脳内ドッグ
とりあえず書き始める、サインするように。
サイン無き調書に主体はないように、僕は書くことによってしか存在しない自分を書かないことによってしか存在できない自分に納得させるために書く。
いまはほら、とんでもなく抽象的で詩なのか散文なのか出鱈目なのかペダンティックでポストモダンの悪い方の特徴を際だたせるような文章にしかよめないと思う。
これぐらいの具合で頭が滅裂している、でも出力はできているんだ、コーヒーを飲んだ、久しぶりに良いコーヒーを飲みたいと思った、カルディに行ってみようと思ってイオンに行ったけど、カルディはなくて安い方のカルディみたいな輸入食品店があってそこでコロンビアの豆をペーパー用にひいてもらって購入した。
今日はスズメバチに脇とふとももを刺されてテンパっている、だから頭の具合もおかしいのかもしれない、慌てて飲んだ抗アレルギー薬とそれに伴う眠気と濃くいれたコーヒーの覚醒作用とジクジクと断続的に痛む脇と太もも、ぢんぢんぢん熱気を帯びている、あ、バファリンも飲んだ、敏感だからかもしれない、バファリンも体感的に変化副作用がある、まどろむというか、ふあっと色々鈍感になる。バファリン飲んでフワッと鈍感に感じている自分は敏感なのではないか、やけに今夜は脳みそのロンリーがつっかかってきやがるな。
かまってちゃんなロンリーを書いてあげるとそれはそれでほら、次の文に続くわけだ、次の文に続くということは素晴らしい、液状化した水が雲になってとりあえずカタチを表すように、抽象的なことだって書いてしまえばそこにロンリーは生じるそれを書いたら思想なの?っていう何かが生まれる。
ぼくは、自分の書いたことごとに影響を受けて生きてきた、それら文章は日記の体をしたテキトー水蒸気織りなす束の間の雲なのかもしれない、晴れ渡る空は馬鹿を見る目で僕のロンリーを見るかもしれない、けれども僕は何かを信じなくてはいけないのだとしたら、何かを信じてそれを杖にしてなんとか立っておかないといけないのだとしたら、この僕の吐く雲を信じたい、それを杖にしたい。
みんなからこぼれ落ちても僕だけはぼくの言葉に必然を感じている、こんな文章は生まれるはずがないのだから、体は必死でだからといってぼくも必死なのだ操縦席の上が安全ってわけじゃない、こっちにはこっちの労苦がある、証明したい生があるんだよ。
山下清の日記が師匠だ、素朴の谷に、穴の空いた気球で降下していきたい、底の底まで。
リング、ボーはおそれてる、ゴーストドッグ、キュア、コッポラの黙示録、ノーカントリー。最近毎晩寝る前に映画観てる、全然余裕でいつも眠いけど、この眠気をもっとまどろむために映画を観てるのか、映像はここを鈍らせてくれる、ぼくはいつだって賢くなりたいのかアホになりたいのかがわからない、いや贅沢ながらも、この両方の道を両方の足で同時に堂々と歩いていくんだ。
書くことは賢さの階段をのぼっていくことだ、素朴の谷を降ることは哲学だ、もっと自分から空気が抜けたらはたしてどんな欲望が残されているだろう、空気が抜けたダッチワイフにしか入れない窓があるんだ。
書けば書くほどかしこくなる、そして素朴になる、僕はそうやって両面の自分を見つめている、幼くて大人ぶった自分、書くことはペダンティシズムになることだ、かしこぶり。言い過ぎること、言葉にいつも余剰を生み出そう、自分のロンリーからもこぼれてしまうことを書いちまうって荒技で、ここでも新しい経験値を収穫してしまおうという経験地産地消無限レベル上げチートが作文にはある。
文体は自分のコントロールから逸脱してしまう自分のこぼれだまが形成するわだち。書いた、えらそうに書いてやった、書き過ぎてしまった、あはは、わざとこぼして、こぼれた方へ自分をさらにプッシュしてやる、どんなふうに転げ回って地面を汚すのか、その染みを作品と名付けよう。
今日は驚くほど手元から言葉が遠い、バファリン、蜂毒、抗アレルギー薬、コーヒー、眠気、覚醒が僕の言葉を撹拌している、でも、イメージだけはあって何か最初の一語は手から転げ落ちてくる、日々のルーティンの中でいつも不確定な出来事が乱発して僕はじょうずに歩道を歩こうとするのに、左右から邪魔がはいって、まっすぐに歩けない、僕は最近おもう、パヴロフをしつけろって、自分がここでこう思いがちなことがあったらそれを覚えて繰り返したいか繰り返したくないかった決めて、行動の様式に組み込んだり外したりするんだ。
おれの脳内にはドッグがいる、ドッグが場所と状況のTPOの中で反復する、そういう設定のドッグなんだって理解が必要だ、たとえばベッドで寝れなかったら俺のドッグはこのベッドでこのタイミングでは寝れないって学習しちまう、だから一度立ち上がって柔らかい電気の下で本でも読もう、ドッグをうまく追い払ったらまたすっとベッドに入る、するとうまく寝れたよ。とかね。
38年もこの体やってると色々と反復が板についてしまいがち、ドッグはすぐ嗅ぎ付けてこれはこうなんだろって勘違いしやがる、幾度かの反復がそうだったからといって次もそうとは限らないよ、って僕はいつもこう返すんだ。
でもこのドッグをうまく飼い慣らすことも38年目の知恵だよな、仕事したきゃモチベーションだの準備運動だの装備の点検なんかじゃなくって、とりあえず現場に行くことだし、軽トラで現場到着してふうーって運転席でため息つくことも許してはいけない、ついたらまず外に扉をあけて出るんだ、すると次々と飼い慣らされたドッグが自動運転で僕をコントロールしだすだろう、気がつけば、ほんとに気がつけば日が暮れていて、振り返ればほんとに振り返れば驚くほど山の草木が倒れ伏してる、おれというか、僕のドッグのしわざだ。
ジムに通ってる、24時間エニタイムだここでもドッグが登場、ここでのトレーニングももはや僕は出番なしだ、ドッグが代わりにやってくれるからな、BIG3。胸、下半身、背面。それぞれに基本三種目、無理は禁物仕事帰りやし高重量は高い集中力を要するからそういうのはドッグが嫌う。今で言えば10回5セットなんとかできる重さ、ベンチ、スクワット、デッドリフト、これを週に何回とかも決めないそれも僕のドッグが好まない。
胸やって次に来た時には足か背面か、より疲れてない方を、全部疲れてたら2頭とか肩とか、それも疲れてたらランニングだけ、それもだるかったらウォーキングだけ、とにかくドッグを甘やかす、飼い慣らすために。
エニタイムはドッグにやさしい、24時間だし、シャワーがあるし、土足で即行トレーニング開始できるし、財布や貴重品も持ち込む必要もない、ロッカーもないし、さらに何がいいかって場所を問わない、出稼ぎ場所でも自宅の近くにもエニタイムはある、これにはドッグもヨダレを垂らして喜んだ
飼い慣らされたドッグは自動運転、僕はエニタイムに行くだけでムキムキになるし僕は現場に自分を放り込むだけで金が稼げる、こんなふうにドッグとの付き合いは考えていこうと思う、、
おっと、、こう書いているとだいぶ言葉が手元にじゃれついてきたな、どこいってたんだおまえは、もう、キャットのように気分屋なんだから。おかえり。さぁ寝るよ。