2月12日)に阿丹崎を出帆し、口永良部島・枕崎を経て2月12日に鹿児島へ着いた。2月15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門[注釈 10]と改名した。同日、久光に召されたが、久光が無官で、斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ[注釈 11]」なので周旋は無理だと言ったので、久光の不興を買った。一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。3月13日、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。
下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、3月22日、村田新八と森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ちと挙兵の企てを止めようと試みた。4月6日に姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎や海江田信義から受けた西郷の志士煽動の報告に激怒する。西郷以下3名を捕縛させ、10日、鹿児島へ向けて船で護送させせた。
一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、伏見の寺田屋に集結した真木保臣(和泉)、有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に奈良原繁と大山格之助(大山綱良)ほかを寺田屋に派遣した。奈良原らは激派を説得したが聞かれず、やむなく有馬新七ら8名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。この時に挙兵を企て、寺田屋その他に分宿していた激派の中には、三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。護送され山川港で待命中の6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島[注釈 12]へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃した。
徳之島・沖永良部島遠流[編集]
文久2年6月11日(1862年7月7日)、西郷は山川を出帆し、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で遅れて出帆した村田が追いつき、7、8日程風待ちをし、ともに一湊を出航、奄美へ向かった。七島灘で漂流し奄美を経て[注釈 13]、やっと7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。徳之島では、間切総横目・琉仲為[注釈 14]の奨めで岡前の松田勝伝宅に身を寄せていた。8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて岡前に上陸。西郷のもとを訪れ、久しぶりの親子対面を喜んだのもつかの間、翌27日にはさらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届き、徳之島井之川へと移送される。
江戸へ上っていた島津久光は、家老たちが徳之島へ在留という軽い処罰に留めている事を知り、沖永良部への島替えのうえ、牢込めにし、決して開けてはならぬと厳命したという。なお、失意の愛加那たちは28日に奄美大島へと帰っている。
また、これより前の7月下旬、鹿児島では弟たちが遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行と家財は没収され、最悪の状態に追い込まれていた[要出典]。
閏8月初め、徳之島井之川を出発し、西郷隆盛を乗せた宝徳丸が14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。
当初、牢が貧弱で風雨にさらされたので、健康を害した。この頃フィラリアに感染し象皮病により陰嚢が巨大化してしまい、生涯治ることはなかった。しかし、10月、間切横目・土持政照が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたので、そこに移り住み、やっと健康を取り戻した。4月には同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている[15]。
文久3年(1863年)10月、土持が造ってくれた船に乗り、鹿児島へ出発しようとしていた時、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には生徒が20名程になった。やがて赦免召還の噂が流れてくると、『与人役大躰』[16]『間切横目大躰』[16]を書いて島役人のための心得とさせ、社倉設立の文書[16]を作って土持に与え、飢饉に備えさせた。在島中も諸士との情報交換は欠かさず、大島在番であった桂久武、琉球在番の米良助右衛門、真木保臣などと書簡を交わした。
この頃、本土では、薩摩の意見も取り入れ、文久2年(1862年)7月に松平春嶽が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏8月に会津藩主・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代となって、幕権に回復傾向が見られる一方、文久3年(1863年)5月に長州藩の米艦砲撃事件、8月に奈良五条の天誅組の変と長州への七卿落ち、10月に生野の変など、開港に反対する攘夷急進派が種々の抵抗をして、幕権の失墜を謀っていた。
もともと公武合体派とはいっても、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権を目指す薩摩藩の思惑と将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていたが、薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大と守旧派の失脚を背景に、薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。この苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。元治元年2月21日(1864年3月28日)、吉井友実、三弟の従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えに来た。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島に遠島中の村田新八を伴って帰還の途についた[注釈 15]。
禁門の変前後[編集]
「禁門の変」も参照
元治元年2月28日(1864年4月4日)に鹿児島に帰った西郷は足が立たず、29日に斉彬の墓を這いずりながら参ったという。3月4日、村田新八を伴って鹿児島を出帆し14日に京都に到着、19日に軍賦役(軍司令官)に任命された。京都に着いた西郷は薩摩が佐幕派と攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。そこで、藩の行動原則を朝旨に遵った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採ることで、この難局を乗り越えようとした[17]。
この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。文久3年(1863年)半ばに、南北戦争(1861年-1865年)により欧州の綿・茶が不足となり、日本産の綿と茶の買い付けが盛んに行なわれた結果、両品の日本からの輸出量が極端に増加した[要出典]。このことから日本中の綿と茶は高騰し、薩摩藩の外夷との通商が物価高騰の原因であるとする風評ができたのである[要出典]。世人は物価の高騰を、攘夷派は薩摩藩が攘夷と唱えながら外夷と通商していること自体を許せなかったのである。その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が起きた[17]。
こうして形成された藩への悪評や世論は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となったので、西郷は6月11日に大坂留守居・木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを指示すると[18]、往来手形を持参していない商人らにも帰国を命じ、併せて藩内の取締りも強化、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した[19]。
4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し西郷は、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。しかし18日、伏見と嵯峨、山崎の三方から、長州、因州、備前と浪人志士をまとめた長州勢が京都に押し寄せて皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷と伊地知正治らは乾御門で撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を退けた(禁門の変)。この時、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。この事変で西郷らが採った中立の方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢は来島又兵衛、久坂玄瑞、真木保臣ら多く犠牲者を出して薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸」[注釈 16]と呼ぶようになった。
第一次長州征伐前後[編集]
元治元年7月23日(1864年8月24日)に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が下り、24日に徳川慶喜が西国21藩に出兵を命じると、この機に乗じて薩摩藩勢力の伸張を謀るべく、それに応じた。8月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起きた。次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。この間の9月中旬、西郷は大坂の専称寺で勝海舟と会い[26]、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。10月初旬、御側役・代々小番[注釈 17] となり、大島吉之助[注釈 18] から西郷吉之助に改めた。
10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督・徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実と税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(監物)と会い、長州藩三家老の処分すなわち切腹を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴いて副総督・松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督・島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾が図られ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。
薩長同盟と第二次長州征伐[編集]
「薩長同盟」も参照
慶応元年(1865年)1月中旬に鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ませると人の勧めもあって、1月28日に小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚した[27]。この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。これと並行して大久保利通・吉井孝輔らとともに九州諸藩連合のために久留米藩や福岡藩などを遊説して、3月中旬に上京した。
この頃、幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急、将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。
5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。9日に大番頭・一身家老組[注釈 19] に任命された[28]。この頃、幕府首脳は、勅書を無視して、将軍家茂が紀州藩主・徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。翌23日、家茂は参内して長州再征を奏上したが、許可されなかった。6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。
この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うと承諾すると薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松帯刀とともに兵を率いて上京した。この頃、長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。
9月16日、英・仏・蘭三カ国の軍艦8隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った[要出典]。一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるんだ朝廷は同21日、幕府に長州再征の勅許を下した。また、10月1日に前尾張藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も一度は拒否したが、将軍辞職をほのめかして朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈し、条約は勅許するが兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した[要出典]。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった[要出典]。
慶応2年1月8日(1866年2月22日)、西郷は村田新八、従兄弟の大山成美[注釈 20]を伴うと、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。21日(一説に22日[要出典])、西郷は桂と小松帯刀邸で薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。その後、3月4日に小松帯刀、桂久武、吉井友実、坂本龍馬夫妻(西郷が仲人)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが容れられると、5月1日から小松、桂らと藩政改革にあたった。
第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大島口と小倉口は高杉晋作の電撃作戦と奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で勝利し、大村益次郎が指揮した山陰口も連戦連勝し、幕府軍は惨敗続きであった。鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。一方、幕府は、7月30日に将軍・徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、8月1日の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間の7月12日、西郷に嫡男・寅太郎が誕生。9月には大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された[28][注釈 21]ものの、大目付役は病気を理由に返上した。
薩土密約と薩土盟約[編集]
四侯会議[編集]
慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八と中岡慎太郎らを先発させ、大村藩、平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の城下1番小隊から6番小隊の精鋭700名を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。
薩土密約[編集]
5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助、谷干城らと、薩摩藩の西郷、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ[注釈 22]。6月15日、西郷は山縣有朋を訪問し、武力討幕の決意を告げた。16日、西郷と小松帯刀、大久保利通、伊地知正治、山縣、品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、乾退助が独断で江戸築地の土佐藩邸に匿っていた水戸浪士に薩摩藩邸へ移すことを密約し、伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らが江戸市内での幕府挑発活動の一翼をになう手はずが整うと、やがて江戸薩摩藩邸の焼討事件につながる。
薩土盟約[編集]
土佐藩・乾退助らと薩土討幕の密約を締結した一ヶ月後の6月22日、今度は坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らが西郷と会し、武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結。薩摩藩と土佐藩は、西郷を通じて性格の相反する軍事同盟を結ぶこととなる。薩摩が二重契約を結んだことは、薩摩にとってはどちらの局面になっても対応できることになるという解釈も成り立つが、その後の時局の推移を考えると、薩土討幕の密約が本筋であって、大政奉還のための薩土盟約はその時局を有利に進める為の策略として締結されたものと解釈可能である。
大政奉還と王政復古[編集]
9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1,000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。土佐藩(前藩主・山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している[28])。15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。
密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津茂久を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。12月9日、薩摩・芸州・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。
戊辰戦争[編集]
合戦開始前後(土佐藩との折衝)[編集]
慶応3年(1867年)12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。12月28日、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、西郷は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、(1月3日、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦)、1月6日、谷が土佐に到着。1月9日、乾退助の失脚が解かれ、1月13日、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した[29]。
鳥羽・伏見の戦い[編集]
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった(戊辰戦争開始)。西郷はこの3日には伏見の戦線、5日には八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認した。6日、徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して、軍艦「開陽丸」に搭乗して江戸へ退去した。新政府は7日に慶喜追討令を出し、9日に有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。
東海道先鋒軍参謀[編集]
西郷は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した。3月9日、静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟と会見し、徳川処分案7ヶ条を示した。その後、大総督府からの3月15日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発し、11日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。
江戸無血開城[編集]
3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をした。当時、薩摩藩の後ろ盾となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたため、「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針だった。橋本屋での2回目の会談で海舟から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督・有栖川宮に謁見して勝案を示し、さらに静岡を発して京都に赴き、20日、朝議にかけて了承を得た[30]。江戸へ帰った西郷は4月4日、勅使・橋本実梁らと江戸城に乗り込み、田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城明け渡し(無血開城)が行なわれた。
上野戦争[編集]
江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨んだ。5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した[28]。
凱旋[編集]
北越戦争に赴いた北陸道軍の戦況が思わしくないため西郷の出馬が要請され、7月23日に薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられた。その後8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。来て間もない14日、五十嵐川の戦いで負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。藩の差引の立場から北陸道本営のある新発田には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。この後、庄内を発し、東京・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。11月には大村、西郷、板垣等に行賞が施された[31]。
薩摩藩参政時代[編集]
明治2年2月25日(1869年4月6日)、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。以来、藩政の改革[注釈 23] や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。文久2年(1862年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。
5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。7月、鹿児島郡武村(現在の鹿児島市武二丁目の西郷公園)に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた[28]。明治3年1月18日(1870年2月18日)に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。
大政改革と廃藩置県[編集]
明治3年2月13日(1870年3月14日)、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒動の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利元徳に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して[注釈 24]、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した[32]。12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。
明治4年1月3日(1871年2月21日)、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事・山内豊範、大参事・板垣退助と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で東郷平八郎に会い、勉強するように励ました[33]。
2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5,000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、明治天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった[34](ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。
この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。
留守政府[編集]
「留守政府」も参照
明治4年11月12日(1872年1月1日)、特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞・村田新八もいた)。留守政府の首班は太政大臣三条実美であり、三条は政治的手腕の高い参議大隈重信を頼りとしていた[35]。大隈はこの時期を回想して、西郷は政治方針については任せきりで、無条件に承認していたとしている[36]。さらに西郷は病気がちとなり、青山の別荘に籠もりきりで、各参議はそれぞれ勝手な行動を行う状況であった[37]。
使節団と留守政府は重大な改革を行わないと合意をしていたが、留守政府は明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、同5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。しかしこれは財政に大きな負担を強いるものであり、大蔵省を掌握していた井上馨と、改革を進めようとする他の省庁の対立も激化していった[35]。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督・山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟・西郷従道を近衛副都督から解任した。しかし明治6年(1873年)4月29日、山縣は陸軍卿代理として復帰し、6月8日には陸軍卿となっている。これは西郷・大隈・井上の尽力によるものであった[38]。
明治6年1月、大蔵省と各省庁の対立は収拾不可能と判断した三条は、木戸と大久保の帰国を求めた[39]。4月19日、大隈の立案で正院が組織変更となり、司法卿江藤新平・左院議長後藤象二郎・文部卿大木喬任が参議となった[39]。これをうけて井上は大蔵省を辞任し、木戸派が中央政界に与える影響力は著しく減退した[40]。5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった[41]。大久保は5月29日に帰国したが、留守政府に不満を持っていたため意図的に復帰せず、岩倉の帰国まで様子見をするため国内の視察旅行に出かけている[42]。
明治六年政変[編集]
この頃西郷は中性脂肪やコレステロールの増加による脂質異常症が悪化し、明治天皇が派遣した医師テオドール・ホフマンの指示で下剤を服用していた[43]。しかしこれは西郷の心身を衰弱させ、外出や閣議出席も控えるような状態となり、西郷自身も不治の病ではないかと考えていた[43]。
対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことが発端だが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷と板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し[44]、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した[45]。
明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰国後、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から閣議により審議された。
参議板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張した[46]。西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した[47]。西郷の意見には後藤象二郎、江藤新平らが賛成した。太政大臣三条実美は丸腰では危険であり、兵を同行するべきとしたが、西郷は拒絶した[47]。ただし決定は清に出張中の副島の帰国を待ってから行うこととなった[47]。
7月末より西郷は三条に遣使を強く要求したが、三条は西郷が必ず殺害されると見ていたためこれを許そうとはしなかった[48]。一方西郷は8月17日の板垣宛書簡で「朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる」と述べたように、自らが殺害されることも織り込み済みであった[49][46][注釈 25]。一方で、高島鞆之助が「西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない」と回想したように朝鮮問題がそこまで大きな問題と考えられていたわけではなく、朝鮮と戦争になれば宗主国の清との戦争になる危険もあったが、西郷はこれに対して何ら発言を残していない[50]。
8月16日、西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請した。このため翌8月17日の閣議で西郷の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった[48]。三条は箱根で静養中の明治天皇の元を訪れ、決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下された。明治天皇は当時20歳そこそこであり、内藤一成は三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている[51]。西郷自身は17日の閣議には出席していないが、遣使決定を「生涯の愉快だ」と喜んでいる[43]
9月13日、岩倉が帰国し、三条とともに、木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始した[52]。岩倉・木戸・大久保はいずれも内治優先の考えをもっており[53][54][55]、また大物である西郷を失うことになる遣使には反対する声は西郷に近い薩摩派の中にすらあった[56]。大久保は維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残している[57]。一方で西郷は10月11日、決定が変更されるならば自殺すると、半ば脅迫的な書簡を三条宛に提出している[58]。10月12日、大久保と征韓派の副島種臣が参議に復帰した[59][60]。
10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張した[61]。このため15日の閣議では、板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求した[62]決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った[63]。しかし期日等詳細は依然として定まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したもののにとどまった[64]。しかし17日に岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて10月18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した[65]。夜になって三条は自邸に西郷を呼び、決定の変更を示唆したが、西郷はこれに反発していた[66]。
10月18日、三条は病に倒れた[66]。10月19日、副島・江藤・後藤・大木喬任の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された[67]。10月20日、10月22日に岩倉が太政大臣摂行に就任し、西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった[68]。四参議は「致シ方ナシ」として退去した[69][70]。
岩倉は10月23日に参内し、閣議による決定その経緯、さらに自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上した[69]。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった[71][72]。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途についた[73][74]。岩倉は西郷をなんとしても慰留したいと考えていたが、西郷の性格をよく知る大久保は無理と判断していた[71]。10月24日、岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職した[75][76]。ただし西郷の陸軍大将については却下され、大久保・木戸らの辞表も却下されている[77]。24日には板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出し、25日に受理された[77]。この一連の辞職に同調して、西郷や板垣に近い林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。特に近衛の将兵が大量に離脱したため、事実上解体に追い込まれた[78]。
このとき、西郷の推挙で兵部大輔・大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」[79] という内容の書簡を太政大臣・三条実美に送っている。また大久保に協力して征韓派を抑えた黒田清隆は、大久保にこの結果を慚愧する書簡を送っている[80]。大久保は私情においては耐え難いほどであるとしながらも、国家将来のために悪評をかぶるつもりで実行したと返答している[76]。
西郷が遣使を強硬に主張した理由について、西郷自身は「内乱を冀う心を外に移して、国を起こすの遠略」と述べている[81]。参議大隈重信は政治的に手詰まりになり、旧主久光からも叱責されたことで失望落胆していた西郷が、征韓論の盛り上がりを見て朝鮮宮廷で殺害されることを最後の花道として望んだ、自殺願望ではないかと推測している[81]。
佐賀の乱[編集]
下野した西郷は、明治6年(1873年)11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。
鰻温泉滞在中の生活と江藤が来訪したときの様子を、九十八歳まで存命した温泉宿の女将福村ハツが昭和になってから毎日新聞社の記者の取材に答えている。
私学校[編集]
これ以前の2月に閣議で台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督となった次弟・西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った[82]。
西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった[注釈 26]。そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令・大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に私学校がつくられた[83]。私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年(1875年)4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた[84]。
明治8年から明治9年(1876年)にかけて[5]の西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い[85]。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月と翌年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府晋介、辺見十郎太、河野主一郎、小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった[6]。
西南戦争前夜[編集]
明治9年(1876年)3月に廃刀令が出され、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人の身分を奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも取り上げられたと憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、書簡を桂久武に出した。
前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている[86]。
今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。
今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。
この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。
一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと、年末から1月にかけて警戒し処置にあたらせた。
鹿児島県下の火薬庫(弾薬庫ともいう)から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。
大警視・川路利良らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。
これに対し、私学校党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた[87]。 また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じてあったことは知られていなかった[注釈 28]。
挙兵[編集]
「西南戦争」も参照
明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、この時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた[88]。一方、政府は鹿児島県士族の反乱を間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出した。29日、従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った[7]。
2月1日、小根占にいた西郷のもとに四弟・小兵衛が私学校幹部らの使者として来て、谷口登太が中原尚雄から西郷刺殺のために帰県したと聞き込んだこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたこと[7]などを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられ、4日に拷問によって自供すると[注釈 30]、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令・大山綱良に上京の決意を告げた。このようにして騒然となっていた9日、川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した[注釈 31]。西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。
募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった[注釈 32]。
翌14日、私学校本校横の練兵場[注釈 33]で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。
熊本の戦い[編集]
2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し[91]、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本鎮台を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した[92]。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第14連隊の軍旗を分捕った[93]。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した[94]。
これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田新八・別府晋介(五箇小隊)は木留に、桐野利秋(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。
3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた[95]。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる[96]。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山弥一郎が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上四郎が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった[97]。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・大隅・日向の三州に蟠踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。
薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した[98]。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが[99]、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった[100]。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった[101]。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた[102][103][104]。
宮崎の戦い[編集]
人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1,000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、堀与八郎が延岡方面にいた薩兵約1,000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。
31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野利秋は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所と病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路、無鹿、長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着すると、以後、ここに滞在した[105]。その間の12日、参軍・山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野・村田・池上は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。
8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対して西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野、村田、池上、別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた[106]。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛岳(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300-500名で、前軍は河野主一郎と辺見十郎太、中軍は桐野と村田、後軍は中島健彦と貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した[105][注釈 34]。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること14日、鹿児島へ帰った。
城山決戦[編集]
「城山の戦い」も参照
9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。また、敵である陸軍の中にも西郷を慕う者は多く、城山総攻撃の前夜には、陸軍軍楽隊が城山に向けて葬送曲を演奏し、市民も聞き入ったという。現代になっても、自衛隊の吹奏楽団が、同じ日時に葬送曲を同じ場所で演奏している[107]。
9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋、桂久武、村田新八、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介[注釈 35]が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れる(たおれる)と、弾を受けて落命する者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した[注釈 36]。介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたという。享年51(満49歳没)。
西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた[注釈 37]。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。
午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で山縣有朋と旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令・岩村通俊が記した[108][要文献特定詳細情報]。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、検分ののちに手厚く葬られた[注釈 38][要文献特定詳細情報]。
死後[編集]
西郷は挙兵直後の明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され[109]、死後、賊軍の将として遇された。その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された[8]。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。戒名は、南州寺殿威徳隆盛大居士[要出典]。
人物[編集]
名前[編集]
諱は隆永であったが明治2年8月、明治政府樹立の功で正三位が送られる際、その文書には諱を書く必要があったが西郷は箱館戦争を終えて薩摩に帰る船に乗っていたため、政府の役人が吉井友実に聞くも、吉井はいつもは西郷を吉之助と呼んでいたため思い出せず、頭に浮かんだ隆盛を政府側に伝えて文書が作成された。だがそれは西郷の父、吉兵衛の諱だった[110][要ページ番号]。西郷隆盛として正三位が贈られて以降、その名を使った[110]。
愛称の「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。最敬意を表した呼び方は「南洲翁」である。
「うーとん」「うどめ」などのあだ名の由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である[111]。西郷は肖像画にもあるように、目が大きかった。その眼光と巨目でジロッと見られると、異様な威厳があって、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという[要出典]。その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう[要出典]。
身体的特徴[編集]
身長は五尺九寸八分(約180cm)[113]、体重は二十八貫(約105kg)[112]と伝わっている[114]。遺品の陸軍大将大礼服(鹿児島市維新ふるさと館収蔵)を、巡業に来た東西両横綱が試しに着てみたが、少しだぶつく大形で、特に肩幅が広く、首も大きく、カラーも十九半形を用いていたという[要出典]。
大隈重信 「身始末は宜かった。身体は彼の通の大兵肥満で、この節散髪した西ノ海にも譲らぬ。人格は世間で大西郷と呼ぶ程な堂々たる英雄であるが、さればとて着物などには普通に小薩張したものを着、汚れたものなどは着けぬ。勿論綺麗な物を着た訳ぢゃ無いが、といって決して弊縕袍を着ては居らぬ。ただ自己の地位からみれば、御粗末な物だというだけで、おもに木綿物を用いて居った。それをダラシなく着こなして居たよ。まず相撲取りという可きだったろう」[115]
喫煙者であるが、酒は弱く下戸であったと伝わっている[要出典]。
肖像[編集]
大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真はなく、明治天皇から要望された際も断っている[116][要ページ番号]。現在のところ西郷の写真は確認されていない[117]。理由は西郷が写真嫌いだからとも[116]、顔が知られる事による暗殺を恐れたからとも言われている。
死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟大山巌の顔の下半分を合成して描き[116]、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。自身は西郷との面識が一切無かったキヨッソーネだが、上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている[118]。
西郷菊次郎は「父は写真というものは唯の一度も撮ったことがありません。イヤ外の方と同列で撮ったというものがないのです。さアなぜ撮らなかったか分からない。強いて推測すれば、かかる微功だになき肖像を後世に遺す必要がないという謙遜から来た様にも思われる。嘗て在職中のことですが、畏きあたり(天皇)より写真を撮る様にとの御言葉もあったということです。併しこれもその儘になって終いました。今日家に伝えてありますのは、大分前のことですが、親属のものらが、父の肖像を得たいという希望がありました。やむを得ず私がその案を立てた。ソレは額は誰、眼や鼻は誰という様に、一々兄弟や、近親の顔の一部分宛ツギハギして、どうやら父の俤に似たものが出来た。ところがその時の印刷局長が得能良介でこれまた新属の一人ですが、丁度この印刷局にキヨソネというお雇い教師がありましたので、私の案をば同氏に送って描かせたのが、丈約二尺の洋服半身の鉛筆画です。これが今世の中に在る父の肖像画中、比較的正確のものです。この他にも父の知人の作ったものもあります。上野公園の銅像も、無論充分ではありません。私の案を立てた父の肖像画もこの点に就いては真を写しては居りません。上野公園に立ってある父の銅像の意匠に、なぜあんななりをさせたかということは、私は嘗て相談を受けたこともありませんから分かりませんが、頭から胴までは前にお談しをした私の案でキヨソネ氏の描いた肖像画に基づき、胴から下部は、父の用いた洋服のズボンを土台として組み上げたものだから、眼光を除くの外は先ず難がないものと云ってよろしかろう」と語っている[119][要文献特定詳細情報]。
生前に面識のあった板垣退助は、上野公園に建立された銅像に不満を持ち[120][要文献特定詳細情報]、洋画家の光永眠雷に指示して新たな肖像画を描かせ、二点が作られたが一点は大山厳、田中光顕、明治天皇の天覧を経て、西郷糸子に渡された。もう一点は西郷家から大山を経て宮内省に渡ったが、二点とも現在は行方不明である。しかし、1910年に日韓併合記念として写真版で印刷発行されており、現在岡山県立記録資料館が所蔵している[要出典]。
鹿児島郡武村(鹿児島市武町)の西郷屋敷の隣家に住んでいた肥後直熊[121]は、幼少のころ西郷に可愛がられ、「直坊」と愛称され、膝の上で遊んだという。この絵(直熊筆「西郷隆盛像」)は、昭和2年(1927年)の西郷没後50年祭の契機に、昔の思い出をもとに西郷を描いた。肥後直熊の絵は、真実の西郷に最もよく似ていると評価され、同種のものが石版刷りとなって広く頒布された[要出典]。
本多元介母 「翁の顔は世に行はるる肖像と能く似ているが、鼻が似てない。翁の鼻は立派な鼻ではなく、少し鷲鼻であった」[122]
なお、西郷が明治天皇や坂本龍馬や桂小五郎、勝海舟といった維新頃の人物と集団撮影したと称されている写真(通称・フルベッキ写真)が存在するが、西郷は当時すでに肥満しており、この写真で西郷とされている人物のように痩躯ではなかった。また、その他様々な点からこの写真はフルベッキが佐賀藩の藩校「致遠館」の学生らとともに撮った写真であることが証明されている[要出典]。さらに薩摩藩が薩英戦争の講和修好のために、島津忠義の代理として宮之城島津家当主島津久治と長崎へ派遣し、その折に上野彦馬の写場で映した記念写真「十三人写真」、明治2年に内田九一の写真館『九一堂万寿写真館』にて撮影された、薩摩藩関係者6名の写真「スイカ写真」に西郷が写されているという説が出たが、いずれも別の人物であることが判明した。
その他、明治5年(1872年)6月に明治天皇が造幣局へ行幸の際に撮影された写真に西郷が写されているという説がある。旗を持つ人物が西郷と伝えられており、当時の新聞にも西郷が錦旗を手に天皇を御先導したとの記述がある。記録にも実際に西郷が明治天皇に随行して大阪を訪れたとされる。またこの写真の左下で寝ころぶ洋犬が、犬好きであった西郷が写真中にいる根拠とする説もあり、造幣局側は本物の可能性もあるとした[123]。しかし専門家は写真の人物は小柄すぎる、明治5年時点で参議筆頭として政府の最高官位にあったことから写真の人物のような少年兵と同じ軍服を身につけていた可能性は低いとし[124]、これまでのところ西郷本人とはされていない[125]。
思想[編集]
「敬天愛人」
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」[126]
「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
「急速は事を破り、寧耐は事を成す」
「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」
「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」
人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
西郷菊次郎 「別に宗教に就いての意見という程のものは無かった。家は代々神道にて、父は事の外敬神の念が強かった。また最も祖先を尊崇し、暇さえあれば、私どもを連れて必ず墓参に出かけた。墓場にては自ら草をむしり、水と箒を取って、墓所や石碑を綺麗に掃除せらるることが常であった」
持病[編集]
肥満
高島鞆之助の証言では西郷は大島潜居の頃から肥満になったとしているが、沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたという。
鹿児島は、養豚の盛んな地であり、西郷は脂身のついた豚肉やうなぎ、イワシの刺身やカステラが大好物だった。明治6年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとして、ドイツ人医師に脂質異常症と診断されホフマンの治療を受けていた。
治療は、当時の明治天皇がホフマンに指示を出したことによるもので、三種類の治療が施された。一つ目は食事制限、二つ目は蓖麻子油を下剤として飲む方法、最後は犬を連れて毎日朝夕、合計8kmの散歩をする方法だった。後者については、『池上四郎家蔵雑記』(市来四郎『石室秘稿』所収、国立国会図書館蔵)中の池上四郎宛彭城中平書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。
西郷菊次郎は「父の身體は頗る肥満していた。で酒を飲むと苦しくてたまらないと言うので、壮年の時は随分用いたでもあろうが、あとでは一滴も用いなかった。だが肥満していても、別に病気という程のことは無かった」と話している[128]。
肥満の解消のために犬を飼い、一緒に鷹狩りに出掛けていた。
西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という寄生虫に感染したとされ、この感染の後遺症である象皮症を患っていた。これによって陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年は馬に乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。
西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である[129]。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査では鹿児島県九州本島部分出身者の感染率が4%を超えており、北は青森県まで感染者が確認されている[130]。
逸話[編集]
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幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。
西郷は贅沢を嫌い、岩倉や三条、大久保の邸が広大であることを批判し、月給ばかりでは無理と、暗に賄賂をとっていると批判している[132]。特に批判的であったのが井上馨であり、「三井の番頭さん」と侮蔑していた[132]。
西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。
坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いた際、自宅は雨洩りがしていた。夫人の糸子が「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理してほしい」と言ったところ、西郷は「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と叱ったため、隣室で休んでいた龍馬は感心したという[要出典]。
青年、壮年期においては妻のほか愛人を囲うなど享楽的な側面も見せた。祇園の芸妓だった君尾の回想をまとめた『維新侠艶録』[133]や勝海舟の『氷川清話』[137]によると、肥満の女性が好みで、そのエピソードは歌舞伎の演目『西郷と豚姫』でも今に伝わっている。しかし、晩年は禁欲的な態度に徹した。
郷土の名物、黒豚の肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと豚骨と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。
勝海舟 「人見寧という男が若い時分に、おれのところへやってきて『西郷に会いたいから紹介状を書いてくれ』と言ったことがあった。そこでおれは人見の望み通りに紹介状を書いてやったが、中には『この男は足下を刺すはずだが、ともかくも会ってやってくれ』と認めておいた。それから人見はじきに薩州へ下って、まず桐野へ面会した。桐野も流石に眼がある。人見を見ると、その挙動がいかにも尋常ではないから、ひそかに彼の西郷への紹介状を開封して見たら、果たして今の始末だ。流石に不適の桐野もこれには少しく驚いて、すぐさま委細を西郷へ通知してやった。ところが西郷は一向平気なもので『勝からの紹介なら会ってみよう』ということだ。そこで人見は、翌日西郷の屋敷を尋ねて行って『人見寧がお話を承りにまいりました』というと、西郷はちょうど玄関へ横臥していたが、その声を聞くと悠々と起き直って「私が吉之助だが、私は天下の大勢などいう様なむつかしいことは知らない。まあお聞きなさい。先日私は大隅のほうへ旅行したその途中で、腹がへってたまらぬから、十六文で芋を買って喰ったが、たかが十六文で腹を養うような吉之助に天下の形勢などというものが分るはずないではないか』といって大口を開けて笑った。ところが血気の人見も、この出し抜けの話に気を呑まれて、殺すどころの段ではなく、挨拶もろくろく得せずに帰ってきて『西郷さんは実に豪傑だ』と感服して話したことがあった」[138]
「明治二年の十二月、岩倉右府勅旨として薩藩に下向せられた時、隆盛当事藩の参政であったが、袴の股立高く引上げ、素足で藩主に随従し、藩主が着館せられると、敷石に土下座して見送った」[139]
「鮫島某と藩命を負うて上京する途上、鮫島は毎日酒をあおり、酔眼朦朧として常に抜刀大呼し、しばしば人を驚かすので、隆盛大いに閉口し『この行、もし過失あらば君公に対しなんとも申訳がない。欺いて彼に禁酒しむるに如かず』と考え、一夕殊更に酒肴を命じ、婢を呼んで杯盤に侍せしめ、予め婢に言いつけて、自分の膝にわざと酒を覆させ、隆盛は衣袴を汚したるの故を以て、偽って大いに怒り、婢を罵りつつ刀を抜いて起つ。鮫島大いに驚き、調停頗る努め、慰めて寝に就かしめた。翌朝隆盛に向い『君が藩にある頃は、厳正自ら侍し居るにも拘らず、昨夜の軽躁は何事である。思うにこれ酒の罪だ。僕もまた大いに悟る所あり。今より使命を全うして帰るまでは酒を口にせぬ』とて互いに誓った。隆盛はひそかに我計の成れるを喜んだと云う事だが、実に乙な芝居を演って居るではないか」[139]
「ある日隆盛のお伴をして、隆盛の友達の所へ往く途中、麹町の今の英国大使館のある辺の来ると、一人の老人と遇いて、至って丁寧な挨拶をして別れた。それから自分が彼は誰ですかと聞くと、芸州藩の家老辻だと答えた。その頃の自分だから前後を見ずにそのまま辻の事を歩きながら話しだすと、隆盛は『そんなことを往来で話しながら歩くものぢゃ無い』と酷く叱った」[139]
「隆盛に従って、山形へ撫循に往ったが、翌日になると隆盛は早々帰京の途に就いた。自分も一所に帰るつもりの所、図らずも守備隊付を命ぜられた。腹が立って堪らぬが、已むを得ぬ。毎日無事に苦んで居るばかりだ。こんな事をして居た日にゃ駄目だ。何とかして早く逃げ出さなきゃならぬと思って居ると、出納方の右松祐永が越後方面からやって来た。我輩は奇貨措くべしと言うので、出鱈目に嘘八百をこねて、右松に後事を託して江戸に着いて見ると、隆盛は疾に帰藩した後であった。京都へ来て木戸、大村などという連中に逢うと「西郷は無責任な奴ぢゃ。戦争が終んだと云って、直ぐに帰郷して閑臥してるとは怪しからぬ事ぢゃ』などと頻りに攻撃して居る。我輩もこれは最もぢゃと思った。そこで一番帰郷して隆盛に上京を勧めようと覚悟した。鹿児島に着くや否や、直ちに隆盛を武村の居に訪うた。すると隆盛は今しも川狩から帰宅したばかりの所であって、我輩を一見するやにっことして『ヤア高島ぢゃないか、珍しいがマア是れへ来い』と懇ろに迎えた。実はこの時の我輩の胸裡には、隆盛に対して一の恐怖を抱いて居ったのさ。というのは山形で右松を誤魔化して帰ったのぢゃったから、隆盛に会ったら必ず叱られるものと覚悟して居った。ところが右の通り丁寧に迎接されるから、薄気味悪いながらも座敷に通って久闊を叙し、山形以来の一伍一什を物語った。すると意外さね、隆盛は阿々とばかり大笑して『ソラ可かった。戦争の終んだ後に、いつまでも居るばかがあるものか。宜うこそ帰って来た』と大変に褒めた。それから種々の話頭に分れて少時談笑した後、我輩は隆盛に上京を勧むるはこの機を逸すべからずと思ったから『先生、討幕の戦争は仕舞いましたが是からどう為さる御心算であらせられますか。京都辺では先生の御帰郷を非難して居ますよ。御上京に為りましては如何です』と思い切って言った。我輩としてはでかしたつもりさね。すると隆盛は彼の巨眼でハタと睨んで『何んだと、貴様は討幕の事業が終んだと思うか。王政復古の大業は是からだぞ、ばか者がッ』とたったこの一言ぢゃが、それは怖かったね。再び語を続ぐ所か面も得挙げなかったぢゃ」[139]
沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は『社倉趣意書』を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には山崎闇斎がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた(闇斎に学んだ会津藩主保科正之も導入している)。若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。
西郷隆盛が士族兵制論者か徴兵制支持者なのか、当時の政府関係者ですら意見が分かれており、谷干城や鳥尾小弥太は前者を、平田東助は後者であったとする見解を採っている。御親兵導入の経緯などからすれば、士族兵制論者と見るのが妥当であるが、山縣有朋の失脚後も西郷は山縣の徴兵制構想をそのまま継続させたことから、親兵・近衛を通じて形成された山縣に対する西郷の個人的信頼から徴兵令実施を受け入れたと考えられている。ちなみに廃藩置県導入の際に西郷を最終的に同意させたのも山縣であった。
晩餐会の席で「作法を知らない」と言って、スープ皿を手に持ってスープを飲み干すなど、飾らない西郷の人柄を、明治天皇はとても気に入っていたと言われる。
没年月日(1877年9月24日)がグレゴリオ暦なので、一部の西郷研究者からは生年月日も天保暦からグレゴリオ暦に直して1828年1月23日にすべきだと言う声も上がっている。
江戸城を徳川家より勅使に引渡しの時なり、勅使柳原前光、橋本実梁、西丸城に入る。田安中納言、迎接す。勅使、旨を伝え、勅使二人は直ちに退城して旅館に帰る。この時、西郷隆盛、その他も随行せりという。勅使は実に戦々恐々として、声も震えて、いわゆる肌粟を生ずの景況なり。隆盛は大広間に着座しておれり。いつまでたっても帰らず。あまりに見かねて、大久保一翁、罷り出で『勅使、すでに退散せり。西郷公、なんぞ御用これあり候や』という。西郷、『帰りを忘れたり。ただ今、この釘かくしの数をかぞえおれり』と。閑暇の有様にして、さすがは英雄の景況なり(逸事史補)
出征の前の晩に「おれが今度お前たちと一緒にいくのは、おれの意志で行くんじゃない。だから、靴もはかしてくれ、陸軍大将の帽子もかぶしてくれ」と言ったという[140]。
伝説[編集]
西郷星の出現
「西郷星」を参照
西南戦争後も西郷は生存
西南戦争後も西郷は中国大陸に逃れて生存しているという風聞が広まっていた。明治19年(1886年)の軍艦畝傍行方不明事件の際には西郷が畝傍に乗って日本に帰ってくるという内容の押川春浪の小説が流行し、明治24年(1891年)にロシア皇太子(後のニコライ2世)が来日し、鹿児島へも立ち寄ると、西郷が皇太子と共に帰国するという風説もあった。大津事件を起こした津田三蔵は西南戦争に下士官として従軍しており、西南戦争での勲章が剥奪されると思い、凶行に及んだといわれている。
台湾に西郷の子孫あり
嘉永4年(1851年)、薩摩藩主・島津斉彬より台湾偵察の密命を受け、若き日の西郷隆盛は、台湾北部基隆から小さな漁村であった宜蘭県蘇澳鎮南方澳に密かに上陸、そこで琉球人を装って暮らした。およそ半年で西郷は鹿児島に帰るが、南方澳で西郷の世話をして懇ろの仲になっていた娘(平埔族)が程なく男児を出産した。この西郷の血筋は孫(呉亀力と伝わる)の代で絶えたという。
西郷への影響[編集]
人物[編集]
西郷は水戸学派や国学の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。
当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。
斉彬が病没した際は、西郷は墓前で切腹しようとして、月照上人に止められたという。
西郷は大久保宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」と龍馬の度量を知り合った有志達の中で最高かつ底知れないものと感嘆している。
「先生と話していると清水を浴びたような少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった」と西郷自身洩らしていた。西郷の著書に名前が出てくるほど最も影響を与えた人物の一人である。
初対面では、自分よりも若くひ弱そうな左内を見くびっていた。しかし、左内の思想を聞きとても感服したという。
「那波列翁(ナポレオン)伝」というナポレオンの生涯を綴った伝記を愛読していた。そこには一兵士から身を起こし、不屈の精神で国を統率していったナポレオンの波乱に満ちた生涯が書かれており、西郷は新しい日本を模索していく中でその生き様に強く共感し、ナポレオンを敬愛していた。
渋沢栄一が平岡円四郎の命令で薩摩へ行ったときに、栄一がスパイではないのかと疑われ狙われていたときに宴会に誘い出し救ったのが西郷隆盛だった。栄一も西郷隆盛のことを著書「論語と算盤」や「論語講義」、「青淵回顧録」などで「人徳が高い」と褒めている。
学問[編集]
朱子学[編集]
西郷はお由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。朱子学では、自己と世界には共通する原理(理)があるので、自己を修養して理を会得すれば、人の世界を治めることができるということになっている。西郷の思想は武士の道徳と朱子学を二本柱にしてできていて、この朱子学の根本理論を終世、信じていた。
特に大義名分論は西郷の行動の規範になったもので、日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを帝国主義諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。
これは水戸学派や国学が日本とそれ以外との対置と捉える世界観・史観(皇国史観。朱子学の華と夷を対置する世界観・史観を日本風に改めたもの)を基にしている。
西郷が手写した『言志録』が残っており[141]、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていたことからみると、最も影響を受けた書であると考えられる。
陽明学[編集]
西郷は短期間とはいえ、伊藤茂右衛門から陽明学を学んでいる。陽明学は知行合一を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、西郷の行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。
西郷は幕末に潜庵とつきあいがあり、明治4年(1871年)に村田新八を潜庵の元に派遣し、対策12ヶ条を得て、それを持って大政改革のために上京している。また明治になってから四弟・小兵衛を潜庵の元に留学させてもいる。これらから西郷が陽明学者の潜庵を高く評価していたことは分かるが、思想としてどの部分を学んだかはよく分からない。
沖永良部島に遠島されたときに西郷と知遇を得た書家であり、西郷没後に遺族の扶養に勤めた人物である。頭山満の回想では、西南戦争後の明治12年(1879年)当時に西郷家を訪れた折に、応対した雪篷から西郷が愛読し手書きの書き込みがある、幕末の陽明学者・大塩平八郎の書『洗心洞箚記』を見せられ、西郷がいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。
評価[編集]
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同時代[編集]
薩摩[編集]
「身分は低く、才智は私の方が遥かに上である。しかし天性の大仁者である」
「私は此頃大変よい物を手に入れた。それは中小姓を勤めて居た西郷吉之助と云う軽い身分の者が居るが、中々の人物と認む」[142]
「西郷は従来甚だ勘定に敏く、いわゆる多感の丈夫なり。而して其の血性燃ゆる如き熱情を制し来りて、事物に対し枯木冷灰し去らんと欲し、此に於て禅を学べり。惟ふに無為恬淡を以て身を処し、又世を処するは、或いは感情過甚の人に益する所あらん。然りと雖も、西郷の禅は西郷の望みに副わず、かえって西郷を意外の地に導き去れり。即ち禅は彼に益せずして彼を害し、妙にも感情を変化し、傲世の気風を生ぜり。傲世は隠逸と相随伴す。是れ禅学家の常に免れ難き病なり。西郷も実に此れに陥れり。彼れ袖を払うて故山に帰臥せるも、斯の病一の誘因と為れるなり。彼れもし隠逸を悦ばず、飽くまで世俗に混じ、俯仰時務を視て専心国事に従わば、何ぞ官を去るを須いんや。又何ぞ惨劇を演じて奇禍に罹る可けんや。予は少しく禅味を解するのみ。而も之を愛せざるに非ず。ただ之を学ぶを欲せず、ややもすれば夫の病に陥るを恐るればなり」[143]
「私が西郷と別れるに臨み、既に別に言うこともなく、また争うこともなかったのだが、彼はただ『何でもイヤダ』と言ったので、私も『しからば勝手にせよ』と言うのがせいぜいの別れとなってしまった。元来彼は私の畏友であり、また信友である。それゆえ私情においても別れることを欲しなかった。そこで私は力を尽してその帰国を止めたのだ。しかし彼はただ『イヤダ』の一言でもって去ってしまい、遂に去年の惨劇となってしまったのは誠に残念の極みである。ああ西郷のその年の『イヤダ』の一言、今なお私をして『イヤダ』の感を抱かしめる。片言といえども、『イヤダ』言もあるものかな」
村田新八 「今日天下の人傑を通観したところ、西郷先生の右に出る者はおいもはん。天下の人はいたずらに先生を豪胆な武将と看做しておいもうす。薩摩の人間とて同じでごあす。じゃどん、吾輩一人は、先生を以って深智大略の英雄と信じて疑いもはん。西郷先生を帝国宰相となし、その抱負を実行させることにこそ、我らの責任が掛かっているもんと心得もす」
「二翁(藤田東湖、戸田蓬軒)は西郷の偉男児であることを愛し、いろいろと手厚く教え諭した。西郷の人となりは、資性もとより傲慢ではないが、容易く他人に屈することもない。しかしながらこの二翁を見るや、敬意敬服、あたかも鬼神を見るかのようであった」
「西郷その人の如きは、維新元勲中、第一等にして、どうして三徳(智勇仁)兼具の大家でないといえようか。しかし征韓の議については、廟堂でそれが決しなかったからと云って、簡単に辞職するが如きは、これを勇退と称しても、素志が貫徹しなかった原因もここにある。かつまた官軍に抗敵して賊名を蒙るまでに至っては、自ら志を捨てたようなものである。思うに西郷その人が堅忍をもって廟堂の重任を果たし、まめやかに上下の人心を収攬し、それをもって時期の熟するを待てば、またいずれの日にか議する日があったものを。しかるにその考えが出なかったのは、三徳の運用を誤り、短慮に走ったためである」
「大久保を知るものは西郷にして、西郷を知るものはまた大久保に及ぶものなし」[144]
伊地知正治 「どうも西郷は二目も三目も我々の上である」
松方正義 「大久保さんは家政のことなどには無頓着であり、その死んだ後には借金が大分あったが、西郷さんはこれに反し、いわば借りもせず、貸しもせず、きちんとしたる生活で後の始末は立派なものであった」[145]
「何しろ翁は曠世の英雄で、私共は常にその庇護を蒙っておった。翁の性格を評して聞かぬ人と云うのは甚だ事実に触れていない。翁のやり方は死地に入って活路を開く、いわゆる死中活を求むると云うのが大網になっている。朝鮮使節の如きも、男子の好死処を求むるなどと云う、政略的なものでなかった。翁は俎上に頭を置いて立派に初志を貫くと云う覚悟、しかもそれが余裕綽々としていた事は、翁に親炙していたものには充分に読めたのである。けれど翁は国事については常に身命を抛つ事を躊躇せぬ人であると同時に、天道を信じて疑わなかった人である。いわゆる人事を尽くして天命を待つと云う崇高なる信仰を持っておった人であるから、あるいは使節に立たれたならば生きて帰らぬ人であったかも知れぬが、翁自身はたしかに死中活を求めて、樽俎の間に凱歌を奏する決心であったと云うのは、朝鮮の事は心配いらぬ、帰りにはその足で露西亜に廻って同盟を結んで来ると云う事を言われた事を記憶している。実に驚くべき先見じゃないか」[146]
「元来西郷という人は大侠客といったような調子の人で、例えば子分の者が悪い事をして、それが自分の力で制止し切れず、已に世上に暴露された以上は、独り子分を罪人として、自分は知らぬ顔で過ごし得ぬ性格の人であった。決して自分独りいい顔になろうなどという、卑屈な心は微塵だも持たぬ人できっと死生を共にしようという人である」[147]
伊東祐亨 「先生が情に厚く義に強かりしことは顕著の事実であるが、先生はまた人の身の上に何事か起り、その人より相談を受けたる時には、あたかも自己の身に懸かれる事件の如くにこれを見、誠心誠意を以て忠実にこれが解決に力を致さるるの常であって、通常人が、自己の為には周到に考慮しながら、他人の為には苟くもするという様なことは、嘗てこれ無かったのである。特にかかる際に在りて、その相談を掛くる者が地位高き人なるも地位低き人なるも、毫も軒輊さるる所のなかりしは、また余輩後進者の常に感歎措かざりし所である」[148]
「性質実直清廉、百折不撓、難を避けず、利に走らず、愛国憂国の誠志終始一致、耐忍勉強、酒食を好まず、奢侈驕逸の風毫髪もなし。近時生計困窮、家財を売販して家資に充つと、世人あまねく知る処。犬を愛し、鹿兎を狩り、農耕を好み、到仕帰県の後は田上村にある耕地に閉居し、桑茶を植えて楽とせり」[149]
「性質粗暴利財に疎く、事業を執に短なり。常に少年と交り粗暴を談じ、礼譲の交なく、同論ある者に交るは、大山綱良、椎原與右衛門の両三輩に過ぎず。己れに異論ある者に交る者少く、一たび増視するときは、積年狐思して、容慮なく、故に少年輩等讒誣せられて捨てられたるもの多し。大量濶度と云うべからず。鹿児島県内に於て、少年輩党員の外に尊崇敬重するもの鮮く、他県に大名の轟くは、該党員が誇張大唱するに出づ。他県と同県人と交るに、言動動作趣を異にす。議論なく動すに腕力を以てせんとするの僻あり。旧君の恩義を重んぜず、人を貶するも少しとせず、豪傑と云うべく君子の風采なし」[149]
「南洲は学問はないが、走り廻るには宜しい。何処へ往っても人が信ずる人間である。又どんな事を言い付けても、決して危険のない者」[150]
「西郷が平常推服している人は、鹿児島に在っては山内作次郎や関勇助などという老人、これはいわゆる秩父党の遺老である。これらの老人をば大変尊敬した。外方では藤田東湖、大久保一翁、勝安房、これは天下の人傑と云っておった。それから学者では京都の春日讃岐守である。これは陽明学者であったが、西郷はこれを信じておった。朋輩では大久保一蔵、吉井幸輔、税所篤、伊能良介、伊地知正治等であった。伊地知正治は薩藩の中で学問があって、意表のことを云うので、大変信仰しておった。その他は大抵目下の方である」[150]
「西郷は兎角相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということを云っていた。そうしてその相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体度量のある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量は大きいとは云えない。いわば度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のように思っているが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。とうとう敵を持って、それがために自分も倒れるに至った。どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしくてたまらないようであった。西郷の人となりは、今申す通り狭いが、人と艱苦を共にするというところが持ち前で、古人のいう士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起などがそうであったという。士卒が手傷を負えば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ人物で、自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。何でも下の者を己れの手足のように使い廻すのが、一生の手際と思っているから、自分も努めてする。幕府を倒すのもそれから起っている。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれほどの事は出来はしないであったろうが、薩藩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があったが、一旦自分の敵と見た者は、どこまでも憎む。古の英雄豪傑も皆そういうものだろう」[150]
「隆盛は朝廷に対し奉り、または藩主に対しても、いつも忠厚禮譲の心を失わなかった。隆盛は元帥であったのだが、その後陛下が大元帥で御出でになるということを知ってから、畏れ多いとて元帥の名は決して用いず、始終陸軍大将というので済まして居た。また藩主に何か申し上げる折でもあると、その日は朝早く起きて沐浴斎戒し、あの磊落な人がきちんと机に座って、少しも體を崩さず文言をしたためて居た。何時如何なる場合にも禮譲という事を忘れなかった」[139]
「隆盛は平日談国事に亙れば、横になって居ても起きて端座し、もし談皇室にでも及んだならば、座布団を外して語るを例とした」[139]
「隆盛の遣り口は、公私に論無く、赤心を人の腹中に推すという側であった。山形帰順の折でも、藩主と会見の翌日、云わば昨日までの敵地を平気で唯一人で巡覧と出掛けた。そして少しも不安な気色も無く、悠々と出て悠々と帰った。その豪胆なしかも人を疑わぬ赤心には彼地でもすっかり心服して、さすがに隆盛は豪いと賛嘆せぬ者は無かった。有名な江戸城の受渡しも先ずこれの大きなもので、隆盛は権変譎詐の方略などは爪糞ほども用いぬ。何時も正々堂々、正義によって行動した。ここが大抵の人に出来ぬ傑出の所である」[139]
小川一徹 「さてもかかる勇夫大胆の人、今の世にあるとは、思ひもよらざる程の人に御座候。極めて大事を成す人と存じ候。かかる勇士もあればあるものと感心仕り候。しかも、猪武者にては、これなく候」
「平素は誠に物柔らかな親切な人であったが、一たび憤慨して話をする時は、その事柄が顔色にありありと現われるような感じを与える。一度翁に接すると、十人が十人とも隆盛の威望に感激して座を去らざる者は無いと云う程で、誠に近来の大人格である。私は欧羅巴に行った時、ビスマルク、モルトケなどに逢ったが、ビスマルクは如何にも隆盛の風貌性格に髣髴たるものがあって、相接して恐ろしいような感じがした。今まで人に接した中で、私の敬服したのは、第一に隆盛で、次にビスマルクである」[139]
「人に接するにも、礼儀が厳粛で、一時間でも二時間でも正座して、遂に膝を崩したことがない。我々小僧に対してもその通りで、帰る時は玄関に自ら送って来て、ちゃんと両手を突いて別れを告げるという風だから、私などは恐縮した」[139]
伊瀬地好成 「隆盛は実に偉い人でした。まるで全知全能ぢゃ。偉大なる體格は、爛々たる眼光と共に凛乎として犯すべからざる威望が備わっていた。一たび隆盛の前に出ると、一種のインスピレーションに打たれると同時に、隆盛は甚だ親切である。隆盛の説を聞いて帰る時には、どんな人間でも国家の為に慷慨せんければならぬ様になった」[139]
市来政方 「私と隆盛とは叔姪の関係でもあり、よく側に居て、色々話などを聞きましたが、子供心にも何となく怖いような、心の中に、又一種云われぬ慕わしいような所があって、どうも偉い人という感覚が頭の中に染み込んで居りました。隆盛が国へ帰って来るという時など子供のことですから、叔父さんが来ると云うので、嬉しく思いましたが、何だか怖いような心持もしてなりませんから、自分ばかりこんな気がするのかと思って、兄に聞いてみますと、俺もそうだと云います。兄は私より大分年上でしたが矢張り同じような心持であったものと見えました。しかし、いよいよ帰って来て会って見ると、何にも云わないが、温故風貌、唯々懐かしいと云う情に捕われるようなことでした」[139]
山下房親 「庄内は隆盛の意の如く降服することになったから、米沢口、秋田口、村上口等の官軍は続々庄内城下へ繰込む。私の一体は村上口からであったが、今朝まで戦争をやって、敵が山へ引き上げて行くのも構わず進軍するのだから、兵卒共が衝突でもしはしないか、庄内藩士等は君公の命で已むなく降服するも内心では不服で堪らず、特に隊長等は石の上に腰を掛け、残念だなあと憤慨して居る故、実に危険千萬であったが、幸いに無事であった。西郷は二三日遅れて村田新八等と共に米沢口から乗り込んで来て『お前方の御苦労で降参になって仕合せだ。就いては一日も早く引き上げて仕舞うが宜い。これだけ多い兵士が庄内に屯集して居て、庄内の米を食潰すのは甚だ気の毒な次第だから』と云ったが、自分は承知せず『成程、藩主は真に降服しても将卒は皆内心不平で、何時また破裂するか分らないから、今引上げるは不得策だ』と反対した。すると隆盛はにっこり笑って『武士が兜を脱いで降服した以上は跡を見るものぢゃない。宜いぢゃないか、また起ったらまた来て討つける迄の事さ』と訳もなく云った。この一語には実に一同感心して引上げてしまった。庄内藩では今もその当時の隆盛の処置に対し、感謝して居るそうだが、隆盛が人を心服せしむるのは、常にこの点にあるのである」[139]
有馬藤太 「西郷先生は体が肥満しておられたので、よく膝を崩したり、横になったりせられたが、事いやしくも主上の御事になるか、または藩主の事にわたると、すぐに起き直り、座り直し、威儀を正し非常に敬虔の態度を以て、お話し申し上げられた。私なども及ばずながら、それを見習うことができたものだ」[152]
磯長得三 「翁は鴨居などの下を通らるる時は常にかがんで通らるる程の長身の人であったが、十助も余ほど高かったので、ある時、背くらべをして見たら、翁より二寸位低かった。又翁の左手に大きな疵の痕があったので、どうされたのかとたずねたら、『二才ン時喧嘩をした時の怪我だ』と言われた。又前歯が一本かけていたのは『角力の時折ったのだ』と話された」
川口雪篷 「十数年一所にいたが、まだ大声をだして家人を叱りつけるのを聞いたこともなく、眼をむいて怒ったのを見たこともなかった。身のまわりのこと、雨戸を開けたり閉めたりもみな自分でやり、たまたま他人がやっても、強いてそれをとめることもなかった。面白いのは、家の中で、よその他人がいるときは、そんなことはなかったようだが、屁をひりたいときは、轟音一発、あたりに響くような大したもので、そんな時、けろりとして笑ったりなどせぬ。全く赤ん坊がそのまま大きくなった様な天衣無縫の自然の姿であった」
長州[編集]
木戸孝允 「西郷隆盛は十二年前の知人にて、爾後同氏の国家に尽くせしもの少なからず。忠実寡欲、事に臨んで果断有り。ただ短なるものは当時の形勢に暗く、大体を見る能わずして、疑惑その間に生じ、一朝の奮怒を以てその身を亡ぼし、その名を損なう。実に歎惜に堪えず。人世の大遺憾なり。十二年前は同氏の処置においては或いは威し、或いは疑しものまたなきこと能わず。甲子長州征討のときは尾州を輔け参謀たり。然し同氏の悪意ならざるは十二年後の交際において氷解するものあり。当時も同氏の時勢を解さざる者と想像せり。長州と薩州と合力同盟せしは余と同氏と丙寅の歳、京都に於いて誓いしを始まりとす。それよりして終に薩長同力し一新の大業をなせり。然して同氏今日の情態に至る。実に語るに忍びないなり」[154]
前原一誠 「西郷先生は、どれぐらい大きいか、底が知れぬ」
伊藤博文 「天稟大度にして、人に卓出して居って、そうして国を憂うる心も深かった。徳望も中々あったが政治上の識見如何と云うと、チト乏しい様だ。そこで自分にも深く政府に立つことを嫌って居った。盲判を捺すことは嫌で堪らないから、自分の部下を引き連れて北海道へ行こうと云うことを企てたことがあったが、それが変じて私学校と為り、謀反と為った。兎に角大人物ではあったが、寧ろ創業的の豪傑で守成的とは云えない」[155]
「翁は気宇活濶、千万人の大軍を統率して能く平然たるべき天成の大英雄」
「西郷という人はマアどうしても非凡の人間である。その果断明決、能く事の利害を察し、そうして能く之を実行する力を持っているというものは到底尋常の人間で出来ないことである」[155]
「西郷の容貌は肥えた人で、今丁度繪雙紙などにある様な先づ大躰の風です。左様さマア上野の銅像の様な風で肥えて居って眼が大きな人であった。先づ遇うと云うと随分魁偉な人とドウしても見える。そうして言語は甚だ寡い。極めて寡言である。そうして決して人の短所を挙げて話をせぬ人であった。私に話をした内でも決して人を悪く言ったことはない。その代わり役に立たぬ人のことは土台話をせぬと云う方である。ドウもそう云う立て方をして居った様に見受ける。それからこういうことがある。アノ煙草盆を前に置いてチャンと座ってこう手を突いて(左手を膝上に戴す)そうして右の手で煙草を持ちこういう風に吹き口で(眼の周圍を廻す)グルグル廻しながら話をする癖があった。けれども私にはそれが得意の時であるかドウかそれは分からぬ」[156]
品川弥二郎 「(薩長同盟の際、木戸がそれまでの長州の立場を主張したことについて)己を薩人にすると、木戸の演説には十分突っ込む所がある。それを如何にも御尤もでございますと言うて、跼んだ儘何も言わなかったのは、流石西郷の大きい所である」[157]
土佐[編集]
坂本龍馬 「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」
中岡慎太郎 「人となり、肥大にして御免の要石(土佐藩の相撲取り)に劣らず、古の安倍貞任などもかくの如きかと思ひやられ候。此の人、学識あり、胆略あり、常に寡言にして、最も思慮勇断に長じ、偶々(たまたま)一言に出せば確然、人の肺腑を貫く。且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難を経て頗る事に老練す。その誠実、武市(半平太)に似て学識これ有ることは優り、実に知行合一の人物也。是れ即ち当世洛西第一の英雄に御座候」[159]
「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸、大久保の間には、零が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に○○○○といくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う」
「西郷隆盛は人の虚に乗じて事を行うがごとき卑劣なる人物にあらず。公明正大なる人物にして、策といい、略というがごときはその最も忌む所。磊々落々、日月の皎然たるは、彼の平生の襟度なり」[161]
「いやしくも西郷をして利害一辺の人たらしめんや。征韓論破裂の当時、直ちに事を腕力に訴えて最後の処断を執りしやも測るべからず。当時、もし予にして西郷と力を協せてこれを決行せんや、薩土の兵力は予と西郷の指揮に動くが故に、政府を守る者はただ長兵あるに過ぎず。為に事を成就し得たるや必せり。然れども西郷は人の虚に乗じて事を行うが如き卑劣なる人物に非ず。寧ろ退いて鹿児島に帰り、さらに堂々の軍を起こしてこれを行なわんとういうが如き公明正大の人物にして、策というが如きはその尤も忌む所、磊々落々日月の皎然たるは彼の平生の襟度なりし也。ただその公明正大、寸毫も私曲なかりしが為に、却って他の権略の乗ずる所となり、その晩年の失敗を招けるのみ。而も彼の短所は同時に彼の長所にして、これが為に毫も西郷の大人物たるを損ぜざるのみならず、却って彼をして群小の上に超然として、一代の渇仰の大人物たらしめたり。かくの如くにして西郷は極めて真面目なる征韓論者にして、その為す所には時として満幅の稚気あるも、寸毫も権謀術数を弄せし痕跡を見ざる也。これを以て西郷を指して島津氏との軋轢の為に朝鮮問題を利用して隠遁するが如き権数の人と為すは、深く彼を識らざる者なりと言わざるべからず」[162]
佐々木高行 「西郷が自ら朝鮮に立ち越し、談判を遂げ、時宜によりては事を主張せるは、その深意は判からざれども、御一新後、とかく軽薄の風になり行き、日本の英気も失せて、士風は年々奢侈に流れ、悪風俗に及ぶゆえ、ここに外国と兵端を開き、士風を鼓舞して、風俗取り直すの真意なるべし。ただ惜しむべきは、自己の英気にのみ偏し、政体の大体に着眼せず、何も武断とか武勇とかにて天下を率ゆるの趣意より、かくの如き策略に出でたるならん」
幕府[編集]
徳川慶喜 「板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず、このままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反覆して説けり。予、すなわち読みさしたる孫子を示して『彼を知り己れを知らば百戦危うからずということある。試みに問わん、今幕府に西郷吉之助に匹敵すべき人物ありや』といえるに、伊賀守しばらく考えて、『無し』といえり。予、『さらば大久保一蔵ほどの者ありや』と問うに、伊賀守また『無し』といえり」[163]
「その胆量の大きいことは、いわゆる天空活濶で見識ぶるなどということは、もとより少しもなかった。知識の点においては、外国の事情などは、かえっておれが話して聞かせたぐらいだが、その気胆の大きいことは、このとおり実に絶倫で、議論もなにもあったものではなかったよ」
「西郷は、どうも人にわからないところがあったよ。大きい人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたって、すぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうではないのう」
「天下の識見、議論では西郷に負けぬが、天下の大事を決する人物は彼西郷である」
「その度胸の大きさには俺もほとほと感心したよ。あんな人物に出会うと、たいていな者が知らず知らずその人に使われてしまうものだ」
「西郷は漠然たり、茫然たり。大久保は截然たり、整然たり。官軍の江戸に入るや、江戸市中の取り締まり甚だ面倒となれり。西郷の大量なる、この難局を以て余が肩に投げ掛けんとは。その江戸を去るや曰く『ドウカ宜しくお頼み申します。後の処置は勝さんが何とかなさるだろう』と。この漠々茫々なる『だろう』には余も閉口せり。大閉口せり。もし大久保ならば、この事は斯く、彼の件は斯くとそれぞれ几帳面に予め談判し置くべきに、さりとは余り漠然ならずや。茫然ならずや。西郷大久保の優劣ここに在り。西郷の天分極めて高き所以またここに在り」[164]
「濡れぎぬを ほさんともせず子どもらの なすがまにまに果てし君かな」
「私が大西郷とはじめて会ったのは、郷里を出て立派な志士気取りで京都をうろついている頃であった。当時の青年の間では、有名な人たちを訪問してその見識を聴き、時事を論じ合うことが一種の流行のようになっていた。そこで私もまたさかんに名士へ訪問して論じ合ったものだが、大西郷を訪ねたのもまったくこの意味にほかならなかった。その頃、大西郷は相国寺に宿をとっており、天下の志士がよくそこを訪問したものであった。大西郷は一介の書生に過ぎない私も快く引見され、あるいは攘夷を語り、あるいは藩政改革を語り、さらに幕政整理を論じたりして得るところがとても多かった。そのさい大西郷は、『お前はなかなか面白い男じゃ。食い詰めて仕方なく放浪しているのではなく、生活手段があってしかも志を立てたのは感心な心がけである。今後も時々遊びに来るがよい』といわれた。このような訳でその後も数度訪問したことがあるが、大西郷は本当にさっぱりした態度でいつでも親切にお話をされ、ときには、『今晩豚の肉を煮るから、一つ晩飯を食べていかないか』などと勧められ、同じ豚鍋に箸を入れて食事をともにしたこともあった」[165]
「大西郷は体格の好い肥った方で、平常は如何にも愛嬌のある至って人好きの柔和な容貌で優し味が溢れて居ったが、一度意を決しられた時の容貌は丁度それの真反対で、あたかも獅子の如く測り知れぬ程の威厳を備えて居られた。いわゆる恩威並び備わると云う御方であった。また賢愚に超越した大人物であって、平常は至って寡黙を守り、滔々と弁ぜられるなどという事は無かったので、外観によっては果して達識の人であるか、また愚鈍な人であるか、凡人には一寸分からない程であった。それに他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気付かず、その代わり褒められたからとて、もとより嬉しいとも喜ばしいとも思わず、褒められた事さえ気付かずに居られるように見えたものである。その包容力に富んだ大度量と、不言の間に実行される果断と、他人の為めに自分の一身を顧みない同情心と義侠心と、その他色々な方面から大西郷を観察すれば、真に将に大器を備えて居った偉人であったことが思われる」[166]
「その一身の利害を没却して、他の為めに計るという寛仁の態度は、維新三傑の内でも特に大西郷にその著しきを見る。しかし後日になって冷静に考えて見ると、大西郷は余りに仁愛に過ぎて、遂にその身を誤らるるに到ったと云わなければならぬ。彼の明治十年の乱が起ったなぞも、畢竟大西郷が部下や門弟に対し余りに仁愛に過ぎた結果であって、仁愛過ぐる余り、その一身をも同志の仲間に犠牲として与えられたので、遂に彼の如き始末となったのであると察せられる。大西郷はかく同志の為めには一身をも犠牲として与えられたが、決して自分の意志を他に強いるような事はなかった方である」
肥前[編集]
「維新の元勲として威権赫々と世人の瞻仰を受くるに至り、余等も亦尊敬しつつありと雖も、其政治上の能力は果して充分なりしや否やという点に就ては、頗る之れを疑うのである。不幸にもその疑念は一転して失望となった。失望は更らに一転して苦心へと変じた」大隈はこの意見を発表した後に、壮士が訪れたり、脅迫状が舞い込んだと語っている[167]。
「軍人としては優れた人であるが、政治家としては如何であろう。西郷自身も『自分は政治家に非らず』と言われていた。我輩も二年ばかり一緒に事をしたが、己の判はお前に遣って置くといって、西郷は真の盲判を捺したばかり、その度量の壮快は敬服に堪えぬが、余りの大器であった為か、又は英雄英雄知るで、我輩の凡眼には解らなかったものか、西郷は政治家にあらずと思った」[36]
「西郷は強固なる意志を有せるに係わらず、人情には極めて篤かった。この情にもろい結果が、西郷の徳をして盛んならしむると同時に、その生涯の過ちを惹き起したのであろうと察するのである」
「隆盛は表面からは、中々強毅であるが、裏面から行くと、生気地のないような人であった」[168]
「如何いうものか薩摩人はよく財を好む。財には甚だケチである。よく集むる事をばかり知って、よく散ずる事を知らぬ。その中において老西郷の如きはまず出色な人であったろう。月給などは何時も弟に費われて仕舞う。弟の従道という男がまた非常のズボラで始末に終えぬ。明治の初年の参議の月給は六百圓であったが、老西郷は彼様いう恬淡な性質であったから、月末にそれを受取って来てもキチンと始末するでも無く、兎もするとそこらの棚かなんぞの上にでもほったらかして置くと、弟の従道は得たり賢しと早速それを着服して出掛けて仕舞って、姿も見せずに綺麗に遣い果すという様の事も珍しからぬ。それを兄の西郷は格別気にも留めぬ様子らしかった。彼の人の趣味といったら左様、猟が好きで猟犬を愛養し、時折それを連れて猟銃を肩に出掛けた事と、投げ網漁に出掛けた位のものであったろう。投げ網は何でも五六胴も持って居った」[169]
「西郷という人は文人でも無ければ武人でもない。ただ人情の厚い涙脆いというだけの人であった。先づ僧文覚といった風の義侠的の人であった。支那流の歴史に編み込むなら侠客伝中の人で非常の勇者である。そこで勇者は仁に近し。西郷は仁人と迄はいえぬが仁に近い。必ずしも理義に明らかともいえぬが、ただ眼の前で泣かれると無暗に憐れっぽくなる人。それ故に物に触れるや猛然として暴虎馮河の勇を示すかと見れば、間も無く月照を抱いて薩摩灘に身を投ずる様な事をする。西郷の一生はそれで一貫して居る。最初の長州征伐の時は、西郷等が実に之を主張したので、さればこそ薩摩が自ら請うて先陣を承り、長州に攻め入ったのだが、長州の君臣力極り泣を入れるに及んで西郷は最早や持前の同情心が起って居溜らず、今度は長州の為に其間に斡旋して和議を成立させ、幕軍をして勝者としての当然の所置をも為さしめぬ中に、早くも師を旋させて仕舞った。この病が倒幕の際にも現れた。初は非常の勢を以て江戸に向ったのだが、一たび勝(安房)に逢って哀訴されるとその老獪なる舌鋒に致されて如何ともする事が出来ぬ。徳川の末路に同情して果断の処置が取れず、彰義隊を征伐する事にすら躊躇した。御維新後にも紀州人の某とかいうつまらぬ者を用いようとしたが、我輩が肯かなかった。すると西郷は激怒し、大隈は小心だ、自己の嫉妬心からして斯様なものを用いぬとて遂に拔擢したが、すると半年も立たぬ中に某は馬脚を現わし失敗して仕舞った。がそこが西郷である。根が非常の正直者だから、早速我輩に向って大に謝して曰うには、人は見掛けによらぬものだ。下らぬものを採用して大きに申訳無かったとて謝って行った。是が西郷の弱点でもあり同時に長所であった。今日感情の上から西郷を一番偉い様にいう様になったのはこの点からであろう。西郷を余り偉く善人にして仕舞うから、自然にその相手を悪人とせねばならぬ様になる。丁度義経、謙信を贔屓にすると頼朝や信玄を悪人にし、加藤清正が人気役者である所から、小西行長を悪人に定めて仕舞う様なものだ。批評眼の誤れる事は甚しいものだが、是も已むなき人情であろう」[170]
久米邦武 「政治家としては、この三人(岩倉、木戸、大久保)に較べると、西郷南州は一段下ると見ねばならぬ。至誠という点においては偉大であったろうが、実際の政務という点では大久保らの比ではない」
肥後[編集]
長岡監物 「西郷は創業の器なり。然れどもその根軸の任に至りては則ち大久保その人なり。寡黙語らず質余ありて文足らず。国家を以て自ら任するは二人者の同しき所なり。ただ経世の識幹事の材に至りては南州蓋し、甲東(大久保)に及ばざるあるか監物鑑藻あり」[171]
長岡護美 「自分は明治の初年に始めて洋行を命ぜられた時、御礼廻りに隆盛を訪ねた。丁度その日は雪が降り積もった日であったが、座に着いて種々洋行に就いての御注意談もあって、辞し去らんとすると玄関まで送ろうとするから、再三辞退すると一向聞き入れなく、遂に玄関にまで送って出た。そこで玄関で一損すると思いきや、隆盛はすたすたと玄関先の雪地の下り、地べたに手をついておじぎをした。あの時ほど閉口したことは未だ嘗て無い。そこで自分も泡喰って同じく地べたに手をついて御暇した」[139]
その他[編集]
松平春嶽 「西郷の勇断は実に畏るべきことに候。世界の豪傑の一人の由、外人皆敬慕せりという。兵隊の西郷に服するや、実に驚くべきなり。英雄なり。仁者なり。この西郷を見出せしは、我朋友島津斉彬なり。斉彬は深く西郷の人となりを見抜き、後に大事業を起こすべきはこの人なりと思いこめられ、庭口の番人に申し付けられたり。庭口の番人とは余りおかしく存じ候へども、島津家にもこの例なきよし。斉彬は江戸中の景況、また天下のため尽力周旋秘密のことに西郷を用いいれ、近習小姓も知らず、庭口より直ちに出でて内々言上する役なり。これは島津斉彬公の工夫なり。慶永に斉彬公面唔の節、『私、家来多数あれども、誰も間に合ふものなし。西郷一人は、薩国貴重の大宝なり。しかしながら彼は独立の気象あるが故に、彼を使ふ者、我ならではあるまじく』と申し候。『その外に使うものは有るまじ』と。果して然り。実に島津君の確言と存じ候」[172]
「吾従来色々の人にも会って見たが、今日西郷に会ふて、其人格の偉大、比すべきものを見出す能はず」
「西郷子は勇者の資あり」
福澤諭吉 「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国情厳なりと言えども、あに一人を容れるに余地なからんや」
高橋新吉 「隆盛は器局の大きい偉大な人格の人であった。利通は厳格な人でその荘重な唇を動かして、一たび天下の経綸を説くや、立言堂々として大政治家というものはこんな人であろうと思わしめたが、隆盛に至っては直ちに赤心を人の腹中に推して、情理並び到り、その崇高なる人格の力は直ちに強度に人をチャームして、もうこの人の為めならば命も惜しくないと云う感想が先だって来る。私はどちらが豪かったとは云わぬが、しかしこの力は確かに利通には乏しかったと思う」[139]
小林桃園 「我等は西郷の志業に傾倒し、人物の雄大なるに推服する。而してその反面なる英雄の雅量坦懐に至っては、更に傾倒し推服せざるを得ぬのである。殊に光風霽月、洒々落々たる襟懐を愛する。即ち英雄回首即神仙の趣きは、翁の田園生活に於て明六高踏後の敗北により世俗の処士生活に於て遺憾なく発揮されて居るのである。胸中皎潔にして一点の塵気がない。仮令百難重なり来っても、これを排除する何でもない南洲の品性、南洲の素養は即ちこれであった。大丈夫児の本領は大公廊然にある。敬天愛人、道義の為には一切のものを献げて惜しむ如きがあってはならぬ。翁の公私、生涯を通じてみる時は、この本領、この骨頭到処に発見されるのである。翁は取りも直さず道義に殉ぜしもので、国家救済教の十字架にかかって五千万同胞に血の洗礼を施したものであると云っても絶えて溢美でない。光明正大なる西郷の心事、雄健忠厚なる西郷の主張からこれを見れば、木戸孝允の如き、大久保甲東の如き、岩倉右府の如き、伊藤俊輔の如き、畢竟小策士に過ぎない」
石踊良一 「どっしりとした大きな体躯にだぶだぶした頬、顔からこぼれるような眼、何となくなつかしみのあるつと座った眼光。『眼光炯々たり』を予想していた私には今なお先生のあの柔らかい眼光が深く印象に残っている。西郷先生の西郷先生たる所はその堂々たる体躯や知慮のみにあるのではなくて、実に万人を抱擁し得る温和な眼光にあるのだと私は思う」
緒方伊助 「先生は一寸見ては特別に偉大な体格の方とも思われなかったが、側近く寄って見ると、実に仰いで見ねばならぬような方で、初めてその偉大な体格の方だということが感じられた。これは横が大きかったからそんなに見えたのだろう。そして力量もずいぶんあった。かつて私と矢太郎さんとを片手で引き受けて力押しをやるとのことで、私ども二人が一生懸命で掛ったが、一足だも先生を動かすことができなかった。体は特別に太っておられたが、狩に行って山野を駆け回ることは実に達者で、普通の人よりも早かった」
山下喜畩 「南洲翁の偉大な御体格の持ち主であられたことは、今さら云うまでもないことながら、私共が幼い目に見ました翁の偉大さは又別格でした。私のおやじも私に似ず、身長も相当に高く余程肥満していましたので、翁は時々、『ここん爺の体格も立派なもんじゃね』などと御ほめ下さいました。それで家で風呂を立てまして先ず先生がお入りになっての後に、老爺が入ると湯桶の水は半減して、又新たに汲み入れねばならなかったのです。それはそれは立派な御体格でした。翁は極めて平民的で、よく父爺なども表座から御呼びかけ下さって、親切にお話し下さったものです」
アーネスト・サトウ 「彼は巨大な黒ダイヤモンドのように光った眼を所有して居った。そしてたまたま口を開くと、何ともいえぬ愛嬌がこぼれ親しみがあった」
女性たち[編集]
西郷松子(西郷小兵衛妻女) 「隆盛さんは親切で情け深くて、わたくしどもは、一度も恐ろしい人だと思ったことはありませんでした。また叱られたことも一度もありません。ふだん暇のある時には、わたし達にハラグレ(戯談)をいって居られました。容姿はあの絵にかいてあるのよりも、もっと良かったようで眼の太かったことは相違ありません。色は白い方でありました。声はあまり大きくありませんでした。食べ物については一切好き嫌いはありませんでした。煙草はごくキツイのが好き、焼酎はあまり飲まれませんでした。少し飲まれても赤くなる方でありました。一番好物はカルカン饅頭でいくつも食われました。それはそれは好きでありました。家に居られるときはいつも本を読んで居られました。ひまの時には、よく横になって寝て居られることもありましたが、客でもあれば、たとえ書生さんでも会いに来られると、ゴソッと起きて袴を着けて会われました。礼儀はなかなかよい方でありました。時々よそから帰って来られて機嫌のよい時には、歌を歌って聞かせるといって歌われました。歌はあまりじょうずではありませんでした。時には煙草盆をひっくり返して、その底を叩いて調子を取り、軍談を聞かされました。この軍談がたりがお得意でした。これは京都や江戸の寄席で覚えられたものだそうです。(中略)また隆盛さんは、囲碁は一切やられませんでした。私どもは隆盛さんが碁を打たれたことは、一度も見たことも聞いたこともありません。御先祖のお祭りなど誠によく心掛けた方で、また月照さんの命日などにも、隆盛さんは、一切精進で肴や肉を食べられませんでした」
福村ハツ(鰻温泉女将)
「それはそれは優しい旦那様でした。お顔もいつもニコニコして、言葉つきはやさしいし、私の長男平左衛門がそのころは三つでしたが、いつも平左衛門の頭を撫でて、カステラなど、よく貰っていました」
「(体重は)二十九貫でした。恐ろしいほど、よく肥っていられました。猟は何よりもお好きでしたし、家の中ではあまり動きもなさらず、ただじっと落ちついていられましたが、猟となると、まことに驚くほど敏捷になられました。目付きはゴツかった。大きな目でした。しかし、肖像画や鹿児島の銅像のお顔はあまり似ていると思いません」
「(食べ物は)別にこれという変ったことはありませんが、ともかく牛乳は大変お好きでした。牛乳は欠かさず召上りました。お食事は木の塗椀に三杯くらいです。大抵は缶詰や鶏卵で、お魚は山川から取寄せました。タコはお嫌いでした。蜜柑が好物で幾らでもすぐ平らげて、水は何時となくお飲みになりました。お茶よりは水がお好きです。それから煙草が大のお好きで、鉄のナマタメ煙管で始終のんでいられました」
「(着物は)琉球絣でした。猟にお出かけの折はゴツゴツした帆木綿の猟衣で、履物は草履です」
「(女性に関しては)私の知っている間には何事もありませんでしたから、よくは存じませんが、噂によれば、旦那様は一旦この女と思い込まれたら、いかにその女が素気なくても、いつまでもいつまでも根気よく、焦らず燥がず口説かれたという話です」
「私どもにでも誰にでも、いつもやさしく、私などが何かお話でも申上げたり、または、ああせられてはと、いろいろ申しますと、旦那様は何でも彼でも素直に、オー、ソウヂャナアといわれました。旦那様の口癖は、何かといえば直ぐこのオー、ソウヂャナアの一点張りでした」[174]
中西君尾 「西郷南洲翁は酒々磊落の人でありましたから、傑物を見分けることの出来ぬ芸者仲居共は南洲翁の顔を見て、明けっ放しを見て『鬼瓦』という侮りがましい評をしますけれど、南洲先生は馬鹿者の批評を屁の河童とも思っていない、寧ろ『情けない程愚かな奴だ』と思っておられたでしょう。この南洲翁に豚姫のお虎が臆面もなく、三両下さいという。三両は当時の大金です。『よしよし金子を貰ってくれるか。喜ばしいね。戦の陣中に虎が来るとは嬉しい』と三両を石か瓦の様に無造作に与えました。これが南洲翁の性格でありまする」[175]
君龍 「木戸さんや、山縣さんや伊藤さんや、歴々のお方々が折り折りお出になって妓を集め、夜深くまで歓を尽されましたよ。西郷さんのみは、犬を引っ張ってお出でになり、犬さんと御一緒に鰻食を召し上がれば直にお帰りになりました。西郷さんの所作は真に粋の中の粋を知ったお方、歴々中の一番おエライ方様と伺いました」
現代[編集]
1938年(昭和13年)11月に、東京帝大で崇拝する人物調査が為された。1位西郷隆盛255票、2位ゲーテ132票、3位キリスト105票、4位東郷平八郎99票、5位釈迦93票、6位吉田松陰90票、7位カント85票、8位乃木希典62票、9位日蓮62票、10位野口英世58票(『日本評論』1939年5月号)[177]。
平成22年(2010年)に九州新幹線鹿児島ルート全線開通に向けてマスコットキャラクター「西郷どーん」が披露されたが、熊本駅のカウントダウンボードは熊本県民から「西郷隆盛は熊本には合わない」と指摘されたため西郷どーんではなく熊本県のキャラクター「くまモン」が描かれたバージョンになった[178][179]。
系譜[編集]
家系[編集]
「西郷氏#薩摩西郷氏」も参照
隆盛は菊池氏が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前は西郷家の出自とされる増水西郷氏の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。家紋は抱き菊の葉に菊。
藤原鎌足─不比等─房前─(8代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後国菊池郡)─西郷政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―隆盛―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える。無敵斎)=吉兵衛 (養子、平瀬治右衛門三男)─覚左衛門─吉左衛門=龍右衛門隆充(実は覚左衛門弟)─吉兵衛隆盛─吉之助隆永─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎
家族・親族[編集]
銅像・墓所・霊廟・神社[編集]
鹿児島市城山町(左)
東京都台東区上野恩賜公園(中央)
霧島市溝辺町麓西郷公園(右)
西郷隆盛像[編集]
「西郷隆盛像」を参照
東京都台東区の上野恩賜公園、鹿児島県鹿児島市、鹿児島県霧島市溝辺町にそれぞれ銅像が建立されている。上野公園の西郷隆盛像が愛犬を連れているのは、体重の減量のため愛犬と共に散歩をしている様子だと言われている。
南洲神社[編集]
墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る南洲神社が、鹿児島県鹿児島市を始め、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にある。
沖永良部島南洲神社
南洲墓地 入口正面
南洲墓地 西郷の墓石
主な伝記[編集]
内村鑑三 『Representative Men of Japan』、1894年、改訂1908年(新訳『代表的日本人』、岩波文庫、1995年)
伊藤痴遊 『西郷南洲』、忠誠堂、1926-27年 / 平凡社〈西郷南洲全集〉、1929-31年
香春建一 『西郷とその徒』、大道社、1934年。
山田準 『南洲百話』、明徳出版社、1997年(新版)
『南洲随想』〈新編・文春学藝ライブラリー〉(文庫判)、文藝春秋、2016年。1998年版からも採録
桶谷秀昭 『草花の匂ふ国家』、文藝春秋、1999年
北康利 『西郷隆盛 命もいらず名もいらず』、ワック、2013年
先崎彰容 『未完の西郷隆盛 日本人はなぜ論じ続けるのか』 新潮選書、2017年
川道麟太郎 『西郷隆盛 手紙で読むその実像』 ちくま新書、2017年
河出書房新社編 『総特集 西郷隆盛 維新最大の謎』ムック本、2017年
関連作品[編集]
小説・ドラマなど。
西郷隆盛列伝を参照
詳細は「西郷隆盛が登場する大衆文化作品一覧」を参照
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
^ 城山町は1965年に山下町より分割され成立した町である。
^ 伊集院須賀の名は敏(敏子)であったとも云われる。
^ のち木場は大坂留守居役・京都留守居役となり西郷を助けた。
^ 大島に三年住んでいたという洒落。
^ 地ゴロは田舎者という意味。
^ 「薩賊会奸」とは、八月十八日の政変以降、長州藩士が唱えた言葉。たとえば『阪谷朗廬関係文書目録』(国立国会図書館、1990年[20])に記録[21][22][23][24]がある(太字は引用者による)。「薩摩の賊」、「会津の奸物」の意。薩長同盟の成立で口に登らなくなる。これとは別に「薩賊長奸」[25]という言葉も流布した。
^ 一代小番が側役以上側用人以下に昇進すると代々小番となり地頭を兼務する。側役は代々小番昇進時の役職としてはオーソドクス。この後、側用人に進むことが多い。
^ 『詳説西郷隆盛年譜』によれば、この名は沖永良部島在島以来らしい。
^ 当番頭以上寺社奉行以下に進んだ家格代々小番は寄合並(一身家老組)となるのは薩摩藩の慣例。
^ 大山成美の通称は彦八、大山巌の兄。
^ なお、薩摩藩では大目付と若年寄は家老候補である。また、大目付と若年寄になった時点で寄合並から寄合に昇格するが、大目付を辞退しているので西郷は大番頭、陸軍掛・家老座出席と考えられるので寄合並のまま。
^ 藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした。
^ この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい。
^ この論文では建設が始まったのは12月頃としていて、説得力がある。
^ 山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現しているところから、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった。
^ 写実性はなく想像によって描かれたものと考えられる。
^ のちにこの2大隊を六番・七番大隊としたが、人員も正規大隊の半分ほどで、装備も劣っていた。
^ 『鎮西戦闘鄙言』では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとする。
^ 他の資料[要出典]では切腹したとの説があるが検死の結果[要出典]、西郷は切腹はしておらず実質斬首の形の介錯となった。
^ 首発見時の様子とその前後のいきさつについては、例えば今村均著『私記・一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父の千田登文であった。
^ 高島は元陸軍中将、枢密院顧問官。西南戦争時は別動第一旅団長。
出典[編集]
^ 家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ』ミネルヴァ書房、2017年8月10日、452頁。ISBN 978-4623080977。
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 41, 第2巻「明治6年3月 西郷隆盛が陸軍大將兼參議」
^ 加治木常樹 編「遣韓大使たらむとの希望を板垣退助に申し通じたる書面」『西郷南洲書簡集』(マイクロ)実業之日本社、明治44年、177頁 (コマ番号0102.jp2)頁。doi:10.11501/781419。
^ a b 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 422, 第2巻「明治8年10月 内閣分離論容れられず、島津、板垣憤然臺閣を去る」
^ a b 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 441, 第2巻「明治8年11月 島津久光の進退と西郷桐野等の去就」
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^ a b 村田十蔵『村田十蔵日記—宗門手札御改付家内人数改帳留』塩満郁夫 編、鹿児島 :「鹿児島県史料拾遺」刊行会〈鹿児島県史料拾遺 ; 27〉、2012年。全国書誌番号:22163578。村田新八の宇留満乃日記并(ならびに)書状、74p ; 30cm
^ 「〈沖永良部島の島歌〉(10)さいさい節」『南海の音楽~奄美』キングレコード、1991年。録音資料、KICH-2027。CD(12cm)1枚。
^ a b c 和泊町「明治百年」編集委員会 編「「与人役大体」と「横目役大体」・社倉法」『大西郷と沖永良部島 図書』和泊町、鹿児島県和泊町、1968年(昭和43年)。doi:10.11501/1653741。
^ 『西郷隆盛全集』第一巻
^ 『西郷隆盛全集』第五巻
^ 国立国会図書館専門資料部 編『阪谷朗廬関係文書目録』〈憲政資料目録 ; 第16〉、国立国会図書館、1990年。全国書誌番号:90057809、ISBN 4-87582-251-0。
^ 「四、 安藤定格 §1 明治一〇年五月二〇日 春来四区裁判所設置繁忙」には、〈当地薩賊彷仏ノ暴徒多シ 板ノ西郷ニ党セザル西郷ノ江藤・前原ニ与セザルニ同ジ 明治創業ノ功臣挂冠末路一轍ニ出ズ 板ノ立志社ニ示セル告諭教唆ニ等シ谷少将守城ノ功第一 阪田諸潔 岩崎川路少将ニ属シ戦地 司法ノ地震同氏ノ為メ賀スベシ 自分帰京延引 所長ニ随行出京ノツモリ 高知厭倦 堅山・堀・丹羽・山成・山本・馬越恭平。〉とある。
^ 「四七、 木原章六 広島藩士 検事 桑宅ノ子 §3 明治一〇年 五月二二日 二月一九日鎮台警砲 裁判所御船町ニ移ル 二一日薩賊来襲ノ風聞 県令品川大書記共城ニ帰リ裁判所隈府移庁更ニ山鹿町ヘ移庁 熊本城陥落ノ状勢 植木・木ノ葉ノ戦イ南関混雑瀬高ニ移ル第一旅団野津少将来着山鹿・高瀬線合シ四月一五日熊本城兵ト相通ズ 一八日裁判所帰ルヲ得ル 戦後調査・党民事件・国事犯下調ベ等事務繁忙 植松ノコト〉とある。
^ 「一一三、 植松直久 §4 明治一〇年 六月 四日 馬越恭平鹿児島ニ来リ面会」には、〈今回ノ戦状ハ新聞記者描出更ニ肇ヲ要セズ 熊本城中ヨリ奥少佐一大隊賊軍突破 川尻ニテ父老迎エ子弟ノ安否ヲ問ウ 死スルヲ聞ケバ御奉公ヲ済セリトコノ一言民権ヲ振起スルニ足ル 兵士ハ土民ヨリナリ士族ノ薩賊ヲシテ舌ヲ巻カシム コノ徒民権ヲ主唱スル時ハ天下誰カ従ワザル 士族ノ民権論ハ真誠ノ民権論ニ非ズ 高知県暴徒ノウワサ 福岡孝弟〉とある。
^ 新聞集成明治編年史編纂会 編「明治10年11月(中略)薩賊発行の紙幣政府で引換か」『西陲擾乱期 明治9年7月-同11年』林泉社〈新聞集成明治編年史〉第3巻 (再版) 。1936年-1940年(昭和15年)、325頁。
^ 宇田友猪 (滄溟) 「第12章 蒼竜窟 §薩賊長奸」『隴上偶語』〈日本叢書 〉第2編、東京堂、明治30年。doi:10.11501/898671、コマ番号0034.jp2。
^ 【維新150年 大阪の痕跡を歩く】勝海舟と西郷隆盛の初会談は「大坂」産経新聞 2018.4.22 10:00
^ 西田実『大西郷の逸話』p.108
^ 『板垣退助君戊辰戦略』一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻
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^ 新聞集成明治編年史編纂会 1936, p. 217, 「明治元年11月 大村西郷板垣等行賞」
^ 『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五
^ 『西南記伝』引東郷平八郎実話
^ 『西南記伝』
^ a b 伊藤之雄 & 2019上, p. 160.
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 164.
^ a b 伊藤之雄 & 2019上, p. 165.
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^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 58, 第3巻「明治8年9月 鹿兒島縣では軍器愛重の流行」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 338, 第2巻「明治8年6月 三條の使者西下―西郷隆盛韜晦して面會せず」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 81, 第3巻「明治8年9月 西郷隆盛前原一誠に武器供給」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 144, 第2巻「明治10年2月 鹿兒島の不平黨大西郷に迫り―西郷之に應ぜず」
^ 『西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について』
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 144, 第2巻「明治10年2月 熊本鎭臺薩摩へ出兵」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 144, 第2巻「明治10年2月 鹿兒島私學校徒蜂起して不意に縣廳を襲擊」
^ 新聞集成明治編年史編纂会, 1940 & 第2巻「明治10年2月 鹿兒島は宛然治外政權の地―一藩の叛情已に明白」, p. 146
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 212, 第3巻「明治10年5月 田原坂戰爭餘聞」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 146, 第2巻「明治10年2月 鹿兒島叛徒に軍資なく兵器なし―而も政府の廟議一決せず」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 215, 第3巻「明治10年5月 死人の肉を傷口にあてる」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 213, 第3巻「明治10年5月 賊の第二陣は肥南三太郞の嶮」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 211, 第3巻「明治10年5月 賊軍隊人名簿」
^ 聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 209, 第3巻「征討總督宮及び參軍將校に御慰問の勅書を賜はる」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 216, 第3巻「明治10年5月 西郷中將の居常」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 210, 第3巻「明治10年5月 賊軍僞造の紙幣」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 325, 第3巻「明治10年11月 薩賊發行の紙幣政府で引換か」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 426, 第3巻「明治10年7月 西郷隆盛への賣掛金を外人が政府へ請求」
^ 新聞集成明治編年史編纂会 1940, p. 217, 第3巻「明治10年5月 西郷の異圖、巳に廟堂を退く時に發せり」
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^ INC, SANKEI DIGITAL (2018年4月16日). “本物のせごどん? 造幣局行幸時の写真巡り論争「資料には本人」「写真嫌いで特徴違う」…件の1枚、公開へ(2/3ページ)”. 産経ニュース. 2022年6月27日閲覧。
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^ 『維新史の片鱗』P253
^ 徳富蘇峰『明治三傑』P516
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^ 『余の観たる南洲先生』
^ 『維新史の片鱗』P252
^ 『維新史の片鱗』P251
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^ 『木戸孝允日記 第三巻』P519
^ 『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』P188
^ 『中正公勤王事跡』P538
^ 『観樹将軍豪快録』近代デジタルライブラリー
^ 『生きている歴史』P171
^ 徳富蘇峰『明治三傑』P523
^ 『西郷南洲と予の関係』
^ 『徳川慶喜公回想談』
^ 近代デジタルライブラリー『大久保利通之一生』
^ 『渋沢栄一自伝』P58
^ 『青淵回顧録』
^ 近代デジタルライブラリー『木戸松菊公逸話』
^ 『早稲田清話』P149
^ 『早稲田清話』P74
^ 鎌田冲太『西郷隆盛伝』P55
^ 『逸事史補』
^ 『歴史読本 臨時増刊'79-12』
^ 『生きている歴史』
^ 『勤王芸者 維新情史』
^ 『海舟座談』P228
^ 鶴見俊輔著 『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 281ページ
^ 「西郷隆盛の息子「酉三」の写真、初確認…息子全員の写真出そろい「青年期の西郷想像できる」」『読売新聞』、2024年3月14日。2024年3月15日閲覧。
主な参考文献[編集]
〈注〉西郷隆盛に関係する文献は膨大な数にのぼる。当然以下には基本文献をあげているが、それ以外は本稿を書くに当たって、なんらかの論拠にしたものだけに限定している。
著作文献[編集]
『西郷隆盛全集』大和書房全6巻、1976年 - 1980年
福澤諭吉『丁丑公論』、1877年、復刻新版『福澤諭吉著作集』第9巻、慶應義塾大学出版会、2002年、ISBN 4-7664-0885-3
『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』講談社学術文庫、1985年、ISBN 4-06-158675-0
勝海舟『氷川清話』(江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫(新版)、2000年、ISBN 4-06-159463-X)
資料・研究・論文等[編集]
「花房外務大丞外数名差遣」『太政類典・第二編・明治四年〜明治十年』第90巻、明治5年8月18日の条、アジア歴史資料センター(JACAR)、国立公文書館、Ref.A01000019400。
太政官、太政大臣三條實美「行在所達第四号」『太政官布告 陸軍省達 総督本営』明治10年2月25日の条、JACAR、国立公文書館、Ref.C04017622000。
日本黒龍会編『西南記伝』、日本黒龍会、1911年
黒龍会『西南記伝』〈現代日本記録全集〉第3巻、筑摩書房、1970年。245-283頁。コマ番号0128.jp2-。国立国会図書館内限定、図書館送信対象。別題『士族の反乱』
加治木常樹 編『薩南血涙史』薩南血涙史発行所、東京、1912年(大正元年)。doi:10.11501/946473。、国立国会図書館内/図書館送信。
復刻版『西南戦争史料集』青潮社、1988年。
高野和人「忙中閑筆 ずいひつ 薩南血涙史と加治木常樹」『歴史と旅』第15巻第13号 (通号208)、秋田書店、1988年。147-148頁
早川純三郎『西郷隆盛文書』日本史籍協会編、1923年、doi:10.11501/941506、国立国会図書館、インターネット公開。(原本は島津家臨時編輯所編『西郷隆盛書翰集』、作成年不明)
『西郷隆盛文書』東京大学出版会〈日本史籍協会叢書102〉、1967年
大西郷全集刊行会編『大西郷全集』、大西郷全集刊行会、1926年
新聞集成明治編年史編纂会 編『新聞集成明治編年史』 1巻(再版)、林泉社、1936年-1940年(昭和11年-15年)。
『§第1巻 維新大変革期 文久2-明治5年』再版、1936年(昭和11年)
『§第2巻 民論勃興期 明治6-同9年6月』再版、1940年(昭和15年)
『§第3巻 第3巻 西陲擾乱期 明治9年7月-同11年』再版、1940年(昭和15年・表)
香春建一『大西郷突囲戦史』改造社、1937年、[要ページ番号]頁。
香春建一『西郷臨末記』、改造社、1937年
竹内才次郎『西南役前後の思出の記』、自家出版非売品、1937年
下田一喜編『西南役側面史』、西南戦争六十年会、1938年
大山柏『戊辰役戦史』、時事通信社、1968年12月1日
西郷吉之助編『西郷南洲史料』、東西文化調査会、1969年
鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 忠義公史料』第7巻、一五二文書、1980年
風間三郎編『西南戦争従軍記』、南方新社、1999年
『敬天愛人』(西郷南洲顕彰会)
東郷実晴「村田新八と宇留満乃日記」(第4号、1986年9月)
山田尚二「村田新八の喜界島遠島」(第4号)
中井平一郎「西南役と延岡」(第6号、1988年9月)
東郷實晴「西南戦争と県令岩村通俊」(第6号)
芳即正「県令大山綱良と私学校」(第8号、1990年9月)
山田尚二「詳説西郷隆盛年譜」(第10号特別号、1992年9月)
山田尚二「西南戦争年譜」(第15号、1997年9月)
塩満郁夫「鹿児島籠城記」(第15号)
吉満庄司「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」(第20号、2002年9月)
塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」(第20号)
塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」(第21号、2003年9月)
平田信芳「島津応吉邸門前」(第21号)
和田義人、篠永哲、中生男『ハエ・蚊とその駆除』、財団法人 日本環境衛生センター、1990年2月20日、ISBN 4-88893-058-9。
林田明大「第5章 西郷隆盛と陽明学」『増補改訂版、真説「陽明学」入門』三五館、2003年。(「第3部、日本陽明学派の系譜」)
吉野誠「明治6年の征韓論争」『東海大学紀要 文学部』第73輯、東海大学文学部、2000年、1-18頁、NAID 110000195520。
内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』中央公論社〈中公新書〉、2019年。ISBN 978-4121025289
佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号、奈良大学史学会、2010年、1-37頁、NAID 120004793933。
高橋秀直「征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1993年、673-709頁、NAID 110000235395。
笠原英彦「大久保政権の成立をめぐる一考察」『法学研究』第74巻第6号、慶應義塾大学法学研究会、2001年、93-118頁、NAID 120005819832。
坂本多加雄「征韓論の政治哲学」『年報政治学』第49巻第6号、日本政治学会、1998年、55-69頁、doi:10.7218/nenpouseijigaku1953.49.0_55、NAID 110000304200。
伊藤之雄『大隈重信(上)「巨人」が夢見たもの』中央公論新社、2019年。ISBN 978-4-12-102550-0
西南戦争[編集]
石光真清『石光真清の手記1 城下の人 西南戦争・日清戦争』 石光真人編、〈中公文庫〉、改版2017年
海音寺潮五郎『田原坂 小説集・西南戦争』文春文庫 1990年、新版2011年
猪飼隆明『西南戦争 戦争の大義と動員される民衆』歴史文化ライブラリー・吉川弘文館、2008年
落合弘樹『敗者の日本史18 西南戦争と西郷隆盛』吉川弘文館、2013年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
西郷隆盛(国立国会図書館)
日本語版ウィキソースには西郷隆盛著の原文があります。
ウィキクォートには、西郷隆盛に関する引用句があります。
ウィキメディア・コモンズには、Saigō Takamori (カテゴリ)に関するメディアがあります。
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資生堂「エリクシール」成長鈍化から大逆転 マーケ戦略刷新の舞台裏
2024年04月03日 読了時間: 12分
47
資生堂の化粧品ブランド「エリクシール(ELIXIR)」は、数多くのマスブランドを抱える同社において、主力ブランドの一つだ。従来はターゲットを全方位に定め、新製品偏重のマーケティングを行ってきたものの、2020年を境にして急速に成長が鈍化した。そこで、全方位型から対象者を明確にし、継続購入につながるようなマーケティング戦略へと転換。23年にエリクシールブランドは過去最高のシェアである10.9%を獲得した。
資生堂の化粧品ブランド「エリクシール(ELIXIR)」は、数多くのマスブランドを抱える同社において、主力ブランドの一つだ
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「全世代で売り上げ1位のブランドになる」。そんな目標を19年ごろに掲げていたのが、資生堂のエリクシールだ。
エリクシールは1983年に誕生した、エイジングに特化したスキンケアブランド。資生堂の研究開発機関の知見をふんだんに活用したコラーゲン研究を基に開発した機能性を強みとしてきた。資生堂は24年3月28日に、スキンケア市場の売り上げ1位※を17年間連続で獲得したと発表した。
※インテージ SRI・SRI+スキンケア市場 メインシリーズランキング2007年1月~2023年12月 推計販売金額
「マーケティング」の誤解
256人がフォロー中
第4回資生堂「エリクシール」成長鈍化から大逆転 マーケ戦略刷新の舞台裏今回はココ
ブランドの誕生当時は、出す商品が次々とヒットし、右肩上がりで売り上げが増加していったという。グローバルでのブランド認知向上と合わせて、国内外で絶好調だった。顧客のボリューム層は40~50代だったが、2019年11月に発売し、若年層を中心に空前のヒットとなった「エリクシール シュペリエル つや玉ミスト」の影響もあり、20代の顧客も取り込み、ブランドは成長を続けた。
ここまで好調を続けるエリクシールが、全ての年代におけるナンバーワンブランドを目指すのは必然だった。「当時売り上げが非常に右肩上がりだったので、誰も疑うことなく目標を達成できると思っていた」と資生堂ジャパン エイジングケアマーケティング部 エリクシールグループ ブランドマネージャーの山口直輝氏は振り返る。
19年11月に発売した「エリクシール シュペリエル つや玉ミスト」。累計出荷個数220万個を突破(19年11月~22年6月 累計出荷実績、限定品含む)
[画像のクリックで拡大表示]
実際、エリクシールは、このような高い目標を現実的に掲げられる稀有なブランドだ。資生堂という巨大な資本と高い技術力、圧倒的なリーチ力を持ち、幅広い顧客から熱烈に求められてきたマスブランドであるエリクシールだからこそだった。
この記事の流れ
「絶大なる人気」に急ブレーキ
「WHO=誰に」と「WHAT=何を」に立ち返る
エリクシールで初めて折り込みチラシを活用
低価格帯からの移行割合が大幅に増加
新製品偏重から既存育成型へ
「絶大なる人気」に急ブレーキ
しかし、この絶大なる人気と資本力を基にした戦略が裏目に出た。状況が一変したのは、20年ごろ。それまでのエリクシールの売り上げ増加に急ブレーキがかかった。「顧客が低価格帯のブランドにかなり流れてしまった」(山口氏)ことが原因だ。
その要因は新型コロナウイルス禍にある。コロナ禍において、顧客の需要は低価格帯と高価格帯に二極化。中価格帯ブランドであるエリクシールは消費者のニーズの変化の影響を大きく受けた。
なぜ顧客は低価格帯に流れたのか。それはエリクシールが、機能性の高さを強くアピールできていなかったことが要因の一つだったという。エリクシールはこれまで「全世代で1位を取る」という戦略の下、全方位を対象としていたため、「広告のキャッチコピーに、20代から40代以上まで、おしなべて皆に適するような言葉を選んでいた。訴求軸も一律だった」(山口氏)。
その代表が「つや玉」というコピーだ。「すこやかで美しい肌のしるし」として、ほほに光が当たっているかのような肌のはりを保てることを表現している。エイジングケアを強みとするブランドでありながら、定番の「ハリ」や「シワ」といった訴求よりも、全世代に刺さりやすい、つや玉という抽象的な表現を前面に押し出した。これが当初は消費者の心に響き、売り上げは好調に推移していた。
しかし、コロナ禍に入り、人と会う機会が少なくなると、「肌をツヤツヤさせたい」という需要が減った。化粧品にかける優先順位が下がり、低価格志向が拡大。エリクシールに使われている高度な技術や成分のアピールを十分にしてこなかったことで、消費者視点で見たときにエリクシールと他の低価格帯ブランドとの差別化が難しくなっていた。結果、多くの顧客が低価格帯のブランドへ移ってしまった。
資生堂ジャパン エイジングケアマーケティング部 エリクシールグループ ブランドマネージャー 山口直輝氏
[画像のクリックで拡大表示]
このような状況の中、エリクシールの担当メンバーは、「我々はこのままでいいのだろうかと、皆でかなり議論を重ねた」(山口氏)という。
「WHO=誰に」と「WHAT=何を」に立ち返る
議論の中で交わされたのは、「WHO=誰に」と「WHAT=何を」の基本に立ち返るべきだということだ。全年代向けコミュニケーションを続けた結果、消費者のブランドに対する認識がちぐはぐになり、顧客を見失っていた。
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『花のち晴れ』の展開に疑問を感じたけれど、ルネ・ジラールの『欲望の現象学』を当てはめたらすごく深い話だとわかった
はじめまして。ドラマ『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』を観ていた女子大生です。
www.tbs.co.jp
いきなりですが、本題に入ります。
私はこの作品を観ていて、疑問に感じた点が2つありました。
疑問点①:なぜ神楽木晴は、江戸川音に固執し続けたのでしょうか?彼女は婚約しており、それを理由に振られたことがあるにも関わらず。
また、神楽木晴の周りには愛莉やメグリンといった複数の女性がおり、想いを寄せられていたが、一切なびくことなく江戸川音を想い続けたことにも疑問を感じました。
(神楽木晴はメグリンと一度は付き合ったが、気持ちは江戸川音にいつも向いていたため、メグリンのことを本当に好きにはならなかったと解釈しました)
直感的に考えると、少しおかしさを感じませんか?普通、好きな人がもう誰かと婚約していたら、諦めるべきですよね。実際Twitterでも、音ちゃんと天馬くんのカップルでいいのに。という意見が結構多かったように思います。
なぜそこに神楽木晴は入り込もうと必死なのでしょうか?
諦められないほどの好意を抱いてしまったのでしょうか、けれども、そこまで深い想いを抱く過程は見て取れませんでした。
ここで考えてみたいことがあります。
神楽木晴は、本当に「江戸川音自身」が好きだったのでしょうか?
疑問点②:終わり方。
江戸川音が「それから…それから…」と、神楽木晴との楽しい想像をしながら彼の元へと向かう笑顔の場面が、最終回のラストシーンでした。
Twitterのトレンドにも入っていましたね。「どういうことかわからない」「なんで2人が会うところまで描かないの?」という声が多数でした。
けれども、テレビ番組を作っているのは優秀な方々ですから、この終わり方には必ず意味があるはずです。
そう思って見ていた私も、その意味を汲み取りたいとは思いつつどう解釈するべきなのか迷い、疑問を払拭できませんでした。
ちょうどドラマが最終回を迎えた頃、私が受けている授業で、ある学説を聞きました。
それは、ルネ・ジラール(フランス生まれ、1923年~2015年)という学者の『欲望の現象学』という著書内で述べられているものです。
まずは、この学説について説明します。
ジラールは、人間の欲望は三角形的であるとしました。
手書きでごめんなさい。
この三角形は、
Subject=欲望の主体(自分)
Model=欲望のモデル(こんな風になりたいな、と思う人)
Object=欲望の対象(物、地位など)
を頂点とした構図です。
普通、欲しいものや好きな人ができるときって、そのもの自身が魅力的だから好きになるのだと思いますよね。
でもジラールが言うには、それは違うのだそうです。人間(Subject)は、Modelを倒してそれに成り代わりたいという欲望を根底に抱えており、自分をModelに近づけるための手段として、Modelが所有しているObjectを手に入れたくなるのだそうです。
これは、SubjectによるModelの模倣行動ということになります。けれどもそれは、自尊心を保つために無意識的に行われます。
身近な例えを用いましょう。
あなたは、友達に服装や持ち物などを真似された経験はありませんか?
それは、真似してくる友達が無意識下であなたのことをModelにしているから起こるのです。
無意識下で模倣しているため、仮に友達に問いただしても、真似なんかしていない、としか言われないでしょう。
この理論では、Objectは、「最も重要に見えて最も重要でないもの」となります。
最も重要なものは常にModelであり、ObjectはModelによって変わりうる不確定な存在です。
改めて整理すると、下図のようになります。
さて、この理論に則って『花のち晴れ』への疑問点を考えてみましょう。
疑問点①:なぜ神楽木晴は、江戸川音に固執し続けたのでしょうか。彼女は婚約しており、また、彼の周りには他にも女性がいたにも関わらず。
しかしながら、神楽木晴から江戸川音に対する深い想いを感じ取れる心理描写はなかったのです。神楽木晴は、本当に「江戸川音自身」が好きだったのでしょうか?
先程説明したジラールの説を用いて考えてみましょう。
Subject、Model、Objectに、登場人物を当てはめます。
神楽木晴は、馳天馬に強い嫉妬と羨望の気持ちを抱いていました。
馳天馬は、神楽木晴の通う英徳学園のライバル校である、桃乃園学院の生徒会長です。英徳学園は、桃乃園学院に人気を抜かされつつありました。また、本人自身も文武両道で心優しい完璧な存在です。
神楽木晴は、なぜ自分は彼のようになれないのだろうかと常に悩みを抱えていました。
この関係性から考察すると、Subjectが神楽木晴、Modelが馳天馬ということになるでしょう。そして、Modelの馳天馬は、江戸川音というObjectを所有しています。
さっき、「人間は、Modelを倒してそれに成り代わりたいという欲望を根底に抱えている」
という説明をしました。
神楽木晴は、馳天馬というModelを倒し、それに成り代わりたかったのです。
ですからModelに近づくための手段として、「馳天馬というModelが所有しているObjectである江戸川音」を強く求めていたのです。
馳天馬に成り代わるためには、江戸川音以外の人物では代わりがききません。そこでは江戸川音に対する明確な好意など、そもそも必要ないのです。だから「いつのまにか好きになっていた」という表現にとどまり、具体的な心理描写がなかったのでしょう。
図で整理します。
神楽木晴が婚約者のいる江戸川音を求め続け、他の女性には見向きもしなかった理由もこれでわかりました。
神楽木晴は、「江戸川音自身」が好きだと思っています。しかし、無意識下では馳天馬に成り代わるための手段として、「馳天馬が所有している江戸川音」を欲していたのです。
②終わり方。
江戸川音が「それから…それから…」と、神楽木晴との楽しい想像をしながら彼の元へと向かう笑顔の場面が、最終回のラストシーン。
その後、2人がどうなったかについては一切描かれていませんでしたね。
考えてみましょう、
なぜ描かれなかったのでしょうか。
神楽木晴は「馳天馬が所有している江戸川音」に価値を見出しているとします。
婚約を解消した彼女は、もう「馳天馬が所有している」状態ではなくなりました。
その状態の彼女に対して、神楽木晴は今までと同じ気持ちを抱くのでしょうか?
最終回で、なぜ2人が正式に交際を始めるところまで描かなかったのかという点について、視聴した当初は不思議な終わり方に感じました。
けれども、ジラールの説を知り、その終わり方こそがこの物語の妙だったのだと気がつきました。
この作品を普通の恋愛モノとして捉えれば、このまま2人が付き合い始めると考えるのが自然でしょう。それなら、そこまで描写すればいいんです。
でも、そうはしなかった。
ということは、このドラマは「普通の恋愛モノ」ではないのです。
この終わり方は、2人は付き合うことにはならない未来を暗示していると解釈できるのではないでしょうか。
神楽木晴は、「馳天馬が所有している江戸川音」が好きなのであって、「馳天馬が所有していない江戸川音」には興味は持たないでしょう。
原作者の神尾葉子先生や、ドラマ制作者の方々はジラールの説を知っているのでしょうか、感動いたしました。
少なくとも私は、ジラールの節を知って『花のち晴れ』が一層お気に入りの作品となりました。
平野紫耀くん、杉咲花ちゃん、中川大志くんと、キャストの皆さんが本当にキラキラと美しくて、この「普通の恋愛モノではない」物語の不思議さとその溢れんばかりのキラキラオーラが、何だかすごく合っているなぁと感じました。
ちなみに、夏目漱石などの名だたる文豪たちも、このジラールのモデルにぴったりはまる三角関係の物語を多数生み出しています。それが魅力となり、長年読み継がれる名作となっているそうです。
水槽の脳 (id:hnhr0417) 5年前 読者になる
2023年05月02日 07時00分ソフトウェア
チャットボットAIを使って戦場に指示を出す「戦争AI」の開発が進んでいる
PayPal創業者のピーター・ティール氏が設立したビッグデータ分析企業のPalantirが、GPT-4のような大規模言語モデルをプライベートネットワーク上で実行するためのソフトウェア「Palantir Artificial Intelligence Platform(AIP)」を発表しました。Palantirは紹介映像の中で「軍隊がAIを使う方法」について説明しています。
Palantir AIP | Defense and Military - YouTube
Palantir Demos AI to Fight Wars But Says It Will Be Totally Ethical Don’t Worry About It
https://www.vice.com/en/article/qjvb4x/palantir-demos-ai-to-fight-wars-but-says-it-will-be-totally-ethical-dont-worry-about-it
Palantirのシナリオは、東ヨーロッパ内の活動を監視する軍事オペレーターが、友軍の近くに敵が集結しているという警告をAIPから受け取るところから始まっています。警告を受け取ったオペレーターはチャットボットに詳細を見せるよう求め、詳しい情報を得たあと、敵のユニットが何であるかを推測するようAIに依頼します。
敵のユニットを把握したオペレーターは、AIを活用して自軍のユニットを効率的に編成。次に敵を狙うための行動指針をAIに生成してもらい、その指針を自動的に自軍に送信するとのこと。
ドローンを使用して写真を撮ったり、自軍の武器所有状況を全員に共有したりするなどの情報伝達行為はすべてAIで代用可能だそうで、人間はチャットボットに何をすべきか尋ね、その行動を承認する以上のことをする必要がなくなるとのことです。
生成AIを活用した戦争が現実味を帯びている中、海外メディアのViceは、生成AIが常に正しい答えを出すわけではないという点を危惧しています。
Palantirは軍専用のAIや大規模言語モデルを販売しているわけではなく、既存のシステムを一括管理できるようにしているだけで、実際に人間の指示を受けて結果を出力するのはFLAN-T5 XLやGPT-NeoX-20Bなどの既存のモデルになります。しかし、こうしたAIは物事をでっち上げたり、あやふやな答えを返したりすることがあります。
Palantirは、こうした問題を改善するために、AIの機密データとリアルタイムデータの両方を解析することができるようになると主張しています。Palantirによると、AIPを使用するオペレーターが行動を起こすと、AIPが記録を作成し、AIPが使う大規模言語モデルやAIが何をしているのかを把握できるようになるとのこと。
Palantirは「我が社のプラットフォームは合法的かつ倫理的な方法でAIを軍部に統合します」と語りました。
よろしければサポートお願い致します。いただいたサポートはこれからの投資のために使わせていただきます。