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【解説(衝撃)】 南北戦争について
南北戦争はアメリカを北部と南部に分断した内戦であるが形式的には「二国間の戦争」であった!
〈目次〉
1. 「南北戦争」の概要
2. アメリカの南北対立
3. 黒人奴隷制をめぐる対立
4. リンカンの当選と南部の分離
5. 南北戦争開戦時のでの対立
6. 戦争の経過
7. 戦争目的の転換
8. 南北戦争の死者
9. 戦争の意義
10. 南北戦争後のアメリカ
11. 戦後の黒人差別復活
12. 南北戦争と世界
13. 南部にとっての南北戦争
1.「南北戦争」の概要
「南北戦争」とは、1861年に起こった「アメリカ合衆国(USA)」とそこから分離した「アメリカ連合国(CSA)」と間の戦争である。
アメリカを北部と南部に分断した内戦であるが形式的には「二国間の戦争」であった。
アメリカ史では「the Civil War(内乱の意味〉」(一国の枠内で対立する勢力が国家権力の掌握を目ざして行う社会的規模での武力衝突)と言われている。
建国以来の南部と北部の地域的性格の違いに、黒人奴隷制問題が加わり、西漸運動(せいぜんうんどう 米国の歴史上、東部から太平洋に及ぶ西方地域に向かって人々が移住した動きをいう。 植民地時代から、19世紀末まで続いた)で西部に新しい州が出来るに従い、「自由州」と「奴隷州」のいずれにするか、ぬきさしならぬ対立に至った。
4年にわたる戦闘の結果、1865年に北部が勝利したことによって、産業資本を中心とした近代国家としての統一は保たれ、また「奴隷制廃止」によって市民社会としての体裁が整えられた。
しかし、南北の対立、黒人差別問題はその後もアメリカ合衆国の抱える最大の問題として継承されることとなった。
2.アメリカの南北対立
アメリカ合衆国は、独立以来、その領土を西部に広げるとともに、次第に北部と南部の基幹産業のありかたの違いからくる主張の対立が次第に明確になっていった。
〈アメリカの南北の対立の概要〉
①地域と人口
南部:
11州 人口 白人550万人・黒人350万人の900万。
北部(境界州含む):23州 人口2200万人。
②産業
南部:奴隷制綿花プランテーションを中心とした農業地域。
北部:商工業を中心に発展。
③政治体制
南部:連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦派に近い。
北部:
連邦政府の権限を拡大し統一を強める連邦派にちかい。
④貿易政策
南部:主産物の綿花の輸出を増やすため自由貿易
を主張。
北部:イギリス製工業製品と競争するため保護
貿易を主張。
⑤黒人奴隷制
南部:綿花プランテーションを維持するためには
奴隷制は必要と主張。
北部:奴隷制拡大に反対し、労働力・購買力とし
て期待。
3.黒人奴隷制をめぐる対立
連邦議会においては、黒人奴隷制をめぐる対立が当初から激しかった。
特に領土が西部に拡大して新しい州が成立したとき、自由州にするか奴隷制にするかで対立が深まった。
1820年には妥協点として「ミズーリ協定」が成立、北緯36度30分以北には新たな奴隷州は作らないことが取り決められた。
しかし、「アメリカ=メキシコ戦争※」によって獲得されたカリフォルニアが自由州となると、南部は対抗して「逃亡奴隷法※」を制定させ、黒人の解放運動を厳しく取り締まろうとした。
※ アメリカ=メキシコ戦争:
1846~48年、アメリカがメキシコの領土を奪った戦争。これによってカリフォルニア、ニューメキシコなどを獲得、アメリカ合衆国の領土が太平洋岸に達した。敗れたメキシコにとっては領土の約半分を失う結果となった。
※逃亡奴隷法
アメリカ合衆国で、1793年と1850年に連邦法として制定された、逃亡した黒人奴隷は逮捕され奴隷主に引き渡されることを定めた法律。北部自由州にも適用されたので、1850年法は特に奴隷制反対が北部で強まるきっかけとなり、1852年に『アンクル=トムの小屋』が発表された。
そのころ『アンクル=トムの小屋※」が発表されて、北部では奴隷制に批判が強まったが、南部を基盤とした民主党が運動して、1854年にカンザス・ネブラスカ法を成立させ、奴隷州か自由州かの選択を住民に任せると事とし、ミズーリ協定を廃棄に追いこんだ。
※アンクル=トムの小屋:
1852年、ストゥが発表した小説で、黒人奴隷のおかれた状況を愛情を持って描き、奴隷解放運動の高揚をもたらした。
このことに反発した北部には共和党が結成され、両者の対立は次第に緊迫していった。さらに最高裁の「ドレッド=スコット判決」が「ミズーリ協定」を憲法違反とする判決が出たことは奴隷制反対派の憤激を買い、「ジョン=ブラウンの蜂起※」などが起こった。
※ジョン=ブラウンの蜂起:
アメリカ合衆国でジョン・ブラウンJohn Brown(1800―59)らが奴隷解放を目ざしてハーパーズ・フェリーHarpers Ferryを襲撃した事件。
4.リンカンの当選と南部の分離
1860年11月の大統領選挙で奴隷制度拡大反対を掲げる共和党のリンカンが当選すると、南部諸州の反発が強まり、12月に連邦離脱を決定した。翌1861年、リンカンが大統領に就任した。
それに対抗する形で南部諸州は「アメリカ連合国(CSA)※」成立させ、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。アメリカ連合国の首都は初めはアラバマ州モントゴメリーであったが、間もなくヴァージニア州のリッチモンドに遷された。
※アメリカ連合国(CSA):
1861年2月に結成されたアメリカ南部諸州の連合国家。アメリカ合衆国から分離し、北部とのあいだで南北戦争となる。大統領はジェファソン=デヴィス。首都は「モントゴメリ」から「リッチモンドに移った。1865年4月、北軍との戦いに敗れて消滅した。
リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していた。
5.南北戦争開戦時のでの対立
・北部の連邦諸州(自由州)
1.メイン、2.ニューハンプシャー、3.ヴァーモント、4.マサチューセッツ、5.ロードアイランド、6.コネティカット、7.ニューヨーク、8.ニュージャージー、9.ペンシルヴェニア、10.オハイオ、11.ミシガン、12.インディアナ、13.イリノイ、14.ウィスコンシン、15.アイオワ、16.ミネソタ、17.カンサス、18.オレゴン、19.カリフォルニア
・境界州(奴隷州であったが北部との結びつきが強く、中立策をとった)
20.デラウェア、21.メリーランド、22.ケンタッキー、23.ミズーリ、24.ウェストヴァージニア(1861年にヴァージニアから分離、63年に州昇格)
・南部のアメリカ連合国加盟(奴隷州)
25.ヴァージニア、26.ノースカロライナ、27.テネシー、28.アーカンソー、29.サウスカロライナ、30.ジョージア、31.フロリダ、32.アラバマ、33.ミシシッピー、34.ルイジアナ、35.テキサス
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番号については上記を参照。
6.戦争の経過
1861年4月13日、南軍が北軍の「サムター要塞(サムターようさい)※」を攻撃して戦争が始まった。はじめは、騎馬の戦闘力に長ける南部人を組織し、「リー将軍※」などの有能な指揮官がいたので南軍が軍事的に優勢であり、イギリス・フランスも南軍に肩入れし、北軍は押されていた。
※サムター要塞(サムターようさい)
サウスカロライナ州チャールストンの港に位置する石造りの要塞である。南北戦争の端緒であるサムター要塞の戦いの火蓋が切られた場所として名高い。
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※リー将軍:
ロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee、1807年1月19日 - 1870年10月12日)は、南北戦争の時代のアメリカの軍人、教育者。南部連合の軍司令官を務め、物量や国力において圧倒的に強大だった合衆国側の北軍を大いに苦しめた。最終的には敗北したが、アメリカ史上屈指の名将として評価が高い。
戦争は合衆国からの分離をめざす南部諸州と、連邦国家としての統一を維持しようという北部リンカン政権の戦いとして始まったが、リンカン大統領にとって大義ある戦争目的に欠けるところがあり、イギリスやフランスが南部を支持する動きがあることが懸念材料であった。
7.戦争目的の転換
1862年9月、リンカンは「奴隷解放宣言※」の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫った。さらに、翌1863年1月1日に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示した。
※奴隷解放宣言:
1863年1月1日、南北戦争のさなか、アメリカ大統領リンカンが公布し、黒人奴隷の解放を宣言した。前年の9月に予備宣言されていたものをここで実施し、戦争目的を奴隷解放にあることを示し、国際世論の支持をうけ、戦争を北軍有利に転換させた。
これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして北部の支持に転換した。また、1862年には「ホームステッド法※」を施行して西部の農民の支持を受けた。
さらに北部工業地帯の経済力を生かして次第を挽回し、1863年7月の「ゲティスバーグの戦い※」で北軍が大勝。最後は北軍の「グラント将軍※」が1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落、1865年4月9日に南軍は降伏した。一部の抵抗は6月は時まで続いたが戦争は終結した。
※ゲティスバーグの戦い:
南北戦争が長期化する中、1863年7月1日~3日、ペンシルヴェニア州ゲティスバークで、北軍と南軍が激突、北軍が勝利して戦局を逆転させた。両軍の戦闘員16万3千人、その4分の1が死傷したとされる。
※グラント将軍:
ユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争時の北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の1人である。
なお、1862年、アメリカ大統領リンカンが出した西部の「農民創出法」。自営農地法とも言う。21歳以上の男女の合衆国市民に公有地を貸与し、5年以上開拓に従事すれば、160エーカー(約65ヘクタール)の土地を無償で与えるというもの。南北戦争で北軍の優位をもたらした。
8.南北戦争の死者
南北戦争は1861年4月に始まり、65年4月まで4年間続き、その間、大きな戦闘が約50回、小さな戦闘は無数にあった。
両軍併せて61万8千人、北軍は36万人、南軍が25万8千人の戦死者であった。62万に近い死者の数は、第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万と比べてあまりも大きい。アメリカが体験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者の数であった。
9.戦争の意義
建国以来の南北の地域的対立、連邦政府に対する州の独立性の強さ、などの国家としての弱点から起こった戦争であったが、それが北部の勝利という形によって終結されたことによって、アメリカ合衆国の統一が維持強化された。
また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。
最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされたが、現実には新たな黒人差別問題の出発点ともなった。
いずれにせよ、南北戦争はアメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点であった。
10. 南北戦争後のアメリカ
奴隷解放宣言に続き、1865年に議会で憲法修正第13条が成立して黒人奴隷制の廃止が確定した。
南北戦争で北軍が勝利した直後にリンカンは暗殺されたが、戦後は共和党に主導された議会は南部諸州に対し、連邦軍を駐留させ、南部諸州の「再建」の条件として奴隷制廃止の憲法修正の批准をせまり、それに従って次々と南部諸州の復帰が実現した。
その過程で、憲法修正第14条では黒人の市民権が承認され、さらに憲法修正第15条で黒人投票権が承認された。
11. 戦後の黒人差別復活
アメリカ南部諸州は1870年までに憲法修正事項を承認して連合国に復帰し、統一は再現された。
しかし、1877年4月までに連邦軍の南部からの撤退し「再建期」がおわると、南部諸州では事実上黒人投票権は奪われ、さらに社会生活や学校教育などで隔離されるようになり、黒人差別が復活していった。
その背景には、解放された黒人が経済的に自立することは困難であったため、「シェアクロッパー(分益小作人)」という状態に置かれ、貧困が続いたことがあった。
こうして奴隷解放はただちに黒人が平等な諸権利を獲得したことにはならず、むしろ南部諸州では黒人に対する暴力が横行し、白人の差別主義者の中には「クー=クラックス=クラン」といわれた秘密結社を作り黒人を迫害する者も現れた。
南部ではさまざまな黒人取締法が制定され、黒人は身分上は自由ではあるが社会的には差別された存在となり、「ジム=クロウ」と呼ばれるようになり、1896年には最高裁判所が黒人分離政策は合法であると判定されるに至った。
このような黒人差別が法的に解消されるのは、南北戦争から約百年後の1964年に公民権法、翌年の投票権法の成立などがするまで待たなければならなかった。
また、2008年はオバマが黒人として初めて大統領に選出されるまでに至ったが、現代もなお人種問題はアメリカ合衆国の深刻な病巣となっている。
12. 南北戦争と世界
フランスのナポレオン3世が、南北戦争の勃発に乗じて、メキシコに出兵した。メキシコではフアレス(メキシコの都市)を中心とした自由主義者による抵抗が強く、ナポレオン3世の野望はくじかれ、それをきっかけに第三帝政は下り坂となり1870年の普仏戦争(※)で崩壊した。
※普仏戦争:
1870年のプロイセン(普)とフランス(仏)の戦争。ビスマルクがスペイン王位継承に関わるエムス電報事件を工作し、ナポレオン3世を挑発して起こった。スダンの戦いでナポレオン3世自身が捕虜となり、プロイセンが勝利し、翌71年1月、ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝として即位した。フランスでは第二帝政が倒れ、労働者・市民が決起してパリ=コミューンが成立したが、臨時政府によって鎮圧され、第三共和政に移行した。
そのころイタリアではイタリア統一の動きが進み、1861年、ヴットリオ=エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が成立した。同じ年、ロシアでは農奴解放令が出されていた。
南北戦争はアジアにも影響を及ぼしている。南北戦争でアメリカの綿花輸出がストップしたため、インドのイギリス向け綿花生産は急増した。清では前年にアロー戦争が終わり、太平天国の乱が続くなかで西太后がクーデタで権力を握った。
1853年、日本の開国を主導したアメリカだったが、南北戦争のため、いったんアジアから後退し、代わってイギリスの日本への進出が強まった。日本は開国後の輸出超過が物価高騰を招き、攘夷事件がさかんに起こって幕末の混乱が深刻化していった。
13. 南部にとっての南北戦争
南北戦争は、全人口の比率で北部が南部の2.5培(軍役適齢者の自由人男性では北部が4.4培)、鉄道の総マイル数で北部が2.4培、産業生産高で10倍、武器製造で32倍など、北部が圧倒的に優位だった。
南部は綿花生産高で世界の4分の3近くを占めていたが、それは遠くヨーロッパに運ばれなければ価値を生み出さなかった。
それでも有利と考えられる利点がいくつかあった。軍事的には南部人は高い意識を持ち、常駐の軍人の数、軍事学校の数などで北部より多く、銃器の扱いは北部人より慣れていた。
南北戦争で北部軍がとった焦土作戦(※)は、南部に深い傷を残している。特に北部軍のシャーマン将軍は徹底的に無慈悲かつ暴力的に南部に侵攻した。
※焦土作戦:
焦土作戦(しょうどさくせん)とは、戦争等において、防御側が、攻撃側に奪われる地域の利用価値のある建物・施設や食料を焼き払い、その地の生活に不可欠なインフラストラクチャーの利用価値をなくして攻撃側に利便性を残さない、つまり自国領土に侵攻する敵軍に食料・燃料の補給・休養等の現地調達を不可能とする戦術及び戦略の一種である。
シャーマン将軍のやり口は「海への進軍※」呼ばれたが、それは南部人を大西洋まで追い詰めることであり、戦争終結後も長く南部人の記憶に残った。シャーマン将軍の部隊は1864年夏にアトランタを占拠し、11月15日には鉄道車庫や機械製作所など次々と襲い、戦火は住宅地域まで及び、待ちは一面焼き払われてしまった。
※シャーマンの海への進軍:
アメリカ南北戦争終盤期の1864年11月15日から12月22日にかけて、北軍のウィリアム・シャーマン将軍がアメリカ南部連合(南軍)の早期降伏を目的として、南部連合の中心州であったジョージア州のアトランタから南東約400キロ先の港町サバナまでの主要部を、50キロから100キロ幅で行った破壊進撃を意味する。鉄道などの基盤、産業施設、個人の資産に至るまでを破壊し、戦争に対する物質的・精神的な支えを喪失させたこの戦いは、後の20世紀の総力戦を予告するものであった。
北部軍は大西洋岸サバナに向かう途中、「なんでも好きなだけ略奪を行ってもよい」という指令が出されていた。ジョージア州の40から60マイルにわたる範囲の作物は焼き払われ、鉄道は破壊され、まともに立っている建造物はほとんどなくなるほど、すっかり荒廃した。
このような北部軍の行為の記憶は、南部人が北部人をヤンキーとよんでいることに現れている。もともとヤンキーという言葉はニューイングランドのピューリタンに対する呼び名であり、質素で、野心家で、欲深く、巧妙な人々のことを指しており、彼らの商業活動が世界中に知られたことで広がったが、南部人にとってはこうした価値はまったく尊敬できないばかりか、しみったれ、強欲、守銭奴といった言葉の代名詞となった。
参照元:「世界史の窓」Webサイト、「ウィイペデア」
以上