育ててくれてありがとう
誕生から未婚シングルで育て、20歳になったスペイン在住の息子から先日メッセージがきた。
「ママ大変だっただろうけど 僕を育ててくれてありがとう 」
時を経て気づいたことがあり、私と住んだ日本、マレーシア、そしてアジア各地への旅行が楽しかったことに加えて、今の人生を最高に感じていることや、自分の中で見つけたものがあるので、これからは世に良いことを広げ全力で生きていきます、と書かれていた。
一瞬まわりの世界がストップし、しばらくして涙がポロポロ流れた。
チャレンジだらけの子育ての旅が終わった気がした。
実はこの数ヶ月前にも「反抗期に大変な思いをさせてごめんね」とだけ書かれたメッセージをもらっていた。
自分の子育てを語るのは、あまりにも重過ぎて考えがまとまらないので避けてきたけれど、この機会に振り返ってみたい。
20年前のこと
息子は私だけを頼りにアメリカのニューヨーク• マンハッタンで生まれた。仕事もお金も健康保険もパートナーもいない、全く希望の「き」の字もない中で誕生した小さな命だった。
帝王切開での緊急出産が決まった前日の日記がある。
予期せずの妊娠から始まり、難題に満ちた子育ての冒険がスタートした。
詳細は省くが、最初の数年間は様々な問題を抱えながらニューヨークにいた。紆余曲折を経てアメリカ生活に見切りをつけ、息子が3歳になる前に帰国した。安心できる保育園に子供を預け、生活を立て直していくには不可欠の選択だった。
帰国5年目の原発事故
帰国後に始まった母国での生活は、様々なストレスや環境的要因から、私は常に体調が悪かった。英会話講師には致命的な喉の不調が続き、しょっちゅう声が出なくなる。
段々とひと月のうちに1週間も寝込むことが多くなり、勤めていた語学学校を解雇された。どんなに頑張っても体調が改善しない辛さは、経験してみて初めてわかる。
当時あまりの絶望感から、息子とお風呂に入っている時に大泣きしてしまったことがある。初めて見る母親の涙に、不安げに私の顔を覗き込んでいた息子を鮮明に覚えている。
外での仕事は無理なので自営に切り替えた。最初からうまくいったわけでは勿論ない。
週 6 日、目一杯仕事をし、土曜の夕方から日曜日が息子と過ごす時間。でも、休みが週1日しかないと、その多くは雑務の処理になる。
平日はワンオペ生活に追われ、ゆっくり息子に本を読んだり、遊び相手をしてあげられなかった。ただただ体調管理に努めながらお金を稼ぎ、生活を回していくのに必死だった。
息子がよくレゴを組み立てて私に見せに来るので「色のセンスが素晴らしいね~!」と褒めたことがある。そうしたら、その翌日に家事をしている私の後ろで息子が言った。
「ねぇねぇママ、見て!見てったら!色のセンスやってるよ~!」
思わず笑ったのと同時に、相手をして欲しい息子の気持ちに応えていないことに胸が痛かった。
そうこうするうちに、息子が小学2年の3月に東日本大震災が発生し、続いて原発事故が起きた。
私自身の著しい体調悪化と、数ヶ月も咳が止まらない息子を前に、沖縄や海外へ避難移住の道を探り、最終的に約2年かかってマレーシアのペナン島へ移ることを決めた。
この辺の話はブログの「シングルマザー マレーシアペナン島 移住への道 • 私のストーリー」に詳細に書いたのでここでは詳しくは触れないけれど、波瀾万丈の人生イベントの中でも最も決断が難しく、リスクが高く、高所恐怖症の自分がバンジージャンプでもするような感じだった。
理由は単純、移住するような十分な資金や、行ってからの経済的な保障が一切なかったから。
ペナン島へ
お金がないのでペナン島へは下見なしで一発で引越した。エージェントサービスを利用したわけでもない。学校は学費が一番安いインターナショナルスクールへ入れ、ともかく1リンギットでも削りながら現地生活に慣れていった。
その後オンラインで英会話の生徒さんが少しずつ増え、段々と生活が安定していく中で、学校の休みに息子を連れて近隣諸国へ旅する余裕が出てきた。
とは言っても毎度2週間の旅で航空券から宿から全て込みで2人で予算約13 万円という超安上がりな旅ではあったけれど。笑
コロナで出られなくなるまでに、ベトナム、ミャンマー、タイ、ラオス、インド、バリ、ランカウイ、ボルネオ島のジャングルなどを旅した。現地でローカルガイドを雇って電気もないような山奥の村へ入り、様々な文化や暮らしを体験した。自分が興味があったと同時に、息子に色んな世界を見せたかった。
この当時の旅の数々は、私の子育てのハイライト。
こちらにブログの旅一覧があるので、宜しければ読んでください。
口数が少ない息子が後に大学願書のエッセイに「母と色んな国をバックパッカー旅したことが自分の世界観に影響を与えた」と書いたことを知り嬉しかった。
実際のペナン島での生活についてもブログの「ペナン島/マレーシア」に色々載せているので、ここからは思春期に差し掛かった息子にフォーカスを当ててみる。
いきなりやってきた反抗期
息子は大人しい性格で、小さい頃はあまり手がかからなかった。外でギャン泣きしているよその子供を見て、わぁ親御さん大変そうだな、と他人事のように思っていた。
… が!ティーンになって超破壊級の反抗期がやってきた。
具体的なエピソードを挙げた方が伝わるだろうけれど、息子の名誉の為やめておく。
ともかくいつも不機嫌で攻撃的、この世の悪は全て母親のせい、といった風で、一緒に暮らしていて気持ちが休まることがなかった。これは思春期男子特有のものなのかどうかわからない。
ある時は朝起きてきて、太陽が眩しい!と超絶不機嫌に。@南国マレーシア 笑
オンラインで仕事をしている私の邪魔をする。落ち着いて仕事もできない。
体調を崩し寝込んでいる時に、友人が私に作って来てくれたものを全部一人で食べる。
学校への車でのお迎えに3分でも遅れると「遅い!」とキレる。
常に息子の機嫌を窺っている自分が嫌だった。
ツイッターでお気楽ツイートをしていた裏には、こんな現実があった。
周りには避難移住してきて現地の生活に奮闘している日本人母子が何組もいたが、皆んな揃って母親思いで親を助けている話を聞く。
あまりの傍若無人さに、この子には人の心はないのか、お腹の中にいた時のうつ病の影響では?、他人とうまく関われない何らかの障害では?と延々と考え、調べ、専門家の本を買って読んだ。
ニューヨークでうつ病だった時のセラピストへアクセスしたりもした。
私が家出して帰らなかったこともある。
毎日が出口のない暗黒のトンネルの中で、ある日私は息子に手をあげた。
ティーンになると体も大きい。こうして取っ組み合いの喧嘩に発展するようになった。
私の子育ての最大の汚点。
息子の尊厳を深く傷つけた。
当時のことを思い出すと、今でも底なし沼のように苦しい。
愛する存在に暴言を吐き、力で押さえつけようとする - 自分がものすごく醜い生き物であることを知った。
いかなる理由があろうとも、怒りで相手に手を出してはいけない、なんてことは分かりきっている。ましてや親が子供を叩くなんて。それでも抑えられなかった。
親として、いや、人としてとても未熟だった。
日々繰り返されるバトルの中で、このままではダメになると思った。
思えば息子は誕生以来、母親の私との生活しか知らない。父親もいなければ兄弟姉妹もいない、常に一対一のサシの関係。
特に親しい友達もいなければ、まわりに祖父母や親戚がいるわけでもない。息子の人間関係はとても狭かった。
元々本人の意思とは関係なしにニューヨーク→ 東京 → ペナン島、と母親の人生と原発事故に対する選択に翻弄されてきた。
この状況の中で高校卒業まで育つのは、息子のこれからの人生に大きな影を落とすことになる。私から離れ、他人との繋がりを体験させる必要があると思った。
考えに考えた末、息子のインターナショナルスクールの寮へ預け入れることにした。
ただでさえ高額な学費がほぼ2倍になることは最大の懸念材料だったが、他に選択肢はなかった。
息子を寮へ預けた日のツイートがある。
寮母さんとの出逢いと気づき
息子が寮に入ってからは、月に1、2度ランチを食べるくらいになり、お互いの間にあった張り詰めた空気が少しずつ緩んできた。
何よりも落ち着いて仕事に専念できること、息子の機嫌の悪さにビクビクすることがなくなり、心底安堵した。
そして寮での生活もかなり経った頃、寮母さんに面会を申し入れた。
毎週たくさんの写真と生徒たちの寮生活の様子を詳細にレポートしてくれる中で、いつもグループ写真の奥の方にひっそり写っている息子が気になっていた。
寮の広い居間に通されて、息子の様子をざっと寮母さんに教えてもらった後、私は息子が introverted(内向的)であることが気になっている、他人とうまく関係を結べていないのではないか、と話を切り出し、これまでの生い立ちと寮へ入れた経緯を包み隠さず話した。
私の話をじっくり聞いてから寮母さんが言った。
『そうですね、息子さんはとても内向的ですが、それが彼の本来の姿であるのなら、そのままでいいと思うんです。… 学校の授業が終わって真っ先に寮へ戻ってくるのはいつも彼ですが、introverted な人にとって朝8時から3時までの長い時間を大勢の人の中で過ごすのはとても疲れることだと思います。
もし息子さんが皆んなの中へ入りたいのに入っていけないのであれば、手助けしたいと思いますが、彼の場合はそうではないように思うのです。一人でいることに満足しているように見えるんです。どうでしょうか?
寮には、息子さんのように周りと群れずに、一人で静かにしているのが好きなタイプの生徒が他にもいます。子供たちが皆その子らしく、無理のない状態でいられるように、私たち夫婦は常に見守っています。
心配いりません。息子さんは礼儀正しく、自分のことはきちんと自分でやり、周りにも優しい気遣いができる素晴らしい青年です。
思春期の難しい時期に、親に対してそのような振る舞いをすることはよくあることです。大丈夫!』
そう言って固くハグしてくれた彼女の温かさを、私は一生忘れないだろう。
息子は息子のままでいい。
私は心のどこかで、大勢の中でワイワイ楽しんでいる息子の姿を見たかったのかも知れない。それは何故かと考えれば、親として安心できるから。何故安心できるのかと更に考えれば、その方が社会に受け入れられ易いからだ。
言葉にせずとも、そのような親の期待を子供は敏感に感じ取るから、反抗期の息子の反発心をさらに強固なものにしていたのだと思う。
何かの障害かも知れないだの、妊娠時の鬱病の影響だの妄想でいっぱいになり、ありのままの息子を受け入れていなかった。
これを機に、息子が息子らしく無理のない生き方をしていけるよう手助けしたいと思うようになった。
この翌年、寮父母さんたちはアメリカへ一時帰国し、別のアメリカ人寮父母さん夫妻に変わった。
新しい寮生活の中で息子の様子が変わってきた。送られてくる寮生活レポートの写真には前面で他の寮生たちと楽しそうに弾けている姿が写っていたりして、環境は人を変えるんだなと思った。
持って生まれた性格は確かにある。でもまわりの環境によって引き出されるものは無限大だ。
その意味でも、環境を整え、子供がその子らしく生きやすいように選択肢を増やしてあげるのは親の役目だと感じた。
藁をもつかむ思いで寮へ入れたことは、結果的にとてもよい決断だった。あの時に思い切らなければ、今頃どうなっていたか想像もできない。
経済的なハンディはいつか取り返せる。いや、取り返す。
インター卒業からスペインの大学へ
その後、息子はインターナショナルスクールを卒業し、スペインのバルセロナにある大学へ進むことになった。
言葉もわからない見知らぬ土地へ、誰の迎えもなしに旅立つ息子に空港で手紙を渡した。
父親のいない環境に産んだことを謝り、思春期の自分の行いを心から詫びた。
そして、息子を産んで本当によかったと思っていること、これからの人生で何があってもいつでも私は味方であることを忘れないで欲しいと書いた。
最後に、こんなにも愛おしい命がこの世にあることを経験させてくれてありがとう、と添えた。
出国日の夜中からのツイート
終わり
※ 息子の卒業したペナン島のインターナショナルスクール