クラウゼヴィッツ『戦争論』 新訳で知る戦争のリアル
2024.11.26
滝田 洋一/名古屋外国語大学特任教授、日本経済新聞客員編集委員
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「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」の一節で有名な、クラウゼヴィッツの『戦争論』。このたび、その全訳が加藤秀治郎氏による平易な日本語で刊行された。「迎撃だけに限定し、反撃しようとしない戦争はナンセンス」「その国の政治的、軍事的な状態が健全で、有力であれば、それだけ外国からの救援を期待しうる程度が大きくなる」など、現代の防衛・安全保障政策を議論する上でも気になる指摘が満載。ウクライナ、中東、東アジアと、きな臭さ増す今こそ、この名著をひもといてみたい。
著者名:カール・フォン・クラウゼヴィッツ 著、加藤 秀治郎 訳
すいすい読める加藤訳『戦争論』
アダム・スミス『国富論』、マルクス『資本論』、ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』。経済学を代表する古典の翻訳には「論」と名のつくものが多い。本連載ではこれまで『国富論』と『一般理論』を取り上げたが、今回は近代の戦争の本質を深く掘り下げたカール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831)の『戦争論』に光を当てることにしよう。
ほかでもない。クラウゼヴィッツに学者人生をささげた加藤秀治郎・東洋大学名誉教授による新訳『全訳 戦争論(上)(下)』(日本経済新聞出版)は、訳が明快なうえになるべく日常の言葉を使っているからだ。中身をくんだ分かりやすい新訳といえば、翻訳家・山岡洋一氏の『 国富論(上)(中)(下) 』(日経ビジネス人文庫)がある。山岡訳でようやく『国富論』を読み通すことができたが、今回も同様だ。
『全訳 戦争論(上)(下)』(カール・フォン・クラウゼヴィッツ著)
岩波文庫の篠田英雄訳も決して悪い訳ではないのだが、上中下3巻のうち上巻を読み終えたところで投げ出していた。ところが今回の加藤訳には、クラウゼヴィッツ流にいえば「摩擦」がなく、すいすい読み進められる。日本クラウゼヴィッツ学会理事を務める加藤氏が、戦略と戦術、攻撃と防御などの鍵となる概念を自家薬籠中のものとしているからだろう。
その成果を踏まえた、分かりやすさ向上の工夫もある。文中に〔 〕を挟んで注釈を加えたり、言葉を補ったりしているのだ。一例を挙げよう。「政治目的が〔敵の撃滅を目指す〕断固たる(ポジティブ)性質のものか、〔撃滅は目指さない〕控え目な(ネガティブ)性質なものかにより、不可避的に軍事行動に相違がもたらされる」(上巻・64頁)。
言葉を補うことで格段に意味が通りやすくなったことが実感されるはずだ。もちろん〔 〕内には加藤氏の解釈も入っている。その意味で本書は加藤版クラウゼヴィッツなのだが、恐らくこうした注釈抜きで『戦争論』に取り組んでも、読者は戦場の深い霧のなかで右往左往するばかりだろう。かくいう筆者もそのひとりである。
「反撃しない戦争などナンセンス」
ともあれ『戦争論』の魅力は、戦場での実体験をもとに、引かば押せ、押さば引けという戦争遂行の姿を描き出している点にある。「防御という戦争遂行の方式はそれ自体が攻撃より強固だ」、「戦争は防御で始まり、攻撃で終わる」、「敵を迎撃することだけに限定し、少しも反撃しようとしないという戦争などは、まったくナンセンスである」(下巻・18頁)。
攻撃に対する防御の優位性を説くとともに、防御と攻撃を別々のものとは考えず、防御から攻撃へのダイナミックな展開を描く。サッカーの強豪チームの試合運びをみるようである。こうした組織の動的な側面を、マルクスやレーニンは『戦争論』からくみ取っていった。
防御側はいつでも攻撃側に奇襲をかけられる。戦場となる土地・地形も自由に選べる。ここが防御側の強みだ。専守防衛を基本とする日本にこれらの利点がそのまま当てはまるかどうかは置くとして、そのうえで見逃せないのは「少しも反撃しない戦争などナンセンス」との指摘である。反撃能力の保持は専守防衛を逸脱する、といった議論をクラウゼヴィッツはどう聞くのだろう。
クラウゼヴィッツが攻撃された側の防衛手段として、「国民」や「同盟諸国」にも言及していることにも注目したい。フランス革命を経て戦争はプロの兵士だけではなく、一般国民が加わった国民戦争となった。現代に至る戦争の変容を『戦争論』は鮮やかにとらえている。
スペインに侵攻したナポレオン軍を苦しめたのは、武装した民衆の抵抗。そうした実態を踏まえて、ゲリラなど「民衆部隊という存在は霧や雲のようなものであるべき」だが、「ある地点に凝集して、敵に〈脅威を感じさせるほどの雲〉のような集団でないといけない場合もある」。「敵に不安感と恐怖心を掻き立て、全体として抵抗運動の心理的効果を強める」(下巻・193~194頁)。
毛沢東の抗日ゲリラ戦を思わせる記述であり、ベトナム戦争でアメリカ軍を苦しめたのがこうしたゲリラ戦だったのはいうまでもない。ゲリラの活動を英雄的に取り上げる論調は後を絶たないが、民衆部隊の活動は正規軍と連携したものであり、『戦争論』はその連動性こそを重視している。
ベトナム戦争ではゲリラの背後に北ベトナムの存在があった。現在に例を求めるなら、イスラエルと戦闘を交えるハマスやヒズボラなどの非正規軍の背後には、イランがいるといった具合である。クラウゼヴィッツは防御側の支えとして「同盟諸国」も挙げるが、これはさしずめロシアに侵攻されたウクライナを支援する米欧諸国のようなものだろう。
助太刀してもらえる政治的・軍事的状態にあるか
なるほどウクライナと米欧の間には法的な同盟関係はない。それでもクラウゼヴィッツのいう防御側を助太刀する勢力として、攻撃による現状破壊を好まない現状維持勢力の存在はあなどれない。「外国〔同盟国〕の救援を期待しうる機会は、一般に攻撃側より防御側にある」(下巻・44頁)。ただし、国家としての自助努力が基本であることはいうまでもない。
要するに「その国の政治的、軍事的な状態が健全で、有力であれば、それだけ外国からの救援を期待しうる程度が大きくなる」(同)というわけだ。中国やロシア、北朝鮮などの脅威が間近に存在する日本にとっても、このあたりが国家存立の基本だろう。
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続にほかならない」(上巻・56頁)。クラウゼヴィッツといえば引かれるこの命題こそ、『戦争論』が俎上に載せる近代の国民戦争そのものだ。「戦いが続き、最後には敵の疲弊が大きくなり、敵の軍事活動が当初の政治目的と釣り合わない点に至ると、敵は政治目的を放棄せざるをえなくなることがある」(上巻・67頁)。
兵員や武器などの「能力」に加えて、戦い抜こうとする「意志」への注目。それは旧日本軍で横行した精神主義とは全くの別物である。「敵の戦闘力の撃滅、敵国の一部地域の征服、敵領土の占領、政治・外交関係と直接結びついた工作、敵の攻撃の受動的〈待ち受け〉…これらすべての手段が敵の意志を屈服させるのに用いられる」(上巻・68頁)。
政治・外交と結びついた工作としては、中国人民解放軍が採用する「三戦」が挙げられよう。三戦とは「輿論(よろん)戦、心理戦、法律戦」のことで、敵側の戦闘意欲の減退を図る工作、敵内部に入り込んだ心理工作、法的に自らの活動を正当化する工作を意味する。輿論も心理も法律も戦争の舞台。敵側の意志をくじこうという仕掛けこそ、戦争の一手段なのだ。
日本ではいまだに、軍事の前に外交、まずは話し合いという、当たり障りのない言い回しが挨拶代わりになっている。だが現実世界の厳しさに直面すると、途端に反対方向に走らないとも限るまい。ナポレオン戦争で実際の戦場を経験したプロセインの高級将校が残した本書で、戦争のリアルに触れることが、議論のひとつの出発点であるように思えてならない。
写真/スタジオキャスパー
『 全訳 戦争論(上)(下) 』
格段に読みやすい画期的全訳版
軍事論、国際関係論、戦略論を語るうえでのグローバルな常識になっている『戦争論』を理解することで、現代戦略論を理解する道が開かれる。本書は、これまで難解とされてきた『戦争論』の待望の新訳。
カール・フォン・クラウゼヴィッツ著/加藤秀治郎訳/日本経済新聞出版
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