「関ヶ原の戦い」とは
〜 壮大な歴史的ドラマ 〜
〈目次〉
1.天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」とは
(1)関ヶ原の戦いが起こるまでの伏線
(2)豊臣秀吉の天下統一
2. 関ヶ原の戦いが起こるまでの経緯5つ
(1)秀吉の遺言を破り台頭した家康
(2)家康に対立した石田三成
(3)前田利家の死と三成襲撃計画
(4)家康による上杉征伐
(5)三成らの挙兵・関ヶ原の戦いへ
3.関ヶ原の戦いの顛末と西軍の敗因4つ
(1)動かなかった西軍の毛利軍
(2)西軍の小早川秀秋の裏切り
(3)家康の周到な準備
(4)三成の不人気
1.天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」とは
関ヶ原の戦いとは、1600年に徳川家康を中心とした東軍と石田三成を中心とした西軍が美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で行った戦いのことである。
天下を統一した豊臣秀吉の死後、力の強くなった家康に反発した三成が挙兵し、全国の有力大名を巻き込んだ戦いへと発展した。この戦いによって豊臣家は滅び、家康が江戸に幕府を開きた。その後260余年に及ぶ徳川の世が始まった。
(1)家康に対立した石田三成
関ヶ原の戦いは全国の大勢の大名が参加した戦いだが、いきなり始まったわけではない。戦いの伏線となるような、いくつかの出来事があった。
豊臣秀吉が天下統一をしたことと、五大老・五奉行を設置したことである。秀吉が天下を統一したが、徳川家康の力がとても強いことは大勢が知っており、家康に反感を持つ大名もいた。
(2)豊臣秀吉の天下統一
多くの武将が戦いを繰り返してきた戦国時代は、豊臣秀吉が天下を統一して終わった。
本能寺の変で織田信長が亡くなると、秀吉は謀叛を起こした明智光秀や織田家の柴田勝家を討った。
そして大坂城を築城して信長の後継者であることをアピールし、関白・太政大臣となって政権を樹立した。大名間の争いを禁じ、従わない大名は征討して1590年天下を統一した。
秀吉は天下統一を成し遂げましたが、強い力を持った徳川家康の存在により、安泰といえるものではなかった。
病気になって自分の死を覚悟した豊臣秀吉は、五大老・五奉行という役職を設置した。
五大老には有力大名である徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(死後は上杉景勝)がいて重要な政務を行い、五奉行は秀吉の部下である前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家がいて秀吉の政治補佐を行った。
秀吉の死後は、跡継ぎである息子の秀頼が幼かったので実際の政治を五大老と五奉行が行った。
秀吉は自分の死後、家康がさらに力を持って独走するのを防ぎたいという考えがあり、このような五大老・五奉行を設置したのである。
2.関ヶ原の戦いが起こるまでの経緯5つ
関ヶ原の戦いは政治的な駆け引きなど、いろいろな出来事が積み重なって起こった。
豊臣秀吉の死を機に、これまで見えていなかった対立関係が浮き彫りとなり、全国の大名を巻き込んだ大きな戦いとなった。
(1)秀吉の遺言を破り台頭した家康
豊臣秀吉の遺言を無視して行動する徳川家康は、次第に大きな力を持つようになった。
禁止されていた大名同士の結婚や領地の取引を、家康は独断で行った。それによって家康は力をつけていったが、他の大名たちから非難を受けた。
(2)家康に対立した石田三成
徳川家康の勝手な行動に五奉行は怒り、特にその筆頭である石田三成は家康を非難するようになった。
内部分裂は豊臣秀吉が生きていたころからあり、三成を中心とした政務担当の「文治派」と合戦で戦っている「武断派」が対立していた。
武断派が家康を頼るようになると、対立はますます激しいものになった。しかし、すぐに戦いに発展しなかったのは、仲裁役として前田利家が活躍していたからである。
(3)前田利家の死と三成襲撃計画
対立していた武将たちの仲裁役である前田利家の死と、同じころに起こった石田三成襲撃未遂事件は、対立をさらに深めただけでなく、関係を修復不可能なものにした。
仲裁役を失った大名たちの対立はますます激しくなり「徳川派」と「石田派」にわかれて対立していった。
ついに武断派7名の武将が三成を倒そうと襲撃計画を立てますが、三成は事前にそれを察知し、難を逃れた。
結果的に、徳川家康がこの事件を仲裁し大事にはいたらなかった。襲撃未遂事件後、三成は謹慎処分となって一時的に失脚し、事件を解決させた徳川家康の権力はますます強くなった。
(4)家康による上杉征伐
徳川家康は、命令に従わず、軍備を整え出した五大老の上杉景勝を謀反の疑いがあると考えた。
そして、会津にいる景勝を討伐するために大軍を率いて出陣した。
家康の力は強まっていき、他の五大老や五奉行も従わせるようになった。
結果として豊臣の重鎮にも強い力を持つようになった。世の中も「このまま徳川が天下をとるのでは」という考えが広まっていった。
(5)三成らの挙兵・関ヶ原の戦いへ
機会をうかがっていた石田三成は、徳川家康が出陣したことを機に、打倒徳川の兵を挙げた。
家康が家臣と一緒に出陣したので、大坂城には一時的に徳川派がいなくなった。三成はチャンスとばかりに諸国の大名に協力を呼びかけ大勢の兵を集めて、徳川家臣の家族を人質にとり、徳川の兵がいる伏見城を攻撃した。
会津に向かっていた家康は、三成が挙兵したという報せを聞くと会議をひらいて話し合った。この小山評定と呼ばれる会議で石田軍と戦うことが決定し、東軍=家康、西軍=三成という二大陣営となり、のちに関ヶ原で激突することになります。
3.関ヶ原の戦いの顛末と西軍の敗因4つ
関ヶ原の戦いは徳川家康中心の東軍が勝ち、石田三成中心の西軍が負けた。戦いは西軍優勢で始ま約16万という大人数での戦いは驚くことにたった1日。しかも、約6時間程度で決着がついたと言われている。
短い時間の中で一体どんなことが起こって、なぜ西軍が負けたのか。4つの敗因について解説する。
(1)動かなかった西軍の毛利軍
五大老のひとりで安芸国の大名である毛利輝元は、西軍の総大将として大坂城に入ったが、結局戦いが終わるまでそこから一歩も動かなかった。
西軍の中心となったのは石田三成だったが、総大将は中国地方で約120万石の大名である輝元である。
また、関ヶ原の西にある南宮山の山頂に、毛利秀元と吉川広家勢はいた。
吉川広家は東軍とも通じていたため、頑として山から動かなかった。そのため、秀元は軍を動かせず、結果戦場の毛利軍は戦の間、何もしないまま戦いを終えた。
このときに、もし秀元が山から下りて、徳川家康の背後をついていたら、関ヶ原の戦いは西軍が勝利したと言われている。
(2)西軍の小早川秀秋の裏切り
西軍の小早川秀秋が裏切ったことによって、東軍が勝利した。
東西にわかれて戦っていたが、実はどちらに味方をしようか迷っていたり、裏切ったりしている武将がたくさんいた。
秀秋もどちらにつくか迷っていたところ、しびれを切らした徳川家康の催促を受けてようやく決意した。
1万以上の軍を率いた秀秋の裏切りをきっかけに、西軍から東軍へ次々と寝返る武将が出てきた。これで流れが変わり、東軍優位が決定的なものになった。
(3)家康の周到な準備
徳川家康は、西軍の大名に「寝返ってくれれば褒美をあげる」という手紙を書いて根回しをしていた。上杉を討つといって大坂城を出た家康は江戸に寄り、そこに1か月もの間滞在して、この間に寝返りそうな大名に宛ててそのような手紙を書いていた。
そうして西軍の小早川秀秋と吉川広家が戦いの佳境で裏切り、家康は見事勝つことができたのだ。
(4)三成の不人気
西軍に裏切りや寝返りが多かった原因のひとつに、石田三成に人気がなかったことが考えられる。
友人の大谷吉継からも「横柄だから陰口をたたかれている」といわれるほど周囲と上手く付き合うことができなかったと言われている。
また、三成は豊臣秀吉の側近として大名との間で連絡係をしていた。そのときに、望まない報告をされてしまい、処罰を受けたり領地を減らされたりした大名が多くいて恨みを買っていた。
小早川秀秋の裏切りにより戦局が大きく動き、東軍有利とわかると、普段からよく思っていない三成をあっさりと裏切る大名が多く出て、早々に決着がついたのである。
参照元; 「ベネッセ教育情報」Webサイト
以上