レヴィ=ストロース親族の基本構造を学ぶときに参考にしたネット記事。
ネットの参考記事です。
レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」における群構造の理解
構造主義
レヴィ・ストロースが、オーストラリアの未開族であるカリエラ族における親族関係の中に群構造を見出したのはよく知られている。婚姻の規則の中に、クラインの四元群と同じ構造があることを見出した。このことについて、今までの僕の感覚では、それまで誰も気づかなかった隠された構造(仕組み)を発見したことにレヴィ・ストロースの偉大さがあったと感じていた。
しかしこのような理解は、ある意味では複雑で難しいパズルの答えを見出したことの頭の良さに恐れ入ったというような感覚だったようにも思う。レヴィ・ストロースの天才性に偉大さを感じていただけであって、その内容(構造を見出したということの意味・意義)の偉大さを理解していたのではなかったような気がする。
つい最近手に入れた『思想の中の数学的構造』(山下正男・著、ちくま学芸文庫)という本の中に、「構造」の発見という構造主義の視点がいかにすごいものであるかということを教えてくれる文章を見つけた。レヴィ・ストロースの個人的なすごさというのは、「構造」というものの持つ思想史的な意味・意義(人間がどれほど物事を深く広く押さえられるかという思考の発展の持つ意味・意義)の大きさから感じられるものだということが分かるようになった。レヴィ・ストロースは有名だからすごいと感じるのではなく、このようなすばらしい思考の過程を教えてくれるからすごいのだと思えるようになった。それがうまく伝われば嬉しいと思う。
さて、おおざっぱに構造発見のすごさを語ると、人間が現実の観察から得られるような現象的な記述というものをそれだけをベタに受け取るのではなく、構造というものがそこに存在してそれが必然性を教えるということを考えると、世界の仕組みが分かったというような気がしてくる。それがすごいことだと僕は思う。偶然そうなっていることを発見して、「ああ珍しいこともあるものだなあ」と思ったり、「面白いな」と感想を抱くだけではなく、その現象が、ある意味では当たり前の現象として現実に発見できることの、根源的な理由を構造が教えるというような発想を見出したことがすごいと思った。
レヴィ・ストロースが語る婚姻の法則は、現象的には次のように語られる。
カリエラ族の人々は、部族内でA,B,C,Dという4つのセクションに分けられ、誰もがその1つだけに所属する。
このセクションは、それぞれ結婚する相手を決めるという規則を持っている。他のセクションの相手との結婚は許されていない。そして、その夫婦の間に生まれた子供がどのセクションに属するかは、親の所属するセクションによって決められている。一覧表にすると次の通りになる。
khideaki 14年前
親族の親疎が持つ群構造
構造主義
レヴィ・ストロースが発見した人類学における群構造は、婚姻の規則におけるそれが有名だが、『思想の中の数学的構造』(山下正男・著、ちくま学芸文庫)にはもう一つの群構造が紹介されている。そのこと自体は内田樹さんの著書でも何回も紹介されているので、そのような事実が観察できるということの知識としては以前から知っていたものだ。それは、親族の間の親密な関係と疎遠な関係の対に関するもので、次のように記述されていた。
1 夫婦の間が親密 ←(対立)→ 妻の兄弟の間が疎遠
2 夫婦の間が疎遠 ←(対立)→ 妻の兄弟の間が親密
3 父子(息子)の間が親密 ←(対立)→(母方の)叔父甥の間が疎遠
4 父子(息子)の間が疎遠 ←(対立)→(母方の)叔父甥の間が親密
この現象の間に群の構造を発見するのは非常に難しいと思われる。婚姻のタイプであれば、それは世代が変わることによって変化し「変換」としての面を見ることが出来る。そうすれば「変換」というものが持つ群構造を予測して、そこに群を発見できそうに思われる。しかし、上の親疎の関係は「変換」につながっているように思われない。ここに群の構造を見ることが出来ても、それが何を意味し、どのような必然性を語るかということがよく分からない。それを考えてみたいと思う。
まず『思想の中の数学的構造』で説明されている群構造を見てみよう。それは、上の親族の関係を次のように書いて記号化することで考える。
(夫婦、兄妹、父子、叔父甥)
で4つの親族の関係を表し、それが親密であることを「+」で、疎遠であることを「−」であらわす。上の4つの親疎のタイプは次のように記号化されて表現される。1,2および3,4は対立しているので両立することはない。そこでそれぞれの組み合わせを考えると次の4つが可能性として考えられるものになる。
1−3 (+、−、+、−)
1−4 (+、−、−、+)
2−3 (−、+、+、−)
2−4 (−、+、−、+)
本の中では2行2列のマトリックス(行列)になっていて、この方が見やすい感じはするのだが、テキスト表現ではマトリックスは難しいので一列に並べてしまったが、前の二つは「夫婦、兄妹」という同世代の関係になっていて、後の二つは、「父子、叔父甥」という2世代にわたる関係になっている。この親疎の関係をよく見ると、それぞれの組み合わせが、+と−を反対にした関係になっている。つまり、この組み合わせが変化する「変換」を想定するなら、その「変換」に関してはクラインの四元群を構成することが予想できる。同じことを繰り返すと元に戻るという関係になっているからだ。
このことを抽象的に理解して、群構造を見出すのはそれほど難しくはない。しかし難しいのは、婚姻のタイプのように「変換」が目に見える場合と違って、この親疎の関係の構造は、古代原始社会においては変化しないように見えることだ。つまり、この関係を「変換」として表現するような現象が見あたらない。
婚姻のタイプは世代ごとに変化する。親と子は同じ婚姻タイプにはならない。「変換」が常に観察され、その「変換」が群構造を持っているので、群構造から導かれる「変換」を考えると決して起こらない「変換」が見出せる。決して起こらないということから、近親婚のタブーという、構造がなければ起こるかもしれない可能性が構造によって排除されている。近親婚のタブーは構造が維持されるということの結果から、それが守られているという現象が現れてくる。論理的には構造の維持ということからの帰結で導かれる。しかし、構造の維持を目的と考えるなら、それは解釈が違ってくる。
近親婚が起こるなら、群構造の「変換」において、群としては許されない「変換」が入り込んでしまう。群構造における「変換」は、交叉イトコ婚を要求している。つまり家族の中で婚姻の相手を探すのではなく、家族の外の親族(交叉イトコ)から妻を迎えろという要求だ。これをレヴィ・ストロースは「女の交換」と呼び、構造を維持するために必要な要求だからこそ、これを目的として解釈し、近親婚のタブーは「女の交換のため」にあると、目的として解釈したのではないだろうか。
さて、親族の親疎の関係は、婚姻の規則のように何らかの目的と結びつくような、群構造の維持という問題が見出せるだろうか。それは、現象的には、群構造の維持というよりも、親疎の関係の構造そのものの維持がされているように見える。ある親族の間で、夫婦が親密で兄妹が疎遠であるなら、それは世代が変わることによって変化するものではなく、その親族が維持される限りで親疎の関係も維持されるもののように感じる。「変換」に相当する変化が見つけられない。
レヴィ・ストロースは、この親疎の関係を、考え得る最も単純な親族と考え「親族のアトム」と呼んだそうだ。「親族の基本構造」と呼ばれているものだ。これが「基本構造」と呼ばれることの意味は、それ以外のものは構造から排除されるとも考えられるのではないだろうか。婚姻の規則から近親婚が排除されたように、群構造を認めると、何らかの組み合わせが排除されるということが必然的に帰結される。それを排除しなければ群構造が壊れてしまうので、群構造を守るためにはある特定の組み合わせを維持する必要があるわけだ。
上の親疎の組み合わせを考えてみると、みんな仲良くした方が幸せではないかと、今の感覚なら考えて、
(+、+、+、+)
という親疎の関係があってもいいではないかと思いたくなるかもしれない。しかし、この組み合わせは親族の基本構造が作る群構造を壊す。だから、いくら親しくしたくても、どうしても親しくしてはいけない関係がそこになければならないことになる。対立が必然的なものとして要請される。
親疎の関係を表す組み合わせは、世代ごとに変化することはないが、もっと長い時間の経過においては変化する可能性があり、人間社会が発生したときに、いろいろな親疎の関係の可能性があったにもかかわらず、上のような4つに絞られた関係だけが存在したというところに、群構造の維持というある種の「目的」を見ることが出来るのではないかと思う。
レヴィ・ストロースがこの構造を「基本構造」と呼んだのは、他の構造を排除する、これのみが許される構造として捉えた解釈につながっているのではないだろうか。それでは何故に、この構造が維持され、他が排除されていくような道を、人間の社会はとってきたのだろうか。その必然性を群構造が教えてくれるだろうか。
現代社会は、この群構造はすでに失われているのではないかという感じがする。親疎の関係は、親族の中の立場によって決まっているというよりも、一人一人の個性によって、感情として発生するものにように見えるのではないだろうか。父子や叔父甥の関係にあるものも、その関係によって親疎の気分が決まるのではなく、何となく気が合うかどうかという人間の個性によって親疎が決まるのではないだろうか。
このような現代社会の親疎の関係は、個人の多様化を進め、ある意味では社会の秩序の維持を困難にする。社会が複雑化し、単純な判断が出来ないようにさせる。これが、もし「基本構造」に従った、四元群という単純な構造をしているのなら、お互いの関係も個性に左右されることなく、どのような関係を築けばいいのかが明らかで安心して対応することが出来るだろう。群構造の維持は、社会の秩序の維持につながってくるのではないかという気がする。
複雑な現象に臨機応変に対応するには、その複雑な現象が持っている本質を理解しなければ正しく対応できない。古代原始社会が群構造を持つということは、そのような臨機応変の対処というものに伴う困難を減らすのではないかと思う。群構造の維持は、社会の安定というものに貢献するのではないかと思う。
現代社会は群構造が壊れているので、社会のルールに従って生きていれば人間が成長し、幸せを感じて生きられるような社会ではなくなってしまったように見える。複雑さを理解してそれに適切に処理できる能力が必要になった時代のように見える。このような現代社会に対して、内田樹さんは『こんな日本で良かったね』という本で面白い考察を加えている。
内田さんによれば、レヴィ・ストロースが書いていなかったことで、「親族の基本構造」においてなぜ対立する同性の関係の中で子供(息子)が生きなければならないかに次のような解釈をしている。それは、その対立の中で、何が正しいのかという考えの中に葛藤を起こし、その葛藤の中で試行錯誤をすることが「成熟」につながるからだというものだ。
この考えはとても面白いものだと思う。群構造から直接帰結されるような論理的なものには見えないが、群構造が壊れたときに、「成熟」というものが難しくなったという感じは、現代社会に生きている僕にも感じられるものだ。その感覚が論理によって説明できれば面白いものだと思う。
多様で複雑になった現代社会では、さらに葛藤が多くなるのだから、本当はもっと「成熟」してもいいのではないかとも考えられる。しかし「成熟」のためには試行錯誤が成功したという、何が正しいかという判断基準がしっかりしていなければならない。複雑で多様な現代社会は、ある意味では何が正しいか分からなくなった社会で、極端に言えば「何でもあり」という感覚も生まれやすい。このような社会では、葛藤が「成熟」につながらずに、「未熟」さを維持するための合理化に、社会の複雑性が利用されるということにもなりかねない。
親疎の関係の群構造というのは、何が正しいかという判断を壊すものではなく、そのような安定の中にあって葛藤を起こすという、実にうまい構造だったのではないかという気がする。そうであればこそ、人間社会が維持されるところでは、そのような構造が常に見出されてきたとも解釈できそうだ。内田さんが語る、レヴィ・ストロースが語らなかったことを、このような観点から見直して、「成熟」ということの意味をさらに深く考えてみたいものだ。現代社会でも「成熟」がうまくいくように出来るのだろうか。現代社会で正しい判断をするには、かなりの知識と能力を必要とする。それが果たして可能になるのか。社会の成員の大部分が「成熟」出来る可能性があるのか。それとももはや、現代社会では「成熟」というものを求めるのは無理があるのか。そんなことが頭に浮かんできた。
今日の内容は数学的に深入りした部分がないので、楽天でもそのままアップしようかと思う。
khideaki 14年前
人間の社会における「交換」の意味
『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美、浜本満 共著、清水書院)には次のような記述がある。これも、ある意味ではレヴィ・ストロースのすごさを伝えるものであるが、社会という、自然科学の対象とは全く違う性格を持ったものを、どう認識するかという見方を語るものとして貴重なものだと感じた。特に、自然科学畑の出身である自分には、このような観点はなかなか持ちにくいのを感じるだけに特に印象に残った。ちょっと長いが引用しておこう。
「「社会」を交換の全域的なシステムととらえる」のは、抽象として妥当だろうかという疑問がちょっとわいてくる。「交換」という人間の行為の一部で社会全体を代表できるものなのか。「交換」という行為こそが、人間を人間たらしめ、社会の必要性を説明する最重要なものになるのかどうか。数学系としては、このあたりに論理の飛躍がないかどうかが気になる。この論理の流れを埋めるスモールステップは発見できるのだろうか。
「近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則をこうした全域的な交換のシステムに関係づける、その仕方」とは、具体的にはどのようなものを指すのだろうか。レヴィ・ストロースが「女の交換」と呼んだ婚姻規則は、何故に「交換」として理解されるのだろうか。それが社会のとらえ方と関係しているだろうことは予想できる。最初の疑問が解決すれば、このことの理解も出来るようになるだろうか。
「近親相姦の禁止の普遍性は、人間が社会を持つという事実の普遍性と同義である」という指摘は、もっとも印象に残ったものだった。論理的に考えるとこのように解釈できるだろうか。近親相姦の禁止という規制が、婚姻における「他の男の妻にしなければならない女」を規定し、そのような存在が「交換」という事実を生み出す。そして、「交換」という行為こそが人間が社会を必要とすることに結びつく。「交換」のシステムを維持する枠組みとして、社会というものが存在するなら、「交換」を生み出す「近親相姦の禁止の普遍性」(この「普遍性」という言葉が鍵だと思う)が「人間が社会を持つという事実の普遍性」と同義になるということになるのだろうか。
「交換」のためには社会が必要だが、社会の存続のためにも「交換」が必要だとしたら、これらの機能はお互いを支え合うものになる。それは、今という現実の時点で必ず観察できるものになるだろう。この事実そのものを承認するのはそれほど難しくない。しかし、お互いがこのような関係にあるということは、どちらが先かあるいはどちらが根源的かという問いを発すると、「鶏と卵」の問いのような関係を生み出す。
「交換」という事実が発生したから「社会」が生まれたのか。「社会」が発生したから「交換」が生まれたのか。「交換」の方が、偶然先に発生する可能性がありそうな感じがする。だが、人々が寄り集まって生きているという集団は、交換がなかったときにもそのような「群れ」があったような感じもする。そうであれば、その群れが社会になる方が先かもしれないという想像も生まれる。そして、この解答は、おそらく決着がつかない、想像するしかないものになるのではないかという気もする。
解答の得られない根源的な部分の思考は、とりあえずあきらめて、目の前に展開されている事実からメカニズムを考えようというのが、ある意味で社会科学的な発想のようにも見える。このあたりの発想が自然科学系とはちょっと違う感じがして、なかなかうまく飲み込めないところがある。自然科学では、力学などでは、ものに及ぶ力の作用をいろいろな多様な視点から観察をするけれど、それは根源的には万有引力の法則というものに収束していく。また、数学などでは究極的には、いくつかの公理がすべての定理を発生させるというふうに、根源的に理論を生み出す存在を見出すことが出来る。
とりあえず現状を観察して、現在成立する法則性を求めようというのは、何か抽象が中途半端な気がして、それは科学というよりも博物学という知識を寄せ集める行為のように見えてきてしまう。数学系にとっては、理論は演繹的に進められないと何かしっくりこない。
レヴィ・ストロースが語るような「体系」に対して、それを事実の観察から求めようとすれば、体系の規則に反するような例外が、現実には必ず見出せてしまうだろう。現実に存在する体系はいつでも不備が発見される。この不備を捨象して、体系を体系として認識するためには、そこに抽象(捨象)が必要である。つまり、体系を考えるにはどうしても演繹的な思考の展開が必要だ。
「体系の視点」というのは、現実を観察して、その事実を書き留め、その事実をうまく説明するような解釈を求めるという視点を捨てることを意味するのではないかと思う。むしろ、その体系の規則を確定させているような要素を見いだし、その規則を確固とした例外のないものと考え(ここで例外が捨象され、確定した規則が抽象されている)、その規則から生み出される体系の全体像の把握を目指すことが「体系の視点」ではないのだろうか。
レヴィ・ストロースが婚姻の規則をクラインの四元群と同じ構造だと見なし、それを「体系」と見たのは、クラインの四元群において要素間の関数から生み出す全体系が、婚姻関係が生み出す親族の基本構造と重なることを見たかったからではないかと思う。そのような見方をすれば、どうしたって「体系が要素を生み出す」という構造主義的な発想が生まれてくるだろう。数学はまさにそういうものだからだ。
物質的な存在が先にあって、その物質が従う法則性が観察されて、そこから現実の秩序が記述されるというのが、普通の我々の経験になる。しかし、構造主義はこの発想を全く逆にするような気がする。構造主義が見いだすのは、まずは現実の秩序の方だ。現実の全体性がある種の構造を持っていることを見出す。そして、この構造が、現実に存在している存在を作り変えていく。作り変えられた存在は、構造に適合するように作り変えられるのであるから、ある意味では法則性に従うのはもはや自明となる。
この、どちらが先行するかという問題は、おそらく決着がつけられない問題だろう。だが、一方の見方でうまく論理が展開できないときに、このような逆転の発想で違う道を探ってみると、論理は思わぬ良い方向に進む可能性が出てくるだろう。弁証法が、普通の思考ではうまくいかないときに、その否定を基に考えると行き詰まりを打破できることがあったりするように、構造主義も発想法として活用することが最も有効な活用法のような気がする。
この発想で「交換」と「社会」を見てみると、原初的な「社会」では、そこに何らかのシステムがあるというよりは、動物の群れと同じで、集団で生活しているということが基礎にあるものだと思われる。動物などでも、群れを作る動物は、たいていがボスになる一頭の雄とその家族で構成されている。原初的な「社会」は、人間でもそのように家族を単位とした群れではなかったかと思われる。だから、そこにはまだ何ら人間らしいものはなかったのではないか。
それが「交換」というシステムが生まれることにより、人間は動物を脱したのではないかという想像が出来る。「交換」をするような動物は全く見あたらないからだ。「交換」は、お互いに必要なものを相手に求め、自分にとって余剰なものを譲渡するというイメージでとらえることが多い。だが、これはすでに社会の中に「交換」という行為が確立しているときのイメージではないかと思う。「交換」そのものが発生したときには、そのような理解の下で「交換」が行われたとは想像しにくい。
原初的な「交換」は何かの偶然で発生し、それが継続的に行われる過程で、人間は社会を形成する必要に迫られ(なぜなら交換をする相手が必要だから)、それがさらに「交換」を促し、そのシステムが確立されるにつれて人間が人間らしくなっていき、社会が社会らしくなっていくという想像の方が何となくありそうな感じがする。
内田樹さんは、「交換」というものの発生に関して、自分たちの余剰に生産したものを、誰か分からない他者に一方的に譲渡するという形で発生したものと語ることがある。この、一方的な譲渡が、人間の本能的なものであるかは微妙な問題だが、贈与するというのは人間的には嬉しい感情がわいてくることも確かだ。
構造主義的な発想で考えると、社会の発生の第一歩には、何らかの原因で起こった「贈与」という形での「交換」があったのではないかという仮説は説得力があるような気がする。それは、体系として論理的な展開が合理的に行えるような感じがするからだ。
以上のような考察をすると、人間の社会にとって交換ということがいかに重要なものであるかがよく分かる。また「交換」というものも、何か物質的なものを交換するという、商品の交換のような狭いイメージでとらえるのではなく、人間が他者との関係を持つとき、その他者とのコミュニケーションをすべて「交換」という概念でとらえることが出来るのではないかとも思えてくる。言語の「交換」などは、互いのとらえている認識や判断を、言語(その意味など)を媒介にして「交換」しているとも思える。
交換のシステムこそが「社会」だというとらえ方は、「社会」というものをそうとらえた方がその本当の姿がよく見えるということなのではないかと思う。何か「社会」という実体が見えて、そこから観察の結果として体系としての「交換システム」が発見されるのではなく、体系としての「交換システム」という視点を持って「社会」を眺めるとき、「社会」の姿がもっともよく分かるのではないかと思う。そのような視点で「社会」を見ることによって、「社会」がどの方向へ行こうとしているのか、どこが間違えているのかが見えてくるだろう。
全域的と局所的という言い方に関しては、局所的といわれるものが観察可能なもので、全域的なものが体系として演繹されるものではないかと思う。「近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則」は局所的に観察される交換システムであり、これが社会全域の交換システムを見出すためのステップになるというのが、「関係づける、その仕方」という言い方で伝えたかったものではないだろうか。レヴィ・ストロースのすごさを伝えてくれた浜本満さんは、レヴィ・ストロースと同じくらいすごい人ではないかと思った。
khideaki 15年前
構造主義における「構造」そのものの概念を求めてみる
僕は、構造主義における「構造」という言葉にこだわって、その概念をつかむことが難しかったが故に構造主義についてもよく分からないものというイメージでいた。これが数学的な構造、たとえば代数的構造などと呼ばれるものだったら、それほど苦労せずに理解できただろう。しかし、数学でいう構造は、わざわざ「主義」という言葉をつけるような曖昧なものではないはずだ。それは全体性を支配する基本になるものであり、それをつかんだ人間は、その数学分野における適切な公理を選ぶことが出来る。
構造主義は、主に社会科学の分野で語られたり、ソシュールの言語学で語られたりしていた。だから、それが全く数学と重なるような「構造」の概念を持っているとは思えなかった。もしそうであるなら、社会現象や、言語現象などを数学と勘違いしているだけではないかと思っていたものだ。三浦つとむさんが構造主義を批判するように、ありもしない妄想の影響で人間社会が支配されているとする観念論的妄想にしか見えなかった。
数学の構造は、それが人間が構築したものであるが故に揺るぎないものとして設定できるが、現実に存在する構造はすべて現象に対するある解釈に過ぎないという感じがしていた。そのような構造を見ることにそれほどたいした意味があるのだろうかという疑問をずっと持っていた。すべてを数学として見てしまうことは、数学の抽象性に数学のすばらしさを感じていた人間としては、わざわざその抽象性のすばらしさを殺すものではないかという気がしていた。
構造主義に対してそのような否定的イメージを抱いていた僕は、構造主義がさっぱり分からなかった。しかし、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』の中の次の文章を読んだとき、ここで語られているものが「構造主義」というものらしいと気がついたとき、それが何とも簡単に納得できて「腑に落ちる」感じがしてしまった。
この内田さんの文章によって、なんだ構造主義というのは、今まで自分が考えてきたようなものの見方・考え方と同じじゃないかということに気づかされた。これによって「構造主義」という発想法はよく分かった。それを利用することの有効性もよく分かった。しかし、「構造」そのものは、内田さんの説明を聞いても余りよく分からなかった。それはやはり数学的な概念に近いもののようだが、それが現実の人間社会とどのような関係を持っているかというイメージが今ひとつつかみにくかった。
その「構造」そのもののイメージが『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美、浜本満 共著、清水書院)の第二章によって少しずつ明らかになってきたのを感じる。この本では、「構造」とは具体的なルールで語られる現象が「数学的表現といった他の表現と対応づけられるとき、まさにそれを通じて開示されるものである。それは言葉の意味と同様に、示すことが出来るだけで、語ることは出来ない何かである」と語られている。つまり、「構造」とは具体的なルールそのものでもなく、数学で表現される数学的構造でもなく、それを並べて比較してみることによって得られる共通部分のようなものとして示される(開示される)ものだ。これは次のような表現もされている。
語ることが出来ず示されるしかないもの、というのはどこかウィトゲンシュタインが語った「語り得ぬこと」に通じるようなものだ。これはよく考えると重なるのが当然かもしれない。ウィトゲンシュタインは思考の限界を求めて考えを進めたのだが、思考の限界を確定するということは、その全体構造を確定することになるのではないかと思うからだ。思考の構造というのは、思考によって展開される論理空間の構造を明らかにすることになるだろう。しかし、その「構造」は、これが構造だと指し示すことは出来ない。それは指し示した瞬間に、構造ではなく具体的な存在になり、在るルールになってしまうからだ。構造は示すことしかできない。それをウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』という書物で示したのではあるまいか。
「構造」そのものは語り得ぬものだから、僕もその概念を直接語ることは出来ない。しかし、どのようなものかを示すことは出来そうだ。浜本さんが示してくれたものを僕なりにまとめると次のようなものになるだろうか。オーストラリアのカリエラ族の婚姻の規則は、二つの母系半族に組織され4つのクラス(バナカ、カリメラ、パリエリ、ブルングと呼ばれる)に所属している。そして、このクラスが誰を婚姻の相手にするかは次の表のように厳密に確定しているという。
夫 妻 子供
M1 バナカ ブルング パリエリ
M2 カリメラ パリエリ ブルング
M3 パリエリ カリメラ バナカ
M4 ブルング バナカ カリメラ
夫と妻と子供は必ず違うクラスに所属しなければならない。その婚姻のパターンは表にある4つしか許されていない。ここには厳密なルールがある。だが、このルールそのものが「構造」ではない。
次にこれとよく似たルールでの婚姻の規則を見てみよう。レヴィ・ストロースはフランスの全住民が二つの家族、デュポン家とデュラン家に分かれて、婚姻はこの両家の間で行われ、子供は常に母親の名前を受け継ぐという規則を考えた。これだけでは4つのクラスにならないので、パリとボルドーに住む二つの都市のデュポン家とデュラン家について考えると、上のカリエラ族とよく似たルールが見えてくる。なお居住地を夫の住む都市にするということもルールに付け加えておく。
夫 妻 子供
M1 パリのデュポン ボルドーのデュラン パリのデュラン
M2 ボルドーのデュポン パリのデュラン ボルドーのデュラン
M3 パリのデュラン ボルドーのデュポン パリのデュポン
M4 ボルドーのデュラン パリのデュポン ボルドーのデュポン
これは、カリエラ族の婚姻規則と「構造」が同じになっていることが見えてくるだろうか。具体的にルールとして語られる言葉には違いがある。だから、言葉の違いを越えた意味の共通する部分を見なければならない。カリエラ族の表の中の、バナカをパリのデュポンに、ブルングをボルドーのデュランに、パリエリをパリのデュランに、カリメラをボルドーのデュランに書き換えると、それが架空のフランスの婚姻規則になる。それぞれの表の中の名前は違うものの、それが表の中に占める位置は、それぞれの変換で同じ位置になる。つまり同じ効果をもたらす作用とつながる。これから構造が同じだということの理解が出来るだろう。
これを数学的な関数の表現で、「構造」というものをもっとクローズアップした表現をすると、次のようなものとしてこの本にも書かれている。息子は婚姻において夫になる人間であり、娘は妻になる人間として、その婚姻のタイプが表の一番左に書いたM1からM4間での記号で表現される。
親の婚姻タイプ Mi M1 M2 M3 M4
息子の婚姻タイプ f(Mi) M3 M4 M1 M2
娘の婚姻タイプ g(Mi) M2 M1 M4 M3
この関数の対応表が、カリエラ族でもフランスの架空の家族でも同じになる。この関数の対応表に現れた共通した同じ何かが「構造」と呼ばれるものになる。この関数をさらに、その対応だけを見てみれば、息子の婚姻タイプを対応させるfを2回続けてみるとまた元に戻ることが分かる。
f(f(Mi))=Mi
gに関してもそれは同じだ。娘の娘の婚姻タイプを求めると、また元に戻る。
g(g(Mi))=Mi
数学では、このように同じものに対応させるものを恒等関数といいeで表すことが多い。また、fとgは、どちらを先に作用させても同じものに写る。f(M1)=M3で、g(M3)=M4になる。これを先にgを作用させると、g(M1)=M2で、f(M2)=M4になり、同じM4になる。他でも同様になることが確かめられて
f(g(Mi))=g(f(Mi))
になる。この関数をhという文字で表すと、この婚姻タイプの関数は、4つの元を持つ群構造を持ったものになる。どの二つの関数を作用させても、それは結局は4つのどれかと同じになる。関数を作用させるということを演算として考えたとき、この演算に関して閉じた構造を持っている。そして、eで表される関数が、この演算において単位元としての働きをする。かけ算における1のような働きをする。表にすると次のようになる
e f g h
e ee=e ef=f eg=g eh=h
f fe=f ff=e fg=h fh=g
g ge=g gf=h gg=e gh=f
h he=h hf=g hg=f hh=e
この表に現れたものを、クラインの四元群と呼ぶ。これは4つの元が従う演算規則を示した表だ。この演算の表自体が「構造」なのではない。この表を通じて示されている何か、それは頭の中にしか存在しない何かなのだが、それが「構造」なのだ。「構造」は現実には具体的なもの(実体)としては存在していない。それが「構造」の難しさだった。
「構造」は頭の中にしか存在しない。それは直接語ることが出来ないものだ。それが現実の物質的存在を作ると主張するのだから、構造主義は観念論である。しかし、この観念論は、人間社会に存在する物質に対して、そのような作用を語る観念論だ。人間と無関係に存在する自然物に対しては、それを構造が作り出すとは言わない。人間とは無関係なものをカント的な「もの自体」と呼ぶなら、「もの自体」と構造とは関係ない。それが、人間に対してある意味を持ち、人間に対するものとなったとき、それは構造が生み出した・作ったものだと呼ぶのだと思う。人間に対するものは、人間の頭を通過して、人間がそれに意味を与えて受け取る。そうでなければ人間はものを認識することが出来ない。そこにこそ構造主義が正しくなる理由があるのではないかと思う。ものに意味を与える視点こそが「体系の視点」であり、それが「構造」を示しているのだと思う。語り得ぬ「構造」の概念を、僕はこのようなものだと考えた。
khideaki 15年前