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日本の文豪の相関図



日本の文豪には無頼派や新感覚派などのグループや、憧れの人や嫌いな人などさまざまな影響を与え合っている関係性が存在します。

今回は、日本の文豪相関図でわかりやすく解説いたします。

関係図や交友・師弟関係を知ることで、より一層、日本の文豪たちの作品を深く知ることができると思います。


〈目次〉
1.日本の文豪といえば
2.日本の文豪相関図・関係図
3.明治時代初期から中期:紅露時代・紅葉一門
(1)紅露時代
(2)紅葉一門
4.明治時代後期:森鴎外・夏目一門
(1)森鴎外
(2)夏目一門
5.昭和の文学界
(1)新感覚派
(2)無頼派
6.日本の文豪の交友・師弟関係について
(1)夏目漱石と正岡子規
(2)森鴎外と夏目漱石
(3)芥川龍之介と菊池寛
(4)太宰治と芥川龍之介
(5)川端康成と三島由紀夫

1.日本の文豪といえば
日本の文豪には古くは清少納言なども含まれますが、本記事では主に明治・大正・昭和ごろに活躍した文豪について、その関係性をまとめていきます。

・夏目漱石
・太宰治
・芥川龍之介
・森鴎外
・尾崎紅葉
・幸田露伴

といった人物を中心に、それぞれのグループや影響を与えた文豪たちについて解説いたします。


2.日本の文豪相関図・関係図
日本の文豪の相関図は以下のとおりです。
矢印が多くややこしいですが、好き嫌いであったり、酒の仲間や恋愛でのいざこざなども描き込んであります。

日本の文豪相関図・関係図


日本の文豪の関係図を元に、どの作家が日本文学にどんな影響を与えたのか、時代の流れに沿って解説いたします。


3.明治時代初期から中期:紅露時代・紅葉一門

明治時代初期から中期にかけて登場する紅露時代や紅葉一門について解説していきます。

(1)紅露時代
明治時代に入り、西洋文学の影響を受けた作品が多く作られました。

その一方で、日本人本来の文化や考え方を重視しようとする作家たちが現れました。

明治20年代の文学界ではこの考え方は一つの大きな勢力となっており、特に有名な作家である尾崎紅葉と幸田露伴の頭文字を取って、紅露時代と呼ばれています。


(2)紅葉一門
尾崎紅葉は、20代から多くの弟子を抱えていました。

そのため、彼とその弟子たちをまとめて紅葉一門と呼びます。

中でも幻想的な作品を多く残した泉鏡花は、谷崎潤一郎、そして江戸川乱歩に大きな影響を与えました。


4.明治時代後期:森鴎外・夏目一門
明治時代後期に活躍した森鴎外や夏目一門について解説していきます。

(1)森鴎外
森鴎外の本職は軍医で、西洋の文学作品にとても詳しかったようです。

そんな彼は幸田露伴と交友があったため、西洋の文化と日本の文化を上手く融合させた小説を多く書きました。

これにより日本の近現代文学のベースが出来上がりました。


(2)夏目一門

森鴎外と並んで日本の文学界に大きな影響を与えた人物といえば、夏目漱石です。

夏目漱石は学校の先生をしていたので、教え子や漱石に憬れる文豪が毎週木曜に夏目漱石の家に集まり、文学について話し合う会を開いていました。

その参加メンバーが夏目一門と呼ばれる人たちです。

5.大正時代:芥川龍之介・田畑組
大正時代を代表する芥川龍之介の存在、田畑組について解説していきます。

(1)芥川龍之介
森鴎外と夏目漱石によって近代の日本文学の基礎が出来上がりました。

その流れを汲みながら、新しいアプローチで人間の生き方を表現しようとする作家たちが現れはじめます。

中でも有名なのは芥川龍之介です。
芥川龍之介は、夏目一門の1人で、夏目漱石をとても尊敬していました。

(2)田端組
明治時代の末期から大正時代にかけて、現在の東京都北区田端の近辺には多くの芸術家達が集まりました。
そのため田端に住んでいた作家同士の交流も深く、友人やライバルとして競いあった結果、多くの有名な作家が現れます。

石川県金沢市から上京してきた室生犀星や、日本近代詩の父と呼ばれる萩原朔太郎などの詩人も集まっていました。

芥川龍之介は俳句や詩なども書くことがあったようで、詩人たちとも交流があったそうです。

様々な分野の芸術作品に触れ、取り入れていく事で、田端に住む芸術家たちの作品のレベルが上がっていったようです。

5.昭和の文学界
昭和の文学界について見ていきます。
その上で重要な新感覚派や無頼派について解説します。

(1)新感覚派
大正末期から昭和初期にかけては、政治的思考を文学に取り入れようという流れが活発になりました。

反対に、政治や社会問題にとらわれず、ひたすら芸術性を高めようという考え方も現れます。
これが新感覚派です。

1968年(昭和43年)川端康成がノーベル文学賞を受賞したことで、日本の文学が世界に認められるレベルまで達した事を証明しました。

川端康成は恩人である菊池寛とその友人の芥川龍之介と交流があり、彼らの芸術観なども研究していたようで、新感覚派はこれまでの日本文学の流れを受けて生まれた考え方といえます。


(2)無頼派

第二次世界大戦での敗北は、文学にも大きな影響を与えました。

そこで敗戦による絶望感や無力感を作品に取り込んだ、新しい作風が生まれます。

代表的な作家である太宰治が「無頼派」という言葉を自分の作品の中で使ったため、そう呼ばれています。

太宰治は芥川龍之介を尊敬し、佐藤春夫や井伏鱒二の弟子となりましたが、彼らよりも人間の内面について、特に生きる事への希望や絶望を深く掘り下げた作品を残しています。

これまでの小説の書き方や考え方には頼らず、自分のスタイルは自分で生み出していったのが無頼派の作家たちです。

6.日本の文豪の交友・師弟関係について
日本の文豪の交友関係・師弟関係に注目して、目立ったものを解説していきます。


(1)夏目漱石と正岡子規
小説家として有名な夏目漱石と、俳句や短歌で有名な正岡子規。

ほとんどの方が国語の教科書で名前を見た事があると思います。

この2人は大学予備門予科(現在の高校にあたります)の同級生で、親友でした。

漱石が愛媛県松山市に教師として赴任していた時期、松山市出身の子規が訪ねてきたこともあったそうです。

しかし子規は病気により若くして亡くなります。
当時まだ教師の仕事をしていた漱石ですが、その後小説を書くようになります。

そこで自分のペンネームにした「漱石」という名前、これは正岡子規が使っていたペンネームの1つなのです。

2人は非常に堅い友情で結ばれていた事が分かります。

(2)森鴎外と夏目漱石
森鴎外と夏目漱石は、共に明治の大作家でライバル心もあったようですが、穏やかな関係を築いていました。

互いの存在を認め合い、自分の作品を贈り合う仲でしたが、顔を合わせた回数は少なかったそうです。

しかし夏目漱石が病気にかかった時、森鴎外は自分の部下を見舞いに行かせています。

鴎外は軍医の中でも偉い立場だったため、自分で訪れることは出来ず部下に様子を見て貰ったようです。

同時代の作家として、漱石に対して尊敬の気持ちや親しみを感じていたからでしょう。

そして森鴎外が夏目漱石の葬式に訪れた時、受付をしていたのが芥川龍之介でした。

まだ大学を卒業したばかりだった芥川は、既に小説を書き始めていましたが鴎外に気が付かず、名刺をもらって初めて自分が受付をした人が森鴎外だと知ったそうです。

(3)芥川龍之介と菊池寛
その芥川龍之介と特に仲の良かった人物、それが菊池寛です。 

この2人も高校時代の同級生で、共に夏目漱石の元にも通っていました。

菊池寛は「文藝春秋」を創刊し、創刊号では芥川が「鼻」を発表しています。

芥川が自殺した後、菊池寛には遺書が送られており、彼は葬式で号泣しながら弔辞を読んだそうです。

そして菊池寛は、自分の友人である芥川龍之介と直木三十五が亡くなった事を惜しみ、2人にちなんだ「芥川賞」と「直木賞」を作りました。

現在に残る文学賞設立の影にも友情があったのです。

(4)太宰治と芥川龍之介
有名な文豪同士の関係といえば、太宰治は芥川龍之介をとても尊敬していました。

どのくらい尊敬していたかというと、なんと、ひたすら芥川龍之介の名前を書いた高校時代のノートが見つかっています。

当然、芥川賞が欲しくて堪らなかったそうで、賞の選考委員をしていた川端康成が太宰治の私生活について批判すると、太宰は怒って抗議文を書きました。

しかし川端康成は「私生活の事を言ったのは悪かったけど、そもそも作品が面白くなかった」と言って更に揉めたそうです。


(5)川端康成と三島由紀夫

そんな川端康成と親しかった人物が三島由紀夫です。

三島は太宰治の作風が嫌いだったそうなので、感性が似ていたことも親しくなった要因ではないでしょうか。

2人は師弟関係とも、友人同士とも言えるような互いを尊敬しあう関係だったようです。 

三島の結婚式の仲人は川端夫妻が務めていますし、三島は川端の作品をノーベル文学賞へ推薦する文章を書いています。

三島由紀夫が自殺した2年後に川端康成も自殺していますが、死の直前に三島の父に手紙を送っています。

まさに家族ぐるみの付き合いだったようです。

教科書などで目にする有名な作家同士、意外な接点がある事が分かって頂けたと思います。

こういった交流がきっかけとなって、素晴らしい作品が生まれたのかもしれません。



参照元:「体感エンタ!」Webサイト

以上

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