レヴィナス『存在の彼方へ』で考える他者との関わり

20世紀の「西洋哲学の奇書」が説く対人関係論レヴィナス『存在の彼方へ』で考える他者との関わり①

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村上 靖彦 : 大阪大学大学院 人間科学研究科教授
2024/09/14 16:00
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E・レヴィナス『存在の彼方へ』合田正人 訳/講談社学術文庫
エマニュエル・レヴィナス(1906〜95)は、リトアニアで生まれフランスに帰化したユダヤ系の哲学者だ。紹介する『存在の彼方へ』は、70歳を目前にした74年に出版された。
原題を直訳すると『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』となる。異様な書名であるが、中身も異様である。奇書といってもよい。起承転結の構成を持たず、途切れがちの同じような文章が反復されながらだんだんと変化していくが、結論に至るわけではない。本を読み進めていくと、確かに「存在の彼方」について書かれている。しかし「存在の彼方」が何を意味するのか理解することは、容易ではない。
私は大学生のときレヴィナスに魅了され、彼についての博士論文をフランスで執筆した。現在は医療福祉の現場や社会的な不正義に関わる調査研究を行っているが、今になって、レヴィナスが語りかけてきたことの意味を感じている。

存在から離脱すること

本書は「存在してしまうこと」から離脱することを説く。存在する事物を客観的に認識する知とは別の仕方で、私たちはほかの人と関わっている。主体とは認識する力のことではなく、対人関係は他者を認識することではない。
例を挙げよう。意思疎通が難しい寝たきりの人をケアする家族や看護師がいる。彼・彼女らは、患者の日々の体調や、言葉がけに対する反応を感じ取っているが、何か明瞭な指標を認識しているわけではない。「なんとなく」その人と通じている感覚を持つ。存在する事物を認識するのとは異なる次元で、患者から呼びかけられている。

存在から離脱することは死ぬことではないし、何かを無化することでもない。むしろ、対人関係のただ中に身を置くことだ。レヴィナスはこれを「近さ」と言い換える。「近さ」は計測できる距離のことではなく、選択の余地なく誰かに取りつかれてしまっているという出来事である。

事物を認識するのとは異なる存在の彼方で、他者は私に近づく。とはいえ「近さ」は甘い親密さとは程遠い峻厳(しゅんげん)なものだ。他者は私の内臓の中に入り込むほどに「近づく」。意識が明瞭ではない患者、社会的な傷を負った人、排除された人なども、私に応答を迫って近づいてくる。こうした他者の苦しみは私の身体を侵すがゆえ、「近さ」は最終的には「傷つきやすさ」でもある。私の傷つきやすさとは、他者の傷から逃れられないがゆえの傷つきやすさなのだ。

対人関係の構造をラジカルに

西欧哲学は〈事物を認識する自律した主体〉を起点に進んできた。重要なのは自己の認識能力であって、ほかの人がどうであるかは関係がない。これに対してレヴィナスは、自律した主体を解体し、対人関係に巻き込まれる「受動性」から主体を考え直した。さらに対人関係の構造そのものをラジカルに捉え直す。マッチョな主体を解体することで、西欧哲学を根本から転覆したのだ。

(第二回に続く)

「本当の対話」と「言語の応酬」の根本的な違いレヴィナス『存在の彼方へ』で考える他者との関わり②

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村上 靖彦 : 大阪大学大学院 人間科学研究科教授

2024/09/28 16:00

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E・レヴィナス『存在の彼方へ』合田正人 訳/講談社学術文庫

筆者はこれまで、看護ケアや、困窮地域に住む子どもの支援現場を中心に調査を行ってきた。こうした現場と出合う中で筆者が学んだのは、支援者たちの体が考える間もなく、苦境にある人へと赴いていることだった。

例えば、看護師が患者を手当てするときには、具体的に患部を意識するより先に、声をかけ、手を動かしている。患者へと向かうことは、具体的な言葉がけや手当てにおいて実現する。しかし看護師は、言葉をかけるより先に、呼ばれるより前に、すでに相手に向かっている。社会的困窮地域の支援者は、怒鳴り散らす若者の声が「助けて」と聞こえてしまうがゆえに、言葉にならないニーズをキャッチしようとする。

〈語ること〉と〈語られたこと〉

この“気づく間もなくすでに”相手へと向かっているベクトルを、レヴィナスは哲学の問題として考え、『存在の彼方へ』では、〈語ること〉と〈語られたこと〉を対の概念として導入した。連載の前回で紹介したように、対人関係は「存在の彼方」において他者に取りつかれる出来事だ。

われわれが認識する言語とはまた異なる次元で対話は生じている。驚くべきことに、対話の可能性は言語とは区別される。

レヴィナスの定義する〈語られたこと〉は、発話された言葉、書かれた言葉、文法体系、概念や論理、学問的な知識や個人の認識など、「言語」として考えられているほとんどすべてにわたる。

一方、〈語ること〉は〈語られたこと〉、すなわち言語にラジカルに対立する。〈語ること〉は、発話に先立って他者へと開かれ、相手から問いかけられるよりも前に応答へと突き動かされているという「対話」を開く可能性を指す。言語は、〈語ること〉という他者へと曝露(ばくろ)してしまう出来事があって初めて作動する。

〈語ること〉とその先行性

言葉を誰かに向けて発するときには、その人へと開かれてしまっているという目には見えない出来事が先行する。気づいたときには私は「すでに」他者へと開かれてしまっている。これが〈語ること〉だ。「すでに」といってもストップウォッチで計れはしない、意識に上ることすらない先行性だ。存在、言語、時間、すべてにおいて、従来の学問では記述できない出来事をレヴィナスは発見し、名前をつけた。

他者へと開かれる〈語ること〉は、「存在の彼方」で他者が過ぎ越す出来事だ。「存在」が従っている自然科学的な認識や法則性や形式論理学には従わない。見ることも記録することもできない。ただ、存在の彼方における〈語ること〉と隔時性は、私たち全員が対人関係の中で、あらゆる瞬間に経験していることでもある。

レヴィナスは「自己」を、〈語ること〉とその先行性によって定義しようとした。「私は……」と語ることは、意識するよりも前にすでにほかの人から呼び求められ、意に反して応答を迫られてしまっている出来事のことなのだ。(第三回へ続く)

哲学者・レヴィナスが説く「狂気の倫理学」の核心レヴィナス『存在の彼方へ』で考える他者との関わり③

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村上 靖彦 : 大阪大学大学院 人間科学研究科教授

2024/10/05 16:00

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E・レヴィナス『存在の彼方へ』合田正人 訳/講談社学術文庫

哲学者・レヴィナスは、意識するよりも前に他者へと開かれてしまうことを〈語ること〉と表現し、ここに倫理的な意味を読み取った。

呼び求められてほかの人に向かってしまっているのは、自らが気づく前にすでにほかの人への責任を負っている(=応答してしまっている)からだという。

確かに、看護師が考える間もなく患者の手当てを始めるとき、それは患者の苦痛へとおのずと応答してしまっているということだ。筆者が出合ってきた子ども支援の現場でも、SOSを発することができない子どもの変化のシグナルをキャッチするアンテナを、支援者の皆が持っていた。

このように、苦境からの呼びかけに応答réponseしてしまうあり方を、「責任responsabilité」と呼ぶのが、レヴィナスの考える倫理だといってもよい。責任とは、困窮した人から意図せず発せられている〈かすかなSOSへのアンテナ〉を持ってしまっていることなのだ。

レヴィナスの「倫理学」

西欧哲学は、まず理性について考えた後に、応用問題として倫理や道徳について考えてきた。ところが、レヴィナスは責任・倫理こそが、理性的認識能力に先立つと考え、哲学史の転覆を試みた。

しかしレヴィナスの転覆を推し進めていくと、極端な結論に至るだろう。

他者の困窮へと応答する「私」は、他者の身代わりになる。「私」とは、他者によって迫害され侵食される受動性であり、他者の代わりに苦しむものであり、全世界に対して責任を負うということだ。

〈語ること〉には責任という倫理的な負荷がかかる。すると、〈存在の彼方〉は、“私が他者から召喚され侵食され、他者の身代わりとなって無限の責任を背負う”世界になる。
これは、昔から倫理学が論じてきた、複数の人の間の公平性を期す「正義」とは異なる。「私」が絶対的に責め立てられ、その人の人質・身代わりになるほどに責任を負う「倫理」だ。

〈存在の彼方〉が抱え込む狂気

他者に対して望まなくとも否応なく責任を負うことで「私」になるということは、他者に責められ罪を告発されているということでもある。ゆえに責任とは、「私」が他者を簒奪(さんだつ)し暴力を振るってしまっているという畏れでもある。「私」は傷つきやすい存在なのだが、同時に誰かの権利を簒奪している加害者でもある。私たちは自分が誰かを傷つけているのではないかという畏れを十分に持ちえているだろうか。
「私」が他者への絶対的な責任を負う世界、「私」が加害者として罪を負う世界というのは、病的にも見える。実際レヴィナス自身が「妄想」「トラウマ」「精神病」「罪障性」という単語を使い、〈存在の彼方〉が抱え込む狂気を暗示している。この奇妙な世界は日常生活に露出することがないが、いったい何を指し示しているのだろうか?(第四回に続く)

"狂気"の哲学者・レヴィナスと「ユダヤ人虐殺」レヴィナス『存在の彼方へ』で考える他者との関わり④

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村上 靖彦 : 大阪大学大学院 人間科学研究科教授

2024/10/12 16:00

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E・レヴィナス『存在の彼方へ』合田正人 訳/講談社学術文庫

リトアニア生まれのユダヤ人であった哲学者、レヴィナスは、妻と長女以外の故郷に残った家族をナチス・ドイツに銃殺された。『存在の彼方へ』の献辞には次のようにある。

国家社会主義によって虐殺された六百万人の者たち/そればかりか、信仰や国籍の如何にかかわらず、他人に対する同じ憎悪、同じ反ユダヤ主義の犠牲になった数限りない人々/これらの犠牲者のうちでも、もっとも近しい者たちの思い出に

レヴィナスがショアー(ホロコースト)を引き受けた哲学者であることは疑いないが、彼自身は残虐な殺人を目の当たりにすることはなく、捕虜収容所で不気味な噂を聞きつつも、親族が死んだことは後で知った。

レヴィナスにとっての「存在」

彼は長年ショアーについて沈黙していた。彼が正面からショアーの犠牲者について語ったのは、第1の主著『全体性と無限』(1961年)よりも後、戦後20年以上経過した66年のことである。犠牲者の孤独と絶望について記したレヴィナスはこう語る。

このような腫瘍を記憶に持つとき、二十年の歳月といえども何も変えることはできない。おそらくは遠からず死が、六百万人の死者に対して生き残ってしまったという不当な特権を消してくれるだろうが。(『固有名』)

ナチスによる虐殺という「記憶の腫瘍」について、別の場所では「記憶することも、思い出すこともできない過去」と呼んでいる。レヴィナスにとって「存在」は、最終的には戦争と殺戮(さつりく)の次元であり、すべてが灰になった世界に行き着く。人も事物も消失した純粋な存在の広がりのことを、彼は終戦直後から「ある」と呼び続けていた。レヴィナスは、消失の痕跡としての「ある」に取りつかれて逃れられないことについて思考し続けた哲学者だった。

立ち位置によるジレンマ

2023年10月から続くイスラエル軍によるガザ地区侵攻と虐殺について、レヴィナスがもし生きていたとしたら何を語っただろうか。抵抗するすべのない人々を狭い場所に閉じ込め、子どもも病人も殺戮する報道は、ワルシャワのゲットーを殲滅(せんめつ)したナチス・ドイツを想起せざるをえない。
廃虚と化したガザの光景は「ある」と彼が呼んだものそのものではないだろうか。イスラエルによるパレスチナの人々の強制移住と殺戮はレヴィナス存命時から繰り返されていたものであり、レヴィナスは中東戦争とイスラエル国を肯定し続けた。
歴史を踏まえると、本書の位置づけは複雑なものになる。本書は犠牲者家族としての傷を抱えた当事者の位置から書かれた。同時にレヴィナスは植民地暴力の加害側にある知識人として、自らの立ち位置の考察を迫られたはずだ。
このジレンマについては歴史的な評価も定まっておらず、今後の課題となるが、帝国主義的な暴力の被害者であり、かつ加害者でもある日本人にとっても切実な問いとなるはずだ。(終)

「エモい」「モヤる」日本語の曖昧表現が持つ力『言語の本質』と人間知能の深層①

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安川 新一郎 : 東京大学未来ビジョン研究センター特任研究員、グレートジャーニー合同会社代表

2024/10/19 16:00

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今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』中公新書

近年、私たちが日々当たり前のように使う言語への注目が高まっていると感じる。1つ目の理由は、大規模言語モデルをベースとした生成AIの登場だろう。われわれの言語で質問をすれば、機械が時に人間よりも優れた回答を、違和感のない論理展開で返してくることに驚いた人も多いだろう。生成AIの登場は、必然的に人間知性とその根底にある言語能力に対する再考を促すことになった。

2つ目の理由は、SNSの登場で人間同士の言語の応酬による分断が加速し、偽情報が拡散されていることだ。私たちは、自分たちの用いる言語に十分な信頼を置けなくなってしまった。

今回から読み解く『言語の本質』は、オノマトペといった、言語の中でも「傍流」に見えるようなテーマから、人間のみが扱う言語の成立と進化の過程を明らかにしていく。その中で、「人間と動物との違い」「人間知能と人工知能の違い」という、人間の実存への問いへと斬り込んでいく。

世界を「分節化」する言語

私たちは世界を理解するとき、言語によって対象を「分節化」している。第4章で触れられる、全盲のヘレン・ケラーの有名なエピソードがわかりやすい。ヘレンは、アン・サリバン先生によって手の上を流れるものが、指文字のw-a-t-e-rだと理解したとき、初めて「すべてのモノには名前があるのだという閃(ひらめ)き」を得た。それをきっかけに、自分の生きる世界を理解したいと貪欲に学ぶようになった。

筆者がソフトバンクの経営会議メンバーだった頃、孫正義社長(当時)が「今日からソフトバンクグループでは、中国を日本と考える」と宣言したことがある。もちろん、政治的な意味はない。中国と日本を一体としてアジア市場と考えることで、成熟市場である国内の思考にとらわれず、まったく新しい目で「世界」を再認識し成長戦略を考えろ、という独特のメッセージだ。

その後、不思議とこれまでとは違った視点で世界を分節化し、伸び伸びと発想できるようになったことを覚えている。

日本語の本質的な力

ヘレンの例のように、私たち人間は周囲の生存環境を理解することで、言語を習得していく。だから当然、言語は周囲の環境からの影響を受ける。イヌイットは、雪を複数の単語で呼び分ける。アラビア語でラクダを意味する単語は100種類以上あるとされる。

日本語でも、ブリをイナダ、ワラサなどと、大きさによって呼び分ける。一方で、「エモい」「モヤる」といった抽象的な概念で世界をいったん大枠で分節化することも多い。主語を曖昧にするのも特徴的だ。「過ちは繰返しませぬから」(原爆死没者慰霊碑)と記せば、物事の本質を多視点から捉えることができる。

米大統領選挙や、ウクライナ、中東戦争では、自分/自国の立場を明確化する「主語」が対立し、人々の分断を招いている。その点、日本語には本質的に、多様な価値観を包摂し、分断を回避する力が備わっているのではないか。(中編に続く)

今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』中公新書

AI(人工知能)時代における言語について考える際、避けて通れないのが、『言語の本質』で触れられている言語のアナログ(身体性・具体性)からデジタル(記号性・抽象性)への移行、そして「記号接地問題」である。

乳児の感情表現は泣く、笑う程度だが、幼児になる頃にはオノマトペを使った「アナログ」表現へ変化し(ブーブー、ワンワン、ニコニコなど)、大人になると抽象性の高い「デジタル」な単語で言葉を操れるようになる(自動車、犬、快適など)。

一方、AIは人間のような言語習得過程を経ずに、デジタルな単語を操ることができる。その際、AIは扱う言語をどの程度「知っている」といえるのか。1990年代のAI研究の中で提唱されたのが、「記号接地問題」だ。

身体感覚や経験を持たないAI

メロンを食べた実体験がある人は、「メロン」という単語が身体感覚と接地しており、その実体験から色や食感、舌触りなど、さまざまにメロンの特徴を表現できる。

しかし身体感覚を伴う経験がなく、膨大な記号データからのみ推論するAIは、本質的な意味の理解をすることなく、メロンという記号を「甘い」「蜜のような味」といった別の記号に置き換えていく。「記号から記号へメリーゴーランドのように」漂流し、推論を重ね続けるのだ。

もっとも、AIが記号接地していないとはいっても、実用性で人間よりAIのほうが優れている場合は多々ある。最新のAIは学習した記号データからの推論だけで、精度の高い翻訳を行い、物理学や数学の高度な問題を専門家以上のレベルで解き、囲碁の対局で勝利し、正確な天気を予測することができる。囲碁のルールも、勝利の感情も、雨の憂鬱さも理解せずに、である。

社会の分断は「認識の分断」

では、高度情報化社会に生きる現代の私たちは、どうやって物事を認識し理解しているのだろうか。私は、今問題視されている社会の分断とは、左派と右派、富裕層と貧困層など従来の枠組みでの分断というより、情報化社会で新たに発生している「認識の分断」ではないかと考えている。

身体感覚を必ずしも伴わない情報や概念であっても巧みに扱える人々と、自分が記号接地していることのみから物事を判断する人々の間の分断だ。前者は、地球規模の問題である環境保護や人権擁護という抽象的な概念を考えることができる(おそらく、その経済的な余裕もある)。

後者は、自分の所属するコミュニティーの現実を身体感覚で感じ取り、判断する。もしくは、感覚的にわかりやすい自己の利益の最大化を求めている。だから、自分の心に響かない政治家の演説やメディアの報道は、正論であってもフェイクか陰謀論として片付けられる。一方、自分と価値観を共有する人の言うことは、非論理的であっても心に刺さるのである。本書は、日々大量の情報にさらされる私たちに身近な問題について深い示唆を与えてくれる。(下編に続く)

AIや猿は苦手な「人間の思考法」が可能にしたこと『言語の本質』と人間知能の深層③

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安川 新一郎 : 東京大学未来ビジョン研究センター特任研究員、グレートジャーニー合同会社代表

2024/11/09 16:00

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今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』中公新書

先頃、米オープンAIは新しい大規模言語モデルである「o1(オーワン)」を発表した。このモデルは複雑な推論を実行するために訓練されており、ユーザーに応答する前に、長い内部思考の連鎖を生成するのが特徴だ。それにより博士号レベルの物理、化学、数学の問題を解くことができる。このAIモデルは、演繹推論、帰納推論のいずれにおいても、多くの場合で人類をすでにはるかに上回る成績を出した。

人間特有の推論方法

一方、AIより人間のほうが得意な推論方法がある。「アブダクション推論」だ。次元や前提をランダムに変えてさまざまな仮説を形成し、それを検証することで新しい知識を得る、という推論方法である。観察された事実から仮説を導くため、直感、経験、複雑な文脈解釈という、人間固有の能力が必要とされる。

『言語の本質』では、「子どもが言語習得の過程で行なっていること、つまり知識が新たな知識を創造し、洞察を生み、洞察が知識創造を加速する」サイクルとして「帰納推論とアブダクション推論の混合」を挙げる。

やや難しいが、つまり私たちは遊びも含めたさまざまな身体的経験から帰納的に推論を行いつつ、新たな仮説検証によって知識を取得し、世界を分節化(言語化)していく。こうして、本連載の上編で紹介したヘレン・ケラーの例のように、言葉を覚える感動とともに世界の理解を深め、同時に思考する力も高めていくことが可能になる。

注目すべきは、このアブダクション推論がAIのみならず、チンパンジーなど人間に近い動物にとっても難しい、との著者の指摘だ。

多くの動物は特定の生息地から出ず、移動するとしても季節性の移動や餌の枯渇による限定的なものにとどめる。その一方で人類は、大昔にアフリカを出て以来、その生息地を大胆に替え続け、世界中に拡散しながら生き延びてきた。
特定の生息地の中で生きる動物にとっては、間違いの少ない演繹推論をしたほうが生存確率を上げられるかもしれない。しかし人類は長い旅の過程で、「未知の脅威には、新しい知識で立ち向かう必要があった」。そして、好奇心や遊び心でさまざまな仮説を立てて検証し新しい知識を取得する、アブダクション推論を進化させてきたのではないか、と著者は推測する。

人間独自の思考

AIはプログラムに書かれていない無駄な遊びや無謀な挑戦をしない。海の向こうに行ってみたいとか、あの山の頂きに登ってみたいなどとは思わない。動物も基本、遺伝情報に基づいて行動する。人類だけが「世界を旅するため」、そしてその思考の延長として「世界をより良くするため」のアブダクション推論を身に付けた。これは、幼児期における言語習得の過程から形成される。
言語生成の本質を探ることで動物にもAIにもない人間独自の思考の本質に迫る本書を通じ、AIとの共存を求められるこれからの人間に必要となる知性とは何かが、浮かび上がってくる。(終)


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