「生麦事件」/ わかりやすく解説します
生麦事件とは、1862年8月21日に生麦村で発生した日本人による外国人殺傷事件である。外国人を殺したのは薩摩藩の藩士、殺されたのはイギリス人。
イギリス人は薩摩藩主の父を主とする大名行列を馬に乗ったまま横切ったとして殺害された。江戸時代の日本では大名行列を横切ることができるのは、飛脚と産婆だけとされていた。
薩摩藩士たちは突然イギリス人に斬りかかったわけではなく、何度も馬から降りてよけるようにと身振り手振りで伝えた。
ところがイギリス人たちは、「脇を通れ」と言われただけだと勘違いして、乗馬したまま通過しようとした。
大名行列は道いっぱいに広がっていたので、脇に避けることもできず、イギリス人たちは行列の中を逆走しながら進むことになった。そして、とうとう藩主の父が乗る籠の近くまできてしまった。
薩摩藩士たちはしきりに「馬を降りて道を譲れ」と命令したところ、イギリス人たちは引き返そうとした。しかし馬のため、すぐにUターンはできず、あちこちに動き回ることになってしまった。
その行動に薩摩藩士は激怒。数人がイギリス人たちに斬りかかり、1名は死亡、2名は重症を負った。
■生麦事件のポイント(5つ)
1.事件が起きたのは神奈川宿の手前の生麦村
生麦事件が起きた場所は、神奈川県の「生麦村」である。当時の生麦村は旧東海道の宿場町神奈川宿の手前の漁村だった。
生麦村は徳川家康が江戸に入る前は、岸村と呼ばれていたがら家康が江戸に入る際に生麦を献上したことから、生麦村と呼ばれるようになったと伝えられている。
2.大名行列の主は島津久光
生麦事件の大名行列の主は薩摩藩主の父親、島津久光(しまづひさみつ)でした。島津久光は勅使という天皇の使いを伴って、江戸から京都に戻る途中だった。島津久光らは、公武合体を推し進めるために江戸に来ていたり公武合体とは、朝廷と幕府が一緒になって政治を行うことである。
3.行列を横切ったのは4人のイギリス人
薩摩藩主の父親が率いる大名行列に出くわしてしまったイギリス人は総勢四人だった。イギリスの生糸商人のマーシャル、ハラード商会のクラーク、上海から来日したリチャードソン、そして香港で活動するイギリス商人の妻ポロデールだ。
このうち死亡したのはリチャードソン、負傷したのはマーシャルとクラークである。
4.激怒した薩摩藩士が無礼討ちにした
イギリス人たちに斬りかかったのは、大名行列に付き従っていた薩摩藩士たちだった。当時は大名行列を横切ることは産婆と飛脚のみに許されており、民衆は大名行列を横切ることはできなかった。横切った場合は無礼打ちといって、藩士によって切り捨てることが許されていた。
つまり、当時の日本のルールに則れば、何度も制止したのに聞かずに大名行列を横切ったイギリス人たちはルール違反だ。ただし、言葉も習慣も違う外国人を問答無用で切り捨てた行為はこの後、大きな波紋を呼んだ。
5.生麦事件により薩摩藩とイギリスの仲が悪化した
生麦事件は薩摩藩とイギリスの仲を悪化させ、薩英戦争を引き起こした。なぜ生麦事件で、薩摩藩とイギリスが戦争状態になるまで、仲が悪くなってしまったのか。その理由の1つに当時、外国人を排斥しようとする風潮があった。
1862年当時、黒船来航により開国を迫られ200年続いた鎖国を解除して一部の港を開港していた。
欧米諸国の圧力に屈した幕府の姿勢を快く思っていない武士が多く、「尊皇攘夷思想」が吹き荒れ
ていた。
尊皇攘夷とは天皇を敬う思想と外国人を排斥する思想が組み合わせられた政治思想のことである。尊皇攘夷思想を実現するために、行われたのが外国人の殺傷だ。
生麦事件以外にも外国人を殺傷する事件はいくつも発生している。しかしながらそのほとんどは、「浪人」と呼ばれる藩や幕府に所属しない武士たちによるものだった。
一方で生麦事件は、正式な薩摩藩士が引き起こした事件である。イギリスからすれば、日本の公務員が非武装の商人に斬りかかってきたわけだから、国をあげて抗議をするのは当然のことだ。
幕府はイギリスからの要求を受けて賠償金の支払いに応じた。その金額は44万ドル。幕府との交渉が完了すると、イギリスは艦隊を率いて薩摩に向かい、薩摩藩にも犯人の死刑と賠償金の支払いを請求した。
ところが、薩摩藩では尊皇攘夷思想が蔓延し、外国人を排除しようとする動きが活発で、イギリス側の要求を拒絶した。
そして、イギリスは薩摩領内の攻撃を開始した。この攻撃によって、薩摩藩の市街地の10分の1が焼失する大惨事となった。
結局、薩摩藩は幕府からお金を借りて、賠償金としてイギリスに支払うことになった。
参照元 : 「ベネッセ教育情報」Webサイト
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