成仏への加速
天秤の真ん中にて
俺たちは右脳と左脳の真ん中で綱渡りしている。右傾化も左傾化もほんのちょっとのアンバランスがあり、そこから滑走するだけだ。
ひとつの事実があり、正当化と否定の2択に見舞われる、正当化の道へバランスを失って滑走すればのちに正当化の材料を集める日々がはじまる。否定化の道に転げば否定の材料を注視する先々で見出すだろう、、それだけのことだ。
恋は盲目、アンバランスこそ妙味、しかし滑走し続け、気付くのがあまりに遅かった時に、人生が焼け野原になって振り返ればどうだろう?やがて人は疲れ、老人になり振り返る体力もなくなる。疲れ果て老い朽ちること、それこそが神の恩寵なのかもしれない。
この不具合な脳の性質を携えて俺たちは生きなくてはいけない、経験の材料をひたすら加味しつつ過去の批判や再解釈を繰り返し、最新の過去を今日を生きるためのものとして実装する。
やがて人は疲れ脳は崩れ、左右の境は決壊しネオテニーの曙の中で、崩壊する善悪のマーブルな世界へと成仏する。だとしたら、まだまだフレッシュなうちにさっそく善悪を徹底的に破壊し、不信の極地を目指し、左右にカテゴライズしてしまうこの脳のモンキーを殺し尽くしてみてはどうだろう。
鈴木大拙や大谷光瑞が東発、西の果てに夢見たもの、ヘッセがシッダールタにおいて描きたかったこと、二進法を分散させてウェブ三にするようにして、乗り越えようとしたエネルギーはどこに消え失せたのか?
何があったんだろう、人類は二の世界から三の世界に小気味よく進んでいたように思うのだが、西は東へ東は西へ向かい、どっかで落ち合って千手観音の千の手が天使の羽に見える、天使の羽が千手観音の千の手に見えるあたりで握手をして三の世界へいこうとしていたはずなのに。
どっからかまたもや人々の図柄がコピーされたものを着込んだリヴァイアサンが現れて二の世界に引き戻したに違いない。wwwネットの生みの親ティムバーナーズリーの思惑をすっ飛ばして人々の代表みたいな顔したガーファム船長が先頭を走って振り返っては石垣の隙間から人々を監視する。
とかく貨幣の煩悩とでも言いたげに、貨幣あるところに二文法ありで、貨幣経済そのものが昔の人類の脳のカタチをしてるに違いない。貨幣では取りこぼされまくる現実の再評価を求める声は多い。
家事育児福祉介護に一緒におって気持ちいいやつ、いきのいいやつ、言ったらあかんこと言うやつ、やったらあかんことやるやつは貴重なり。
するとジーマ信用みたいな評価経済社会がアリババみたいにリバイアサンしてくるので、相互監視の小さな規模での自立分散型の評価経済ネットワークが必要なのか、それってなに!?道の駅か!?山菜とるのにだれのやって喧嘩して、境の石勝手にいごかすジジィと喧嘩するとこからか!?まーた、じじばばによるじじばばとの闘争の世界に戻っちまう。っというわけでカシコの議論は全て破壊されるべきだとしか思えない。
思考を巡らせればウンザリするが、俺たちには第三の道がある、若いうちに老害の向こう側へ行くことだ!積極的な自己破壊、青年の加速主義、若くして老害の向こう側へ成仏すること!
情報社会がもたらした唯一のものは情報に疲れることだ、疲れとはひとつ相対化の方法である。情報をたらふく食って飽き果てて疲れ果ててうんざりしてご近所を散歩すればいい。疲れ果て乗り越えること、考えるのもウンザリして忘れること、そこでなにかと出会い関係を作ること。
相対化とはカブトムシを対決させる少年の視座をもつことだ、カブトムシをマッチメイクするように、自己の脳内の左右にレスリングさせて楽しむ、自己の善悪にボクシングさせて観戦する、そのようになれば俺たちは既に第三世界に突入している。
一翼を担うのではなく両翼をもって飛びたつために、事実に即してリャンメンの経験を重ねて違う道を模索する、実験してみる、言うてみる、書いてみること。書かれてこなかったこと。闇鍋形式で書く、ダークヴァネッサというロリータでのロリータ側からの視点のような小説を読み、読んでいると書きたくなって書きはじめたこの文章。
最近よく聴くYouTubeの先端風の人々の対話、サンデル教授や成田祐輔、もっと別の仕方で資本主義は破壊されなくてはいけないと考えるラディカルな思考。
果たして加速させるべきはなんなのか、爆弾は脳に詰まってる、仕掛けるには早すぎる、そんなに作為的では良くないのではないか、それはちょっとしたイタズラのように自分の営みの中から生じる真に実験的な社会の萌芽を見逃さないところからはじまるだろう。