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今はまだ恨み節しか書けない。

「私が私になるまでのお話」を書き始めてから、いろんな心境の変化があった。

私がこの記事を公開する前、不安に思っていたことは、こうだ。

読んだ人にどう思われるだろう?

ここだけが怖かった。

可哀想な人だと思われて同情されないだろうか。変な目で見られないだろうか。離れていく人がいるんじゃないだろうか。気持ち悪いと思う人がいるんじゃないか。嫌われるんじゃないだろうか。

いざ公開してみると、表立って何も起こっていない。私がブログ講座でもよく言ってるけど、誰も読んでいない…だ。これを改めて思い知る(笑)


あぁ、誰も読んでない。

何を気にしていたんだろうと思った。子どもの頃のことを私が経験したことを、書きたい、書かねばと思うようになってからもう3年くらい経ってるけど、そうだった、誰も読んでいないのだから、どう思われるだろうなんて、杞憂でしかないのだ。


ところが。

誰も読んでないけど、中には読んで感想をくれる人がいる。

辛すぎるとか、読むだけで涙が出ましたとか、いろいろ。

そんな感想をもらって、「あぁ、あれはそんな反応をされるくらい辛かったことだったのか」と客観的に分かったことはとても良かった。

カウンセリングの先生に、それは立派な虐待ですと断言されても、私はまだあれは虐待じゃなかったんじゃないかと思いたい気持ちがどこかにある。「単なる、ちょっといきすぎたしつけ」みたいに捉えたいという思いが消せない。これこそが、虐待の恐いところだと思う。

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あと、読んでくれる人がいることが分かって、辛かったですねと共感してもらうほどに、私の気持ちがどんどん軽くなっていくのを感じた。

私がずっと一人で抱えていた重い荷物を、読んだ人が持ってくれてるような感覚になった。

重い荷物に押し潰されてヘタっていたところに、読者という人が少しづつ集まってきてくれて、読んでは荷物をちょっとずつ下ろしてくれる。

読んでもらうことで、救いの手が差し伸べられたような。

書いて公開したことで、ちょっとずつ気持ちが軽くなって、すごく晴れやかな気分になっていっている。

書いたあと、自分にこんな変化があるとは思わなかった。

カウンセリングの先生には「過去を書くのはいいですよ」とずっと勧められていたけど、こういうことか!と今わかった。

でも、私は今暗いことしか書けない。ネガティブなことしか書けない。これが私は嫌だ。かっこ悪い。ただ、今、私が書く文章は恨み節でしかないけど、全部書き終えたら、最後の最後には愛が出てくるんじゃないかと思って、淡い期待を抱いている。

親の悪口いうだけの文章で終わりたくない。でも、今の私からは悪口しか出てこない。恨み節しか書けない。

とりあえずいったん全部吐き出さないことには、無理なんだなぁと思う。なので、カッコ悪い、ゴミのような文章だなと思いつつ、書いている。仕方がないことなのだ。たぶん。

でも書ききって辿り着くはずの底の底には、たぶん愛のようなものがあると思う。今、ゴミみたいな感情にまみれてて、一切見つからないけど。

底の底まで行って、愛が見つからなかったら。悲しいけど、まぁどっちにしてもスッキリするんじゃないかと思う。

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京都に住むフリーライター江角悠子が、日々考えたことや人生の気付き、仕事についてのメモ。ブログには書けない本音をつづっています。最近は自己肯…

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