山を歩く ~自然の中での危機管理
「山を侮らず 山を怖れず 山を楽しむ」
これはわたしが高校時代に所属していた山岳部(登山部)の顧問の先生の教え(格言?)である。勝手に名前を出すわけにいかないのでササポン先生とするが、このササポン先生、竹を割ったような性格の方で冒頭の言葉も至極単純明快で難しい要素は何もない。登山をする人なら普段から気をつけていたり知っていることで何をいまさらという感じにすら思える。
だがこの当たり前という感覚こそが落とし穴で、当たり前がゆえに忘れがちな大事なことでありそれを思い出させるいい言葉でもある。今になって狩猟という形で再び山に入るようになった今、時々思い出している。
前述のとおりわたしは狩猟以前に登山の経験があり、その考え方や取り組む姿勢は父とこのササポン先生の影響が大である。ちなみに父は大学登山の経験者でわたしは子供の頃から北アルプスをはじめいろいろな山に連れてかれた。
登山というのは性格が出るもので指導者的な立場でも人によってかなり方針に差が出るが、偶然たまたまこの二人は方針が似ていた。おおむね最初に挙げた格言のとおり安全第一主義でそれでいて積極的に登山に取り組んでいて計画はかなりしっかりと詰めているようなタイプであった。もちろん細かい違いはあるにはあったが、決定的に近しいと思わせる点があってそれは二人とも撤退に関する決断が早かったという点である。
登山をしない人からすると「そりゃ早く帰りたいのだろう」と思うかもしれないが好きこのんで山に登っている人たちというのはそういう感覚はなくて、せっかくここまで来たのに登頂せずに帰れるかという気分になりがちな人が多い。それは客観的に見たらどう考えてもいま直ぐ帰った方がいいような状況(天候が悪化しそう、怪我・病人が出た、その他不測の事態)であっても何とかならんのか、と思ってしまう、そういうサガの人たちが少なからずいらっしゃる業界なのである。
単独で登山する人は別として集団で登山をしているとこういう時に非常に悩むもの、らしい。というのも、冷静に考えて撤退したほうが良いに決まっているのだが、せっかく来たので何としてでも登頂し喜びをメンバーと分かち合いたい、せめて行ける人だけで行ってみてはどうか、など意見が出るにつれ考えが揺らいでくることが往々にしてあるそうだ。わたしも押しに弱いタイプなのでなるほどよくわかる。だが、こと山の中においてはそれが命取りであったりする。
わたしの父もササポン先生もこういう不測の事態が起こった時の即時撤退の判断が早かった。現状をまとめ、怪しい要素があれば鉄の意志で山を下りると断言する、そういうスタイルである。だからわたしも狩猟で山に入っていて雲行きが怪しくなってきたら日没前でもすぐに帰るし(だから森の木に囲まれていても空の様子は始終気にしている&山中は電波が届かないところが多いので携帯の天気予報はもちろん見れない)、ま新しい鹿の足跡を見つけて後を追って行っても危なそうなルート(例えば下ったらまずそうな谷、クルマから遠く離れすぎなど)であればあきらめる、というような安全第一の狩猟スタイルになった。
それもこれもハンターなら当然の判断でしょうと人は言うかもしれないが、でも同じことを目の前にシカがいても言えるだろうか、と反論しながら自問する。北海道の人なら冬場、急激に天候が悪化してものの数分で視界不良になることを知っているだろうと思うが、その「これはやばそう」という判断が10分前にできたか5分前にできたか、今もってできないかで命運がわかれることもある。
また日没直前でシカを見つけて絶好のチャンスで撃たない判断ができるだろうか。もし谷の向こう側にいたら?(回収にものすごく時間がかかる可能性がある) 車はすぐ近くだから暗くなってもちゃんと帰れる?だろうか。日が暮れて足元が怪しくなってきたら回収作業中にケガをする可能性もある。クルマに戻れば無線で助けを呼べばいい? ケガをした足で谷から這い上がれるだろうか?
そもそも日没直前で少し悩んだ挙句、発砲して万が一、日没後だったら?(日没後はどんなに明るくても夜と判断されるので夜間発砲で違反である)
様々なリスクが羅列されたとき、はじめて山の怖さを認識する。「山を侮らず 山を怖れず 山を楽しむ」の格言の二番目の話である。漠然と人知の及ばぬ自然を畏怖するのではなく、リスクを踏まえてそれこそが山の怖さと捉える。だがひとつづつ検証して問題なければ怖れる必要はない。それでいて自分はわかっているからと慢心せず、緊張感を持って山に入る。これこそ怖れずの真意だなと今になって思う。
そして楽しむとは侮らずと怖れずの両方を踏まえるということである。山頂を征服する、登山の行程を全うする、良い景色を見る、という目的にこだわらず、かといって無目的でもなく、山のただなかにいる喜びを味わうという感じかなと思う。狩猟でいえば獲物を獲ることだけを楽しみにしてはいけないということに置き換えられるだろう。
狩猟免許を取った最初の年、わたしは地元の先輩に「この時期あそこはいねぇぞー」と言われた山域を歩き回った。その結果一頭も獲れなかった。
だがとても充実していた。それはシカを獲れずとも少しずつシカの気配がわかるようになり、日々移動していってることもわかり、山の安全と危険の境界線がわかるようになり、銃の所作も板についてきて、それでいて何度かシカを獲れそうなチャンスもあり(全くいないわけではなかった!)、そして引き金を引かないというしびれる判断もして、そういうすべてが狩猟の面白さ楽しさなんだなぁとわかった初年度だった。
これこそが山に入ること(登山も狩猟も)の楽しさの本質であろうと私は思うのです。
翻って最初に戻りますが、つまり安全やリスク管理を怠って登山も狩猟も楽しむことはあり得ないということです。それはお説教的なまじめな安全管理の話ではなく、楽しむことの本質にかかわるんです。だから、俺は山で死んで本望だー、とかみんなで感動を分かち合おうとか、スポ根的に毎日でも山に行け、一頭でも多くとれ、と檄が飛ぶような精神ではきっと登山も狩猟も面白くない(本質に迫れない、あるいは何か違う目的でやってる)ということになるのではないかなぁと思っています。
まぁ人によって目的はそれぞれですからどういった形であってもルールを逸脱していなければ自由だと思いますが、やはり他人の生命や身の危険に関わることはよくよく考えなければならないでしょう。
「山を侮らず 山を怖れず 山を楽しむ」
登山に関する言葉ですが狩猟も含め、あるいは普段のシカの解体精肉作業や体験イベントでの安全管理にも共通していることだと思いますが、恩師のこの言葉を頭の片隅に置いて活動していきたいと思います。