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【短編小説/自閉症の大人の息子を持つ母/棘】


プロローグ: 「沈む言葉」

彼女の脳裏には、元夫の言葉が何度も何度も再生される。


「産まなきゃ良かったんだ」

まるで呪いのように、その言葉は、彼女がどれだけ頑張っても覆い隠すことができない心の傷口を開いていく。

でも、彼女には忘れられない瞬間がある。

それは息子が生まれた瞬間、その小さな手で自分の指を握り、かすかに微笑んだように見えた赤ん坊の顔。

その愛らしさは、どんなに過酷な現実が襲いかかっても、彼女を前に進ませる唯一の光だった。




第一章: 「崩れゆく家族」

彼女は、一度は家族という形に夢を見た。

息子が生まれたとき、全てが輝いて見えた。

夫との関係も、未来への希望も。しかし、息子が自閉症と診断されたその日から、全てが音を立てて崩れ始めた。

元夫の態度は急変し、「あんたのせいだ」「あんたの遺伝子が悪いんだ」と、彼女を非難するようになった。

さらには、元夫の家族も同調し、責任を押し付けるように彼女を追い詰めた。家の中は冷たく、息子の存在が重荷のように扱われる日々。

その家での生活は、彼女の中で何度も「失敗」を意味するものになりつつあった。しかし、彼女は折れなかった。

息子の無垢な笑顔と、幼いながらも一生懸命に生きようとする姿が、彼女に力を与えていた。


第二章: 「孤独な学び」

夫との別れが決まった時、彼女は一人で戦うことを選んだ。

だが、それは決して容易ではなかった。

自閉症を理解するために彼女は本を山のように買い込み、セミナーや講座に通い続けた。

周りの支援は乏しく、頼れる親族もいない。だが、彼女は前に進むしかなかった。

息子の行動が、時に彼女の理解を超えることがあっても、彼女はそれを「分からない」と投げ出さず、必死で彼の内面に近づこうとした。

周りの視線、特に同年代の母親たちの冷たい目線も、次第に彼女を孤立させていった。

それでも、彼女は息子の成長を信じて、彼にとっての「最善」を模索し続けた。




第三章: 「成長の陰で」

息子が成人を迎えた頃、彼の特性が社会との摩擦を引き起こすことが増えていった。

近隣の住民からは、息子の大きな声や突発的な行動について苦情が絶えなかった。

彼女は毎日、周囲の目を気にしながら生活し、息子を守るために周囲の理解を求めて頭を下げ続けた。

そして、彼女はグループホームに息子を預ける決断を下す。そこでの生活が彼にとって最善だと信じていた。

しかし、心の奥底には、息子を手放すような感覚が拭いきれず、彼女の胸を締め付けていた。



第四章: 「沈黙の痛み」

ある日、彼女は息子の体に増えていくあざに気づく。

初めは、彼自身が何かにぶつかったのだろうと自分を納得させた。しかし、あざの数は日を追うごとに増えていった。

彼に「何かあったの?」と尋ねても、息子は首を横に振るだけだった。

ある日、同じグループホームに通う男性がぽつりと「叩かれている」と漏らした。

彼女はその言葉に背筋が凍る。息子が暴力を受けているのではないかという疑念が浮かび上がる。

息子を守りたいという強烈な思いで、グループホームの職員に事情を聞いたが、彼らは何もないと断言する。

その職員の目には、何か異様な光が宿っていた。



第五章: 「崩壊の瞬間」

彼女は意を決して、警察に通報した。

息子を守るために必要な行動だと理解しつつも、心の奥では「これ以上、彼に苦しみを与えてしまうのではないか」と不安が押し寄せていた。

警察の捜査が始まり、グループホームのカメラ映像が公開される。

そこには、彼女の最悪の想像を超える現実が映し出されていた。

職員たちは、言葉の暴力と身体的な暴力で、利用者たちを支配していた。

「障害者なんて生きる価値は無いんだよ。どうせいいことなんて無いんだから、ストレスに使わせろ。」


その言葉が響いた瞬間、彼女の脳内に元夫の言葉が再生される。

「産まなきゃ良かったんだ」

彼女の胸が締め付けられ、息ができなくなる。無意識に深呼吸をしようとするが、空気が入ってこない。

視界が徐々に狭まり、立っていられなくなる。


「大丈夫ですか?」
警察の方が声をかけるが、彼女はその言葉を聞きながら意識を失った。



第六章: 「問いかける現実」

病院で目を覚ました彼女は、現実に戻った。

息子のこと、グループホームでの虐待、そして自身のこれまでの人生が一瞬のうちに駆け巡る。

彼女は、何度も息子を守り抜こうとしてきたが、この世界のどこにも「完全な安全」がないことに絶望を感じた。

元夫の言葉が再び頭をよぎる。

「産まなきゃ良かったんだ」

しかし、その言葉に対して、彼女は心の中で静かに答えた。

「いいえ、私は産んで良かった。」

どれだけ過酷であっても、どれだけ周囲の無理解や暴力が彼女を襲おうとも、息子を産んだことへの後悔は決してない。

息子の存在が、彼女の人生の全てであり、そのために戦ってきたのだから。



エピローグ: 「止まらない痛み」

数ヶ月が経った。息子は今も療養施設で過ごしている。

彼の傷は表面的には癒えたが、心の傷は深く残ったままだ。

母親として彼を守りきれなかったという罪悪感が、彼女の胸に重くのしかかっている。

彼女は、毎日施設に通い、息子に会いに行く。

しかし、彼の目はどこか遠くを見つめ、かつての無垢で可愛らしい笑顔はもうほとんど見ることができなくなった。

彼女が話しかけても、彼の反応は薄い。暴力の傷跡が、彼を内側からも変えてしまったのだ。

息子が何を感じているのか、それを確かめる術はなかった。ただ、彼の目の奥に沈んだ何かが彼女に語りかける。

傷つけられたこと、守られなかったこと。それでも彼女は息子の隣に座り続け、彼の手を握り続けるしかない。

彼女自身も疲れ切っていた。

裁判や手続きが続き、グループホームの職員が逮捕されても、彼女の心には空虚さだけが残った。

「正義は勝った」という言葉では、彼女の痛みを埋めることはできなかった。

裁判が終わっても、息子が受けた苦しみが消えるわけではない。

社会は何も変わらない。

どれだけ彼女が声を上げても、この世界は障害を持つ人々やその家族に対して、冷たい目線を投げかけるだけだった。

「母親としての役目を果たせていないのではないか?」という声がどこからか聞こえてくるたび、彼女の心は打ちのめされた。

しかし、それでも彼女は進むしかない。

絶望と痛みが続く現実の中で、彼女は自分を保つための小さな希望を見つけるしかないのだ。

息子と過ごす時間がどれだけ少なくなったとしても、彼の存在が彼女の唯一の拠り所であり、彼が存在する限り、彼女も生き続ける理由がある。

でも、その希望もまた、薄く脆いものであることを彼女は理解している。

ある日、息子と共に静かな公園を散歩していると、彼がふと立ち止まり、目を閉じた。

彼女はその横顔を見つめ、過去の幼い日の彼の姿が頭の中に蘇る。あの日、彼が生まれた瞬間に見せた微笑み。

そして、彼女の指を小さな手で握りしめたあの感覚。

「あの時の息子はまだ、ここにいるのだろうか?」

その問いは、いつまでも彼女の心の中で揺れ続ける。

答えは出ないまま、ただ時間だけが静かに流れていく。

彼女は深呼吸をし、息子の手を握り返す。

そして、再び歩き出した。道の先がどこに続いているのかは分からない。

彼らが見つけるものが希望か、さらなる絶望か、それは誰にも分からない。

しかし、彼女は一つだけ確信していることがあった。

「どれだけ痛みが続いても、私は息子を手放さない」
彼女の目はどれだけ色を足しても黒に染まることはなかった。


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いつも記事を紹介くださって誠にありがとうございます。
多くの方が心から蟠りが解けていきますように。

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